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城郭探訪

yamaziro

青山城 近江国(愛東・青山)

2013年03月21日 | 平城
左上に青山城
お城のデータ 
青山城 
 
所在地:東近江市青山町 map:http://yahoo.jp/FFwoJM
築城期:南北朝期
築城者:青山左近右衛門実
区 分:平城
遺 構:土塁・土橋・空堀・枡形虎口・子堀
訪城日:2013.3.19
目標地:日吉神社 
 
お城の概要

 青山城と同様に愛知川の川筋には、高野城、小倉城、曽根城、中戸城、鯰江城、上岸本城などが築かれている。

これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。
50m×60mの方形範囲内に幅約9m、深さ3.6mの空堀を三方に廻らし、上辺で約7~9m、主郭内敷地から測って約2mの高さの土塁を廻らした堅固な構築となっています
単郭式の土塁や、空堀を良好に残る。
南に配した虎口は幅5~6mで、2度の折れを入れた大きな枡形虎口で、虎口両脇の土塁は幅が広く、櫓台と考えられる。 城域は南北30m、東西40mの方形で、周囲を取り巻く土塁は分厚く、馬踏み(土塁の頂部)で4m~6mほどもある。また、土塁の外周には空堀を廻らせている。
  
 青山城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれている。
青山城は鯰江城、井元城と同様に愛知川右岸の台地上に築かれた城郭。

お城の歴史
 青山城は、青山氏によって築かれた。 青山氏は、小倉城主小倉氏の一族で青山実貞・青山勝重・青山信兼らが佐々木六角氏に仕えた。 青山氏は、その後織田信長に属してた。
 城域はさほど広くはないが、縄張りとスケールにおいては蒲生郡一帯の中世城郭の中でも屈指である。

 近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。
ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

シハイスミレ?アカバナフキノトウ
「若林運動公園」到着
「若林運動公園」の先の山へ
城跡までは、ちょっと距離(50m~60m位)が有り、地元の方に確認。「草だらけ」と。・・・・場所を確認、城郭へ。
日吉神社・善勝寺の裏手(宮林公園横)の檜林の中に状態良く遺構が残されている。
佐々木六角氏の家臣、青山氏の居城とされる。宮林の中に残された50mの方形単郭式の土塁や、空堀を良好に見ることができる!
 
歴 史
「愛智郡志」によれば、この青山城は小倉一族青山氏の居城で、青山左近右衛門実貞、同左近允勝重は佐々木氏の近習であったとされている。
 青山三衛門は足利義輝に従って戦死しており、また、青山與三郎、同虎丸は信長に仕え本能寺で戦死するなど、中央政権との繋がりも深いものがあった。

  愛知郡は中世を通じて佐々木六角氏の支配下におかれ、六角氏被官となった在地土豪の城館が多く存在しています。永源寺の高野城、愛知川沿いにはほぼ集落ごとに在地土豪の城館が残っています。青山城は史跡の指定も何も受けていませんが、一見の価値がある城跡です。

 近江の城といえば安土城や観音寺城等複数の郭が幾重にも取り囲む壮大な城もありますが、単郭方形城館という正方形の平地の廻りを高い土塁で囲み、さらにその外側を深い空堀で囲むという単純なお城です。

鎌倉時代以降にみられる屋敷の廻りに水堀を廻す方形居館から発展したという説もあります。(近江の中世城郭において特に甲賀郡の山城に顕著に見られる構造の城です)

 城跡の遺構は、愛知川河岸段丘上にあり、東南から西北方向に約200m、南西から北東方向に約150m位の規模で残されています。発掘調査等を行われていませんので詳細な遺構は分かりませんが、居館跡とみられる主郭部は、50m×60mの方形範囲内に幅約9m、深さ3.6mの空堀を三方に廻らし、上辺で約7~9m、主郭内敷地から測って約2mの高さの土塁を廻らした堅固な構築となっています。愛知川側の現在絶壁になっている所に開口部があり、枡形の窪地になっています。開口部の右手の土塁上には、礎石が残っており、櫓等の建物があったと思われます。主郭内敷地にも礎石や井戸跡があります。西北側(公園側)の堀が障子堀になっており、一部土橋と思われる進入路があります。このようにほぼ築城時の姿を留めている城館跡です。

 
おぉぉぉ・・・城址は明確。深い空堀が(実際2m位落ちたら)、本当にはまったら簡単には上がれない高さ。
土塁と空堀・・・すごい。実際は土塁+空掘なので、体感では4m位の高低差。空堀の土を「土塁」に積み上げ
曲輪周囲の空堀南側(愛知川)の櫓台?見張り櫓跡カ? 
 
 
 『近江愛知郡志』によると、「青山氏は青山に住し、氏を称す小椋一族なり。新開略記によれば青山左近衛門実貞、左近亮勝重、内膳信兼等は佐々木六角氏に仕えて近習たり。青山三衛門は足利義輝に従い戦死す。青山與三郎、同虎丸は信長に仕え本能寺に戦死すと見ゆ。」とあり、在地豪族である小椋氏の一統であったことが伺えます。当初、佐々木京極氏に属していたのが、京極氏の衰退とともに六角氏に仕え、六角氏が信長に滅ぼされると信長に仕えというように、戦国の時代を巧く乗り切り、所領を守っていったと思われます。城館跡が現形を留めていることは、そのことを如実に語っているのではないでしょうか。
 青山城跡へは、近江鉄道八日市駅下車、湖国バス愛東循環線(南回り)・チョコットバスの青山で下車、1時間に1本しかありませんので気を付けてください)
青山町集落内にある日吉神社・善勝寺を目当てに行くと。城跡はこの神社の裏山にあります。神社を右手に見ながら上る坂道の登り口の右側に宮林公園があります。その公園に沿って林道が延びています。公園を右手に見ながら林道を50mほどで
 
公園との境から林の中に入りますと深い空堀が見えます。公園沿いの堀が障子堀になっています。
中程の所に土橋があり、土塁の上に行くことができます。
マイカーでは名神八日市インターから国道421号を永源寺方面に行き、御園交差点を左折し、愛知川を渡り、妹南交差点を右折し、県道217号に出てください。妹南交差点から1kmほどの所で青山です。周辺には駐車場はありません。林道に仮駐車してください。城跡等の案内板は一切ありません。現地は下草や雑木の伐採が行われていませんので、夏場の見学は蜂や蛇に気を付けてください。なお、県道217号をさらに愛知川上流に向かって行くと第3回で紹介した高野城や永源寺にも行けます。
「日吉神社と善勝寺」の上が、青山城址。愛知川堤防から遠望。
 
 
 
日吉神社
 
 
 
・善勝寺
 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城)信長公記、神崎郡志、『ウィキペディア(Wikipedia)』

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


小倉城 近江国(愛東)

2013年03月20日 | 丘陵城

小倉城址の碑近江愛智郡志より

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)小倉町 map:http://yahoo.jp/VRfpif

区 分:段丘城

築城期:鎌倉期 承暦年代(1077~1080)

