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城郭探訪

yamaziro

信長公記 巻六

2013年03月04日 | 番外編

元亀四年

1、弾正遊泳  松永多聞城渡し進上

 去年冬①、松永久通は反逆の罪を赦免され多聞山の城を明け渡した?城には定番として山岡対馬守景佐が入れ置かれた?そしてこの年の正月8日、その父の松永久秀が濃州岐阜へ下り、天下無双の名物不動国行の刀を献じて宥免の礼を述べた?久秀は以前にも世に名高い薬研藤四郎吉光を進上していた?

 ①この年冬の誤りで、久秀の岐阜行きも翌年正月のこと

 

2、異見十七ヶ条  公方様御謀叛

 公方様が内々に信長公へ対し謀叛を企てていることは、この頃すでに明白となっていた?そのことは先年信長公が公方様の非分の行いを諌めるべく建言した十七ヶ条の異見書を、公方様が不承諾とした一事により明らかとなった?

 その十七ヶ条とは以下の通りであった?

一、光源院義輝殿は禁中へ参内することが少なく、ために御不運な次第と相成ってしまった?信長はそのことを考え、御当代には懈怠なく参内なされるよう以前より申し上げてきたが、公方様にはそのことをお忘れになり御退転なされてしまっている。まったく残念なことである?

一、諸国へ御内書を遣わして馬その他を所望なされているが、その外聞がいかがなものかをよく考えていただきたい?それに、何か仰せ遣わされる事があって御内書を発給する際には必ず信長の添状も一緒に添える旨をかねてから申し上げ、公方様もそれを承諾したはずであったのに、今はそれをすることなく遠国へ御内書を下して御用を申し付けられている?これは以前の約束に違背している?良き馬のことなど御耳にされた時は、たとえ何処にいようとも信長が馳走して必ず進上して差し上げるのに、そうはせず直に仰せ遣わされている?よろしくないことである。

一、よく奉公して忠節疎略なき者達には相応の恩賞を宛行わず、新参のさしたる事もなき者達には御扶持を加えられている?そのようなことでは忠不忠の別も無くなってしまうし、諸人の評価もよろしくない。

一、このたび公方様が雑説に惑わされて御物を避難させたことは都の人士の広く知るところとなり、それによって京都は騒然となってしまった?御所の普請に苦労を重ねてやっと御安座がなったというのに、またも御物を退かせて何方かへと御座を移そうとなされる?無念なことである?これでは信長の辛苦も徒労に終わってしまう?

一、賀茂の神領を岩成友通へ与え、表向きは土地の百姓前を固く糾弾するよう申し付けておきながら、内々では打ち捨てになされている。このような寺社領没収はいかがなものかとも思う。しかし岩成も困窮して難儀していたので、公方様が岩成の申立てを容れて他の訴えには御耳を休めていれば、他日岩成を何かの用に役立てることも出来ようと考えて容認していた?しかし御内心がそのようなことであれば、もはやそれも叶わない?

一、信長に近しい者達に対しては女房衆以下にいたるまで辛く当たり、迷惑させていると聞いている?われらに疎略なき者達と聞けば、公方様にはひとしお御目をかけられて然るべきであるのに、あべこべに疎略に扱われる?これはどうしたことか。

一、よく奉公して何の科もなき者達に御扶持を加えられないため、困窮した者達は信長を頼ってきてはわが身を嘆いている?信長から言上すれば何かしら御憐もあろうと考えてのことであるから、不憫のため、かつは公儀のおんためと思い御扶持の儀を申し上げたが、ただの一人とて御許容なされることがなかった?世にも吝嗇なる御諚であり、面目なき次第と考えている?これは観世与左衛門?古田可兵衛?上野紀伊守らの事である?

一、若狭国安賀庄の代官の件につき粟屋孫八郎から訴訟があったが、取り扱いを忌避して再三にわたり申立てがあっても無視し続けてこられた?

一、小泉女房が預け置いていた雑物や質物として置いていた腰刀?脇差までも召し置かれてしまったと聞いている?小泉が何か謀叛でも企てて曲事をしでかしたというのなら、たとえ根を絶ち葉を枯らしても道理であるが、小泉は単に計らざる喧嘩をしたにすぎない。法に従うのはもっともであるが、これほどまで厳しく仰せ付けられては世間に公方様は欲得により処断をなされたと思われてしまう?

一、元亀の年号は不吉につき改元すべきとの旨を以前より申し上げてきた?禁中からもその勅命があったが、そのために必要な少しばかりの費用を公儀が捻出しないため、今も遅々としている?改元は天下の御為であるから、御油断があってはよろしくなかろう?

一、烏丸光康を勘当し、子息光宣に対しても同様に御憤りになっておられたところ、誰であろうか内々の使いを立てて金子を上納させ、それで赦免なされてしまった?嘆かわしいことである?人により罪によっては過怠金を仰せ付けられるのも道理であるが、烏丸は堂上の仁である?当節公家にはこの仁のような人が多いのだから、それに対しこのような仕置きをなされては、他への聞こえもよろしくない。

一、他国より御礼があって金銀を進上してきたのを隠匿し、御用にも立てようとしない?一体何の御為か?

一、明智光秀が町から徴収した地子銭を買物の代金として渡したところ、公方様は明智が山門領の町から銭を徴収したといって受取主を差し押さえてしまった?

一、昨年夏幕府の御城米を売却して金銀に換えてしまわれたが、公方様が商売をなされるなど古今に聞いたことがない?当節は倉に兵糧が満ちあふれている状態こそ外聞もよいというのに、そのような次第となったことを知り驚き入っている?

一、御宿直に召し寄せておられる若衆に扶持を加えたいと思われたなら、当座当座で与えてやるものは何なりとあるのに、あるいは代官職を仰付け、あるいは非分の公事を起こさせる。これでは天下の非難を浴びることは避けられない?

一、諸侯は武具?兵糧のほかに嗜みはなく、もっぱら金銀の蓄えに励んでいる?これは浪人した時の備えのためである?上様も以前より金銀を蓄えておられたが、先日洛中に雑説が立った際にそれらを持って御所を出てしまわれたため、下々の者は公方様が京を捨てて浪々するものと誤解してしまった?上たるもの、行いを慎んでいただきたい。

一、諸事につき御欲が深くあらせられる?理非も外聞も気にかけられぬ公方様と世間に伝わっている。ために何も知らぬ土民百姓までが悪御所と呼んでいるとのことである?普光院義教殿がそのように呼ばれたと伝えられているが、それならば格別な事である?何故そのような陰口を言われるのかをよく考え、御分別を働かせていただきたい?

 以上の旨を異見したところ、金言耳に逆らったのであった?遠州表で武田信玄と対峙し、江州表では浅井下野守久政?長政父子および越前朝倉氏の大軍と取り合い、虎御前山の塞も守備半ばで方々手塞がりの状態となっている信長公の様子を、下々の者が御耳に入れたためでもあったろうか?

 信長公は年来の忠節がむなしく潰えて都鄙の嘲弄を浴びることを無念に思い、日乗上人?島田秀満?村井貞勝の三使を公方様のもとへ遣わした。そして要求のごとくに人質?誓紙を差し出して等閑なきようにする旨、種々様々に申し述べたが、ついに和談はならなかった。

 公方様は和談の交渉に対するに、兵をもって報いた?近江堅田の山岡光浄院景友?磯貝新右衛門と渡辺党へ内々に命を下し、かれらに兵を挙げさせたのである?かれらは今堅田に人数を入れ、一向一揆と結んで石山に足懸かりの砦を築いた?これに対し、信長公はすぐさま柴田勝家?明智光秀?丹羽長秀?蜂屋頼隆の四人を鎮圧に向かわせた?

3、火の手上がる  石山?今堅田攻められ候事

 軍勢は2月20日に出立し、24日には瀬田を渡って石山の砦へ取りかかった?砦には山岡光浄院が伊賀?甲賀の衆を率いて在城していたが、砦が普請半ばで守りがたく、26日には降伏して石山を退散した?砦は即刻破却された?

