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神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

神戸・綱敷天満宮。

2006年03月01日 | ■神戸市須磨区
学業成就・開運招福

綱敷天満宮

(つなしきてんまんぐう)
神戸市須磨区天神町2-1-11

菅公聖蹟二十五拝・第14番



国道2号線とJRが交差する立体交差の天神橋の北側に鎮座する綱敷天満宮。


〔御祭神〕
天満大神
(菅原道真公)


 綱敷天満宮 は名前の通り菅原道真公を祀った神社で、地元では「須磨の天神さん」と呼ばれています。901(延喜元)年、その権勢を妬む左大臣藤原時平卿の讒言によって太宰権帥に左遷された菅原道真公は、九州・大宰府に向けた失意の旅の途中、ちょうど須磨浦にさしかかったときに嵐に遭い、風雨を避けるためにこの地を訪れました。この時菅原道真公は、彼を慕う漁師たちが舟の大綱を丸めて作ってくれた即席の円座で休息を取ったと言われています。その故事にちなみ、菅原道真公が亡くなってから76年が経った979(天元2)年に地元の人々が祠を建ててお祀りしたのが綱敷天満宮の始まりといわれています。




 
「御鎮座壱千年記念祭」で建てられた五重塔(左)と、朱塗り鮮やかな社殿(右)。



 綱敷天満宮が創建された頃は、無実の罪で大宰府へと左遷された菅原道真公が903(延喜3)年に亡くなって以来、菅原道真公を奸計によって陥れた首謀者とされる藤原時平卿の急死や醍醐天皇の皇太子だった保明親王の21歳という若さでの早世、さらにはその子・慶頼王のわずか3歳での夭折、そして930(延長8)年の清涼殿への落雷事件をきっかけに体調を崩した醍醐天皇の崩御など、次々に菅原道真公失脚に関わった者たちの身に凶事が相次ぎ、「菅公の怨霊の祟り」の凄まじさへの畏れがまだまだ人々の中に根強く残っている時期だったと思われます。須磨の人々も、冤罪によって寂しい道行きの途中にこの地を訪れた菅原道真公への同情や遺徳を偲び、安らかに眠ってほしいという思いがとりわけ強かったのではないでしょうか。もちろん朝廷側も、恐ろしい災禍をもたらす怨霊を丁重に祀ることでその怒りを鎮め、逆に悪霊邪神を排除する力を持つ御霊へと変えるために、各地で起こるこのような動きを大なり小なり推奨していたと思われます。




 
社殿の左側に鎮座する稲荷社(左)と、右側にある厄神社(右)。



 綱敷天満宮では1年を通じて様々な祭礼が行われています。1月24日から25日にかけて行われる初天神大祭をはじめ、梅の花咲く2月24日と25日には梅花祭が行われます。梅花祭では境内に約120本あるといわれる紅白の梅の花の香りが漂う中、生花展や書道展などが行われ、梅粥などもふるまわれるなど多くの参拝客で賑わいを見せます。4月25日には学生たちの1年の無病息災と学力向上を祈願する学業講祭が行われ、7月7日の七夕祭では思い思いの願いを書いた短冊が境内に設けられる「願いの綱」に吊るされます。7月25日に行われる例祭である天神祭でも、境内を多くの屋台が埋め尽くし、多くの参拝客で盛況を見せています。また、11月の七五三の時期には、菅原道真公が5歳児の頃に着ていたものを史実に基づいて再現したという衣装が貸し出され、幼い頃より俊英の誉れ高かった菅原道真公にあやかりたいという御両親たちに好評を博しています




 
社殿の前には「菅公母子像」(左)や3歳時の菅公像(右)、歌碑などが立ち並んでいます。

 
腰掛ければ願いが叶うという「ナスの腰掛け」。「成せば成す」の駄洒落です(左)。
右は「時代の波に乗れるように」という思いを込めた波乗り祈願の菅公像。



アクセス
・JR神戸線「須磨駅」下車、東へ徒歩10分
・山陽電車「須磨寺駅」下車、南へ徒歩3分
綱敷天満宮地図  Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料

拝観時間
・常時開放

公式サイト



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5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
コメントありがとうございました (ひしょ)
2006-03-01 18:38:57
きみーさんはじめまして。コメントありがとうございました。私も史跡を訪ねるのが好きなんですが、休みがなかなか・・・きみーさんのブログを初めて覗かせて頂きましたが、これからはコチラのブログで史跡めぐりさせていただきます。
返信する
Unknown (のりちゃん)
2006-03-02 06:59:54
大阪にも綱敷天神社があるんですが、兵庫県にもあるんですね。

もしかしたら、菅公太宰府に落ちる途上に点々とあるんでしょうか。



ところで、菅公と大宰府について、ちょっと怪しい(?)話しを聞いたのを思い出しました。



菅公は土師氏。土師氏と鉄鋼の関係は割りと定説になってるみたいです。

で、同じように、鉄鋼と関係が深いと思われるのが、秦氏。



菅公太宰府行きは、「左遷」ではないというんです。

菅公は、九州在住の秦氏とガッチリ手を組むために太宰府に赴いたと。



そうであれば、菅公の祟りを恐れる必要はないかもしれませんが・・・。

そうでもありません。

菅公が力を増して帰ってくることを恐れ、それがために、太宰府において殺した。

とかなんとか。

考え出すと、どんどん怪しくなりますけど(^^ゞ



史書に残る歴史は、一面にしか光をあてていません。

いろいろな可能性を考えるのは楽しいですね!
返信する
奥が深いですねー (きみー)
2006-03-02 19:13:16
そういう説もあるんですねー。

そう考えると、道真公もやはりなかなかの「政治家」だったと考えることも出来ますね。



「飛び梅」に関しても、もしかしたら何かを「梅」に例えているのかも。護衛の者か、はたまた時平の「刺客」…。



う~ん、ますます興味が湧いてきました







そうそう、けっこう綱敷天満宮はありますよ。

須磨だけではなく、神戸市東灘区の御影にもあります。



他にも今治や北九州など、大宰府への道の途中にはいろいろゆかりの綱敷さんがあるみたいですよ
返信する
ひしょさん、ご訪問ありがとうございます! (きみー)
2006-03-02 20:04:25
そうですよね。休みなんてあってないような職業ですもんね



ここでのんびり史跡めぐりをしてリラックスしていって下さい。



たま~に生臭いことも書いたりしますけど(笑)



これからもよろしくです
返信する
Unknown (スガイ)
2007-06-03 21:13:15
きみーさん、コメントありがとうございました!

きみーさんの知識の豊富さがうらやましいです。史跡に関してもまだまだ勉強不足の私ですので、どうぞこれからいろいろと教えていただけたらうれしいです。
返信する

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