築城期:南北朝期
遺 構:土塁・土橋・空堀・枡形虎口・子堀
青山城と同様に愛知川の川筋には、高野城、小倉城、曽根城、中戸城、鯰江城、上岸本城などが築かれている。
これらは城砦は、南北朝期から戦国期にかけて愛知川流域を支配していた小倉氏、およびその支族達によって築城されたのもである。
青山城は鯰江城、井元城と同様に愛知川右岸の台地上に築かれた城郭。
青山城は、青山氏によって築かれた。 青山氏は、小倉城主小倉氏の一族で青山実貞・青山勝重・青山信兼らが佐々木六角氏に仕えた。 青山氏は、その後織田信長に属してた。
近くには鯰江城があり、この鯰江城を天正元年(1573)に織田方の柴田勝家が攻めた際に、近くに付城を築いたとされているが、この青山城の構造を見ていると、まさにここがその付城として使われた。
守山を出た信長公は百済寺に入り、ここに2、3日滞在した。近在の鯰江城に佐々木右衛門督六角義治が籠っており、これを攻略しようとしたのである。信長公は佐久間信盛・蒲生賢秀・丹羽長秀・柴田勝家らに攻撃を命じ、四方(小倉城・青山城・井元城・上岸本城)より囲んで付城を築かせた。
このとき、近年になって百済寺が鯰江城をひそかに支援し、一揆に同調しているという諜報が信長公の耳にとどいた。それを知った信長公は激怒して4月11日寺に放火し、百済寺の堂塔伽藍は灰燼に帰してしまった。焼け跡は目も当てられない有様であった。----
ーーーー小谷落城 浅井下野・備前父子成敗、羽柴筑前跡職仰付けらるるの事
・・ 小谷城は陥ちた。落城後、浅井父子の首は京に後送されて獄門にかけられ、十歳になる長政嫡男も捕らえ出されて関ヶ原で磔にかけられた。元亀以来というもの浅井氏に苦汁を舐めさせられつづけてきた信長公は、ここに年来の鬱憤を晴らしたのであった。
戦後、江北の浅井氏遺領は羽柴秀吉に一職進退の朱印状が下された。秀吉は年来の武功を認められ、名誉の至りであった。
9月4日、信長公は佐和山に入り、柴田勝家に六角義治の籠る鯰江城の攻略を命じた。柴田はすぐさま兵を寄せて鯰江を囲み、義治を降伏させた。こうして各所の平定に成功した信長公は、9月6日晴れて濃州岐阜へ凱旋を果たした。----
青山三衛門は足利義輝に従って戦死しており、また、青山與三郎、同虎丸は信長に仕え本能寺で戦死するなど、中央政権との繋がりも深いものがあった。
愛知郡は中世を通じて佐々木六角氏の支配下におかれ、六角氏被官となった在地土豪の城館が多く存在しています。永源寺の高野城、愛知川沿いにはほぼ集落ごとに在地土豪の城館が残っています。青山城は史跡の指定も何も受けていませんが、一見の価値がある城跡です。
近江の城といえば安土城や観音寺城等複数の郭が幾重にも取り囲む壮大な城もありますが、単郭方形城館という正方形の平地の廻りを高い土塁で囲み、さらにその外側を深い空堀で囲むという単純なお城です。
鎌倉時代以降にみられる屋敷の廻りに水堀を廻す方形居館から発展したという説もあります。(近江の中世城郭において特に甲賀郡の山城に顕著に見られる構造の城です)
城跡の遺構は、愛知川河岸段丘上にあり、東南から西北方向に約200m、南西から北東方向に約150m位の規模で残されています。発掘調査等を行われていませんので詳細な遺構は分かりませんが、居館跡とみられる主郭部は、50m×60mの方形範囲内に幅約9m、深さ3.6mの空堀を三方に廻らし、上辺で約7~9m、主郭内敷地から測って約2mの高さの土塁を廻らした堅固な構築となっています。愛知川側の現在絶壁になっている所に開口部があり、枡形の窪地になっています。開口部の右手の土塁上には、礎石が残っており、櫓等の建物があったと思われます。主郭内敷地にも礎石や井戸跡があります。西北側(公園側)の堀が障子堀になっており、一部土橋と思われる進入路があります。このようにほぼ築城時の姿を留めている城館跡です。
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!