 今堅田の攻略は29日朝から開始された?東の湖上からは明智光秀が軍船をそろえて城西方へ攻め寄せ、陸からは丹羽長秀?蜂屋頼隆の両名が城南を攻め立てた?そして午刻頃に明智勢が攻め口を破って城内へ押し入り、敵兵数多を斬り捨てて砦は落ちた?これによって志賀郡の過半は相鎮まり、明智光秀が坂本に入城した?柴田?蜂屋?丹羽の三将は岐阜へ帰陣した?

 この挙兵によって公方様は、信長公への敵対の色を天下に示した?それをみた京童は、「かぞいろとやしない立てし甲斐もなくいたくも花を雨のうつを」①と落書して洛中に立てまわった?

 3月25日、信長公は入洛のため岐阜を発った?そこへ29日になって細川藤孝?荒木信濃守村重の両名が、信長公への忠節の証として逢坂まで軍勢を迎えに出てきた?信長公は上機嫌でこれを迎え、同日東山の智恩院に着陣した?旗下の諸勢は白川?粟田口?祇園?清水?六波羅?鳥羽?竹田など②にそれぞれ宿営した?信長公はここで荒木村重に郷義弘の刀を与え、細川藤孝にも名物の脇差を与えた?

 4月3日、信長公は堂塔寺庵を除く洛外の地に火を放ち、公方様へ和平をせまった?信長公は事ここに至っても公方様の提示する条件通りに和談を結ぶ旨を述べて交渉したが、ついに許容されることはなかった?

 ①「かぞいろ(父母)と思って養い立てた甲斐もなく、花(花の御所=将軍)を雨が打つ」 ②現京都市左京区?東山区?伏見区。京都東郊~南郊

4、心胆錯綜  公方様御構取巻きの上にて御和談の事

 翌日織田勢は御所の公方様を押さえつつ、上京へ火を放った?ここに至って公方様はついに抵抗を断念し、和睦を承諾した①?信長公もこれに同意し、4月6日名代として織田信広殿を公方様のもとへ参上させ、和談成立の御礼を申し述べさせた?

 事態が一時の鎮静をみたため、4月7日信長公は京を発って帰陣の途についた?その日は守山に宿営した?

 ①朝廷が間に立って和睦を調停した。

5、表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺①に入り、ここに2?3日滞在した?近在の鯰江城②に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである?信長公は佐久間信盛?蒲生賢秀?丹羽長秀?柴田勝家らに攻撃を命じ、四方より囲んで付城を築かせた?

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた?それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった?焼け跡は目も当てられない有様であった?

 同日、信長公は岐阜へ馬を収めた。

 公方様が憤りを静めるはずはなく、いずれ再び天下に敵するであろうことは疑いなかった?そして、その際には織田勢の足を止めるため湖境の瀬田付近を封鎖してくるに違いなかった?信長公はその時に備え、大船を建造して五千?三千の兵でも一挙に湖上を移動できるようにしておくよう命じた?

 ①②前出。ともに現滋賀県愛東村

 転載 http://qz.qq.com/627782968/blog?uin=627782968&vin=0&blogid=23


信長公記 巻十五 11~24

2013年03月04日 | 平城

11、飛火始末  越中富山の城、神保越中居城謀叛の事

 この頃、越中国富山城は神保長住が居城としていた。

 今回信長公父子が信州表へ動座した際、武田勝頼は越中へ向け「われらは節所を抱えて一戦を遂げ、敵勢ことごとく討ち果たしたゆえ、越中においてもわれらに呼応して一揆を蜂起させ、国内を支配されよ」と偽りの情報を伝えていた。するとこれを真に受けた越中では小島六郎左衛門・加老戸式部の両人を大将とする一揆が蜂起して神保長住を城内へ追い詰め、3月11日になって富山城を占拠し、近在へ火をかけたのだった。

 しかしそれから時日を移さず、信長公のもとへは「柴田勝家・佐々成政・前田利家・佐久間盛政らの軍勢が一揆方の富山城を包囲し、落去もほどなし」との注進が伝えられてきた。これに対し、信長公は以下のように返書を送った。

 武田四郎勝頼・武田太郎信勝・武田典厩・小山田・長坂釣閑をはじめ武田の家老衆をことごとく討ち果たし、駿・甲・信州は滞りなく平定されたゆえ、気遣いは無用である。
以上飛脚があったので申し伝えたが、そちらからも十分に情勢を申し越すべきことは勿論である。

  三月十三日
      柴田修理亮殿
      佐々内蔵介殿
      前田又左衛門殿
      不破彦三殿

 3月13日、信長公は岩村から根羽へ陣を移し、14日になって平谷を越え浪合①に陣を取った。ここで関与兵衛と桑原助六が武田勝頼父子の首を持ち来たり、信長公の目にかけた。信長公は矢部家定に命じ、首を飯田まで運ばせた。
 翌15日は午刻より強い雨となったが、信長公は飯田に陣を移した。勝頼父子の首はこの地に懸け置かれ、上下諸人の見物するところとなった。

 ①現長野県浪合村

 

12、雲散  武田典厩生害、下曾禰忠節の事

 16日、信長公は飯田へ逗留した。

 ところで信州佐久郡の小諸には下曽根覚雲軒が籠っており、武田信豊はこの下曽根を頼ってわずか二十騎ほどで小諸へやって来た。下曽根はこれを受け入れて二の丸へ呼び入れたが、途中非道にも心変わりし、建物を取り囲んで火をかけた。

 この信豊の若衆に朝比奈弥四郎という者がいた。弥四郎は今度の戦で討死を覚悟し、上原在陣時に諏訪の要明寺の長老を導師として引導を受け、道号を付けて首に下げており、ここを最期と心得て斬って回ったのちに信豊を介錯し、みずからも追腹を切って果てた。比類なき名誉であった。

 同時に信豊の姪婿の百井という人も一緒に腹を切り、合わせて侍分十一人が殺害された。信豊の首は下曽根が忠節の証に持参して織田方へ引き渡され、長谷川秀一によって信長公のもとへ運ばれた。

 その首は3月16日の飯田滞在時に信長公の目にかけられた。同時に仁科盛信が乗っていた秘蔵の芦毛馬と武田勝頼の大鹿毛の乗馬も進上され、大鹿毛は中将信忠殿へ下賜された。また勝頼が最後に差していた刀も滝川一益方より届けられて信長公へ進上された。信長公はその使者として伺候してきた稲田九蔵に小袖を与えて返した。かたじけなき次第であった。

 信長公は長谷川宗仁に命じ、武田勝頼・武田信勝・武田信豊・仁科盛信の四人の首を京へ運んで獄門にかけるよう申し付けた。これにより首は京へと上っていった。

 翌3月17日、信長公は飯田から大島を通り、飯島に至って陣を取った。

 

13、御次公  中国表羽柴筑前守働きの事

 3月17日、御次公こと羽柴秀勝殿が具足初めを行い、羽柴秀吉の相伴のもと備前国児島①に一ヶ所残っていた敵城へ攻めかけたとの報がもたらされた。

 信長公は3月18日に高遠城へ陣を張ったのち、翌19日になって上諏訪の法花寺に陣を移し、ここで諸勢を段々に連ねて陣張りさせていった。

 ①現岡山県倉敷市内

 

14、覇陣  人数備への事

 上諏訪に在陣した諸勢のうち、人数持ちの将は、

織田信澄・菅屋長頼・矢部家定・堀秀政・長谷川秀一・福富秀勝・氏家源六・竹中久作・原長頼・武藤助・蒲生氏郷・細川忠興・池田元助・蜂屋頼隆・阿閉貞征・不破直光・高山右近・中川清秀・明智光秀・丹羽長秀・筒井順慶

 以上であった。周囲にはこの他にも馬廻衆の陣が幾重にも連なっていた。

 その後の3月20日、信長公のもとへ木曽義昌が出仕し、馬二頭を進上した。木曽の申次①は菅屋長頼であったが、その場の奏者役は滝川一益が務めた。
 木曽には信長公から腰の物が下された。梨地の蒔絵に鍍金②・地彫りの金具、目貫・笄③は後藤源四郎作の十二神将像というもので、黄金百枚とともに与えられたのだった。信長公はこの場において木曽へ新知分として信州の内に二郡を与え、帰りは屋形の縁まで見送った。木曽にとっては冥加の至りであった。