築城者:小倉景実

遺 構:空堀・堀切・土塁

城 域:1000m×500m

目標地:小倉集落の北、段丘上の墓地

駐車場:集落の北、段丘上の墓地駐車場

訪城日:2013.3.19

現地説明板

お城の概要

 小倉城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれており、小倉町の公民館前から河岸段丘側へ200mも入ると、小倉城と清和源氏小倉氏発祥の地の石碑が建てられている。
 ここが小倉城の大手口と考えられており、背後の段丘上に南北30~40m、東西300mほどの範囲に遺構が残されている。
 城域の西側は、河岸段丘が落ち込む自然地形のために城域の境界は明確だが、東側は城郭遺構が延々と続き、考え方次第では小倉城の出城とされる勝鳥城付近まで城域は広がり、城域は東西400~500mにもなる。

小倉城の石碑前には河岸段丘へ上がる車道が左右に2本つけられているが、大手口からの登城道(大手道)は石碑から右手に延びる道である。

「近江愛智郡志」の挿絵図には、小倉城の北側には【水堀】が青山城の近くまで、存在したようである。
左手の道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。この道は堀切だった地形を利用されている。

大手道を登ると、すぐに河岸段丘を断ち切る堀切(見方によっては横堀ともいえる)が出現する。この辺りが二の曲輪のようである。


 二の曲輪は河岸段丘の東西を堀切った地形の中に、土塁をめぐらせた曲輪が梯郭式に無数に繋がっている。曲輪は個々に平虎口を設けており、屋敷地のような構えである。
 主曲輪に対する求心性が無いのは、圃場整備で改変をされたのであろう。それとも小倉城そのものが屋敷地のような構えであったのか?

 二の曲輪群の一画に、ひときわ高い土塁をめぐらせた曲輪が幾つかある。虎口横の土塁の塁線が屈曲するなど他の曲輪とは様子が異なり、後年に陣城として改修の可能性を感じた。

 主曲輪は微高地の地形を利用して周囲に空掘を巡らせ、他の曲輪とは一線を画している。
主曲輪の西約100mほどが小倉城の西端になるが、西側は断崖地形で周囲に空掘を巡らせた30m×40mほどの曲輪がある。後方は二重の空掘として備えも怠りない。
この曲輪に建てられていたのが物見櫓である。

道は主曲輪横に出る小倉新道で、近年拡幅された道。

浅い堀切ひら虎口か、散策路か

今も、居住者か。

歴 史

 小倉氏は清和源氏満季流といい、承暦年代(1077~1080)、小倉景実が愛知郡小椋庄に小倉城を築いたのが、そもそもの始まりと伝えられている。以来、小倉氏は小倉城を拠点として、愛知・神崎・蒲生三郡の東部に勢力を築いていった。

 『蒲生系図』によれば、源頼朝の旗揚げに馳せ参じて功を上げ、近江守護となった佐々木定綱の室は蒲生俊綱の姉であった。そして、俊綱の娘が小倉九郎の室となっている。このことから、小倉氏が鎌倉時代初期においてすでに相当の勢力を有していたことが知られる。以後、小倉氏は佐々木、蒲生氏と鼎立する勢いを示し、東近江における一方の雄として続いた。とはいうものの、小倉氏の事蹟が記録などから知られるようになるのは、応仁の乱当時を生きた小倉左近将監実澄の代にいたってである。

 ちなみに、小倉氏の出自に関しても諸説があり、『近江愛知郡志』では
 (1)小椋實秀の裔にて菅原氏
 (2)清和源氏多田満季の裔より出たもの
 (3)佐々木満綱の子孫より出た家
の三説を紹介し、(1)に関しては小倉氏の家紋「梅鉢」からうなずけるところだが小椋實秀なる人物が確認できないこと、(2)に関してはその根拠となる系図が南北朝時代で終わっていてそれ以降を継承する正本系図が存在しないことを注記して、それぞれ疑問を呈している。そして、『尊卑分脈』の小椋源氏系図、個人所蔵小椋氏系図を掲載している。
 一方、『近江蒲生郡志』では、蒲生氏の一族として小倉氏を取り上げ、「小倉氏は愛知郡小椋を本拠とする清和源氏なり」として、蒲生氏と小倉氏の関係系図と小倉氏系図一本を併載している。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

  このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

 ・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、ウィキペディア(Wikipedia)』、近江愛智郡志、淡海の城

      今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


井元城  近江国(愛東)

2013年03月19日 | 陣城

井元城跡縄張図 (滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町  map:http://yahoo.jp/RB4-GT

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

駐車場:春日神社の駐車場

探訪日: 2013.3.19

 お城の概要

 井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。

文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。

 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。

虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。

そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えらる。城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

お城の歴史

 井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻め。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高い。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では?。

お城の歴史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから
「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。

井元城は、永禄11年~天正元年の間に、鯰江城攻略のための付け城として築かれた。                                                     城を築いたのは、柴田勝家とも云われているが定かではない。
 永禄11年、鯰江貞景は観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎を鯰江城に迎え、佐々木旧臣と共々籠城した。
 織田信長は佐久間・蒲生・丹羽・柴田の四氏に命じ、周囲に井元城・中戸城等の城砦を築いて攻撃し、天正元年9月ついに鯰江城は落城した。規模は小さな陣城だが重ね馬出の遺構が残るお城。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

本春日神社殿東の石積から、無理やり登城!

春日神社本殿東側土塁

春日神社本殿北側土塁

綺麗に手入れされ、ショウジョウバカマ群生の薄紫色で迎えてくれた!

城は、方形の主郭とその周囲に廻らされれた土塁と空堀があり、主郭東側には重ね馬出の遺構が良く残っている。 重ね馬出の遺構自体あまり見られないことから、貴重な遺構。

春日神社に向かって左手の空き地内から斜面を登っていく坂道があり、坂道を登り切ったあたりで、郭を囲う空堀の底につながっています。

春日神社入口西側から左手に神社裏手に登る道がある。 この道を登り切るとそこには井元城の空堀と土塁が現れる。北西一帯の河岸段丘の檜林の中に井元城はあった。 

春日神社の参拝者用無料駐車場

国道307号線 春日橋から、妹南信号を左折
 
春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。(県道217号線を永源寺方面)                 春日橋から、妹南信号を左折、春日神社の鳥居を過ぎすぐ。

春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。

中戸城  滋賀県愛知郡愛東町中戸
       現状は田地で、中戸地区の公民館西側向。 案内板等は何もない。

 

春日神社 http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub83.htm

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

 

 井元城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


曽根城   近江国(愛東・曽根)

2013年03月19日 | 丘陵城

現在の曽根城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)曽根町 map:http://yahoo.jp/i4Iklw
現 状: JAカントリーエレベーター
区 分:段丘・平城
築城期:南北朝期?
築城者:青山氏?(小倉氏一族)
遺 構:消失
目標地:JAカントリーエレベーター
駐車場:JAカントリーエレベーター

訪城日:2013.3.19

お城の概要

 曽根城、現在既に消滅しているが、JAカントリーエレベーター付近に築かれていた城だ。昭和30年頃は、愛東南小学校の第二グランドとして使用していた、その頃周囲を土塁で囲っていた。

愛知川の河岸段丘を利用した青山城・小倉城と同様の築城地選定をしていることから、方形を主体とした縄張りの城であったようだ。

土塁か

見張り櫓跡か土塁跡か

お城の歴史

愛知川の河岸段丘の付近には高野城、小倉城、青山城、中戸城、森(鯰江)城、上岸本城など愛知川の河岸段丘上の築かれた城砦が点在している。
 これらは南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。

曽根城の愛知川の河岸段丘に築かれた

福性寺

門前に「豊国山万福寺」説明板は

 

