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群馬県館林市で史跡巡り

2014年01月12日 | 国内の名所・旧跡



 群馬県館林市という所に所用で行って来ました。真夏に最高気温を記録したところです。
 折角なので、少しばかり観光してみました。駅前から「歴史の小路」という見所があるのですが、分かり辛く見落としてしまった箇所もありましたが、お目当ての「館林城土橋門」まで行き着けました。「館林城」は、五代将軍・徳川綱吉の居城として有名ですよね。まあ、当人は江戸に居たのでしょうが。



 駅前から先ず最初に見えるのが、「竜の井」。城沼に棲む竜神の妻が、かつてここにあった寺を守るため、この井戸に姿を消したという伝説があるそうです。





 「外池商店」。江戸中期、近江国から移住して来た、造り酒屋の和泉屋さんです。明治33年に味噌、醤油の製造業に変わり、現在は酒の小売業を行っているそうです。




 「鷹匠町長屋門」。旧野辺町の豪農・松澤家の長屋門を、武家屋敷長屋門として、平成21年に新築したそうです。門の両脇が、奉公人の長屋や物置となっているので、そう呼ばれていますが、これだけの長屋門を構えた農家って、どれだけの分限者だったのか。










 「鷹匠町武家屋敷武鷹館」。江戸時代、館林は鷹狩用の鷹を育成する鷹匠が住んでいたことから鷹匠町と呼ばれており、この鷹匠町にある武士の住宅ということで一般公募により、「武鷹館」と名付けられたそうです。
 旧館林藩士住宅、長屋門、付属住宅があり平成11年に館林市指定重要文化財に指定されました。






 「館林城復原土橋門」。館林城は、城沼に西から狐の尾のように突き出した半島に中心を置く平城だったことから、別名・尾曳城と呼ばれています。現在の館林市の中心部にあります。
 築城は、弘治2(1556)年赤井照康によるという説が一般的ですが、信憑性は疑わしく不明です。
 戦国時代には、上杉氏、武田氏、小田原北条氏による三つ巴の攻防に巻き込まれ、天正18(1590)年に、石田三成率いる豊臣軍に攻められ、降伏を勧めて開城しました。
 同年、徳川家康関東入封に伴って、徳川四天王・榊原康政が10万石で城主となり、城下町を整備、寛文元(1661)年、後の徳川綱吉が城主となり、五代将軍になってからは将軍を輩出した徳川宗家に関わる重要な地として、江戸幕府に位置付けられ、最後の城主秋元氏まで江戸幕府の重鎮を務めた7家の居城として栄えたそうです。
 しかし、城の建物の大半は明治7(1840)年に焼失し、三の丸跡地にわずかに土橋門が復元されているのみで、市役所などの敷地に利用されています。
 小さな町にも、深い歴史を感じます。由緒のある城ですので、復元されないのが残念です。

 また、案内がずさんで地図も分かり辛いので、「歴史の小路」に案内板などを立てていただくと嬉しいのですが。
 事情があり、久し振りの名所巡りだったので(約3年以上振り?)、楽しく過ごせました。日本各地を巡って思うのですが、余程の大都市以外は、駅前や市内って寂れていますよね。いずこも、市中心部よりも広い土地を確保出来る外れに大型スーパーなどが出店しているせいでしょうが、その土地に初めて触れるのは駅前。閑散とされていると、旅の意気込みが「しゅん」と消沈してしまいます。
 地方では車社会なので、住んでおられる方には不便はないのでしょうが、旅人は、駅前や市中心部の活気を感じ、土地の人と触れ合いたいものです。
 この日も、ほとんど観光している人はいませんでした。ウォーキングの市民の方や小中学生の姿がちらほら。んっ、休日なに制服? あっ部活動かなにかでしょう。
 ただ、館林市の方は親切な方が多く、道を尋ねても皆さん親切に教えてくださいました。ひとりの方は、どいこかへお出掛けの途中のようでしたが、道から奥まった所にある「館林城復原土橋門」前までお話をしながら案内してくださいました。
 こういった人の優しさに触れると、旅が楽しくもなり、その地を好きになりますよね。観光プラスひとの温かさが旅の醍醐味です。今回見逃してしまった所もありますので、また機会があれば訪ねたいと思います。



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宇都宮二荒山神社

2011年10月07日 | 国内の名所・旧跡


 日光の二荒山神社との区別のために鎮座地名を冠して宇都宮二荒山神社と呼ばれています。
 両社は祭神も名称の由来も異なり、文徳天皇の時代、毛野国が下野国と上野国に分けられた際に、下野国国造に任じられた奈良別王が、曽祖父である豊城入彦命をこの地域の氏神として祀ったのに始まると伝えられます。
 町のメインストリートに面し、周りはパルコなどのショッピングビルや、オフィスビルが立ち並ぶ中に、こつぜんと姿を現す、大鳥居。
 しかし、山門前の傾斜のある石段を上ると、一気に深い杜の中。
 タイムスリップしたかのような、異なる空間が広がります。




