城郭探訪

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宮城氏館   近江国(栗東)

2016年05月21日 | 居館

宮城氏館

 
お城のデータ
所在地:栗東市(旧:栗太郡栗東町)大橋  map:http://yahoo.jp/a0_9fY 
現 状:神社
区 分:居館 
築城期:室町期
築城者:宮城氏 
遺 構:三輪神社境内の土塁・堀痕
目標地:三輪神社
駐車場:三輪神社の駐車場
訪城日:2016.5.19
お城の概要
 大橋集落は、地区内を国道1、8号線が通り、名神高速道路栗東第2インターチェンジが置かれるなど、主要道路の結束地となっています。このことは大橋のみならず、栗東市全域に急激な都市化や、景観の変貌をもたらしてきました。
一方で、地区内には様々な文化財や民俗行事が残されいる。
お城の歴史
宮城氏は、佐々木六角氏を支えた一族で、「宮城豊盛は主家佐々木氏衰退後、豊臣秀吉に仕え、1592年に豊後国の蔵入地代官」となった。が、それまで居館にしていたのが、大橋集落の三輪神社が城域と考えられる。
『滋賀県中世城郭分布調査』には、「宮城氏館 豊臣氏の代官宮城丹波豊盛の居館であることが『近江名跡案内記』にみえる」と記す。

  江戸時代の大橋は、栗太郡の多くの村々がそうであったように、集落を中心として周辺に田畑が広がる農村でした。村人たちは農耕を生業とし、江戸時代を通して3人の領主に年貢を納めていました。
 地区内には、三輪神社と慶崇寺があり、古くから人々の信仰を集めていました。
三輪神社には、鰌や鯰をすしにつける「鰌ずし」が伝わっており、非常に珍しい祭礼行事として知られています。
また、慶崇寺には、栗東で大いに隆盛した真宗文化を伝える様々な文化財が残されています
               
慶崇寺

       

宮城 豊盛

天文23年(1554)~元和6年(1620) は、豊臣氏の家臣。本姓は大江氏。宮木とも。通称、長次郎または長次 下丹波守。使用家紋は蝶紋の「揚羽蝶」が『寛政重修諸家譜』に載る。

生涯

 六角氏の家臣・宮城賢甫(堅甫)の娘婿にあたる。山崎方家の子・頼久を養子とした。妹に鯰江貞勝室。

 豊臣秀吉に仕え、三木合戦で功を挙げ、小田原征伐や文禄・慶長の役に参陣する。京の金戒光明寺再建の奉行を務める。文禄元年(1592)に豊後国日田郡に蔵入地の代官として赴任し、日隈城を築城した。文禄3年(1594)の時点で豊後日田・玖珠2万石(4万石とも)の蔵入地代官を務めた。

 慶長3年(598)、慶長の役の最中に秀吉が死去すると、徳川家康より命を受け、徳永久昌・山本重成とともに渡海し、朝鮮へ戦役中の将兵の撤兵を指導した。その功により翌慶長4年(1599)、従五位下丹波守に任官する。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、西軍として大阪城平野橋を警護したため、戦後所領を没収されるが、頼久とともに徳川氏に仕える。頼久は慶長10年(1605)実兄の山崎家盛より但馬国二方郡6000余石を分知され、芦屋に陣屋を構えたが、慶長14年(1609)豊盛より先立って死去。その子の十二郎(のちの豊嗣)は5歳と幼いため、豊盛が後見として大坂の陣に出陣するなど実質的な当主として活躍した。

 その後、駿府の徳川家康に仕え、家康死後は徳川秀忠の御伽衆となった。元和元年(1614)、慈照寺(銀閣寺)再建の奉行や、元和5年(1619)京都知恩院の普請奉行を務めている。墓所は近江国今勝谷の阿弥陀寺。


参考資料:滋賀県中世城郭分布調査1、遺跡ウォーカー、Wikipedia、日本城郭大系』11
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