 曽根城址(遠景)JAのカントリーは、ヨーロッパ城のよう!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上岸本城 近江国(愛東)

2013年03月19日 | 平城

上岸本城(かみきしもとじょう)

お城のデータ

所在地:東近江市上岸本町(旧:愛知郡愛東町上岸本) map:http://yahoo.jp/F7wVX4

区 分:段丘城

築城者:高岸四郎範高、岸本左馬允

改城者:柴田勝家

築城期:室町期

改築期:織豊期…天正元年頃(鱠江城攻撃時) 永禄11年頃

標 高:149m   比高差:5m 

現 状:雑木林

遺 構:郭・土塁・竪堀

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2013.3.19

お城に概要 

鯰江城攻略の為の付け城として築かれた上岸本城は、鯰江城と目と鼻の近さに築かれていた。

上岸本集落の東側(国道229号線沿い)の南北に延びる雑木林と竹藪が上岸本城があったところだ。

 東側は、水田となり圃場整備で地形も変わっているが、雑木林と竹藪の中には、南北に三つの曲輪が連郭式に構築され、それぞれの間に空堀が設けられていた。 北側の空堀は竪堀状に残っていて、現在は通路としても利用されているようだ.

上岸本城は愛知川左岸の河岸段丘上に築かれている。
この周辺には上岸本城と同様に愛知川の河岸段丘に高野城、小倉城、曽根城、青山城、中戸城、鯰江城などが築かれている。
 これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。

上岸本集落の北側の農道脇の段丘雑木林の中に上岸本城は残る。農道からも竪堀が認められる。
 この竪堀を境に西側の林にも土塁や空堀の遺構が認められるが、遺構は幅20mほどの林の中だけで、大部分は開墾され畑地となっている。

名神高速道八日市インタより、直進愛知川の「東近江大橋」を渡り、橋の次の信号で左折して県道217号線に入り。約200m先で右折し県道229号線に入り約400m先の三叉路の河川段丘上の左上が城址。

・段丘の為か、郭・土塁・竪堀の遺構は残存している。(農道整備等で北側は農道で峡削の可能性も) 

目印の県道229号線の三叉路(この手前に路肩駐車)の河川段丘上の左上が城址。

ここを左に!

この左が城址(下から)

この一角にL字に土塁が残っているが案内板はありません。

坂道を登った角から攻め込みました(城址裏手)

西方向

南方向(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)丘上

南方側(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)

上段の郭址10m×10m(鯰江城側)に祠?石仏?

虎口カ・・南西下から、南側は自然の地形を利用した切岸カ?

下段の郭址10m×10m(西側)に祠

下段の郭址

城址裏手

車を駐車した所か振り向いて、南東の土塁(櫓台)

お城の歴史

上岸本城は高岸四郎範高、岸本左馬允らの拠った所という。

 永禄11年(1568)、観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門ら佐々木旧臣と共々鯰江城を改修して籠城した。


この鯰江城を攻略するにあたって、信長はこの上岸本城を“付城”としたともいわれている

 天正元年(1573)9月、鯰江城は信長軍の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

天正元年(1573年)の織田信長の鱠江城攻撃の付け城のひとつと伝わります。

上岸本城は、永禄11年頃に織田信長軍によって改築された。 

・織田信長の鱠江城攻撃に際して、西側の抑えとしで「櫓台を設けた小砦」カ?

 近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、

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三宅城 近江国(野洲)

2013年03月18日 | 平城

市三宅城(真宗大谷派  都賀山 蓮生寺)

【歴史】

湖南の本願寺門徒の歴史を秘めた寺院

 

 湖南地方での一揆の拠点は三宅金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。

「当所金森ハ去年大阪大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那部藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。

蓮生寺は初代・了西の時代に蓮如 (1415-1499)上人の教えを受けて浄土真宗に改め、同じく上人の高弟・道西(1399-1488) が開いた善立寺とともに、本願寺門徒たちの重要拠点となりました。
1570年、本願寺が織田信長(1534-1582)と対立し、翌年金森でも門徒たちが蜂起しました。このとき蓮生寺は、本陣の金森城(現在の金森懸所・善元亀二年の織田信長方と一向衆との金森合戦で金ケ森城の出城となったところです。

永原氏の支城で永原出雲守孝房が在城していたが、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長を阻止せんとする六角承禎に従っていたため、織田軍に攻められ、観音寺城と共に落城した

 三宅城は一向一揆衆が対信長に対し籠城した城で、東約500mに金森御坊の中心であった金ヶ森城が位置している。

 また、蓮生寺は湖南地方の浄土宗の布教に大きな役割を果たしたとされ、三宅城は寺院城郭と考えるのが妥当であろう。

三宅城は蓮生寺を中心とした一帯である。蓮生寺山門前、および蓮生寺境内の南から西にかけて、高さ1m余りの土塁が残る

蓮生寺山門前、高さ1m余りの土塁。

 市三宅城は東西約40m、南北約30mの単郭方形の城郭で、周囲には高さ1~3mの土塁が巡らされ、南側には空堀が残っている。
しかし、西~北~東は住宅が隣接して建てられており、堀の確認は出来ない。
虎口は南北に2ヶ所あるが、大手は安楽寺側か。

 地主さんのお宅には、菩提寺から移築された400年前の門が残っている。

善立寺を守る要塞・三宅城として信長の家臣の軍勢と戦う拠点となりました。境内や寺院周辺には、季節ごとに異なる美しさを見せる木々などとともに、当時の土塁や堀が残されています。

本堂は元和元年(1615)に再建されたもので、近世初期の真宗寺院の様式を今に伝えています。

境内より土塁

寺の南側に50mほど土塁とその外側に堀が残す。

土塁の境内側は、補強のためコンクリートで下部を固めてありますが土塁の旧状は留めている。

土塁の竹に子供のジャングルジムのように活用、土塁は維持され、手入れもされている(子供達の安全の為か)

志那街道の道標

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金ケ森城    近江国(野洲)

2013年03月18日 | 城郭寺院

 

 湖南地方での一揆の拠点は三宅金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。

右の書は「当所金森ハ去年大阪大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那部藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。

善立寺の前が金森御坊で金ヶ森が寺内町として要塞化した時の中心となっていたところである。
 金ヶ森御坊は通常施錠されていて入ることは出来ないが、善立寺にお願いすれば見せて頂くことが出来る。

 境内奥には2.5mはあろうかという見事な懸所宝塔(重要文化財)が残っている。元々は石ノ戸にあったものを移したとのことであるが、兎に角立派な宝塔である。

 鐘撞堂の石垣は後年に積み直しされたものであるが、宝篋印塔の台座や矢穴のある石など、当時の石垣の石材が使用されており、こんなところにも歴史が感じられて面白い。
 城としての遺構は堀跡と見られる用水路が金ヶ森御坊のある台地の西側に残り、金森御坊から南約500mに大門という地名が残っており、寺内町の広さをおおよそ窺い知ることができる。

 近くには蓮如が棒で地面を突いたら泉が湧いたという伝説のある蓮如池があり、善立寺には、元亀3年(1572)に織田信長が金森に与えた楽市楽座の朱印状が残されている。
 なお、善立寺のご住職は、川那辺弥七入道道西から数えて20代目の川那辺さんが継いでおられる。