 ①外様・他家との担当取次役 ②メッキ ③目貫は刀の柄部分に入れる金具、笄は鞘に別付けする金属製の道具

 

15、帰服参礼  木曽義昌出仕の事

 木曽と同じ3月20日晩、今度は穴山梅雪が御礼に参じ、馬を進上してきた。これに対し信長公は梨地蒔に鍍金・地彫り金具の脇差と、柄まで梨地蒔が施された小刀を下された。そして「似合いである」といって下げ鞘①・火打ち袋も付けて与えた上、さらに所領を宛行ったのだった。

 また松尾の小笠原信嶺も御礼して駮の馬を進上したが、この馬は信長公の目にかなって秘蔵されるところとなった。信長公は小笠原を「こたびの忠節、比類なし」と評価し、矢部家定・森乱を使者として本領安堵の朱印状を下した。かたじけなき次第であった。

 翌3月21日には北条氏政の元より端山という者が遣わされ、信長公へ馬及び江川の銘酒・白鳥その他の品々を進上してきた。取次は滝川一益が務めた。

 ①鞘を覆う袋

 

16、関八州警固  滝川左近、上野国拝領の事

 3月23日、信長公は滝川一益を召し寄せ、かれに上野国と信州の内二郡を与えた。

 信長公は老境の身で遠国へ遣わされる身を思いやりながらも一益へ関東八州の警固を命じ、「老後の覚えに上野へ在国せよ。東国の儀の取次として、さまざまに仕置を行うべし」との上意を下した。そしてかたじけなくも秘蔵の葡萄鹿毛の馬を与え、「この馬に乗って入国するがよい」との言葉を伝えたのだった。都鄙の面目これに過ぎたるものはなかった。

 

17、三位中将  信忠諸卒に御扶持米下さるゝの事

 3月24日、信長公は「諸勢とも在陣が続き、兵粮等に困じていよう」との言葉を発し、菅屋長頼を奉行として物資の運送を行わせ、信州深志において諸勢の人数に従い扶持米を下げ渡した。かたじけなき次第であった。

 翌25日には上野国の小幡信貞が甲府へ参り、中将信忠殿へ帰服の礼を申し述べた。小幡は信忠殿の許しを受け、滝川一益の同道のもと帰国していった。また26日には北条氏政より馬の飼料として米千俵が諏訪へ届けられ、信長公へ進上された。

 信長公は今度の戦において高遠の名城を陥落せしめた手柄への褒賞として、三位中将信忠卿へ梨地蒔の腰物を与えた。そして「天下の儀もそのほうへ譲ろう」と申し添えたのだった。これを受けた信忠殿は、東国で手間取る事案もなくなったため信長公のもとへ御礼に赴くことを決めた。

 

18、諸勢散会  諸勢帰陣の事

 かくして3月28日、中将信忠殿は甲府を発して諏訪へ馬を納めた。しかしこの日は猛雨となって風も吹きすさび、一方ならぬ寒さとなったため、多くの凍死者を出す事態となってしまった。

 ここにおいて信長公は、「諏訪を出て富士の山裾を見物し、駿河・遠江をめぐって帰洛するゆえ、諸兵はこれにて帰陣させ、将のみ供をつかまつれ」との上意を発し、諏訪で軍勢を解散した。これにより諸勢は3月29日より木曾口・伊那口から思い思いに帰陣していったのだった。

 

19、甲信平定  御国わりの事

 3月29日、新領の知行割が以下のごとく発せられた。

甲斐国は河尻秀隆へ付与。但し穴山氏本知分は除く。

駿河国は徳川家康殿へ付与。

上野国は一益へ付与。

信濃国のうち、高井・水内・更科・埴科の四郡は森長可へ付与。
  長可は以後川中島へ在城。今度の戦で先陣として粉骨したことに対する褒賞であり、面目の至りであった。

同木曾谷二郡は木曾本知として、また安曇・筑摩の二郡は新知として木曾義昌へ付与。

同伊那郡は毛利秀頼へ付与。

同諏訪郡は河尻秀隆・穴山梅雪の替地として付与。

同小県・佐久の二郡は滝川一益へ付与。

  以上をもって信濃十二郡が知行割りされた。

美濃国岩村は今回の功績により団平八へ付与。

同金山・米田島は森蘭丸へ付与。これは森長可にとってもかたじけなき次第であった。

 また同時に国掟も発布された。

国掟 甲・信州

一、関銭、駒口①を取るべからざること。

一、百姓前②には本年貢の外に不当な課役をすべからざること。

一、忠節人を立て置くほか、理屈を並べて懈怠する侍は殺害もしくは追放すべきこと。

一、公事はよくよく念を入れて詮議し、落着させるべきこと。

一、国侍は丁重に扱いつつ、さりとて油断なきよう気遣いすべきこと。

一、元来、欲のままに治めれば諸人は不満を覚えるものである。所領の引き継ぎに当たっては多くの者に知行を与えて支配せしめ、広く人数を抱えさせるべきこと。

一、本国より奉公を望む者があった場合は、よく履歴を改め、前の主人へ届けた上で扶持すべきこと。

一、諸城は堅固に普請すべきこと。

一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄積すべきこと。

一、各々支配する郡内ごとに分担して道を作るべきこと。

一、境界が入り組むゆえ、多少の所領争いが起きようとも私怨を持つべからざること。

以上の他、悪しき事態が出来した折には、罷り上って直に訴訟すべきことである。

天正十年三月 日

 信長公は帰陣に際し、中将信忠殿を信州諏訪に残し、みずからは甲州より富士の裾野を見つつ駿河・遠江を巡って帰洛する旨の上意を伝えていた。そして4月2日、強い雨が降りつつも、かねて予告していた通りに諏訪を出発して台ヶ原③へ陣を移したのだった。御座所の普請や賄いその他は滝川一益が担当し、上下数百人分の小屋を立て置き、出された馳走も並々ならぬものであった。

 なお同日、北条氏政が武蔵野で追鳥狩を行い、信長公へ雉五百余匹を進上してきた。これを受けた信長公は菅屋長頼・矢部家定・福富長勝・長谷川秀一・堀秀政の五人を奉行とし、馬廻衆を集めたところへ雉を運び込ませ、その遠国の珍物を皆へ分配したのだった。ありがたきことであった。

 信長公は翌4月3日になって台ヶ原を出立したが、そこから五町ほど行ったところで山あいより名山が姿を現した。一目でそれと知れる富士の山であった。煌々と雪が積もるその姿はまことに壮麗で、どの者も見上げては耳目を驚かせていた。

 そののち信長公は武田勝頼の居城であった甲州新府の焼け跡を見つつ、古府中へ陣を移した。古府中では信忠殿が武田信玄の館跡に入念な普請を施して美々しい仮御殿をしつらえており、信長公はそこへ居陣したのだった。

 ここにおいて信長公は丹羽長秀・堀秀政・多賀新左衛門に休暇を与えた。三人は草津へ湯治に向かった。

 ①馬や貨物に関する関所。この場合はそこで徴収される税 ②租税を負担する自作農・豪農 ③現山梨県白洲町内

 

20、恵林寺  恵林寺御成敗の事

 このような中、中将信忠殿は六角次郎義治をかくまった咎により恵林寺①僧衆の成敗を命じ、奉行人として織田九郎次郎・長谷川与次・関十郎右衛門・赤座七郎右衛門尉を任じた。

 奉行衆は恵林寺に乗り込むと、寺中の人間を老若問わず山門へ上らせた。そして回廊より山門へ干し草を積み上げ、火を放ったのであった。

 はじめ室内は黒煙が立ち、周囲の見分けもつかぬほどとなった。しかし次第に煙は治まり、やがて紅蓮の炎へと姿を変えていった。

 その炎が人々を照らし出す中にあって、快川紹喜長老は少しも騒がず、端座したまま微動だにしなかった。しかし他の老若・稚児・若衆たちは踊り上がり飛び上がり、互いに掻き抱きながら焼かれていったのであった。焦熱・大焦熱の地獄もかくやの炎にむせび、三途の苦を悲しむ様は到底目が当てられるものではなかった。

