城郭探訪

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井元城  近江国(愛東)

2013年03月19日 | 陣城

井元城跡縄張図 (滋賀県文化財学習シートより)重ね馬出

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)妹町  map:http://yahoo.jp/RB4-GT

現 状:鎮守の森(春日神社)

遺 構:曲輪、重ね馬、土塁、空堀、 

区 分:段丘城(陣城)

築城者: 柴田勝家

築城期:織豊期 永禄11年頃

目標地:春日神社

駐車場:春日神社の駐車場

探訪日: 2013.3.19

 お城の概要

 井元城は、愛知川北岸の河岸段丘上に位置する城郭。

文献資料にも記載が無く、城主や築城時期などは不明ですが、滋賀県の中世城郭分布調査で初めて発見され、地元の愛東町教育委員会(現東近江市教育委員会)による発掘調査で堀や土塁などが検出。

 城の構造は方形の区画を土塁と空堀で囲んだ簡単なものですが、注目すべきは虎口部分。

虎口(こぐち)の外側をコの字形に堀と土塁をめぐらせたいわゆる角馬出(かくうまだし)がありますが、さらにその外側にもう一つの角馬出が設けられた「重ね馬出」となっているの。重ね馬出の類例は全国でも珍しく、虎口の形態としてはもっとも発達したもの。

そうしたことから、単に一在地土豪の手によるものではなく、大きな権力が関わっている可能性が高いと考えらる。城域全体図(長谷川博美氏踏査図2009年)

お城の歴史

 井元城付近が大きな権力の動きに巻き込まれた事件としては、元亀4年(1573)の織田信長による鯰江城攻め。観音寺城を逐われた六角義治は鯰江城に拠って蜂起します。これに対し信長は四方に付城を構築して攻撃します。位置関係からみて、井元城はこの付城の一つである可能性が高い。

発掘調査で16世紀の遺物が出土していることも、そうした推測を裏付けます。

 城の構造は、一辺30mの方形単郭で断崖側を除く三方を土塁で囲み、その外側に横堀を廻らせている。東側の虎口前には「コ」の字形に土塁と堀をめぐらせた角馬出が設けられ、さらに北側こもう1つ角馬出しが付けられ「重ね馬出し」と呼ばれる縄張りになっている。この虎口構造は、全国的にも極めて数少ない事例とされる。
虎口の東外方に150m×30mの土塁と空堀に囲繞された区画が設けられ、兵士の駐屯地と考えられ、また、土塁と堀の土層断面から構築方法は単純で、急造されており臨時的な陣城の可能性が強いと考えられている。
複雑な虎口構造を備える割には、施設規模は品弱で、強固さの感じられない遺構で、鯰江城攻略の為の中核砦では?。

お城の歴史

井元城と仮称されるこの城に関する文献も伝承も一切残っておらず、滋賀県の実施した中世城郭分布調査により発見された城跡である。
しかし、重ね馬出しを設けた縄張りや鯰江城との距離などから
「信長公記」に記された元亀4年(1573)4月に鯰江貞景の鯰江城に六角義賢(承禎)・義治父子が旧臣らと共に立て籠もった際、織田信長が佐久間信盛・蒲生氏郷・丹羽長秀・柴田勝家に命じ、四方より取詰め付城を構えさせているが、その付城の一つがこの井元城と考えられる。

井元城は、永禄11年~天正元年の間に、鯰江城攻略のための付け城として築かれた。                                                     城を築いたのは、柴田勝家とも云われているが定かではない。
 永禄11年、鯰江貞景は観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎を鯰江城に迎え、佐々木旧臣と共々籠城した。
 織田信長は佐久間・蒲生・丹羽・柴田の四氏に命じ、周囲に井元城・中戸城等の城砦を築いて攻撃し、天正元年9月ついに鯰江城は落城した。規模は小さな陣城だが重ね馬出の遺構が残るお城。なお、鯰江城は天正元年(1573)9月に落城。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

本春日神社殿東の石積から、無理やり登城!

春日神社本殿東側土塁

春日神社本殿北側土塁

綺麗に手入れされ、ショウジョウバカマ群生の薄紫色で迎えてくれた!

城は、方形の主郭とその周囲に廻らされれた土塁と空堀があり、主郭東側には重ね馬出の遺構が良く残っている。 重ね馬出の遺構自体あまり見られないことから、貴重な遺構。

春日神社に向かって左手の空き地内から斜面を登っていく坂道があり、坂道を登り切ったあたりで、郭を囲う空堀の底につながっています。

春日神社入口西側から左手に神社裏手に登る道がある。 この道を登り切るとそこには井元城の空堀と土塁が現れる。北西一帯の河岸段丘の檜林の中に井元城はあった。 

春日神社の参拝者用無料駐車場

国道307号線 春日橋から、妹南信号を左折
 
春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。(県道217号線を永源寺方面)                 春日橋から、妹南信号を左折、春日神社の鳥居を過ぎすぐ。

春日神社の参拝者用無料駐車場を利用。

中戸城  滋賀県愛知郡愛東町中戸
       現状は田地で、中戸地区の公民館西側向。 案内板等は何もない。

 