 寛正6年(1465)本願寺は“一向専修念仏を唱え、念仏以外の三宝である仏,法,僧を誹る邪法を流布している”として、延暦寺西塔院の僧達によって東山・大谷本願寺が打ち壊しされた。
 この打ち壊しを機に本願寺第8世法主蓮如は、堅田衆の援助を得て布教の拠点を近江・金ヶ森に移し道場を開いた。
 この時に道場を主宰し野洲郡,栗太郡地域で門徒集団の中心になっていたのが川那辺弥七入道道西である。

 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告(石山合戦)した。
 寺内町として発展していた金ヶ森道場は、顕如の檄に従い、要塞化し信長に対抗するが、翌元亀2年(1571)に志村城と共に攻められ、籐左衛門秀秋の時に落城する。

 なお、蓮如は寛正6年3月から文明3年4月までの6年間、東海、北陸、紀州、大和などを旅行していた時を除いては湖東、湖西に住んでいたとされ、「本福寺由来記」ではこの金ヶ森道場には70日滞在したとし、「金森日記秡」には3年間滞在したとしている。

 金ヶ森の一向一揆については、信長公記の元亀元年(1570)に、守山で織田軍が一向一揆衆と戦ったとの記述がある。これは顕如の檄によって近江の一向宗が蜂起していたことを示すものである。

------------------------信長公記~元亀元年の条
 「江州路地通りの御警護として稲葉伊豫守父子三人、斉藤内蔵之佐(斉藤利三)を江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙があがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追い崩し、数多切り捨て、手前の働き比類無し。」
------------------------ココマデ

 元亀2年(1571)になると、信長の一向一揆に対する攻撃は本格化し、伊勢長島の一向一揆に対し第1次長島攻めが行われる一方で、近江の一向一揆の本拠である金ヶ森は攻め落とされている。

------------------------信長公記~元亀2年の条
 九月三日、常楽寺へ御出であり、御滞在ありて、一揆楯籠もる金ヶ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまわし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御詫言申し、人質進上の間、宥免なされ、直ちに南方表に御働きと仰せ触れらる。
------------------------ココマデ

 なお、一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。



 
金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。

寺内町としての金森

14世紀に金森を支配していた川那辺厚春が本願寺五代目法主の綽如に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信仰の基軸を大きく変えていった。その子川那辺在貞の時代には金森惣道場が開かれるにいたり、さらにその子川那辺矩厚は、存如に帰依し道西と名乗るようになった。金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保存)には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られることから、金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった寺内町の初期的形態である、ということができる。現在も周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名が残されている。当時、二百軒を越える集落であった。

1465年(寛正6年)、比叡山僧兵による「寛正の破却」によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は、高弟であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森合戦といい、史上初めての一向一揆である。1466年(文正元年)11月には「報恩講」を勤修した。蓮如は1469年(文明元年)は対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成された。

後に飛騨国高山城主となる金森長近は1541年(天文10年)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗っている。

戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城としての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点となっていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・比叡山焼き討ちの直前に、1571年(元亀2年)6月から9月にかけて反抗した。金森には近在の村々から一向宗徒が集結したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の佐久間信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先した信長と一時は人質を交換して和睦した。しかし、翌1572年(元亀3年)には信長は近在の百を越える村々が「金森・三宅への出入や荷担をしないよう」という起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年、信長によって楽市楽座の制札が与えられ、以後宿駅・市場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時代に、琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の役割が薄れ、金森も衰えた。

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那須城 近江国(豊郷)

2013年03月18日 | 平城

 那須城は旧中山道沿いにあって、豊郷町の八幡神社一帯とされ、

八幡神社の境内に石碑。

訪城日:2012.10.16

歴  史

この境内の辺りには、石畑宗信という武将の城跡でした。石畑の地名がこの武将からきたことが分かります。宗信は源平合戦の屋島の戦いで扇の的を射止め、弓の名人として名高い那須与一の次男でした。宗信は、この辺りを支配していた佐々木氏(観音寺城・安土町)の旗頭で、この石畑と木部(野洲郡)の領地を治めていました。

那須与一の次男宗信源平合戦の屋島の戦いで扇の的を射止め、弓の名人として名高い那須与一の次男で宗信.

 

八幡神社八幡神社は、宗信が1239年(平安時代後期)に京都の岩清水八幡宮の応神天皇の分身を奉り建立しました。また、近くの称名寺は、宗信が晩年になって親鸞上人の弟子となり出家して1258年に建立したものです。この寺の住職さんはそれ以来、那須の姓を名のっています。

土塁の痕跡

豊郷小学校の南に土塁が残されていたといい、その規模は一辺が50m~100mはあったことになる。
 また、付近には「門根」という一画があり、城門があったという伝承もある。
文治元年(1185年)の源平の戦いの際、屋島の戦いで「弓矢の名手」として名を上げた那須与一宗高の次男の石畠民部大輔宗信がこの地を領して那須城を築き、佐々木氏に従ったとされます。 <八幡神社説明板より>

八幡神社の内に、中仙道の(土饅頭型)一里塚、道標

 
 八幡神社前には、昔は豊郷町役場前にあったとされる土饅頭型の一里塚が再現されており、このような一里塚もあったのかと認識を新たにした。

 

近江七弘誓寺:中興の祖は源平の合戦のときの「扇の的」で有名な源氏の武士那須与一宗高の二男である願名坊宗信です。

那須城の隣に「弘誓山称名寺」

那須城は治承・寿永の乱(源平の争乱)において、元暦2年(1185年)の屋島の戦いで平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とした那須与一宗高の次男・砂田民部大輔宗伝が城を築いたと伝えられるが、定かではない。

              那須与一は東国下野国から近江の国に封ぜられ石畑建部領主となり発願して建てた寺

 

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安孫子南城 近江国(秦荘)

2013年03月17日 | 平城

公園に建てられた【安孫子氏隠居所址の石碑】

所在地::愛知郡愛荘町(旧愛知郡秦荘町)安孫子・東出 map:                                                                                    

現 状:あびこ城址公園 グランド

遺 構:石碑

築城者:安孫子氏

築城期:鎌倉期

城 主:安孫子日向守勝久

訪城日:2013.3.17

南城は現在の「あびこ城址広場」とその西側民家数軒付近にあった。近年までは広場の東から南にかけて、かなりの高さの土塁とそれを取り巻く堀が残存していた。しかし1985年字民運動場の造成により全壊している。
このように遺構はことごとく消滅し、グラウンド北側に「安孫子城隠居所址」の石碑が建つのみである。

 我孫子地区の「あびこ城址広場」が我孫子北城跡である。

歴 史

安孫子北城は、平安末期に開発領主として土着した安孫子氏(佐々木の臣)が領主制を展開し築城したとされる。安孫子氏は『今昔物語集』で著名な矢取地蔵の門前を守護していた。

日本城郭大系によると南安孫子村城主安孫子右馬允の名があり、「愛知郡志」には安孫子日向守、文六の名が見える。

  その後、隠居城として安孫子南城を分離・独立したのカ?