 この炎により長老十一人が果てるところとなった。そこには宝泉寺の雪岑長老・東光寺の藍田長老・高山長善寺の長老・大覚和尚長老・長円寺長老・快川長老など高名な僧も含まれていた。中でも快川長老は名声隠れなき高僧であり、その声望によって内裏より円常国師補任の綸旨を頂戴し、国師号を賜る名誉を得ていた人物であった。

 かくして4月3日、恵林寺は破滅した。老若上下百五十余人が焼き殺されるところとなった。

 武田方の処断は恵林寺にとどまらず各所で行われ、諏訪刑部・諏訪采女・段嶺某・長篠某らは百姓たちによって殺害され、その首が織田方へ進上されてきた。百姓たちには褒美として黄金が与えられたため、そのことを耳にした者たちは名のある侍を先々まで尋ね出しては殺害し、次々と首を持参してきたのであった。

 ①現山梨県塩山市内。乾徳山

 

21、因果  いゝばさま右衛門尉御成敗の事

 こうした残党狩によって飯羽間右衛門尉が生け捕られ、織田方へ身柄を引き渡されてきた。飯羽間は先年明智城にて謀叛を起こした際、坂井越中守の親類衆を数多討ち果たした者であったため、信長公はその処刑を坂井越中に任せた。

 この他にも秋山万可・秋山摂津守が捕らえられた。かれらの処断は長谷川秀一に命ぜられた。

 そのような中、北条氏政から馬十三匹、鷹三足が進上されてきた。その中には鶴取りの鷹もいるとのことであった。ところが使者の玉林斎が伺候したところ、信長公はいずれの品にも取り合うことなく、そのまま持ち帰らせてしまったのだった。

 

22、荒薙  信州川中島表、森勝蔵働きの事

 4月5日、森長可が川中島の海津城①へ入城し、稲葉貞通が飯山に在陣していたところへ、にわかに一揆が蜂起して飯山を囲んだとの報がもたらされた。これに対し、信長公はすぐさま稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏らを援軍として飯山へ遣わした。また中将信忠殿の手からも団平八が派遣された。一方織田方の来援を知った敵方は山中へ引き、大倉②にあった古城を修復し、芋川という者を一揆の大将として立てこもったのだった。

 4月7日、一揆勢のうち八千ほどが長沼口③まで進出してきた。その報に接した森長可はすかさず出撃し、敵勢に合間見えると一気に攻撃を仕掛けた。そして七、八里にわたって追撃を行い、敵勢千二百余を討ち取った上、大倉の古城になだれ込んで女子供千余を斬り捨てたのであった。この一戦により森勢の挙げた首は二千四百五十余にものぼった。

 こうした惨状となったため、飯山を囲んでいた一揆勢も当然ながら引き上げていった。解放された飯山の地は森長可が引き受けて人数を入れ置き、稲葉貞通は本陣のある諏訪へと帰陣していった。また稲葉勘右衛門・稲葉刑部・稲葉彦一・国枝氏は江州安土へ帰陣し、留守居の衆へ現地の様子を報告した。

 森長可はその後も日々山中へ分け入っては諸所より人質を取りかため、百姓たちに帰村を命じてまわる粉骨ぶりを示した。

 ①③現長野市内 ②現長野県豊野町内

 転載 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho18.html


信長公記 巻十五 1~10

2013年03月04日 | 番外編

天正十年信長公記/陽明文庫所蔵

1、終正月  御出仕の事

 この年の正月1日、安土には隣国の大名・小名および御連枝衆が滞在して正月の出仕をおこなった。登城した諸侯は百々橋から惣見寺への道を上っていったが、おびただしい人数が殺到したため斜面に積み上げられた築垣が踏みくずされ、石と人とが一度に落下して死人が出る騒ぎとなってしまった。手負いの者も数知れず、刀持ちの若党には刀を失い難儀する者も多かった。

 出仕は一番に御一門衆、二番に他国衆、三番に安土在住衆の順で行われた。なお面々には信長公より堀秀政・長谷川秀一を通じ、「今度の出仕には大名・小名によらず礼銭百文ずつを持参するように」との触れが出されていた。

 諸侯は惣見寺毘沙門堂の舞台を見物したのち、表門より三の門をくぐって天主下の白洲まで伺候し、信長公より年頭の祝詞をたまわった。先に立ったのは前述のごとく中将信忠殿・北畠信雄殿・織田長益・織田信包をはじめとする一門衆の歴々で、それに他国衆が続いた。面々は階段を上って座敷の内へ通され、ここでかたじけなくも御幸の間①を拝見したのだった。

 その間、馬廻や甲賀衆などの面々は白洲へ通され、しばしの間待たされていた。すると信長公より「白洲では冷えるゆえ、南殿へ上って江雲寺殿②を見物するがよし」との上意があり、江雲寺殿を拝見する機会を得たのだった。

 城の座敷は総金に作られ、狩野永徳の手により多様多種な写し絵が間ごとに筆を尽くして描かれていた。そのうえ四方には山海・田園・郷里の景色も臨むことができ、その見事さはまったくもって言葉も及ばぬほどであった。
 そこから廊下続きに参って御幸の間を拝観せよ、との御諚に従い、一行はかたじけなくもかしこき一天万乗の主の御殿へ通され、これを拝見する機会に恵まれた。まことに有難きことであり、生前の思い出となるものであった。

 廊下から御幸の間までは桧皮葺の屋根で、使われた金具が日に輝いていた。殿中も総金作りとなっており、四方の壁にはすべて張付け③が施され、それらには金地に置き上げ④の手法が用いられていた。さらに金具を使う箇所にはことごとく黄金が用いられ、魚子⑤や地金に唐草を彫るなどの装飾が施されていた。また天井は組み入れ⑥となっていた。まことに上も輝き下も輝く有様で、心奪われ言葉もおよばぬ壮麗さであった。畳は表に備後表を用い、織り目は最上の青目で、縁は高麗縁・雲絹縁に仕立てられていた。

 そして御殿正面から二間の奥には、皇居の間とおぼしき一画があった。御簾の内に一段高く作られたその場は金で装飾されて光り輝き、芳香が周囲を払って四方に薫じる至高の空間となっていた。そこから東には座敷が幾間も続き、いずれも総金の上にさまざまな色絵を描いた張付けが施されていた。

 そうして御幸の間を拝観したあと、最初に参じた白洲へ戻ると、信長公から台所口へ参るようにとの上意が伝えられてきた。それに従い伺候すると信長公は厩の口に立って待っており、そこでわれらの出す十疋ずつの礼銭をかたじけなくも手ずから受け取られ、後へと投げて行かれたのだった。
 また他国衆は金銀・唐物ほか珍奇を尽くした品々を献じたが、その数の多さはもはや申すも及ばぬほどであった。

 ①天皇の行幸を迎えるための間 ②六角定頼(承禎義賢の父)を祀った殿社 ③絵を描いた紙を壁に貼り上げる手法 ④模様を盛り上げて作る手法 ⑤粟粒状の突起を作る手法 ⑥格天井の間にさらに細かい格子を重ねた天井

 

2、夢雷火  御爆竹の事

 正月15日、信長公は江州衆に左義長①を行わせた。その人数は以下のごとくであった。

北方東一番
平野土佐守・多賀新左衛門・後藤喜三郎・山岡景宗・蒲生氏郷・京極高次・山崎片家・小河孫一郎

南方
山岡景佐・池田孫次郎・久徳左近・永田刑部少輔・青地千代寿・阿閉貞征・進藤山城守

 また同時に馬場入りも行われた。これについては、

一番
菅屋長頼・堀秀政・長谷川秀一・矢部家定と小姓衆・馬廻

二番
五畿内衆・隣国大小名

 以上が先に立ち、これに中将信忠卿・北畠信雄卿・織田長益・織田信包その他の御一門衆が続いた。

 そして四番に信長公の入場となった。軽装にまとめたその装束は京染の小袖に頭巾、その上から少し丈長の四角笠をかぶり、腰蓑は白熊、はきそえ・むかばきは赤地の金襴に紅梅の裏地、沓は猩々皮といったものであった。乗馬は仁田より進上されたやば鹿毛、奥州から来た駮毛、遠江鹿毛の三頭で、いずれも秘蔵の名馬であった。信長公はその三頭をかわるがわる乗り換えつつ進み、また矢代勝介にも騎乗させた。

