城郭探訪

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大塚城 近江国(蒲生)

2013年03月31日 | 平城

お城のデータ

所在地:東近江市大塚町(旧蒲生郡蒲生町大塚) map:http://yahoo.jp/ql2Bdi

遺 構:堀・土塁・石碑 

形 式:平城  

築城者:大塚平左衛門

築城期:室町期

目標地:近江鉄道大塚駅

駐車場:路上駐車

訪城日:2013.3.30

お城の概要

 大塚城は、朝日大塚駅北側の踏切を挟んで両側にある雑木林から北側の水田の一角にある稲荷神社までの一帯が城域であった。 

大塚城は近江鉄道・朝日大塚駅の北側踏切の一帯。字城屋敷といった小字名が残る。

近江鉄道が大塚城を東西に分断する形でレールが敷かれている。

 線路の東側現地には幅3~4m、長さ30m~40mほどの水堀が残っている。

 城内には石碑が建てられ「内堀」であると記されている。内堀に沿った土塁、あるいは曲輪なども周囲を水田に囲まれながらも比較的状態良く残されている。

 現地の石碑には、大塚城の位置と共に丹後屋敷跡、徳本屋敷跡、大塚城主因幡屋敷跡、民部屋敷跡、金花院跡、堀兵衛屋敷跡、水晶工房光り屋敷跡等のあった方向が示されている。

 石碑は大塚氏の末裔に建てられたものようです。大塚城主因幡屋敷跡は、大塚城の西(線路の西)は2m強の切岸が屋敷地の石碑が建っている。

  大塚城の外堀は石碑に矢印があるが、圃場整備でその痕跡は確認できない。



圃場整備以前には、小字城屋敷を中心に堀と土塁が数ヵ所に存在していた。【滋賀県中世城郭分布調査報告書】
 文化2(1805)年の「城屋敷絵図」に「御本城」とみえる場所には、三方に重厚な土塁と堀が存在し、北西の部分を「馬場の堀」と呼んでいた」と。朝日大塚駅から大塚地区の集落へ、道路沿いに土塁が確認できる(妙厳寺寺の北側)の畑と竹藪に高さ2m程の土塁がL字状残っている。 また、地区内の民家東側にの長さ約10m程の土塁が残っている。

 大塚城は、室町時代に大塚氏によって築かれた。 


歴 史

 大塚氏は仁治3年(1242)に観音寺城主・六角氏に属し、大塚の地に屋敷を構えた。
 天文年間に六角定頼の下で大塚八郎右衛門が湖水の船手奉行をしていた。

  永禄6年(1563)観音寺騒動の後は甲賀・和田城主の和田氏の娘を娶り、この時から日野城主・蒲生定秀に仕えた。

 永正5年(1508)に前将軍足利義稙を擁立する大内義興が上洛の軍を起こした際、第11代将軍足利義澄は近江に逃れた。この時に大塚城を改修すると共に規模を広げた。

 天正12年(1584)蒲生氏郷が奥州【会津若松】に転封に、蒲生氏と共に奥州へ、大塚城は廃城。

『日本城郭体系 11』によりますと、所在地は「蒲生郡蒲生町(現・東近江市)大塚」、創築年代は「室町時代中期」、創建者は「大塚平左衛門」、形式は「平城」です。

 城の歴史は「大塚城は、大塚集落の西、近江鉄道朝日大塚駅のすぐ北側に位置し、一帯は城屋敷の小字が残されている。遺構は、いわゆる複郭式で、特に北端の郭は中央を鉄道が貫通しているものの遺存状態は良好で、幅三m、高さ二mの土塁が南に開口しており、一辺九〇mの「コ」の字形になっている。その南に主郭とも考えられる面積一町歩ばかりの一段高い水田があり、その西には土塁の痕跡と思われる小畦畔と水路がある。また、さらに南に堀と土塁で区切られた一段高い雑木林があって、一部には門跡と思われるところもある南郭が続いている。全体では「凸」の字が横を向いたような配置となっている。

 城主の大塚氏は六角氏に仕えていたらしく、明応八年(一四九九)の『永源寺文書』の中に大塚平左衛門の名がみえる。また、天文年間(一五三二-五五)には佐々木定頼のもとで大塚八郎右衛門が湖水の舟奉行をしている。なお「大洞弁天当国古城主名札」には、大塚角之助以下計一〇人の名が記されている。」とあります。

 参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、『日本城郭体系 11』

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信長の隠れ岩

2013年03月31日 | 遺蹟

信長の隠れ岩へ遊歩道 高島・朽木

 

「信長の隠れ岩」の前に案内板を立てる「朽木・群・ひとネットワーク」のメンバーら(高島市朽木市場)
「信長の隠れ岩」の前に案内板を立てる「朽木・群・ひとネットワーク」のメンバーら(高島市朽木市場)

 高島市朽木に「信長の隠れ岩」と呼ばれる大岩がある。戦国大名・織田信長が越前の朝倉氏を攻めた際、同盟を結ぶ浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ、京へ戻る途中に一時身を隠したと伝わる。この岩に通じる遊歩道を、地元のまちおこしグループがこのほど、新たに整備した。グループは「朽木の新たな観光名所に」と期待している。

 信長は1570年、羽柴秀吉や徳川家康らを率いて朝倉氏攻めに赴いた。しかし、妹のお市の婿で同盟関係にあった浅井長政が朝倉氏方に寝返り一転窮地に。現在の高島市今津町保坂から朽木街道を抜けて、京都に逃げ戻った。「信長の朽木越え」として知られる。

 この撤退途中、地元領主の朽木元綱に敵意がないことを、同行の家臣が確かめるまで信長が身を潜めたとされる岩くつが「隠れ岩」。朽木市場の通称三ツ石地先、国道367号の東側斜面の上にある。

 数個の巨岩が重なり全周は約300メートルにも及ぶ。組み合わさったところに大きなすき間があり、洞くつ状に。最大幅3メートル、最大高2・1メートル、奥行き6・6メートルの岩穴の奥に、最大幅4メートル、最大高3・5メートル、奥行き14メートルの空間が広がる二重構造の洞くつとなっている。

 しかし、岩へ至る道も案内板もなく、地元でも知る人は少ないという。朽木でも歴史上大きな出来事があったことを、より多くの人が知って訪れてほしいと、地元のまちおこしグループ「朽木・群(むら)・ひとネットワーク」が整備に乗り出した。

 斜面下から隠れ岩に至る全長190メートルの遊歩道を新たに整備し、階段と手すりも設置。由来や位置を示す案内板も3カ所に立てた。

 岩の東方には、朽木氏が築城した西山城ののろし台の遺構などもあり、隠れ岩から道をさらに伸ばして「歴史街道として将来ルート化できれば」と、夢を描く。

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=109&agent=9&partner=BIGLOBE&name=%B5%FE%C5%D4%BF%B7%CA%B9&lang=euc&prop=495&bypass=3&dispconfig=