安孫子神社

 安孫子の集落の中心に安孫子神社が。

 

 由緒

   創祀年代は詳かでないが開化天皇の皇子彦坐王四世の孫白髪王の裔がこの地に住して祀蔦も野と伝えられている。三代実録貞観十三年の条に「壬辰授近江国正六位天若御子神従五位下」とある。
観音社は本地佛十一面千手観音像を安置している。守護職佐々木氏をはじめ武家崇敬篤く領主安孫子日向守勝久は神饌用の寄進社殿の造営あり織田氏の兵災により安孫子氏没落し社頭淋れしも氏子の信仰篤く現状に復す、安孫子氏の末裔より春例祭に神饌料の奉納絶えず。天稚日子神社と称し明治九年村社に列し同十二年安孫子神社と改称、同十四年に郷社に加列し神饌弊帛料供進指定となる。

  同じく集落の中央に浄光寺という立派なお寺もありました。
その鐘突き堂の立派なことにも驚きます。
安孫子の文化度の高さがここでも感じられました。そんなに大きな集落でもないのにこれだけの神社、仏閣があることは驚きです。
しかし、ここでもほとんど人と出会わず、やっと不思議だな?という疑問がわいてきました。
そういえば、先ほどからマイクで大勢の人に何やら説明している声が聞こえていました。
ハプニングの前触れとはこのときは知る由もありません

 

安孫子神社・・・「山芋の里 あびこ」

天雅彦命(アメワカヒコノミコト)をまつり、年代は不詳であるが、古社として古文書にも登場。
鎌倉時代地頭である佐々木氏の幕下の安孫子氏が当地に居城し安孫子日向守勝久の武運長久を祈り、代々崇敬された神社。

後に織田信長に兵火を受け安孫子氏は各地に離散するが、近年、福井県に逃れた安孫子氏の末裔の方々が大燈籠や石柱を寄進した。 

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高野瀬城 近江国(豊郷)

2013年03月17日 | 平城

高野瀬城の石碑

お城のデータ

所在地:犬上郡豊郷町高野瀬   map:http://yahoo.jp/-3K9PK

現 状:宅地・田地

区 分:平城

築城期:室町期

築城者:高野瀬家広

遺 構:城跡碑二か所

目標地:工場:古川オートモーティブパーツ・高野瀬公民館

駐車場:路上駐車場

訪城日:2013.3.17


集会所に石碑

お城の概要

高野瀬城は、中山道から500メートルほど入ったところに位置しています。現在本城域は工場となっていて、工場の入口と、反対側の集落の集会所の脇にそれぞれ石碑が建てられています。

今はただの畑地・平場ですが、当時は水が巡っていたようで、工場の敷地が微高地であること。また周辺の地形よりも一段と低い田圃が、埋め立てられた堀の名残か?

お城の歴史 

 高野瀬城は高野瀬家広が築城したとされるが、築城年は定かではない。高野瀬氏は愛智氏の支流で、鎌倉時代から愛知郡内に居住していたと考えられている。

 なお、近くには高野瀬氏一族の肥田城がある。


 高野瀬氏は近江国愛智郡にあった高野瀬村から起った中世武家で、『愛智郡志』所収の「正応本佐々木氏系図」によれば近江源氏佐々木氏の分かれという。室町時代、京極氏に仕えた高野瀬氏の城。高野瀬氏は愛智氏の支流といわれる。
西に1kmほどいくと、高野瀬氏の居城肥田城がある。高野瀬氏は、応仁の乱に際して京極氏に従って細川方についていた。享禄二年(1529)には、六角佐々木氏と細川氏の縁組の使者として、高野瀬家澄の名が見える。この時の佐々木氏当主定頼は、浅井氏と対立し
た際に高野瀬城に滞在し、軍容を整えていた。

すなわち、愛智四郎家長の嫡男左近将監家広が高野瀬村に住して高野瀬を称したことに始まると記されている。

そして、建武三年(1336)の『園城寺文書』に高野瀬信景、享禄二年(1529)の『近畿内兵乱記』に家澄、『多賀神社文書』に高野瀬備前入道・高野瀬七郎右衛門尉、『今堀神社文書』に高野瀬家恒など、高野瀬氏の名が散見する。

 一方、肥田町にある高野瀬氏の菩提寺崇徳寺に伝えられた過去帳には、藤原秀郷から九代目にあたるという行隆をはじめとして、戦国時代に至るまでの高野瀬氏代々の戒名と簡単な事歴が記されている。そこには、先に紹介した佐々木氏系高野瀬氏の名前は見えない。即断はできないが、高野瀬氏は佐々木氏流と藤原秀郷流の二つの流れがあったのではなかろうか。 

 崇徳寺の過去帳から秀郷系高野瀬氏の歴史をたどってみると、行隆五代の隆重が源頼朝に仕え、治承八年(1180)近江に来住して高野瀬城を築いて土着したという。

 元弘の変に遭遇した頼隆は、後醍醐天皇の皇子五宮に従い、鎌倉落ちをする六波羅探題北条仲時を番場宿で討ち取る功をあげた。そして、この頼隆がはじめて高野瀬を名乗ったとある。

■ 佐々木氏流愛智氏系高野瀬系図


動乱のはじまり

 近江守護職は鎌倉時代より佐々木六角氏が任じられたが、南北朝の動乱をきっかけに佐々木京極氏が台頭、愛知川を境として北を京極氏が、南を六角氏がそれぞれ支配下においた。

 高野瀬氏のように鎌倉時代より愛智郡に領地を持つ小領主にとって、守護職の存在は必ずしも歓迎できなかった。足利幕府の任じた守護職は鎌倉期の守護と違ってその裁量権が大きく、守護みずからも分国内の小領主を被官化することでその勢力の安泰を図った。それもあって、南北朝期から室町時代はじめにおける高野瀬氏のような小領主らは、必ずしも守護職に従順な存在ではなかった。しかし、高野瀬氏も次第に守護佐々木氏の下風に立つようになっていった。 十五世紀、室町幕府体制が確立されたが、関東永享の乱、大和永享の乱、将軍義教が暗殺された嘉吉の変など、社会を揺るがす事件が続発した。結果、室町幕府の権威にも翳りがみえるようになり、将軍権力の衰退、守護大名の権威の低下を招き、時代は乱世の様相を濃くしていった。そして、応仁元年(1467)、将軍家の継嗣問題を引き金として応仁の乱が起った。近江守護職である江南の六角氏は西軍に、江北の京極氏は東軍に属して対立した。高野瀬は両勢力の「境い目」に位置することから、高野瀬氏は時代の荒波をもろに被ることになった。

 六角氏と京極氏の抗争は応仁の乱が終結したのちも止むことなく、文亀三年(1503)、高野瀬隆重は六角氏の命で肥田に城を築いた。

 宇曽川中流の湿地帯に築かれた肥田城は典型的な平城だが、宇曽川と愛知川を天然の濠としたなかなかの要害であった。また、

 肥田の地は宇曽川の舟運と農耕に恵まれたところで、中山道と浜街道の中間地点に位置する要地でもあった。高野瀬氏はここに菩提寺を築き、城下町を営み、京極氏に対する六角氏の最前線の任を担ったのである。

近江の戦国時代

 やがて、戦国時代を迎えると、江北の京極氏は内部抗争が続き、次第に勢力を失墜していった。その結果、上坂氏、浅井氏、浅見氏ら京極氏麾下の国人ら領主が勢力を増し、そのなかから一頭抽んでたのが浅井亮政で、ついには京極氏を凌ぐ勢力を築き上げるのである。 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、

 

