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古城山城(岩倉城・弥勒城・桜本城)へ
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古城山へ
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お城のデータ
築城期:室町期
築城者:馬淵奏信
![画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外](https://scontent.foko1-1.fna.fbcdn.net/v/t1.0-9/54520602_1309612059201366_3662408107532746752_n.jpg?_nc_cat=100&_nc_ht=scontent.foko1-1.fna&oh=6f5b4c4bf1c148444d2bce2d1a5fec6b&oe=5D12CADF)
遺 構:郭・堀切・土塁・石垣
標 高:245m 比高差:150m
目標地:国道8号線脇の【ヒラタ機工】の東側に「小堤山城の案内板」ある、小堤山城から尾根を東へ案内板ある
駐車場:林道ゲートの前に駐車場ある
訪城日:2013.4.15
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/99/c05c807ce46122a65003d0e05c4e5e7b.jpg)
小字岩倉にあり、西方は小堤、辻町に接し、東は立石山に接している。昔、馬淵氏がここに城郭を築いたため古城の名があるが、今は石垣の一部が残るのみである。頂上近くに池があり、明治時代の記録では、「桜本の池」と称し、干ばつの時も水が枯れたことがないと言い伝えられている。山頂への参道は、古くから表坂と裏坂と呼ばれる二つのルートがある。表坂は光善寺川を越え、ほぼまっすぐに尾根を伝い、屏風岩を通って山頂に至る。
一方、裏坂は光善寺川の源流となる谷の一つに沿っており、途中で大きく左手に向きを変え、山頂直下の桜本池に達する。
桜本坊は応永年間(約600年前)に岩蔵寺(がんぞうじ)が再興されたときに造られた六坊の一つで、古城山山頂に位置する。桜本坊は他の坊が荒廃し消滅する中で最後まで続き、明治新政府の神佛分離令によって神道化し、桜本社と称することになった。明治二十七年には瓦葺の小さな社殿が建立され、例祭行事(古城祭)の他、大干ばつ時には雨乞い祭りも行われた。
しかし、第二次大戦の頃、その例祭行事が断絶してしまい、その後は古城山山頂周辺に石積、社殿の瓦、それに石灯籠を残すのみになった。 (大篠原郷土史会)
城郭分布調査3、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城が築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」・・・遺跡ウォーカー
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2a/04/4aff2f3c10ef95c78047faeab1110227.jpg)
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お城の概要
主郭は山頂ではなく、山頂より東側の一段下がったところが主郭(40m四方程度の平坦地)です。主郭の西側に小尾根があり、これが大土塁となっています。斜面の上には土塁がL字に残る郭があります。主郭の北から東側には土塁が巡ります。さらに南側に細長く平坦地が延び、東側は土塁が続きます。この細長い郭の西側は池で南側と東側に虎口があり、南側虎口には石垣も残ります。南側の虎口を出て少し進むと土塁で桝形状になっているような箇所があり、ここは南側の防衛ラインでしょうか?。また、主郭東側虎口を出てすぐ左の斜面を進むとこの先端の虎口にも石垣の痕跡がありました。
また、落城時に、この池に金の唐びつを投げ込んだとか、元旦の朝に馬の蹄の音が聞こえるなどの言い伝えがあるとの事です。最近、地元の有志で説明板が設置されていました。これによると、戦前までは小さな神社があり、江戸期以前には寺があったようで、城跡はこれの改変があるかもしれません。
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古城山には、正安2年(1300)築城の岩倉城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城と考えられる。六角氏の築城・家臣の馬淵氏が守備したと伝えられ、六角氏の端城であった。
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馬淵氏とは、
佐々木定綱(1142--1205・経方の曾孫)の5男・広定が野洲郡馬淵に住んで馬淵と名乗った佐々木氏の傍流で、後に佐々木氏の嫡流・六角氏(佐々木氏は定義の孫の代に六角氏・京極氏などに別れている)に仕え馬淵氏・岩倉城(野洲市大篠原小字岩倉)の城主だったという。
希望が丘の北稜にあたる小堤城山から鏡山間には3~5つの山城があっ
たとされる。『小堤城山城』は永原重秀、古城山には『岩倉城(桜本城・弥勒寺城)』に馬渕泰信、鏡山星ケ峯に『星ケ崎城主』鏡久綱が城を構えた。立石岩倉城は古城山と同一とされている。弥勒寺城も馬渕高昌が城主と明治30年ころの村誌に記載されている。
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たとされる。『小堤城山城』は永原重秀、古城山には『岩倉城(桜本城・弥勒寺城)』に馬渕泰信、鏡山星ケ峯に『星ケ崎城主』鏡久綱が城を構えた。立石岩倉城は古城山と同一とされている。弥勒寺城も馬渕高昌が城主と明治30年ころの村誌に記載されている。
![画像に含まれている可能性があるもの:植物、屋外](https://scontent.foko1-1.fna.fbcdn.net/v/t1.0-9/54520602_1309612059201366_3662408107532746752_n.jpg?_nc_cat=100&_nc_ht=scontent.foko1-1.fna&oh=6f5b4c4bf1c148444d2bce2d1a5fec6b&oe=5D12CADF)
城郭分布調査3には、「当城は、正安2年(1300)築城の岩蔵城、もしくは応永8年(1401)築城の弥勒寺城のいづれかに該当するものと考えられる。両城とも六角氏が築き家臣の馬淵氏が守備したと伝えられるが、立地の点では東山道より6?以上も奥まった山中にあり、六角氏の端城の1つであろう。
その後、西方500mの尾根伝いに小堤山城が築かれてからは、同城の出城となったようで、北東と北西に開口する虎口付近には戦国末期に後補された石積が残る。」
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査・現地説明板・遺跡ウォーカー・大篠原神社の由緒
本日の訪問ありがとうございす!!