芹川が付替えられた歴史
芹川の付替えと後三条村
《後三條今昔ものがたり》薗田昭三氏平成5年11月発行より引用
築城や城郭の工事とともに芹川を付替え、家臣の居住区割りや町民居住区の町割が行われました。石田三成以前の芹川の本流は、猿尾付近から上川原町・久佐の辻を通り、川原町裏で中央公園の方へ曲がり護国神社前の堀に流れ込んでいました。久佐の辻には芹川大橋が架かっていたと言われています。此の流れを猿尾から西の方へ直流させて琵琶湖に注ぐようにしました。また、長久寺山の北側は大部分切りか欠かれてその土で堤を作りました。最初の計画ではもう少し南の方へ寄るはずでしたが長久寺山の岩盤が堅いため恵比寿橋の東で少し曲がった現在の川筋になりました。計画からはずれた土地は余所と呼ばれ、現在の後三条の小字名として残っています。
‐中略‐
この芹川堤は水害を町方に及ぼさないように北側を高く堅固に築き、南側の後三条村の方は低く築きました。このために大水の時は南側の堤から溢れ、家屋や農作物に大きな被害を受けることが幾度もありました。
‐中略‐
三島由紀夫は小説”絹と明察”の一節に芹川の情景を次のように書いています。
「彦根の町の南を流れる芹川は、築城のため川筋をまっすぐに、あたかも運河のように規矩正しく直され、多数の百姓・町人に赤土を運ばせ踏み固めさせてできた美しい堤には欅並木がつづいている。殊に青葉時の西日に欅の枝々がこまかく透かす夕影の美しさは比べるものがない。」
このように書かれている美しい芹川堤も築城当時に後三条村が被った大きな犠牲によって完成したことや、先住者の苦哀を私達住民は今一度思い出してみようではありませんか。
芹川の付替えによって後三条村の旧領域は芹川の北側が町方となり、河原町・橋本町・袋町などに町割をされ、芹橋一丁目から八丁目迄を足軽組屋敷として元和3年(1617年)善利組八組が設置されました。その後、この組屋敷は池州町通りまで拡大しました。
また、芹川の南側の一部も町方として橋向町や後三条町(新町)に町割りされました。新町は明暦3年(1657年)に町並みが出来たそうです。これらの新しく出来た町並みは、川原町手組として町奉行の支配するところとなり、後三条村は村方として筋奉行の支配下に属することとなりました。
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