 この日は雪が降った上に風もあり、ひとかたならぬ寒さであった。しかしその中を信長公は辰刻より未刻まで騎乗を続けた。また見物人も群をなして集まり、盛事に耳目を驚かせたものであった。
 その後、晩に至って馬場入りは終了となった。珍重にしてめでたき一日であった。

 その翌日の正月16日のことであった。先年佐久間信盛父子は信長公の勘気を蒙って追放され、父信盛は諸国を放浪の末に紀伊国熊野の奥地で没していたが、信長公はこれを不憫に感じたのか、子の甚九郎信栄に所領の安堵と赦免を申し渡した。帰参した信栄は濃州岐阜へ赴き、中将信忠卿へ御礼を申し述べた②。

 正月21日、備前の宇喜多直家の病死にともない③、羽柴秀吉が宇喜多家老の者達を連れて安土へ伺候してきた。秀吉と家老らは直家病没の次第を説明した上で御礼として黄金百枚を進上し、これに対し信長公からは直家の跡職を保障する意が伝えられた。家老衆にはそれぞれ馬が下賜され、一行はかたじけなく下国していった。

①正月15日の爆竹行事 ②帰参には信忠の口利きがあったとされる ③宇喜多直家は前年2月に死亡(この年死亡とも)、その跡職は子の秀家が継ぐこととなった。

 

3、伊勢遷宮  伊勢大神宮上遷宮の事

 正月25日、伊勢の上部大夫より堀秀政を通じ、信長公へ「伊勢大神宮においては正遷宮①が三百年目を最後に途絶え、久しく執行されずにおりますゆえ、何とぞ上意をもって今の世に再興していただきたい」との言上がなされた。

 言上を受けた信長公は、「いかほどの費用にて調おうぞ」と問うた。これに対し上部は「まず千貫ありますれば、残りは勧進②にて調達できましょう」と返答した。

 しかし信長公の御諚によれば、「一昨年に八幡宮の造営を申し付けた折には、当初は三百貫入用との見立てであったが、結局は千貫に余る出費となった。それゆえ今度も千貫というわけには中々行くまい。それで民百姓らに迷惑をかけることがあってはならぬ」とのことであった。このため信長公はまず三千貫を当面の費用として用意し、その後も必要次第に資金を出すこととし、平井久右衛門を担当奉行に任じて上部に添えたのだった。

 さらに翌日の正月26日、信長公は森乱を使者とし、岐阜の信忠殿へ「岐阜の土蔵には先年より一万六千貫の鳥目銭を入れ置いてあるが、今ではそれを結んだ縄も腐り果てていよう。ならば信忠方より奉行を任命して縄を結び直しておき、正遷宮で入用となり次第渡すがよし」との命も下した。

①伊勢の内宮・外宮を二十年ごとに再造営すること ②寄進をつのること

 

4、紀州内乱  紀伊州雑賀御陣の事

 正月27日、紀州雑賀の鈴木孫一が同地の土橋平次を殺害するという事態が起きた。その発端は前年に土橋が孫一の継父を討ち殺したことにあり、孫一はその遺恨によって、信長公の黙認を得て土橋を殺害したのであった。

 孫一はさらに土橋の居館を攻囲したのち、信長公へ事の次第を知らせる報を発した。すると信長公からは孫一の後援として織田左兵衛佐信張を大将とする根来・和泉衆が派遣されてきた。このため土橋平次の子息達は根来寺の千職坊へ駆け入り、ここへ兄弟そろって立て籠ったのだった。

 

5、信州討入  木曽義政忠節の事

 2月1日、中将信忠卿へ苗木久兵衛より調略の使者が遣わされ、「信州の木曽義昌が内通に応じましたゆえ、兵を出されますよう」との内容が伝えられた。

 これを受けた信忠殿は時日を移さず平野勘右衛門を使者に立て、信長公へ調略の成功を言上した。すると信長公は「まず国境の軍勢が動いて人質を取り固めよ。しかるのち信長が出馬する」との指示を下した。この命を受けた苗木久兵衛父子は木曽勢と一手となって働き、木曽方からまず義昌弟の上松蔵人を人質として進上させることに成功したのであった。信長公はこの人質に満足し、その身柄を菅屋長頼に預けた。

 翌2月2日、武田勝頼父子・同典厩信豊は木曽謀叛の報を受けて新府新城①から出馬した。そして一万五千余の兵を率いて諏訪の上原②に着陣し、ここから諸口の備えを固めていった。

 2月3日になり、「諸口より出撃すべし」との命が信長公より下された。これにより駿河口より徳川家康殿、関東口より北条氏政、飛騨口より金森長近がそれぞれ大将として進軍し、伊那口からは信長公・中将信忠卿が二手に分かれて乱入すべき旨が定められた。
 さらに同日3日、信忠殿は森長可・団平八を先陣とし、尾張・美濃の軍勢を木曽口・岩村口の各方面に出勢させた。

 これらの動きに対し、敵方は伊那口の節所を固めて滝沢③に要害を構え、下条伊豆守を守将に入れ置いていた。ところが2月6日になり、その家老である下条九兵衛が逆心を企てて伊豆守を放逐し、岩村口より河尻秀隆の軍勢を引き入れて織田勢へ通じてしまった。

 一方、紀州雑賀表では野々村正成が信長公より命を受け、雑賀の土橋平次城館攻撃の検使として派遣された。これにより攻囲は油断なく進められ、支えがたきを察した土橋方の千職坊は三十騎ばかりで脱出を図った。しかし斎藤六大夫がこれを追撃し、千職坊を討ち取ることに成功した。

 その首は2月8日に安土へ持参され、信長公の目に入るところとなった。六大夫には信長公より森乱を通じ、褒美として小袖と馬が与えられた。この戦果は大いに喧伝され、首は安土の百々橋詰に懸け置かれて衆人の見物にさらされた。
 同日8日には残る土橋の城館も攻め干され、残党が討ち果たされた。その跡には普請と清掃がほどこされたのち、織田信張が城代として入れ置かれた。

 2月9日、信長公の信濃国動座にあたり、各所への軍令を記した条々が発布された。それは以下のごとくであった。

条々

一、信長出馬に際しては大和衆を出勢させる。これを筒井順慶が率いるものと定めるゆえ、内々に怠りなく準備を進めるべし。ただし高野方面の者達には、少々が残って吉野口を警固すべき旨を申し付けおくべきこと。

一、河内の連判衆は烏帽子形・高野山・雑賀表への押さえとする。

一、和泉一国の軍勢は紀州へ備えるべきこと。

一、三好康長は四国へ出陣すべきこと。

一、摂津国は父池田恒興が留守居をつとめ、子の元助・輝政両人の軍勢にて出陣すべきこと。

一、中川清秀は出陣すべきこと。

一、多田家は出陣すべきこと。

一、上山城衆は出陣の用意を油断なく行うべきこと。

一、藤吉郎秀吉は中国一円に備えるべきこと。

一、細川家は忠興と一色五郎が出陣し、父藤孝は国元を警固すべきこと。

一、明智光秀は出陣の用意をすべきこと。

以上に出陣を命じた者は遠陣になるゆえ、率いる人数を抑え、在陣中も兵粮が続くよう補給することが肝要である。ただし大軍並みの戦力となるよう、剛力・粉骨の士を選んで引き連れるべきこと。

  二月九日          朱印

 その後2月12日になって中将信忠卿が出馬し、その日は土田④に陣を取った。そして翌13日に高野へ陣を移したのち、14日に岩村へ着陣した。その指揮下には滝川一益・河尻秀隆・毛利秀頼・水野監物・水野惣兵衛が属していた。