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信州に行きました

2011年07月19日 | 国内の名所・旧跡
 夏の信州は何十年振りだろう。二年前は春に諏訪、松本、伊那市を回りましたが、以前は夏は高原、冬はスキーで良く訪れたものでした。
 今回は木島平です。朝晩は涼しく日中も気温は高く暑いですが、湿気がないのと風が心地良かった。
 







 飯山線。ワンマンカーです。



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日野 新撰組を訪ねて4 日野宿本陣

2011年06月21日 | 国内の名所・旧跡
日野宿本陣
日野宿本陣は都内で唯一残る江戸時代に建てられた本陣建物です。幕末に日野宿の問屋と日野本郷名主を務めていた佐藤彦五郎が本陣兼自宅として元治元年12月から使用した建物です。
佐藤彦五郎は、新撰組の理解者でもありスポンサーでもありました。妻・ノブは土方歳三の姉です。
同じ敷地内にあった道場には、試衛館の近藤勇が出稽古に足を運んでいました。
日曜日は地元のボランティアさんが説明して中を案内してくれます。拝観料は200円。井上源三郎の自宅もすぐ近くです。









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日野 新撰組を訪ねて2 石田寺

2011年06月21日 | 国内の名所・旧跡
石田寺
 土方家の菩提寺です。土方歳三の墓と碑があります。本来、墓にカメラを向けることは躊躇われますが、ご遺骸は埋まっておりませんので、ご容赦ください。
 土方歳三は箱館一本木関門にて銃弾に腹部を貫かれて落馬絶命します。その遺骸は五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されていたとも言われる。その場所は特定されていませんが、明治になって旧幕臣が慰霊のため五稜郭に集まった際、「伊庭君の隣に埋めた(旧幕臣の伊庭八郎)」と語っていたことから、五稜郭内が濃厚でしょう。
 しかし、死に方や、埋葬地が解らないなど、ロマンを感じる人ですね。

 墓所は、
 東京都日野市石田 石田寺
 北海道函館市船見町 称名寺(慰霊碑)
 福島県会津若松市東山町 天寧寺(慰霊木碑)
 東京都北区滝野川 寿徳寺
 東京都荒川区南千住 円通寺 にあります。

 辞世の句は「よしや身は蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東(あずま)の君やまもらむ」。また「たとひ身は蝦夷の島根に朽ちるとも魂は東の君やまもらん」。







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日野 新撰組を訪ねて1 土方歳三資料館

2011年06月21日 | 国内の名所・旧跡
 さてさて新撰組を訪ねる旅の第五弾。第四弾までは以前のブログで紹介していたので、今回が初めてになりますが、第一弾は京都、第二弾は会津若松、第三弾は甲府、第四弾は宇都宮、日光。そしていよいよ、新撰組の故郷です。
 実は、土方歳三の命日(明治2年5月11日)にまつわり、1年でこの時期だけ、愛刀の和泉守兼定を観ることが出来るとあって思い立ちました。

土方歳三資料館
 ご子孫の方が住んでいらっしゃるご自宅(歳三が住んでいた家は洪水で流され移築)に一室が資料館になっています。月に2回(日曜)開館。
 庭には石田散薬の幟もあります。

 



 こちらは歳三が植えた竹らしいです。移築の際、植え替えたそうです。また資料館の梁には歳三が住んでいた時代の家の柱を使ってあるとかで、触れるファンが多いとか。
 


 
 愛刀ほか、歳三が京に上る直前に編んだ句集の豊玉発句集、池田屋事件で使用したと伝わる鎖帷子、土方家家伝薬である石田散薬の行李、稽古に用いた天然理心流木刀、などが展示されています。文字もかなり上手いですね。
 ただ、榎本武揚の書もあったのですが、こちらの方は筆文字苦手なようで、「ヘタな方もいる」と、ほっとしました。

 土方歳三饅頭、土方歳三ビールなどなど売っておりましたが、「武士になる」と日野を後にした土方さん。平成の世で饅頭になっていることを知ったら如何思うでしょう。

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紀三井寺 和歌山県

2011年03月11日 | 国内の名所・旧跡
 奈良時代唐僧・為光上人によって開基された霊刹で、寺名は三つの井戸(湧き水)があることに由来している。西国三十三所観音巡礼第二番の札所でもあり、多宝塔は国の重要文化財に指定されている。

  若かりし頃の、紀ノ国屋文左衛門が母を背負って寺の表坂を登ったところ、草履の鼻緒が切れてしまい、それを緒をすげ替えてくれたのが、紀三井寺の真向かいにある玉津島神社の宮司の娘のかよ。
 これがきっかけとなって、文左衛門とかよの間に恋が芽生え、二人は結ばれる。そして、文左衛門は宮司(かよの父)の出資金で船を仕立て、蜜柑と材木を江戸へ送り豪商にまで上り詰めたと言われている。
 以降、紀ノ国屋文左衛門の出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂は、結縁坂と呼ばれるようになったそうな。