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八町城(赤田館)  近江国(豊郷)2013.3.17

2013年03月17日 | 平城

近江 八町城

常禅寺山門入り口に”八町城跡”と彫られた石柱がある。

常禅寺山門

常禅寺の土塁常禅寺の土塁

 常禅寺と隣接する白山神社に土塁が確認でき、この一帯が八町城の城域と考えられる。特に常禅寺の西~北~東には高さ2m程度の土塁が残っており、常禅寺と白山神社の間には堀跡も確認できる。
以前は寺の北側に水堀が残っていたというが、現在は埋め立てられ藪となっている。

 なお、常禅寺の境内にある墓地には、赤田信濃守高の墓がある。

 八町城は赤田氏の居城で、赤田氏は嵯峨源氏・渡辺綱の子孫と伝えられる。
赤田氏は、もとは越後赤田荘の地頭であったが、近江国犬上郡久徳郷曽我に移り、応永年間(1393~1427)に赤田信濃守高が曽我城を構えて本拠とした。

 その後、犬上郡では多賀氏が勢力を拡大し、赤田氏は永正年間(1504~1521) 頃に河瀬庄八丁村に移り、八丁城(八町城)を居城とした。

 赤田氏は大永年間(1521~1528)から享禄年間(1528~1531)にかけて、京極氏に替わって江北を支配した浅井氏に属し、観音寺城を居城とする六角氏と戦い、元亀年間(1558~1573)には姉川の合戦、および小谷城の戦いに参戦したが、織田・徳川軍に敗れ浅井氏と没落した。

森可房(森可成曽祖父)は近江赤田城を夜討して、ここに討死したと伝えられる。
この赤田城と推定されるのが、赤田氏の居城であった八町城(赤田館)で、現在は常禅寺の境内となっている

 

 白山神社

祀られている神は古事記に登場する女神イザナミノミコトです。多賀大社には男神のイザナギノミコトが、祀られています。また、八町の由来は、この神を信心していた人が八町歩(79,300㎡/24,000坪)の田を寄付したことによると伝わっています。  もちろん、赤田城主もこの神を信仰し、他の神も祀りました。

赤田渡辺氏

●閂(かんぬき)●嵯峨源氏渡辺氏流 

 近江国の湖東に位置する犬上郡豊郷町は、江州音頭発祥の地の地として有名なところである。その豊郷町八町にある常禅寺の山門の前の石柱に、八町城址と刻まれている。八町城は戦国時代、豊郷周辺を領した赤田氏の居城で、赤田氏は嵯峨源氏渡辺綱の子孫と伝えられている。

 渡辺綱は嵯峨天皇の皇子源融の後裔で、摂津国西成郡渡辺村に移って渡辺を称するようになった。多田源氏源頼光に仕えて四天王の一人と称せられ、大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻り橋の上で羅生門の鬼の腕を切り落としたなどの逸話を残す剛勇の武士である。渡辺氏は摂津渡辺を本拠に勢力を拡大、暦仁元年(1228)、綱の七世の孫兵衛蔵人恒*は御家人として勲功をあげ、越後国三島郡赤田保の地頭に補任された。そして、恒の二男の等が赤田兵衛尉を称したのが赤田氏の始めである。
 等は鎌倉幕府に出仕し、元弘の乱に際しては足利高氏に属して上洛、元弘三年(1333)五月の六波羅合戦において討死した。等には系図上で任・紀・納・備など数人の男子があり、建武の新政を経て南北朝動乱の時代になると、赤田一族は足利氏の麾下に属したようだ。

『渡辺惣官系図』には、赤田保の地頭に補任されたのは定の曾孫兵衛尉応とあり、応の孫備が赤田氏を称したことになっている。

            今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


雪野山ハイキング 

2013年03月17日 | ウォーキング

 

雪野山ハイキングに参加しました!

妹背の里 集合で!

ここからハイキングスタート!

中腹の見晴らし台

結構きつい!

これも山上古墳だが、雪野山城の虎口!

雪野山古墳到着

山頂、雪野山古墳(未盗掘で発見され)、発掘調査が行われ「現地説明板」が設置されている。

『雪野山古墳発掘当時のパンフレットの偽装に怒る!』 森浩一の2003年の著書『魂の考古学 時の過ぎゆくままに』五月書房、に滋賀県雪野山古墳公開時のパンフレットに対する憤慨が書かれている。
 雪野山古墳から出た鏡の中には三角縁神獣鏡も多数あったのは事実だが、それは被葬者の足下に置かれていて、もっとも重要だと考えられる、頭部近くには三枚の鏡が置かれていたが、そのうちの一枚は同じ三角縁鏡でも、三角縁竜虎鏡であった。
それがパンフレットでは文字は三角縁竜虎鏡と表記していながら、ルビは「さんかくぶちしんじゅうきょう」となっていた。しろうとには「三角縁」とくればもう「神獣鏡」となってしまうのだから、これはあまりにもいい加減な・・・というよりも、鏡をおしなべて卑弥呼、それも神獣鏡を卑弥呼の鏡に仕立て上げたかった当時の畿内の研究者の「偽装」行為だったと言われてもしかたがないのである。

さらにこのパンフは出土状況の一覧図では、完璧に頭部にある鏡に矢印して「三角縁神獣鏡」と表記してしまっていた。
これはもう嘘つきなのだとしかいいようがなくなる。
と、言うよりも古代史ファンを「しろうと」とあなどり、最初から自分達のあやまった方法論である三角縁神獣鏡=卑弥呼の鏡を押しつけた、実にファン不在の「犯罪」と言えるとかわかつは思う。 
森さんはさすがにそこまではおっしゃらないがやられた方からみればあとで知っただけに、これはもう食品偽装なみの「詐欺行為」である。 
しかも新聞に対して、神獣鏡だったというコメントを彼らは流していたと言うから、なんだそれは?ってことになる。
当時、実は考古学の鏡に対する見解は過渡期にあった。

山頂より西望む…近江富士(三上山)の頭(頂部)も見える

伝 雪野山城 説

(前方後円墳の円墳部分)が主郭ヵ、北に竪堀・土橋カ、西は切岸カ・・・

 土塁

龍王寺は創建1300年。

雪野山の麓にある龍王寺(りゅうおうじ)は、奈良時代初め(710年)に天皇の勅令で、行基により「雪野寺」として開山されたとても古い天台宗のお寺で創建1300年を迎えました。医を司る薬師如来をご本尊としているため毎年中秋(十五夜の日)に喘息病をへちまに封じ込める「へちま加持祈祷」を行います。
白洲正子氏の著書「近江山河抄」に「雪野寺」として紹介されています。

龍王寺
雪野山(滋賀県蒲生郡竜王町)南山腹にある天台宗の寺院で、白鳳時代の終わり奈良時代の初め平城京遷都の年、和銅三年(710年)元明天皇(天智天皇の第4皇女)の勅令で、行基菩薩により「雪野寺」俗称「野寺」として創建されました。
雪野寺は、奈良時代から平安初期にかけて隆盛を極め、千坊千人の衆徒があったと言われています。
宝亀8年(777年)小野時兼から寄進された梵鐘は霊験あらたかなる梵鐘として数々の伝説が生まれ、そのことが平安時代、寛弘四年(1007年)一条天皇のお耳に入り、「龍寿鐘殿」(りゅうじゅしょうでん)の勅額(直筆の額)を賜りました。以来、雪野寺から「龍王寺」と改められました。

寺伝によれば、

 和銅3年(710年)元明天皇の勅願で行基により雪野寺(ゆきのでら)として創建されたという。通称を「野寺」という。雪野寺跡からは奈良時代の塑像断片が出土しており、古代からこの地に寺院が存在したことが窺われる。

寺には奈良時代作の「野寺の鐘」と呼ばれる梵鐘(重要文化財)が伝わる。この梵鐘には美女と大蛇の伝説が残されている。火災時に鐘堂から水を噴いたり、旱魃時に雨乞いをすると慈雨に恵まれるなど、霊験あらたかな梵鐘として遠近に名高くなったことから、寛弘4年(1007年)一条天皇が龍寿鐘殿(りゅうじゅしょうでん)の勅額を下賜し「雪野寺」から寺号を「龍王寺」に改めたという。

つくしが・・・!