春日神社 http://www.biwa.ne.jp/~futamura/sub83.htm

素晴らしい彫刻の本殿は郷社のためか。佐々木の四つ目結(守護佐々木氏)・右2つ巴の紋

 

 井元城(遠景)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


曽根城   近江国(愛東・曽根)

2013年03月19日 | 丘陵城

現在の曽根城

お城のデータ

所在地:東近江市(旧愛知郡愛東町)曽根町 map:http://yahoo.jp/i4Iklw
現 状: JAカントリーエレベーター
区 分:段丘・平城
築城期:南北朝期?
築城者:青山氏?(小倉氏一族)
遺 構:消失
目標地:JAカントリーエレベーター
駐車場:JAカントリーエレベーター

訪城日:2013.3.19

お城の概要

 曽根城、現在既に消滅しているが、JAカントリーエレベーター付近に築かれていた城だ。昭和30年頃は、愛東南小学校の第二グランドとして使用していた、その頃周囲を土塁で囲っていた。

愛知川の河岸段丘を利用した青山城・小倉城と同様の築城地選定をしていることから、方形を主体とした縄張りの城であったようだ。

土塁か

見張り櫓跡か土塁跡か

お城の歴史

愛知川の河岸段丘の付近には高野城、小倉城、青山城、中戸城、森(鯰江)城、上岸本城など愛知川の河岸段丘上の築かれた城砦が点在している。
 これらは南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。

曽根城の愛知川の河岸段丘に築かれた

福性寺

門前に「豊国山万福寺」説明板は

 

 曽根城址(遠景)JAのカントリーは、ヨーロッパ城のよう!

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


上岸本城 近江国(愛東)

2013年03月19日 | 平城

上岸本城(かみきしもとじょう)

お城のデータ

所在地:東近江市上岸本町(旧:愛知郡愛東町上岸本) map:http://yahoo.jp/F7wVX4

区 分:段丘城

築城者:高岸四郎範高、岸本左馬允

改城者:柴田勝家

築城期:室町期

改築期:織豊期…天正元年頃(鱠江城攻撃時) 永禄11年頃

標 高:149m   比高差:5m 

現 状:雑木林

遺 構:郭・土塁・竪堀

駐車場:農道に路上駐車

訪城日:2013.3.19

お城に概要 

鯰江城攻略の為の付け城として築かれた上岸本城は、鯰江城と目と鼻の近さに築かれていた。

上岸本集落の東側(国道229号線沿い)の南北に延びる雑木林と竹藪が上岸本城があったところだ。

 東側は、水田となり圃場整備で地形も変わっているが、雑木林と竹藪の中には、南北に三つの曲輪が連郭式に構築され、それぞれの間に空堀が設けられていた。 北側の空堀は竪堀状に残っていて、現在は通路としても利用されているようだ.

上岸本城は愛知川左岸の河岸段丘上に築かれている。
この周辺には上岸本城と同様に愛知川の河岸段丘に高野城、小倉城、曽根城、青山城、中戸城、鯰江城などが築かれている。
 これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。

上岸本集落の北側の農道脇の段丘雑木林の中に上岸本城は残る。農道からも竪堀が認められる。
 この竪堀を境に西側の林にも土塁や空堀の遺構が認められるが、遺構は幅20mほどの林の中だけで、大部分は開墾され畑地となっている。

名神高速道八日市インタより、直進愛知川の「東近江大橋」を渡り、橋の次の信号で左折して県道217号線に入り。約200m先で右折し県道229号線に入り約400m先の三叉路の河川段丘上の左上が城址。

・段丘の為か、郭・土塁・竪堀の遺構は残存している。(農道整備等で北側は農道で峡削の可能性も) 

目印の県道229号線の三叉路(この手前に路肩駐車)の河川段丘上の左上が城址。

ここを左に!

この左が城址(下から)

この一角にL字に土塁が残っているが案内板はありません。

坂道を登った角から攻め込みました(城址裏手)

西方向

南方向(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)丘上

南方側(愛知川)の土塁(河川段差を利用した)

上段の郭址10m×10m(鯰江城側)に祠?石仏?

虎口カ・・南西下から、南側は自然の地形を利用した切岸カ?

下段の郭址10m×10m(西側)に祠

下段の郭址

城址裏手

車を駐車した所か振り向いて、南東の土塁(櫓台)

お城の歴史

上岸本城は高岸四郎範高、岸本左馬允らの拠った所という。

 永禄11年(1568)、観音寺城を織田信長によって落とされた六角承禎・義粥父子は、鯰江満介、貞景,三雲新左衛門ら佐々木旧臣と共々鯰江城を改修して籠城した。


この鯰江城を攻略するにあたって、信長はこの上岸本城を“付城”としたともいわれている

 天正元年(1573)9月、鯰江城は信長軍の佐久間盛政,蒲生賢秀,丹羽長秀、および柴田勝家らに攻められ落城した。

天正元年(1573年)の織田信長の鱠江城攻撃の付け城のひとつと伝わります。

上岸本城は、永禄11年頃に織田信長軍によって改築された。 

・織田信長の鱠江城攻撃に際して、西側の抑えとしで「櫓台を設けた小砦」カ?

 近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。

ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、信長公記、

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。