城郭探訪

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青山城 近江国(愛東・青山)

2013年03月21日 | 平城
左上に青山城
お城のデータ 
青山城 
 
所在地:東近江市青山町 map:http://yahoo.jp/FFwoJM
築城期:南北朝期
築城者:青山左近右衛門実
区 分:平城
遺 構:土塁・土橋・空堀・枡形虎口・子堀
訪城日:2013.3.19
目標地:日吉神社 
 
お城の概要

 青山城と同様に愛知川の川筋には、高野城、小倉城、曽根城、中戸城、鯰江城、上岸本城などが築かれている。

これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。
50m×60mの方形範囲内に幅約9m、深さ3.6mの空堀を三方に廻らし、上辺で約7~9m、主郭内敷地から測って約2mの高さの土塁を廻らした堅固な構築となっています
単郭式の土塁や、空堀を良好に残る。
南に配した虎口は幅5~6mで、2度の折れを入れた大きな枡形虎口で、虎口両脇の土塁は幅が広く、櫓台と考えられる。 城域は南北30m、東西40mの方形で、周囲を取り巻く土塁は分厚く、馬踏み(土塁の頂部)で4m~6mほどもある。また、土塁の外周には空堀を廻らせている。
  
 青山城は愛知川右岸の河岸段丘上に築かれている。
青山城は鯰江城、井元城と同様に愛知川右岸の台地上に築かれた城郭。

お城の歴史
 青山城は、青山氏によって築かれた。 青山氏は、小倉城主小倉氏の一族で青山実貞・青山勝重・青山信兼らが佐々木六角氏に仕えた。 青山氏は、その後織田信長に属してた。
 城域はさほど広くはないが、縄張りとスケールにおいては蒲生郡一帯の中世城郭の中でも屈指である。

 近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。
ーーー信長公記 表裏の果て  百済寺伽藍御放火の事

 守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。

 このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----

ーーーー小谷落城  浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事

・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
 戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。

 9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----

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「若林運動公園」到着
「若林運動公園」の先の山へ
城跡までは、ちょっと距離(50m~60m位)が有り、地元の方に確認。「草だらけ」と。・・・・場所を確認、城郭へ。
日吉神社・善勝寺の裏手(宮林公園横)の檜林の中に状態良く遺構が残されている。
佐々木六角氏の家臣、青山氏の居城とされる。宮林の中に残された50mの方形単郭式の土塁や、空堀を良好に見ることができる!
 
歴 史
「愛智郡志」によれば、この青山城は小倉一族青山氏の居城で、青山左近右衛門実貞、同左近允勝重は佐々木氏の近習であったとされている。
 青山三衛門は足利義輝に従って戦死しており、また、青山與三郎、同虎丸は信長に仕え本能寺で戦死するなど、中央政権との繋がりも深いものがあった。

  愛知郡は中世を通じて佐々木六角氏の支配下におかれ、六角氏被官となった在地土豪の城館が多く存在しています。永源寺の高野城、愛知川沿いにはほぼ集落ごとに在地土豪の城館が残っています。青山城は史跡の指定も何も受けていませんが、一見の価値がある城跡です。

 近江の城といえば安土城や観音寺城等複数の郭が幾重にも取り囲む壮大な城もありますが、単郭方形城館という正方形の平地の廻りを高い土塁で囲み、さらにその外側を深い空堀で囲むという単純なお城です。

鎌倉時代以降にみられる屋敷の廻りに水堀を廻す方形居館から発展したという説もあります。(近江の中世城郭において特に甲賀郡の山城に顕著に見られる構造の城です)

 城跡の遺構は、愛知川河岸段丘上にあり、東南から西北方向に約200m、南西から北東方向に約150m位の規模で残されています。発掘調査等を行われていませんので詳細な遺構は分かりませんが、居館跡とみられる主郭部は、50m×60mの方形範囲内に幅約9m、深さ3.6mの空堀を三方に廻らし、上辺で約7~9m、主郭内敷地から測って約2mの高さの土塁を廻らした堅固な構築となっています。愛知川側の現在絶壁になっている所に開口部があり、枡形の窪地になっています。開口部の右手の土塁上には、礎石が残っており、櫓等の建物があったと思われます。主郭内敷地にも礎石や井戸跡があります。西北側(公園側)の堀が障子堀になっており、一部土橋と思われる進入路があります。このようにほぼ築城時の姿を留めている城館跡です。

 
おぉぉぉ・・・城址は明確。深い空堀が(実際2m位落ちたら)、本当にはまったら簡単には上がれない高さ。
土塁と空堀・・・すごい。実際は土塁+空掘なので、体感では4m位の高低差。空堀の土を「土塁」に積み上げ
曲輪周囲の空堀南側(愛知川)の櫓台?見張り櫓跡カ? 
 
 
 『近江愛知郡志』によると、「青山氏は青山に住し、氏を称す小椋一族なり。新開略記によれば青山左近衛門実貞、左近亮勝重、内膳信兼等は佐々木六角氏に仕えて近習たり。青山三衛門は足利義輝に従い戦死す。青山與三郎、同虎丸は信長に仕え本能寺に戦死すと見ゆ。」とあり、在地豪族である小椋氏の一統であったことが伺えます。当初、佐々木京極氏に属していたのが、京極氏の衰退とともに六角氏に仕え、六角氏が信長に滅ぼされると信長に仕えというように、戦国の時代を巧く乗り切り、所領を守っていったと思われます。城館跡が現形を留めていることは、そのことを如実に語っているのではないでしょうか。
 青山城跡へは、近江鉄道八日市駅下車、湖国バス愛東循環線(南回り)・チョコットバスの青山で下車、1時間に1本しかありませんので気を付けてください)
青山町集落内にある日吉神社・善勝寺を目当てに行くと。城跡はこの神社の裏山にあります。神社を右手に見ながら上る坂道の登り口の右側に宮林公園があります。その公園に沿って林道が延びています。公園を右手に見ながら林道を50mほどで
 
公園との境から林の中に入りますと深い空堀が見えます。公園沿いの堀が障子堀になっています。
中程の所に土橋があり、土塁の上に行くことができます。
マイカーでは名神八日市インターから国道421号を永源寺方面に行き、御園交差点を左折し、愛知川を渡り、妹南交差点を右折し、県道217号に出てください。妹南交差点から1kmほどの所で青山です。周辺には駐車場はありません。林道に仮駐車してください。城跡等の案内板は一切ありません。現地は下草や雑木の伐採が行われていませんので、夏場の見学は蜂や蛇に気を付けてください。なお、県道217号をさらに愛知川上流に向かって行くと第3回で紹介した高野城や永源寺にも行けます。
「日吉神社と善勝寺」の上が、青山城址。愛知川堤防から遠望。
 
 
 
日吉神社
 
 
 
・善勝寺
 参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』4(「旧蒲生・神崎郡の城)信長公記、神崎郡志、『ウィキペディア(Wikipedia)』

     本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!! 


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