雪野山全景 (竜王町川守側より)

     今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


川守城(吉田城) 近江国(竜王)

2013年03月17日 | 居城

八幡社と川守城の城址碑2004年の「八幡社と川守城の城址碑」

お城のデータ

所在地:蒲生郡竜王町川守 map:http://yahoo.jp/B-ZxBd

別 名:吉田城

現 状:八幡神社

遺 構:土塁、石碑

区 分:居館 (集落)

築城期:室町期

築城者:吉田巌秀

城 主:吉田出雲守

駐車場: 路上駐車

訪城日:2013.3.16

お城の概要

 川守城は川守地区の八幡神社が祀られている一帯とされる。
八幡神社の一画が周囲よりも若干高くなっている、城郭遺構は社殿の裏に土塁を確認。

土塁痕(八幡神社)

城郭遺構は社殿の裏に土塁を確認

歴 史

川守城は、吉田出雲守屋敷跡であるとの伝承がある。

吉田氏は近江守護佐々木定綱の弟の巌秀を祖とし、巌秀の子の泰秀よりは出雲に在住していましたが、吉田左近将秀弘の代となって、文安年間(1444~49年)に出雲より移住し川守城を築いたとされます。秀弘の子の出雲守重賢は弓道吉田流(日置流)の創始者とされます。

 

川守の交差点を西入る。すぐ西側30mJA隣

交差点の常夜塔

 

日置吉田(へきよしだ)流弓術

日本の弓道史において大変重要な意味をもつ人物を多く輩出し、近代弓術確立の舞台となったのが、ここ滋賀県蒲生郡竜王の地なのです。

弓道は、諸武道奨励の気運が高まった明治半ばまで、「弓術」と呼ばれていましたが、その弓術の歴史をたどりながら、あまり知られていない町の横顔にふれてみましょう。

室町中期までの弓術は、武田・小笠原流などの「古流」といわれる流儀が主流でした。これは技そのものよりも、弓馬諸式の儀礼的故実様式として大成されたものです。

しかし戦乱の世となり、もっと実戦的な威力を示す弓術の必要性を感じ、新しい射術の改良工夫を行ったのが日置弾正正次(へきだんじょうまさつぐ)でした。彼は愛田村(現在の三重県伊賀町)生まれと言われ、若いころから弓術に秀で、数々の勇名を馳せています。

彼は弓術を極めるために諸国を遊歴し、苦労の末、飛・貫・中の奥義を身につけ、彼独自の新射術を開発しました。彼は近江の六角佐々木氏に従い、その新しい弓術で大いに奮戦したと伝えられています。日置弾正については架空の人物との説もあります。

 さて、近江の國、蒲生郡河森・川守城(野寺城)(現在の滋賀県竜王町川守)の城主であった吉田氏は、近江源氏・六角佐々木氏に仕え、代々弓馬の武功に名高い一族でした。

その十一代目の吉田出雲守重賢(将軍足利義晴弓術指南役)について、次のような伝説が残っています。

それは、吉田重賢が生まれる前のこと。彼の母親は、彼が生まれるとき、三日月が自分の胸に入っていく夢を見ました。三日月の形からの暗示でしょうか。

彼女は「この子はきっと弓道の名誉を得るに違いない」と確信し、重賢の弓術修行にたいへん熱心でした。母親の思ったとおり、彼は年若いうちから才能を発揮し、その技は妙域に達したそうです。やがて彼が壮年になって、吉田八幡宮に参籠したときのこと、満願の暁に白髪の老人から一本の矢を与えられる夢を見ます。不思議に思いつつもさらに修行を積んでいると、その翌年、齢五十余りの老人が突然現れ、重賢に弓術の奥義をことごとく伝授しました。

この老人が日置弾正であることは言うまでもありません。こうして重賢と、その嫡子の重政(しげまさ)は、七年の間彼のもとで日夜親しく従学しました。
重賢は、その教えに自分なりの工夫を加え、ついに「日置吉田流」(へきよしだりゅう)「日置流」を完成させます。この流儀は「新派」と呼ばれ、以後近代弓術の基礎として多くの弓の名手を輩出し発展していきます。

日置弾正架空説は、「吉田流」を編み出した本来の元祖である吉田重賢が、日置弾正正次なる人物を自分の上に創造し、弓術の全ての奥義を伝授したとすることにより「日置流」流儀の重み付けを図ったと言う説もあります。

この「日置吉田流弓術」「日置流」は、血統による一子相伝もしくは唯授一人の精神を貫くことを基本としていました。しかしそのためにひとつの紛争が起きました。重賢の子、重政は父とともに将軍足利義晴(あしかがよしはる)の弓の師範を務めるなどすばらしい腕の持ち主でした。

この吉田重政の門人で、主家の佐々木義賢は、どうしてもその秘伝を伝授してほしいと重政に迫りました。しかし重政は、いくら主家であっても、他家へ渡すことはできないと、一子相伝の掟を守り、それを許さなかったため、二人の間には不和が生じ、一時吉田重政は越前一条谷に引きこもってしまいました。結局数年後、朝倉義景(あさくらよしかげ)のとりなしにより、二人は養子縁組を結び、佐々木義賢は日置吉田流の奥義一切を受け継ぎます。

その後、佐々木義賢は逆に吉田重政の息子の重高を自分の養子として秘伝を返したと伝えられています。この紛争がもたらしたものは、同流派の分立化です。吉田重政から佐々木義賢、そして吉田重高 へという流れは、いわゆる出雲派と呼ばれ、その後重綱=豊隆=豊綱=豊覚…と続き、阿部藩の庇護を受けて明治維新まで発展します。

これに対して、佐々木義賢と、吉田重政の対立を憂い、吉田流弓術の危機を感じた吉田重賢が、重政の四男で孫に当たる重勝「雪荷」に直接真伝を伝授したことから、本流とは違った別の流派が生まれました。これを雪荷派と呼び、吉田流の技術的な要素は雪荷派に多く伝えられているとも言われています。重勝は諸国を周遊して弓術修行に励み、その門人は数百人にものぼりました。

蒲生氏郷・秀郷親子、森刑部、羽柴秀長、豊臣秀次、細川幽斎などが高弟として有名です。その後、この二つの流派からさらに分立が進み、総じて日置六派もしく七派と呼ばれるようになりました。

吉田重高の嫡子重綱の娘婿・吉田源八郎重氏(旧姓:葛巻)は、一水軒印西と言い日置流印西派(日置當流)の祖として後世に名を残します。
「日置流印西派」は徳川将軍家弓道指南役にもなり「日置當流」と言われる様になりました。

