城郭探訪

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望月城・望月支城 近江国(甲賀・甲南)

2013年03月13日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町杉谷 map:https://yahoo.jp/xXT2kt

区分:丘陵城

現 状:山林

遺 構:曲輪・土塁・虎口・空堀・堀切

標 高:219 m  比高差: 30 m

築城期:室町期

築城者:望月氏

城 主:望月吉棟、望月出雲守

目標地:正福寺

駐車場:城址の近く空地

訪城日:2013.3.12

注意事項:個人所有地です。見学は拒否されています
正福寺の北西約200m。県道132号線と県道337号線(広域農道)が交わる「杉谷南信号」から県道337号線(広域農道)を南へ100m進むと西へ入る路地がある。路地へ入り、200mほど進んだ左手(南)の森(小山)が城跡。 森の北側に駐車できるスペースがある。登城口は望月城址の東側へ廻る。

 

お城の歴史

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
望月城もそのような甲賀郡中惣の城の一つで、望月城は、室町時代に甲賀の土豪望月氏によって築かれたと云われる。
永禄11年(1568)、上洛を目指して近江に進軍してきた織田信長は守護六角氏を攻め、六角承禎(義賢)・義治は観音寺城・箕作山城を捨てて甲賀に脱出した。この時頼りにされたのが、甲賀地域で勢力を持っていたこの望月氏であった。


尚、谷を挟んですぐ南には望月支城があり、 名前こそ支城となっているが、本城に対する支城ではなく、同名中惣の性格を考えると、同じ一族の独立した城であり、 外敵と戦う際には共に手を取り合って戦ったのであろう。
『近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)より』

望月城、潜入口(民家の敷地・空き地を)、何の案内板も無い

主郭の南土塁の上に、唯一「望月城」の表示

お城の概要

望月城は、甲賀の城の中でも典型的な方形城館である。
主郭の広さは30m×30mほどで、特別広くはないが、周囲を囲む高くそそり立つ土塁は圧巻である。その高さは、曲輪内からでも7mはあり、 角部は広くなっている。櫓でも建てられていたのであろうか。
虎口は、東に向いて開いており、虎口北東前方には広い副曲輪があり、稲荷社の祠が祀られている。
また、主郭北側にも低い土塁で囲まれた半月状の曲輪がある。
主郭周囲は空堀がめぐっていたのであろうか、浅いながらも窪みになっている。
また、西側には、西尾根からの攻撃を断ち切るための堀切が2本設けられ2重堀切になっている。この2本の堀切は深くて見応え充分だ。
これだけ見事な遺構が残っているのだから、説明板か標柱くらい設置して欲しいものだ。

望月支城・・・新名神のトンネルから、出てすぐに獣道(県道の入り口のみ)ブッシュを入る

トンネル側から、「電柱を左へブッシュ」、5mで平削地に

電柱を左へブッシュ、5mで平削地に

杉谷砦ヵ

城下に、梅の古木5m位白馬酔木の古木4m位

(村雨城・寺前城、望月城・支城、新宮城・支城を探訪)

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』、甲南町新治・杉谷の城・『甲賀市史 甲賀の城』
今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。 

新宮支城 近江国(甲賀・甲南)

2013年03月13日 | 丘陵城

お城のデータ

所在地:甲賀市甲南町新治  map:https://yahoo.jp/0gb5v9
区 分:丘陵城

現 状:山林
遺 構:曲輪・土塁・虎口・堀切
築城期:室町期

築城者:服部氏 

標 高:201m 比高差:20m
目標地:善願寺・新宮神社

駐車場:路上駐車
訪問日:2013.3.13

室町期、新宮城・支城で服部氏の城と伝えられます。 

 (新宮支城・・・新宮城)

お城の概要

住宅団地の東側と灌漑用の池(大門池)と県道49号線に挟まれた丘陵の雑木林の中に新宮城と新宮支城があります。                                  

2013年3月12日、東側麓沿いの道の城址碑の所から攻め込みました。西側は崖のようになっており、自然の地形を切岸・城内を平削し土塁に積み上げ9m位。北側と南側には堀切状の堀があり、尾根を断ち切る堀切というより横堀が北側と南側に付属しているという感じで、西側は周囲より低い沢のような地形で、東側は麓に向かって急な斜面になってますが、比高20m程度ですから堀切・・・自然の磯尾川を堀にして、作事・縄張りした 主郭は東側から斜面を掘り込んで作られたようで、西側は掘り残しの土塁で、主郭内より7m程度あるでしょうか。そのほかは盛り上げた土塁で東側に虎口があります。虎口より北東に向かって細長い削平地が存在します。また、一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭もあります。

一段下がったところに北側に仕切り土塁を持つ広い郭も。 

一段下がったところに北側、横堀の先に、井戸水を湛えて(防御の為か、飲料水ヵ)

東側から枡形虎口を攻込んでいく

主郭内

内部の平削し、土塁に積み上げ

北側土塁は、1mほど巾で方形(ロ字形)

土塁の外堀は、自然の地形と切岸を、

お城の歴史

方形に区画された曲輪(くるわ)を土塁や堀で囲み防御とする例は決してめずらしくはありませんが、同一の構造の城が地域全域に、しかも同時期に多数築かれたのは、隣接する三重県の伊賀地域を除いて他では見ることはできません。小規模な城が地域内に群在する姿こそが、甲賀の城の最大の特徴であり、それは戦国時代の甲賀の社会のありかたをひもとく「鍵」ともなるのです。