 2月14日、信州松尾⑤の城主小笠原掃部大輔信嶺が内通を申し出てきたため、妻籠口から団平八・森長可が先陣に立って出撃し、清内路口⑥より侵入して木曽峠を越え、なしの峠へ軍勢を登らせた。すると小笠原信嶺もこれに呼応して諸所に火煙を上げたため、飯田城に籠っていた坂西織部・保科正直は抗戦を不可能と見、14日夜に入って潰走した。
 その翌日の15日、森長可は三里ほどの距離を進軍し、市田⑦という地で撤退に遅れた敵兵十騎余を討ち取った。

 2月16日、敵勢の今福筑前守が武者大将となり、藪原⑧から鳥居峠へ足軽を出してきた。これに対し織田方からは木曽勢に苗木久兵衛父子が加わり、奈良井坂より駈け上がって鳥居峠で敵勢に向かい、見事一戦を遂げた。この戦で織田勢が討ち取った首は跡部治部丞・有賀備後守・笠井某・笠原某ほか首数四十余にのぼり、敵勢は主立った侍を多く失った。

 その後、この木曽口には織田勢から、

織田長益・織田某・織田孫十郎・稲葉貞通・梶原平次郎・塚本小大膳・水野藤次郎・簗田彦四郎・丹羽勘介

 以上の人数が加勢に加わり、木曽勢と一手となって鳥居峠を固めることとなった。これに対し敵勢からは馬場信春の子が深志城⑨に籠り、鳥居峠と対陣した。

 また同日、中将信忠卿は岩村から険難節所を越えて平谷⑩に入り、翌日には飯田に陣を移した。
 その先の大島⑪には日向玄徳斎が籠って武田方の守将となり、小原丹後守・武田逍遥軒および関東の安中氏らを番手に加えて守りを固めていた。しかし信忠殿が馬を進めたところ、これらの敵勢は望みを失って夜のうちに敗走してしまった。このため信忠殿は難なく大島に入城し、ここに河尻秀隆・毛利秀頼を入れ置き、先手を飯島⑫に移したのであった。

 森長可・団平八と松尾城主の小笠原信嶺らは先陣を仰せつかって軍を進めていたが、その先々では百姓たちが自分の家に火をかけて随身を願い出てくる姿が見られた。
 武田勝頼は近年になって次々と新しい課役を設け、新規に関所を作るなどしたため民百姓の苦悩は尽きなかった。また重罪は賄賂と引きかえに容赦し、逆に軽罪に対しては懲らしめと称して磔や斬刑に処すなどといったこともあり、その施政はすでに貴賎から疎まれ、嘆き悲しまれていた。このため諸人は内心で織田氏の分国に入ることを望んでおり、この機を幸いと上下とも手を合わせて織田勢へ通じてきたものであった。

 このような中、木曽口・伊那口の状勢をつぶさに見極めるべく、信長公から聟・犬の両人が使者として信州の陣へ派遣されてきた。両人は検分ののち、信忠殿が大島まで進軍して万事滞りなく進んでいることを信長公へ復命した。

 このころ、武田方の穴山玄蕃信君は遠江口の押さえの将として駿河国江尻⑬に築かれた要害に入れ置かれていたが、これに対し信長公が内通の誘いをかけたところ、信君はすぐに応じた。そして2月25日になって甲斐国府中に置かれていた妻子を雨夜にまぎれて脱出させたのだった。

 信州で穴山逆心の報を聞いた勝頼は、転進して館を固める決意を下した。

 ①現山梨県韮崎市内 ②現長野県諏訪市内 ③現長野県平谷村 ④現岐阜県可児市内 ⑤現長野県飯田市内 ⑥現清内路町 ⑦現高森町 ⑧現木祖村 ⑨現松本市 ⑩現平谷村 ⑪現松川町内 ⑫現飯島町 ⑬現静岡県静岡市内(旧清水市内)

 

6、高遠  信州高遠の城、中将信忠卿攻められ候事

 2月28日、武田勝頼父子と同信豊は諏訪の上原の陣を引き払い、新府の館へ軍勢を納めた。

 一方信忠殿は3月1日になって飯島から軍勢を動かし、天竜川を越えて貝沼原①に展開させ、ここから松尾城主の小笠原信嶺を案内に立てて河尻秀隆・毛利秀頼・団平八・森長可の軍勢をさらに先へ進ませた。そしてみずからは母衣衆十人ほどを伴い、仁科五郎盛信が立てこもる高遠城②から川を隔てた高山に登って敵城の様子を検分したのち、その日は貝沼原に宿陣したのであった。

 高遠城は三方に険を抱えた山城で、残る背面は尾根続きとなっていた。また城の麓には西から北へ富士川③が濤々と流れ、城構えもまことに堅固なものであった。さらに城下へと続く三町ほどの間は下を大河、上を大山に挟まれた険路で、敵味方一騎打ちで相対するほかはない節所となっていた。しかしその川下には浅瀬があり、森長可・団平八・河尻秀隆・毛利秀頼らの織田勢は松尾城主小笠原信嶺の案内で夜間にそこを渡り、対岸の大手口へと攻めかかっていった。

 ところで飯田城主であった保科正直は飯田を脱出後、高遠に入って籠城軍に加わっていたが、この日の夜間に城中へ火をかけて内応する旨を小笠原信嶺へ申し出てきていた。しかし実行に移す隙を見つけられずにいるうちに翌日を迎えることとなってしまった。

 翌3月2日の払暁には中将信忠殿の軍勢が到着し、尾根伝いに搦手口へと攻めかかった。一方大手口は森長可・団平八・毛利秀頼・河尻秀隆・小笠原信嶺が攻撃を担当していたが、敵勢はこの大手から討って出、織田勢と数刻にわたり戦闘を繰り広げた。この戦闘で敵勢は数多を討ち取られ、残兵は城中へと逃げ入っていった。

 大手でそうした戦が行われる中、信忠殿もみずから武具を取り、味方と先を争って塀際へ寄せかけた。そして柵を引き破って塀の上へ登り、そこから「一気に乗り入れよ」と下知した。すると信忠殿に続く小姓衆・馬廻は奮起し、我劣らじと城内へ突入していったのだった。

 かくして城は大手・搦手双方から侵入を受けて攻め立てられていった。敵味方とも火花を散らして戦い、おのおの負傷し、討死も算を乱すがごとくに累々として後を絶たなかった。

 敵衆は歴々の上臈・子供を一人一人引き寄せて刺し殺したのち、織田勢へ切って出て最期を飾っていった。その中で諏訪勝右衛門の女房は刀を抜いて織田勢の中を斬って回り、比類なき働きをした。また年の頃十五、六の美しき若衆一人が弓を持ち、台所の奥詰まりから次々に矢を放って数多を射倒し、矢数が尽きた後には刀を抜いて駆け回ったのち、ついに討死する姿も見られた。このほかにも手負・討死する者は上下とも数を知れなかった。この戦で討ち取られた首数は、

仁科盛信・原隼人・春日河内守・渡辺金大夫・畑野源左衛門・飛志越後守・神林十兵衛・今福又左衛門・仁科盛信の副将であった小山田備中守・小山田大学・小幡因幡守・小幡五郎兵衛・小幡清左衛門・諏訪勝右衛門・飯島民部丞・飯島小太郎・今福筑前守

 以上四百余にのぼった。

 仁科盛信の首は信長公のもとへ送られていった。この戦で中将信忠殿は険難節所を越え、東国において強者の名も隠れなき武田勝頼に立ち向かった。そしてその勝頼が要地と考え、屈強の兵を入れ置いて守らせていた名城の高遠城へ一気に乗り入り、これを攻め破ったことにより、信忠殿は東国・西国に聞こえる栄誉に包まれながら信長公の御代を継ぐことが約束されたのだった。代々に伝えられるべき功績であり、後代の鑑ともなるべきものであった。

 翌3月3日、信忠殿は上諏訪表へ出馬し、諸所へ放火を行った。この地に祀られる諏訪大明神は日本無双、霊験殊勝にして七不思議の力をもつ神秘の明神であったが、この焼き討ちにより神殿をはじめ諸伽藍ことごとく煙となって消え、御威光も空しきものとなってしまった。また関東の安中氏は大島を脱出後、諏訪湖の外れにある高島④という小城に籠っていたが、信忠殿の軍勢を前に抱えがたきを悟り、城を津田源三郎勝長に明け渡して退いた。