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気ままにお城巡り9 和歌山城

2011年01月19日 | 国内の名所・旧跡
 徳川御三家のひとつ。紀州・和歌山城。駅から大通りを真っ直ぐ行ったところにこつ然と現れる、お堀。やはり徳川さんは天下安泰になってからの城なので、山城や要塞的要素は必要ないのだろう。
 現在、見学するにはアクセス的に便利である。
 ただ、一目見た時、「これが御三家?」と思ったくらい小さな城址なのだが、それはほとんどが都市開発やら何やらで失われたからで、当時の権勢は庭園から忍ぶ事が出来る。
 幕末、坂本龍馬にいろは丸事件で大金をぼったくられたことくらで、これといって紀州藩に関する知識はないのだが、五代将軍・吉宗から、将軍を一番排出したのも紀州。

気ままにお城巡り8 会津若松城

2011年01月18日 | 国内の名所・旧跡
 言わずと知れた、保科正之(先の元高遠城城主)から続く松平家のお城。有名になったのは戊辰戦争ですね。
 戦国時代は伊達政宗、上杉景勝、蒲生氏郷など切れ者の殿様が収めたことからも、その重要性が解ろうと言うもの。かの有名な白虎隊もここでのお話。
 ただ、現在では、市民全員が白虎隊の子孫みたいな顔してますが、実際に戊辰戦争で戦ったのは士族のみで、町人や農民はむしろ、新政府軍に味方したらしいです。底辺の人間は新しい政治に期待を寄せるのは今も昔も同じというところでしょうね。
 しかし、会津の悲劇は、日本の近代化において避けては通れません。
 現在の天守閣は復元ですが、中に展示されている戊辰戦争や白虎隊関係の資料を前にすると目頭が熱くなります。
 多くの方が誤解しているのは白虎隊は全員自刃したと思っていること。白虎隊は身分に応じて何班もあり、自刃したのは士中二番隊です。ほかの隊で戦死した人も飯盛山に葬られています。
 そして、戦いに際し、入場した新撰組関係の展示品などもあります。次回機会があれば、会津の方が新撰組をどう思っているか知りたいところ。

気ままにお城巡り7 江戸城

2011年01月17日 | 国内の名所・旧跡
 最期はやはり将軍様のお膝元・江戸城です。無料で開放された都会のど真ん中の公園です。で「松の廊下」址などの看板がありますが、実際に建物がないのは寂しいですね。
 お堀や門からもその壮大さは忍ばれます。
 余談ですが、自分が退出したのが「平川門」。別名「不浄門」だそうで、先の絵島もここから大奥を追放されています。なぜに、また、よりにもよって? 自分が…。
 確かにほかの門のように出入りが平たんではなく、険しい階段を上り下りして、見劣りする門ではありました。そこがまた、手つかずの感じを残しています。
 

気ままにお城巡り6 宇都宮城

2011年01月17日 | 国内の名所・旧跡
 信州から一気に北関東に入り、あの新撰組副長・土方歳三が2日で新政府軍から奪い取った「宇都宮城址」へ。こちらは近年、見張り台などが建造されていますが、もはや城址公園として、市民の方の憩いの場になっています。特に見所はありませんが、「新撰組がここでも戦ったのか」といった視線で見ると、町も新鮮に写ります。

気ままにお城巡り5 高島城

2011年01月17日 | 国内の名所・旧跡
 「浮き城」の異名に心引かれ、思わず途中下車。こちらも駅から歩ける範囲で、復元天守閣は小さく、全体の規模も小さいのですが、昔はこの城から諏訪湖まで水で繋がっていたと聞くとロマンを感じます。
 こちらの城もあまり馴染みはないのですが、なんと元禄年間の大事件「赤穂浪士の討ち入り」で奇襲を受けた吉良方の頭首・吉良義周(吉良上野介の孫)が奇襲されて家督失ったばかりか、なぜか罰せられ、流されて幽閉されたのがこの城です。義周は不自由な日常の中で早世してしまいます。
 お城には必ず、こんな悲しい話がありますよね。

気ままにお城巡り4 松本城

2011年01月17日 | 国内の名所・旧跡
 気ままに巡るお城も「松本城」ともなれば襟を正します。これまでは、ほかに環境客の姿もほとんどなく、勝手に歩けましたが、これだけメジャーなお城になれば、天守閣までの階段は順番待ち。あちこちで人と接触するのも致し方ないこと。
 以前は「深志城」と呼ばれていましたが、通称はその外観から「烏城」です。黒塗りの木の天守閣は戦国時代の様式ですね。
 内堀に囲まれ、二つの天守閣を持つ立派なお城です。
 何よりびっくりしたのが、あまり知られてはいませんが一時、上杉景勝が入場したといった史実でした。城内の展示物で知りましたが、戦国武将で景勝が一番好きな自分は、勝手にご縁を感じ入りました。
 町中にあることから観光にも便利。