城郭探訪

yamaziro

鯰江中戸城   近江国(愛東)

2016年05月02日 | 平城

中戸城に土塁が残っていた!

集落の東に竹藪がある、竹藪と倉庫間を30m進むと『土塁・虎口状』城郭遺構が残る。2016.5.2確認

              

寛永寺

   

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知群愛東町)中戸 map:http://yahoo.jp/L5i6_G

現 状:竹藪・集落

区 分:平城

築城期:南北朝期

築城者:鯰江相模守

遺 構:廓・土塁・

目標地:中戸公民館

駐 車:中戸町公民館に駐車

訪城日:2013.6.13・2016.5.2

お城の概要

 『淡海国木間攫』に「愛知郡 鯰江妹村(鯰江氏)・鯰江中戸村(鯰江氏)・鯰江森村(森氏)」とあり、

地続きの3村であったは、中戸村と森村(鯰江村)は、名神高速道路で寸断された。

愛知川右岸の段丘城郭で、一時八風街道は愛知川宿より愛知川右岸を通り柿御園・高野・小椋谷を伊勢へと・・重要な間道であった。

お城の歴史

「淡海国木間攫』には、「愛知郡 鯰江中戸村 「往古鯰江相模守・鯰江駿河守在城セリ由、古城二ケ所アリ」と記す。

『佐々木南北諸氏帳』には、「愛知郡 中戸村住 佐々木末 隋兵 鯰江満介・鯰江又八郎・鯰江美濃守」と記す

 鯰江氏は、鯰江村に居城を構える以前に、中戸集落に中戸城を構えていた。現在も中戸には小字「城之内」の地名が残っている。鯰江には、土豪「森氏」が森城を構えていた。

また、『淡海国木間攫』には、愛知郡 鯰江森村 「往古此里ニ森備前守・森又太郎在城之由、古城跡等残リアリ、領主タリシト云」と記す。

中戸公民館周辺が中戸城と  

寛永寺

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、『佐々木南北諸氏帳』、『淡海国木間攫』、愛東の歴史、Wikipedia

 本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


岡田館    近江国(八日市)

2016年05月02日 | 居館
お城のデータ
所在地:東近江市(旧、八日市市)岡田町  map:http://yahoo.jp/M9QKAS(遺跡ウォーカー)
現 状:神社・水田
区 分:居館
城 期:室町期
築城者:岡田平部少輔
遺 構:圃場整備で消失か?
目標地:八幡神社・岡田会館
駐車場:岡田会館に駐車
訪城日:2016.4.13
お城の概要
 愛知川も右岸の井元城の対岸に、位置した平城で、遺構は圃場整備で焼失か?。現在は、国道307号線沿いの田園地帯である。
中世には柿御園庄で八風街道の旧道の添いで、近江守護佐々木六角の根幹地に近く、又鯰江城攻めの井元城・青山城も対岸に位置する。 

お城の歴史

柿御園の由来

  古来 、奈良・平安時代初期、 当地は、 奈良大安寺等の荘園であり、. 柿の 多い地域であったことから柿御園と呼ばれていたと伝えられいた。平安時代にが惟高親王は当地住民の庇護を受けて、鈴鹿の山深く木地師の祖となったと伝承が残る、

『淡海国木間攫』には、神崎郡 岡田村 「岡田兵部少輔応仁乱物頭ナリ、岡田介左衛門永禄二年尾州ヘ行、信長公ニ属ス、又曰、岡田団兵衛・岡田大介ハ蒲生家ニ出、高畑石見守モ此所ヨリ出ル、太閤記ニデタリ、」と記す。

 遺跡ウォーカーの比定地(八幡神社の西隣の圃場)

  

集落の勘定縄(魔除け)

神社前の道路を横断して吊り下げます。この大綱には、注連縄とお札が飾り付けられ、【悪霊】が町内に入ってこないように「村中の安全」を祈願します。

起源は定かでありません。又、勘定縄は滋賀県でも、湖南・湖東地方だけにあるそうで、村の入口にある道路に吊り下げられる ことが多いと言われてます。

八幡神社  鳥居の奥左側が岡田会館     

岡田会館前のバス停

 応仁の乱は、

 室町時代の応仁元年(1467)に発生し、文明9年(1477)までの約10年間にわたって継続した内乱。8代将軍足利義政の継嗣争い等複数の要因によって発生し、室町幕府官領の細川勝元と室町幕府侍所所司(頭人)の山名持豊(出家して山名宗全)ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速化し、戦国時代に突入するきっかけとなった。十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。

応仁元年(1467)に起きたことから応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため応仁・文明の乱とも呼ばれる。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査4(旧蒲生・神崎郡)、遺跡ウォーカー、淡海国木間攫、Wikipedia

 本日の訪問ありがとうございす!!