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小野 妹子   近江国滋賀郡小野村の小野氏の出身

2012年08月05日 | 武将

小野 妹子(おの の いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の政治家。姓は臣。子に毛人・広人]がいた。冠位は大徳冠。

『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。

出自

近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。              一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定される。本当は、分かっていない。

 

経歴

『日本書紀』(巻第22)によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐(当時の中国は隋の時代)に渡る。                                                                                    推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失(紛失に関しては古来より議論がある。)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。                                                                                         翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。

『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。

小野妹子は「華道の祖」とされることがある

小野妹子墓

小野妹子墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。

小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説がある。                                        唐臼山古墳南方の古墳は妹子の父の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会による事前調査が行われたものの破壊され現存しない。

 

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