 一方、木曽口の鳥居峠にいた軍勢も深志表へ討って出て働いた。敵城の深志城は馬場信春の子が守っていたが、もはや居続けることは困難と察して降伏し、城を織田長益へ渡して退散していったのだった。

 ①現長野県伊那市内 ②現高遠町 ③藤沢川 ④現諏訪市内

 

7、駿河口  家康公駿河口より御乱入の事

 徳川家康は穴山信君を案内者として伴い、駿河の河内口から甲斐国文殊堂①の麓市川口へ乱入した。

 ①現山梨県市川大門町内

 

8、四郎勝頼  武田四郎甲州新府退散の事

 武田四郎勝頼は、ひとまずは高遠城で織田勢を防ごうと考えていた。ところがその高遠が思いのほかに早く陥落し、中将信忠殿がすでに新府へ向けて進撃中であるとの報が様々に伝えられると、新府在住の武田一門・家老衆は戦の支度などは一切行わず、子女たちが避難していく中にまぎれて取るものも取りあえず逃亡してしまったのだった。このため勝頼の旗本にはただ一手の人数さえもなくなってしまった。

 さらに武田信豊も勝頼と別れ、信州佐久郡の小諸①に籠って織田勢へ対抗する考えを固め、下曽根氏を頼って小諸へ逃れていった。勝頼は、ここに孤立した。

 3月3日卯刻、勝頼は新府の館に火をかけ、各所から集めた人質数多を火殺しにしながら退去していった。人質たちの泣き悲しむ声は天にも響くばかりで、その哀れさは言葉にも尽くせぬほどであった。
 思えば前年の12月24日、勝頼・簾中・一門衆が古府中より現在の新府城へ移った際には、装いに金銀をちりばめて輿車・馬・鞍を美々しく飾り、隣国の諸侍を騎馬で随行させていた。人々の崇敬は並々ならぬもので、見物人も群れをなして集まったものであった。ところが今、かつて栄華を誇り、常は簾中深くにあってかりそめにも人前に姿を現すことなどなく、慈しまれかしづかれながら寵愛を受けていた上臈たちは、それから幾程も立たぬうちに運命を変転させることとなってしまった。

 勝頼の御前・同側室の高畠のおあい・勝頼の伯母大方・信玄末子の娘・信虎の京上臈、その他一門・親類の上臈や付き付きの者たち二百余人の逃避行の中で、騎乗の者は二十騎にも満たなかった。歴々の上臈・子供たちは踏みなれぬ山道を徒歩はだしで歩き、足を紅に染めていた。まさに落人の哀れさ、目も当てられぬほどであった。

 勝頼一行は名残を惜しみながら住み慣れた古府中を脇に見、そこから小山田信茂を頼って勝沼②という山中から駒飼③という山里へ逃れた。ところが、ようやく小山田の館が近付いてきたというところで変事が起きた。自身が内々に承諾して呼び寄せておきながら、当の小山田信茂がここに至って無下にも勝頼を突き放し、一行の受け入れを拒否してきたのである。
 一行は前途を失い、途方に暮れた。新府を出る時には五、六百もいた侍分の者は逃避行の中で離散し、残ったのは遁れられぬ運命の近臣わずか四十一人になってしまっていた。

 その後一行はやむなく田野④という地の平屋敷ににわか作りの柵を設けて滞陣し、しばし足を休めた。屋内に入って左右を見れば、そこには数多の上臈たちが勝頼ただ一人を頼りとして居並んでいた。しかし当の勝頼も、わが身のことながらもはや思慮もまとまらなかった。

 当時、人を誅伐するということは、思うことがあっても小身の者には中々できることではなかった。しかし国主に生まれた人とは、他国を奪い取ろうとする欲によって多くの人を殺すことが日常という者たちである。武田は信虎より信玄、信玄より勝頼と代を重ねること三代、その間に人を殺めること幾千と数を知れなかった。しかし世の盛衰、時勢の変転とは防ぎ得ぬもので、三代の因果は間髪を入れず、今この時になって歴然と現れたのであった。

 天ヲモ恨ミズ人ヲモ咎メズ、闇ヨリ闇道ニ迷ヒ、苦ヨリ苦ニ沈ム⑤。

 嗚呼、哀れなるは四郎勝頼。

 ①現長野県小諸市 ②現山梨県勝沼町 ③④現山梨県大和村 ⑤なんらかの字句からの引用と思われるので、ほぼ原文に従った。

 

9、亡虎狩  信長公御乱入の事

 3月5日、信長公は隣国の軍勢を率いて動座し、当日は江州柏原の上菩提院に宿泊した。
 その翌日、信長公のもとへは仁科盛信の首がもたらされ、呂久の渡し①において実検を受けた。首はさらに岐阜まで運ばれ、長良川の河原に梟首されて上下諸人の見物するところとなった。翌7日は雨となり、信長公は岐阜へ逗留した。

 同7日、中将信忠殿は上諏訪から甲府に入り、甲斐入国を果たした。そして一条蔵人の私邸に陣を据え、武田勝頼の一門・親類・家老衆を尋ね出し、ことごとく成敗していったのだった。

 このとき殺害された者は、

一条右衛門太輔信竜・清野美作守・朝比奈摂津守・諏訪越中守・武田上総介・今福越前守・小山田出羽守・武田信廉・山県昌景の子・隆宝 なお隆宝は入道

 以上が残さず成敗された。信忠殿はさらに織田長益・団平八・森長可に足軽衆を付けて上野国表まで出兵させたが、小幡氏が人質を差し出してきたため別条なく平定された。この他にも織田方には駿・甲・信・上野四ヶ国の諸侍が縁を伝って次々と帰順の礼に訪れ、門前市をなすがごとき状況となっていた。

 3月8日、信長公は岐阜を出て犬山まで進み、翌9日は金山②へ宿泊した。その後10日には高野へ陣を取り、11日になって岩村へ着陣した。

 ①現岐阜県穂積町内 ②現岐阜県兼山町

 

10、武田氏滅亡  武田四郎父子生害の事

 3月11日、武田勝頼父子とその簾中・一門が駒飼①の山中に引きこもっているとの報が滝川一益のもとへ届いた。この報を受けた一益が険難節所を越えて山中へ分け入り、勝頼一行を尋ね出していったところ、果たして田野という地の平屋敷に急拵えの柵を設けて居陣していることがわかった。

 一益はすぐさま滝川儀大夫・篠原平右衛門を先陣に命じ、かれらの下知のもと田野を包囲した。すると逃れがたきを悟ったか、勝頼らはさも美しき歴々の上臈衆・子供たち四十余人を一人一人引き寄せ、花を折るがごとくに刺し殺していったのだった。

 その後残った者たちは散り散りになって織田勢へ切って出、おのおの討死を遂げていった。中でも勝頼の若衆であった土屋右衛門尉昌恒は弓を取り、寄せては引きつつ散々に矢数を尽くし、よき武者数多を射倒したのちに追腹を切って果て、比類なき働きを残した②。

 勝頼の子武田太郎信勝はこのとき齢十六、さすが名門の子とあって容貌美麗、肌は白雪のごとくで、美しきこと余人に優れ、見る者であっと感じ入りつつ心を奪われぬ者はなかったほどであった。しかし会者定離の悲しみ③、老いたるを残して若きが先立つ世の習いからは、この者とて無縁ではいられなかった。まことに朝顔の夕べを待たぬがごとき、蜻蛉にも比する短き命であった。信勝は家の名を惜しみ、けなげにも敵勢の中を切ってまわり、ひとかどの功名を残して果てていったのだった。

 この地で討死に名を連ねた者は、

武田勝頼・武田信勝・長坂釣閑斎・秋山紀伊守・小原下総守・小原丹後守・跡部尾張守とその息・安部加賀守・土屋昌恒、麟岳  麟岳は高僧ながら比類なき働きをした。

 以上侍分四十一人、上臈ほか女分五十人にのぼった。

 かくして11日巳刻にはすべての者が相重なって討死を遂げた。勝頼父子の首は滝川一益より中将信忠殿の目にかけられたのち、関可平次・桑原助六の両人に運ばれ信長公へ進上された。


