市三宅城(真宗大谷派 都賀山 蓮生寺)
【歴史】
湖南の本願寺門徒の歴史を秘めた寺院
湖南地方での一揆の拠点は三宅金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。
「当所金森ハ去年大阪大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那部藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。
蓮生寺は初代・了西の時代に蓮如 (1415-1499)上人の教えを受けて浄土真宗に改め、同じく上人の高弟・道西(1399-1488) が開いた善立寺とともに、本願寺門徒たちの重要拠点となりました。
1570年、本願寺が織田信長(1534-1582)と対立し、翌年金森でも門徒たちが蜂起しました。このとき蓮生寺は、本陣の金森城(現在の金森懸所・善元亀二年の織田信長方と一向衆との金森合戦で金ケ森城の出城となったところです。
永原氏の支城で永原出雲守孝房が在城していたが、永禄11年(1568)足利義昭を奉じて上洛する織田信長を阻止せんとする六角承禎に従っていたため、織田軍に攻められ、観音寺城と共に落城した
三宅城は一向一揆衆が対信長に対し籠城した城で、東約500mに金森御坊の中心であった金ヶ森城が位置している。
また、蓮生寺は湖南地方の浄土宗の布教に大きな役割を果たしたとされ、三宅城は寺院城郭と考えるのが妥当であろう。
三宅城は蓮生寺を中心とした一帯である。蓮生寺山門前、および蓮生寺境内の南から西にかけて、高さ1m余りの土塁が残る
蓮生寺山門前、高さ1m余りの土塁。
市三宅城は東西約40m、南北約30mの単郭方形の城郭で、周囲には高さ1~3mの土塁が巡らされ、南側には空堀が残っている。
しかし、西~北~東は住宅が隣接して建てられており、堀の確認は出来ない。
虎口は南北に2ヶ所あるが、大手は安楽寺側か。
地主さんのお宅には、菩提寺から移築された400年前の門が残っている。
善立寺を守る要塞・三宅城として信長の家臣の軍勢と戦う拠点となりました。境内や寺院周辺には、季節ごとに異なる美しさを見せる木々などとともに、当時の土塁や堀が残されています。
本堂は元和元年(1615)に再建されたもので、近世初期の真宗寺院の様式を今に伝えています。
境内より土塁
寺の南側に50mほど土塁とその外側に堀が残す。
土塁の境内側は、補強のためコンクリートで下部を固めてありますが土塁の旧状は留めている。
土塁の竹に子供のジャングルジムのように活用、土塁は維持され、手入れもされている(子供達の安全の為か)
志那街道の道標
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