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城郭探訪

yamaziro

みのぶら「古代戦国歴史散歩会」

2012年05月28日 | 平山城

みのぶら「古代戦国歴史散歩会」

チラシはこちら

日 時 2012年27日(日)9:0015:00

内 容 古代 「近江はにわ館、塚之越古墳、山津照神社古墳、式内日撫神社」   見学
     戦国 「箕浦八日市場跡、今井氏箕浦城跡、堀氏能登瀬城跡、青木館跡」  見学
     箕浦古戦場見学「浅井亮政VS六角」「秀吉、堀、樋口VS浅井長政、北郡一揆衆」
     歴史の宝庫、箕浦庄「約6Km」を、息長太郎が楽しく、詳しく、ぶらぶと案内する

場 所 滋賀県米原市顔戸1513 米原市近江公民館 無料駐車場完備 

定 員  30名

参加費  500円  講師 米原市文化協会 H氏

”みのぶら(箕浦)”古代戦国歴史散歩

顔戸山砦跡縄張り図(左↓南側の土塁)は箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

小谷道(小谷城市場と箕浦城市場を結ぶ中世重要街道=現県道 伊部・近江線)

小谷道の常夜塔の前に、創業290年の億谷商店・・・「煙草小賣所」のオレンジの看板

顔戸山砦跡(南側の土塁)は箕浦河原合戦の浅井京亮政の本陣跡

箕浦城址の、北の堀(今は道路に)

箕浦誓願寺跡、土塁と宝塔(箕浦誓願寺は江北一揆衆5000と、浅井長政と連携。織田信長・羽柴秀吉らに頑強に抵抗した)

箕浦の戦いって 

箕浦字殿にわずかな土盛りを残すばかりの箕浦城は、往時、北は通船川あたりまで、南は天野川から水路をひき防御の堀を設けいていたという。しかし、いまその面影はまったく失われている。今井氏が本拠としていた箕浦には、箕浦市場があり、秀吉が長浜に市を開くまでは物流・交通の要衝として栄えていた。それを裏付けるかのように、市場近くに八幡神社には、上洛途上の源頼朝が休んだという腰掛石が遺されている。

 1570年(元亀元年)6月の姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破った信長は浅井長政の居城小谷城から程近い横山城に木下秀吉(豊臣秀吉)を置き小谷城を牽制します。

1571年(元亀2年)5月6日に浅井長政は出陣し横山城近くに布陣します。そして家臣の浅井井矩に織田方の堀秀村の居城鎌刃城を襲わせました。

その数一向一揆勢を合わせて5000人でした。秀吉は横山城の守りを竹中半兵衛に任せ、わずか100人を率いて出陣します。

道なき道を進み鎌刃城に合流した秀吉は箕浦に着陣していた浅井勢に攻めかかります。その数はわずか5・600人でした。十倍の敵ではありましたが、多数は一揆勢で統制は執れておらず、浅井勢は退却します。

一方横山城の竹中半兵衛も浅井勢の攻撃を守りきり落城を逃れます。また、信長公記には箕浦の堀・樋口の城のあたりまで攻め寄せという記録があり、堀・樋口氏がどちらの城で戦いに備えたかは不明な点もあります。

八幡神社の境内に「源頼朝の腰掛岩」が!

『吾妻鑑』に、1190年12月小15日源頼朝、箕浦宿とある

箕浦八日市市場跡

宝福寺

井戸村屋敷跡(奥屋敷)南側の堀跡

箕浦城址

堀 石見守の砦か?現場で縄張りを長谷川氏

能登瀬城址

能登瀬城は、箕浦城から東方へ約2Km、能登瀬集落一帯にあった。飯村城・若宮城・岩脇館・箕浦城等とともにこの付近の主要な城館に共通し、天野川・通舟川に面した好立地にある。東、北、西は概ね山に囲まれ、南は天野川、北東・北西・南西にはそれぞれ砦を持つという城館にふさわしい構えとなっている。

現在民家が密集しているが、四方を水郷で囲まれた区域があり、その中程に堀氏の末裔であろう堀家が建っている。ただ昔ながらの情緒はなく、完全に今風なお宅で表札等もないので探すのに苦労した。

特にこれと云った遺構はないので、水郷や地籍からの判断になるが、西側水郷は明らかに堀跡であったろう雰囲気を残している。また南側の大通りに面したいくつかの路地入口はどれも虎口を思わせる特異な形をしていた。その中の一角に旧近江町特有の「淡海文化」の案内石板があった。

能登瀬城は、京極氏被官堀氏の居城であったと云われる。江北と江南の境目であったこの付近にあった堀氏は、京極氏・六角氏・浅井氏・織田氏とその時代の最大勢力下にあっては戦国の世を生きのびたと思われる。

六角氏の浅井攻めに際し、大永5年・天文7年の2回にわたり六角定頼が堀氏に対し陣立注文を出しているという文献が残り、"堀能登守"であったことからこの地が能登瀬と名付けられたのではないかと想像する。

堀氏と云えば、国史跡である鎌刃城主(米原市番場)であったこと、浅井氏家臣・堀次郎秀村が姉川合戦の折に浅井軍の先峰として長比城を守備したが、織田信長方に呼応して寝返ったことで有名である。織田方についた堀氏は、蟄居した今井氏に代わり箕浦城主となり、箕浦合戦で浅井氏に報復を受けている。

堀氏の名は、箕浦・能登瀬の他に門根城・本郷城などにも居城にしていた文献が残っているが、分派した一族なのかは不明である。

青木城址

善性寺(青木館)概要: 案内板によると「 式内社山津照神社の別当職だった青木氏の城。

「善性寺」の小尾根が本郭で、その南には通称「御殿」と呼ばれる一画がある。青木氏の実態は定かではないが、関東武者青木氏の流れをひくもので、佐々木南北諸氏帳には「青木庄能登瀬住 佐々木浅井随氏青木筑後守」の名をみることができる。」とあります。

 

日光寺砦跡

日光寺砦は、南北に長くそびえる横山山系のほぼ最南端に位置する。資料によると遺構は、日光寺集落北側に張り出した舌状丘陵の山裾付近で、山際に建つ奥村邸のすぐ背後とあるが、現在は厳重な獣除けの柵塀が建設されていてよく判らない状態だ。河川沿いの道路から比高差3mの所と更に2m上とに2ヵ所の削平地があるとされるが、まず3mの所は柵塀建設で消失してしまったと思われる。更に2m上の帯曲輪とその東端の竪堀は、木が生い茂っているが何とか確認できた。
しかし、これよりも集落の造りにこそ城砦の雰囲気を感じた。集落というのは常道では山裾のライン際に沿って形成されているのが大半だが、この日光寺は集落の北側と北東側の山裾扇状地が田畑として使用されるのみで大きな空間となっている。そしてまるでこれ以上奥へは行かせないとばかりに入口を固めるように集落は形成されている。更に中心を東西に流れる川の堤防部分は、横矢掛りを有する大土塁で、出入りを遮断する様に横たわっている。またこの奥にある日光寺山砦と天台宗日光寺院も含め、集落すべてが城砦構えに思えてならない。
『江北記』に記された京極家の内紛、高清と材宗の講和の舞台として登場する日光寺と、これらの遺構には何らかの関わりがあるのかも知れない。

 

参考資料:お城のとびら/滋賀県の城/日光寺砦


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