大和日置流(吉田流)
    ├出雲派----------寿徳派
    |  |       └ 印西派(いんさいは)
    |  ├山科派
    |  ├左近右衛門派---大蔵派---山科派
    |  └大心派
    └雪荷派(せっかは)(日置當流)----道雪派


本流はどこなのかという点については諸説がありますが、いずれにしても吉田家という一族が、何代にもわたり弓道で名を挙げたことは事実であり、たいへん希有なことだといえるでしょう。

1543年ポルトガル人により伝えられた鉄砲は、日本の戦術に大きな変化をもたらしました。特に織田信長による鉄砲戦術以降、武器としての弓や矢の役割は衰退していきます。
しかし武士が指導力を持っていた江戸時代には、弓は士気鼓舞のための武士教育に用いられるようになりました。

そして個人的な弓の技術を確認するだけでなく、武士の力を民衆に誇示するため、京や江戸で三十三間堂の通し矢が盛んになりました。
中でも出雲派の流れをくむ大蔵派の創始者、吉田茂氏は、前後七回にわたってその技を試み、次々に自己の記録を更新し、天下一の名声を独占しました。

明治維新以後弓術は、西洋文化を重んじる気風に押されて一時衰退の色を見せましたが、現在では、学校体育にまで取り入れられ、男性のみならず、女性にも愛弓者が増えつつあります。
現代の弓道は、ただ目標に射当てるだけでなく、何事にも動揺することのない精神性を身につけるスポーツ弓道ですが、その根幹にあるのは、日置吉田流という大きな流れです。



このように滋賀県竜王町と弓道は深い結びつきがあることをおわかりいただけたかと思います。

弓道をされる方は是非竜王町にお越し頂き、かつて弓の道を極めた男たちのロマンを静かに感じ取っていただいてはいかがでしょうか。
お問合せ・担当課 竜王町観光協会 0748-58-3715

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭、竜王町観光協会

             本日も訪問、ありがとうございました!!!感謝!!


平田山城(雨壺山城) 近江国(彦根) 

2013年03月17日 | 平城

 

地元の人にも知られず、訪城されていない穴場の城

 

 

彦根古図略図

 彦根市周辺の荘園

 戦戦国時代後期に六角と江北軍合戦の舞台として史実に登場、以降佐和山城に対する争奪戦の舞台の一部となる。

平田山城

 


雨壺山に立つ駒札
駒札に・・・・・

 戦国時代、領主平田氏の城がありました

 関ヶ原の合戦の直後、石田三成の佐和山城を落とすため、徳川家康、井伊直政の本陣もおかれました。

山頂から佐和山や彦根山※が一望できます。」とある

※彦根山は、彦根城が立つ山で、別名:金亀山(こんきさん

 お城のデータ

 所在地::彦根市山之脇町・芹川町・和田町・岡町(雨壷山) map:http://yahoo.jp/TzGG6b

別  名:雨壺山城

現  状::山林・千鳥ヶ丘公園

遺  構:曲輪・土塁・竪堀・石積

区  分::平山城 137.3m

築城期 :戦国期

歴代城主:平田氏

目標地:新神社

駐車場: 千鳥ヶ丘公園無料駐車場・ 新神社無料駐車場

訪城日:2013.3.13

お城の概要

彦根市街地の真ん中にポツンと残る雨壷山(平田山)は、現在千鳥ヶ丘公園として整備され市民の憩いの場となっている。

  山の西側は昭和時代までは火葬場のあった山として地元では認知度が高いが、この山に城砦の遺構が存在は、知られていない。雨壷山は逆L字形で一辺約500mの規模だが、その中でほんの一部が城域。

  遺構ははっきりしないかすかな土塁と腰曲輪が残るのみである。東側は水道タンクのある山、西側は昭和時代までは火葬場のあった山として地元では認知度が高いが、この山に城砦の遺構が存在することは、全く知られていない。
 雨壷山は逆L字形で一辺約500mの規模だが、その中でほんの一部が城域で水道タンクの西側の三角点付近とされる。遺構ははっきりしないかすかな土塁と腰曲輪が残るのみである。
 

登城にはいくつかのルートがあるが、

 ・南麓の新神社の社務所の南側に登城道があり、そこから登るとすぐに頂上の主郭らしき部分に到達する。

 ・神社のすぐ東にある水道タンクの管理に使用されているアスファルト道から登るか、

 ・東麓の江東寺の霊園墓地からが判り易い。登りきると「平和の塔」の建つ憩いの広場がある。周りには幾つかの水道タンクがあるが、一番西側のタンクのすぐ脇の竹藪が遺構部分である。千鳥ヶ丘公園の案内板の後ろに細い道があり、少し登るとすぐに石段があり、その途中の左側に連続した腰曲輪が見られる。ピークを登りきると少し盛り上がった主郭らしき部分に到達する。主郭のすぐ南側には枡形虎口らしき部分が残り、後世のものかは判らないが、石積みまで存在していた。主郭から虎口を抜け、神社方向へ下って行くと竪堀らしき遺構も見られる。

ただし県教委の資料には虎口や竪堀の記載はない。また県教委の別資料は雨壷山最西端で、火葬場跡を現在公園化された付近を平田山城

北に佐和山

北に彦根山彦根城

西側の平削地、20年前に斎場があり、現在は広場公園になっています、切通し部に西登山口

歴  史

築城時期などに関しては全く不明であるが、中世より佐和山城争奪戦が幾度となく繰り返されてきた中で、常に平田山城は敵陣の砦としての役割を担っていたようである。

  古くは京極氏と六角氏の争い姉川の合戦後の浅井氏と織田氏の争い関ヶ原合戦直後の石田三成の居城・佐和山城攻めの時は、徳川家康がこの山から東軍の攻撃により焼け落ちる佐和山城を眺めていたと言われている。 

 

雨壺山城

新神社 駐車場の西端の「しめ縄石」が、登り口

5m程登ると、唯一の【案内板】破損の灯篭・石垣用?の石・・・300年は?

石段は、はっきりあるが落ち葉が

枡形虎口を頂上へ

雨壺山頂上、標高:136.9m(一等三角点:雨壷山)

西に下りて行きました

西に下りる登山道は、竹林を進むと

小塁や堀切が・・・

スマホで方位確認

土塁の様な!

公園側に下りました。西登山口、標識もなく分りつらい!

向かいに地蔵・石仏が

左が登り口(出口)ですが、解りにくい!・・・正面は県道・仏壇店倉庫ヵ

本日の歩数   6,053歩   1時間01分  4.2km

消費カロリー   191.4kcal    脂肪消費量  27.3g

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、近江の城郭

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週間の閲覧数・訪問者数とランキング

2013年03月17日 | 平城

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)

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2013.03.16(土) 400 PV 137 IP 8147 位 / 1841687ブログ
2013.03.15(金) 408 PV 154 IP 6545 位 / 1841108ブログ
2013.03.14(木) 696 PV 188 IP 5155 位 / 1840488ブログ
2013.03.13(水) 698 PV 227 IP 3822 位 / 1839870ブログ
2013.03.12(火) 673 PV 192 IP 4553 位 / 1839298ブログ
2013.03.11(月) 670 PV 201 IP 4483 位 / 1838716ブログ
2013.03.10(日) 1019 PV 229 IP 3493 位 / 1838110ブログ

過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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