①現山梨県大和村内 ②俗に「土屋惣蔵片手千人切」と称される。 ③世の無常をあらわす言葉

 


水口岡山城跡 現地説明会 13:30~ 大手口の石垣出土 2013.3.3 

2013年03月04日 | 平城

新聞で成果が発表された水口岡山城跡発掘調査の現地説明会が、下記のとおり
行われます。皆さまふるってご参加ください。

【水口岡山城第1次調査現地説明会】

日時:平成25年3月3日(日) 13:30~15:00(小雨決行)
   ※説明は時間中、随時行います。
交通:極力、公共交通機関をご利用ください。
   近江鉄道水口駅下車 徒歩20分
   ※自家用車の場合は、水口小学校グランドを
   臨時駐車場としますが、台数に限りがあります。
   なお、水口小学校グランドの入口はグランドの東側になります。
問い合わせ先:甲賀市教育委員会事務局 歴史文化財課
       電話0748-86-8026
       市HPにも情報を掲載しています。

 

 

 甲賀市教育委員会は二十七日、同市水口町の古城山(約二八三メートル)で中腹で進めている水口岡山城跡第一次発掘調査で「虎口(こぐち)」と呼ばれる城の出入り口付近の石垣が出土したと発表した。

水口岡山城跡の第1次発掘調査で出土した石垣の破片=甲賀市内で

 石垣は一段目を除き石の破片が散乱している状態で出土した。調査から、虎口は七、八メートル四方の枡(ます)形で、四~五段の石垣が積まれ、高さは一・五~二メートル程度だったと推測できるという。

 豊臣の治世で築かれた城のほとんどは破壊され、石垣も破壊されたものが多い。水口岡山城は一五八五年に羽柴(後の豊臣)秀吉の重臣、中村一氏(かずうじ)が築城し、関ケ原の戦い(一六〇〇年)後に廃城となった短命の城。城の構造などを伝える史料は少なく、地元でも“幻の城”とも呼ばれていた。

 市教委は「土に埋もれていた石垣の保存状態は良く、石垣が破壊された様子がよく分かる貴重な史料だ。城が実際にどんな構造だったのか全容解明に向け第一歩を踏み出せた」としている。城跡の国史跡への指定を目指し、二〇一三年度は城の天守があった場所付近を発掘調査し、天守の規模や構造の解明に乗り出す。

 現地説明会が三日午後一時半からある。問い合わせは同市教委=電0748(86)8026=へ。

(花井勝規)

 <中井均・滋賀県立大准教授(城郭史)の話>

秀吉が天下統一を進めていた当時、東国制覇の足掛かりとして水口岡山城は重要拠点だった。城の玄関に当たる虎口付近で想像していた以上に石垣が築かれていたことが今回の調査で初めて立証された。廃城となり、石垣がどのように壊されたかを知る史料としては、県内に残る豊臣期の城跡で初めての発見だ。次は天守の調査が待たれる。 

甲賀市教育委員会では水口岡山城第1次発掘調査を行っています。今回下記の日程で発掘調査現地説明会を開催します。

今回調査では大手枡形虎口やこれに隣接する曲輪で石垣が破壊された状況(破城)を確認しました。豊臣期の城跡で虎口周辺の破城の状況を確認したのは滋賀県下では初めての事例になります。

日時
平成25年3月3日(日) 13時30分~15時
※説明は現地にて随時行います。少雨決行。
場所
滋賀県甲賀市水口町水口(地図
注意事項
発掘調査現地は山中です。足下が悪い箇所もありますので、服装・履物等十分準備の上お越しください。
当日は臨時駐車場を水口小学校グラウンド(東側が入り口です)に設けますが、台数に限りがあるのでなるべく公共交通機関をご利用ください。(近江鉄道水口駅下車徒歩約20分またはあいくるバス土山本線新水口下車徒歩約10分)


現地説明会資料はこちら
 

1600年 三成40才

2013年03月04日 | 平城

1600年 三成40才 戦場から離脱した 

母の故郷・北近江の古橋村へ。

村の百姓・与次郎が三成を山中の洞窟にかくまってくれた。

「与次郎、そちはなぜこんなにわしに尽くしてくれるのじゃ」
「お殿様はかつてこの村が冷害にあった時、すぐ駆けつけてくれ米百石を頂戴しました。
あの米がなかったらこの村はみな飢え死にしたでございましょう。あの大恩、決して忘れてはおりません」

「……恩か、そちのような者が我が配下にもっとおれば、(関ヶ原で)負けることはなかった…」

----------しかし、与次郎の娘婿が山狩りの探索者に三成のことを通報。三成は捕縛された。

三成の恩を知らなかった養子がつい三成のことを密告してしまったという。
だからね、古橋村ではこの時から、他の村から養子はとらないと決め、昭和の時代までその伝統は続いていたらしい
それほど三成の恩を深く感じていたということなんだろね

三成が隠れていた岩穴へ「岩窟=オトチ(大蛇)岩窟」雨が激しくマムシが出るとも。

逃亡7日目の9月21日三成は追捕隊に捕縛され 3日後の24日---------捕まった三成は大津城に連行された。
身柄は徳川家康がいる大津城へ移された

  大津城(CG画像)
  大津城籠城戦

  「門前に畳を敷き その上に座らせておけ」

  家康はそう命じた

  この日 福島正則・黒田長政ら東軍に与した豊臣恩顧の大名が挨拶にやってくる予定で

  あり 生き曝しにしようとの魂胆である

  福島正則は馬上からののしり声を放った

  福島正則(1561-1624年)
  福島正則

  「治部! うぬは内府公にたてつき 無益の乱を起こしおってからに 結果がそのざまか!」

  三成も黙ってはいない 眼光鋭く正則を睨み付けて叫んだ

  「なにをぬかすか! 故太閤殿下のご恩をないがしろにする恥知らずに わしの心がわかって

  たまるか! 天運がわしにあれば 生き曝しになっていたのはうぬのほうだ!」

  正則は逆上した さらに罵倒する

  「なぜ腹をきらなんだ! 金勘定ばかりやってきたうぬには 切腹する気概もないのか それ

  でも武士か 恥を知れ 恥を!」

  三成は顔面を蒼白にしながらも切り返す

  「恥知らずはうぬのほうだ! 知慧なき猪武者や葉武者は すぐに腹を切りたがる しかし

  大志を抱く武士は最後まで再挙の機会を待つものぞ 佐衛門 心して聴け! うぬらのなし

  たこと 泉下の太閤殿下に残らず報告してやる しかと 心得ておけ!」

  次いでやって来たのは 小早川秀秋だった

  小早川秀秋(1582-1602年)
  小早川秀秋

  秀秋の姿をみるや 三成はいきなり一喝した

  「おのれ 金吾!」

  「・・・・・」

  「うぬは太閤殿下の連枝であり 殿下からは数知れぬご恩を被った身であろう にもかか

  わらず 約を違えて義を棄て 人を欺き裏切るとは何たる非道 うぬの醜名 末の世まで

  伝えられ 嘲笑されるは必定ぞ!」

  「・・・・・」

  秀秋は一言も返さず 耳を塞ぐようにして走り去った

  秀秋の後には黒田長政がやってきた

  黒田長政(1568-1623年)
  黒田長政

  意外なことに 下馬して三成の前に片膝を着き言葉をかけた

  「ご武運つたなく このようなお姿になられるとは さぞかしご無念であろう」

  「・・・・・」

  三成は 正則のときと同じく激しく面罵するつもりでいたが 予想もしない慰藉の言葉に

  即応はできなかった

  「その格好では寒うござろう これを」

  長政は自分が着ていた羽織を脱いで三成の肩にかけたあと 一礼して去っていった

  「かたじけない・・・」

  三成の口から呟くような声が漏れた

  三成とは犬猿の仲で 三成の肉を喰らってやるとまで広言してはばからなかった長政

  だが三成の“義心”だけは理解していたらしい