浦賀マンションの観望会支援

2006-10-21 01:17:57 | 観望会
本日は、花田さんと一緒に浦賀にあるマンションの星空観察会の支援に出かけてきました。
春、夏に続く、今回で3度目となる観望会の支援で、テーマは季節がら秋の星空がメインでした。
いつものように花田さんのパソコンが大活躍。始めに、私の方で秋の星座をメインとした星空の解説後、今晩観望する天体を紹介しました。その後、これから見られる天文現象をいくつか紹介し、続いて花田さんが用意してくれた「双眼鏡-宇宙への窓」という内容の資料を解説しました。この資料は、「星を楽しむのには双眼鏡でも十分楽しめますよ」という内容のもので、宇宙への窓を開く第一歩は、双眼鏡からスタートすることがお薦めとつづられてました。この日の為に用意された天文現象のシミュレーションは好評で、口頭で説明するより、スクリーンで解説ができて、我々も大変楽させてもらいました。研修室で40分ほどしてから、実際に屋上のドームに移動しましたが、1度には捌けないので、子供グループと大人グループの2班に分かれ、時間をずらして観望を楽しみましたが、この日は天候があまり良くなく、薄い雲を通して二重星を3ヶ見せるのがやっとでした。ドームには3~4人が限度なので、ドームに入れない方には、花田さんに双眼鏡による星空指導をやっていただきました。
やはり観望会には月や惑星が必要だと、改めて認識しました。
花田さん、体調が良くないにもかかわらずサポートお疲れ様でした。




脇田秋ニを悼む

2006-10-20 01:07:44 | 日常
脇田秋二を悼む
 去る27日の午後、職場に1本の電話が入る。相手は大学研究室の先輩の須貝さんからだった。「脇田が亡くなったよ」と。「まさかあ、またまた須貝さんご冗談を」。「職場に来たFAXを転送するから」という内容だった。14時25分、須貝さんからFAXが届いた。㈱三好商会の社外訃報というタイトルの書式であった。その訃報の用紙には、間違いなく脇田本人の名前が記されており、死因や葬儀が開かれる斎場やその日程が明確に記されていた。
これを見せられては確信するしかないのだが、彼の突然の訃報を聞いて信じろと言う方がおかしい。最近、彼には1年近く会っていないが、元気そのものだったし、病気からは孤立無縁の持ち主だったように見えたが、こんなに突然死がやってくるなんて生命って良くわからん。とにかく半信半疑の状態で帰宅し、すぐに真意を確かめるために直接家に電話してみた。
奥様が電話に出られ、ストレートに聞いてみたら25日に突然亡くなったという。9/23日、出張先の北海道から帰宅後に体の変調を訴えたと言うことらしい。彼の死が間違いでないことが実証されてもピンとこない。ウソだと思いたい。彼が死ぬわけがない絶対に!と心に言い聞かせても、涙は止め処もなく流れ落ちるのだ。どうしたら良いのか…・。
その後友人に電話をかけまくり訃報を知らせた。中には連絡がとれない友人もいたが、皆一様に信じられない様子だった。

彼とは同じ大学のクラスメート。大学4年次の卒論の時、恩師岡田先生のもとで彼を含む4人のメンバーで研究に没頭したことは学生時代の懐かしい思い出だ。この頃が一番彼と多く過ごした時期だった。悪臭となるニオイの濃度や成分の分析をテーマにした論文を纏めた。時代は移り、残念な事ながら今はその学部も研究室もキャンパスには無い。卒業後の彼は三好商会の水理事業部に就職。卒業と同時に仲の良かった仲間ともバラバラになり、疎遠になる仲間が多い中、彼とはテニスを通してよく付き合っていた。テニスコートは彼の職場で利用しているテニスコートに私が便乗することが多かった。石川町にあったテニスコートが廃止になってからは次第に交流が激減する。そして彼が二三恵さんと結婚。この頃から年に1度会うか会わないかの付き合いに変わる。最後に会ったのは1年前に米本さんとサワーで飲んだことが最後になった。亡くなるまでの2年間は、メールで近況を報告するような寂しい関係になってしまった。彼はニヒルなルックスとはかけ離れたユニークなキャラで、私に多くの刺激を与えてくれた笑いの伝道師でもあった。彼は月が変わる毎に多くの造語を生み出していった。その造語はすっかり忘れてしまったが、「エンガチョ」だけは未だに耳に残っている。一緒に飲みにいっても割り勘にすることは少なく、気前のいいやつだった。とにかくお酒が好きだった。一緒に旅行に出かけ昼間からでも立ち寄った先で「とりあえずビール」は彼の口癖だった。時間にはきちんとしていたし、頼まれると決して逃げることなく真っ向から立ち向かっていく責任感の強い男だった。彼は数学が得意だったようで頭の回転も速かった。私なんぞは数学が苦手だったので、学生時代彼にはよく教えてもらった。そのおかげで単位がとれたような気がする。
テニスは卒業後にはじめたスポーツだが、メキメキと腕を上げ、私は次第に相手をしてもらう側にまわってしまっていて申し訳なかった。学生時代はボーリングが唯一のスポーツで、追浜ボールで投げ合った。彼は4年次に200以上のスコアを何度も出していた。彼から最も影響を受けたのは彼の聞いていた音楽かも知れない。それまではポップス一辺倒だった私が、フュージョン、ジャズ、AORを聞くようになったのは彼の影響によるところが多い。

今回の訃報が届く4日前の9/23日にふと彼の事を思い出した。9/23日が彼の誕生日だからだ。メールしようか電話入れようか気にはなっていたが、結局どちらの行動にも出なかった。今思うとこの時電話して彼の肉声を聞いておけばよかったと後悔している。
彼は排水を浄化させる仕事を担っていた。彼にはもっともっとこの汚れた日本、いやこの地球全体を浄化する仕事が残っていたはずだ。彼の果たす役割はまだまだこれからだというのに…。

もうヒガンバナも終わり、金木犀がほのかに甘い香りを放つ季節となったが、
彼はこんな時期に生まれ、そして現世を後にし黄泉の世界へと旅立っていった。
享年48歳。9/23日に誕生日を迎えたばかりの早い死であった。
彼の名前の中にも秋という文字が使われている。秋分の日に誕生したから「秋」なんだろうという想像はつくが……。
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おまえと過ごした時間は全てがプラスだったから。ありがとよ。
おまえと出会えて本当によかった。心から感謝しているよ。
安らかに、そして永遠のさようなら。






ホシゴイ

2006-10-16 00:50:53 | 野鳥
デジテレ画像
2005年より高橋製FS-60Cにコンパクトデジカメを接続して撮影してきました。
それなりに満足いく画像が撮影できましたが、多くの弱点も見えてきました。
それらの弱点をカバーすべくこの機材をより使いやすくするためにこのほど全面改造を行い、これまで利用してきたコンパクトデジカメを止め、新たに購入したペンタックスK100Dのボデーをジョイントして直焦点+テレプラス×2倍をかませることにしました。さらにはボディもラックピニオンからボーグのヘリコイド式に変更し、いわゆる望遠鏡を望遠レンズ仕様に改造しました。これにより、弱点を99%カバーできましたが、1つだけ難点があるとすれば、それは露出です。これは自動というわけにはいかないので、勘に頼るしかないことです。
本日轡堰でテスト撮影を行ってきました。その一つです。