戦国時代の甲賀郡は、飛び抜けた領主がいなかったかわりに、谷ごとに土豪、地侍たち(甲賀衆)によって支配されていました。しかもその支配は本家である惣領家だけでなく、同じ性をもつ家(同族)どうしが結束してあって行うところに特徴があり、そういう一族の結合を「同名中」と呼び、掟を定め、戦の時の動員や、もめごとの解決などを寄会で合議し決定したと考えられています。

戦国時代後半にもなると、まず近接する同名中どうしが連合し、さらに広域(信楽を除く甲賀上郡域)の地侍が連合して地域を治めようとする「郡中惣」へと発展していきます。しかし、いずれの場合も地侍の連合に変わりはなく、最後まで領主権力を一カ所に集中させる方向に行くことはありませんでした。このような小領主間で横方向に連なる体制は、同じ大きさで、同じ形の城が地域内に群在する甲賀の城の姿と見事に符合しているといえます。

甲賀の城は1980年代後半から調査が進み、平成20(2008)年には、「甲賀郡中惣遺跡群」として5つの城が国の史跡に指定され、さらに翌年には甲賀衆の結束と寄会の場であった矢川神社と油日神社の両境内地が追加指定されています。指定された城跡はいずれも典型的な甲賀の城であり、集落に寄り添うように築かれています。このうち新宮城跡は、複数の曲輪を連ね主郭への進入路を屈曲させて、枡形状虎口を造っています。またそれに隣接して築かれた新宮城支跡は、高さ10メートルに及ぶ高く分厚い土塁で四周を囲み、両サイドを深い堀切で防御しており、新時代の技術も取り入れた甲賀の城のひとつの到達点を示しています。「単郭方形四方土塁」を基本に、時代によって様々に工夫がなされた甲賀の城。現地を訪れてのその歴史を体感できるのも醍醐味といえるでしょう。

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・甲南町新治の7城、『甲賀市史 甲賀の城』

 村雨城・寺前城、望月城・支城、新宮城・支城を探訪

今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。

 


村雨城と寺前城 近江国(甲賀・甲南)

2013年03月13日 | 丘陵城

滋賀県甲賀市甲南町新治
【行き方】
新名神HW甲南インター下・県道337号線の新治口信号を東へ入ると、すぐ右手に説明板と標柱がある。そこが村雨城への登城口。駐車場はないので、 新治口信号の虎縞の歩道端に停めた。

新名神江南ic

甲賀市パンプ

遺構等:曲輪、虎口、土塁、空堀、標柱、説明板(登城口と寺前城の東側・大谷池の手前の2箇所にある)

中世後期、甲賀の小領主たちは、同じ名前を名乗る一族同士で血縁的な結合を強め、同名中惣を組織していた。
永禄から元亀の頃になると、その連合が甲賀全域に拡大し、甲賀郡中惣が結成された。
同名中惣内部では、総領家を中心としながらも、その力は絶対的なものでなく、分家に当る庶子家の自立度は高く、それぞれに城を構えていた。そして、他所の一揆衆との間に争乱が起これば、一味同心に合力して戦うことなど、有事の際の具体的な行動が、 一族内の取り決めとして定められていた。
同規模の武士団が連合し合った郡中惣という枠組みの中では、甲賀郡を一円的に掌握する突出した領主は現われず、そのため同じ規模、 同じ形の城が、多く造られたものと考えられる。
村雨城(むらさめじょう)もそのような甲賀郡中惣の城の一つであるが、甲賀の城の中でも進化した築城技術が施されており、その背景には、 永禄11年(1568)の織田信長の上洛に伴い、守護六角氏が甲賀杉谷へ逃避したことにより、この地域に軍事的な緊張が生じたことが要因であると思われる。
尚、城主などを知る記録類は残されておらず、詳細は不明である。
『「近江の山城・中井均著(サンライズ出版刊)」、「現地説明板」より』

 村雨城(むらさめじょう)

周囲を土塁で囲まれた主郭

甲賀郡中惣の城の一つ、村雨城・寺前城との二城連結城

寺前城(じぜんじょう)

 

村雨城(むらさめじょう)は、寺前城(じぜんじょう)と連結する甲賀特有の二城連結城で、丘陵の先端部分にあるのが寺前城で、その50mほど南にあるのが村雨城である。
甲賀市甲南町新治付近には、現在確認されている中世の城館が7箇所あるそうだ。いずれも方形に土塁で囲む城館で、 保存状態も非常に良いそうだが、この村雨城もほぼ完存である。
主郭は25m×20mの長方形に近い形で、周囲を土塁がめぐっている。南側の土塁は、部厚くて高く、その外側に空堀をめぐらせている。
西側に設けられた虎口への道は少し屈曲しており、虎口付近は急斜面になっている。
また、虎口の西側前方には土塁で囲まれた2段の曲輪が設けられ、曲輪の先端より下方へ緩い斜面になっている。
東側は急崖になっており、その向こう側は大谷池であるが、大谷池は近世に用水池として築かれたもので、往時は谷になっていたようだ。
北側の寺前城との間には、堀切が3条ほど設けられている。

寺前城下・東側の大谷池側に説明板

大谷池

参考資料:『滋賀県中世城郭分布調査』・『甲賀市史 甲賀の城』  

(村雨城・寺前城、望月城・支城、新宮城・支城を探訪)

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