南宮大社
(なんぐうたいしゃ)
岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1
美濃国一の宮
全国に3,000近くある金山彦命祭祀社の総本社
〔御祭神〕
金山彦命
(かなやまひこのみこと)
見野尊
(みののみこと)
彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと)
今から400年前、徳川家康公が率いる東軍と、石田三成公を中心とする西軍が戦国の覇権を巡って激突した関が原。実際にその地に立ち、この静かな山間の地に16万以上の軍兵が満ち溢れて激戦を繰り広げ、日本の歴史が大きく動いたのだという事に思いを馳せると、なかなかに感慨深いものがあります。石田三成公が本陣を構えた笹尾山から、徳川家康公が最初に本陣を置いた桃配山までは4kmと離れておらず、危地に身を晒しながらも双方の僅かな動きも見落とす事なく、機敏に対応しながら「肉を切らせて骨を絶つ」短期決戦で雌雄を決しようとした両軍の強い意図が感じられます。
この関が原の南東に、西軍の毛利秀元公が陣を構えた南宮山があります。標高419mのこの山には、土佐国の長宗我部盛親公や毛利家の外交僧で豊臣秀吉の側近でもあった安国寺恵瓊、豊臣五奉行の一人・長束正家公などの軍勢が陣を敷いており、徳川家康公が本陣とした桃配山を背後から挟撃出来る絶好の位置にありました。しかし、東軍の調略によって「不戦」の密約を結んでいた吉川広家公の軍勢が街道を塞いで微動だにしなかったために、南宮山に陣取った全ての軍勢は動きを封じられ、「天下分け目の戦い」の推移を、ただただ指をくわえて眺める事しか出来ませんでした。その南宮山勢のうち、安国寺恵瓊の軍勢が陣を張っていた辺りに、今回ご紹介する南宮大社が鎮座しています。「包丁の守護神」として、鉱山・鍛冶・鋳物の神である金山彦命を祀る美濃国の一宮として、厚い崇敬を集める古社であります。
楼門脇の祓所(左)と、社殿と同じ1642(寛永19)年に架けられた石輪橋(右)
堂々たる楼門。正面の石輪橋は神様が通る橋のため、人間は右手の石平橋から境内に入ります。
南宮大社に祀られているのは、前述の通り鉱山・鍛冶・鋳物の神として信仰を集める金山彦命です。「日本書紀」には、神武天皇が東征の折、強敵だった長髄彦(ナガスネヒコ)と戦った時の模様が記されていますが、この際、神武天皇の持つ弓に一羽の金鵄が留まり、まばゆい光を放って長髄彦の軍勢の目を眩ませ、戦いを勝利に導いたといわれています。この金鵄を放って神武天皇を助けたのが金山彦命といわれており、ここでの功績を讃えるために不破郡垂井町府中に祠を築いて金山彦命を祀ったのが南宮大社の始まりといわれています。
紀元前93(崇神天皇5)年には南宮山の山上に遷座され、のち現在地に遷座されて仲山金山彦神社と呼ばれるようになりました。873(貞観15)年には正二位の神階を授けられ、927(延長5)年に編纂された延喜式神名帳では美濃国唯一の名神大社に列せられています。この頃はまだ「仲山金山彦神社」の名で呼ばれていたようですが、その後、美濃国国府の南方に位置する事から南宮大社と称されるようになりました。940(天慶3)年の平将門の乱における戦勝祈願や、平安末期の前九年の役での安倍貞任公追討の祈願による神験を賞されて正一位勲一等を授けられるなど、南宮大社は朝廷のみならず源氏・北条氏・土岐氏など有力武将の崇敬を集めて支援を受け、美濃国の一宮として、さらには金属の神の総本社として栄えていく事となりました。
境内左手に並ぶ神輿舎、祭器庫(左)と手水舎(右)
神事の際に庭で焚く篝火を表した「庭燎(にわび)」(左)と、朱塗り鮮やかな高舞殿(右)
南宮大社は、関が原の戦いの際に兵火にかかって炎上の憂き目に遭いました。この付近では、前哨戦として西軍の長束正家公の軍勢と東軍の浅野幸長公・池田輝政公の軍勢による戦闘が行われており、おそらくはその際に燃えたのではないかと考えられます。その後、高須藩(現在の岐阜県海津市辺り)藩主の徳永寿昌公や竹中伊豆守重隆公によって1611(慶長16)年に仮社殿が建てられ、さらには美濃国の人々の熱い要望、また美濃国守護代の名門・斎藤氏の一族であった斎藤利三公を父に持つ春日局などの後押しもあって1642(寛永19)年秋に本格的に再建されて旧来の威容が整いました。この時に江戸幕府が寄進した再建資金は7,000両(現在の価値で約21億円)という多額のもので、造営奉行を務めた岡田将監の指揮のもと、「南宮造」と呼ばれる独特の本殿をはじめ、高舞殿・幣殿・拝殿・楼門・石鳥居・石輪橋・石平橋などが見事に再建され、その全てが国の重要文化財に指定されています。その後も将軍が代わるごとに405石の朱印状が与えられるなど財政的な支援が続けられました。近年では、1871(明治4)年に南宮神社として国幣中社に列せられ、1925(大正14)には国幣大社に昇格されました。戦後、GHQの出した神道指令によって国家と切り離され、ふたたび南宮大社と改称されて現在に至ります。
南宮大社では、古来より屋根の葺き替えを行う式年遷宮も行われています。当初は21年ごとに行われていましたが、応永年間(1394~1427年)頃からは51年に一度に変更され、近年では1973(昭和48)年に式年遷宮が行われています。この際には宝物殿も新築されましたが、この宝物殿には「金属の神様」を祀る神社にふさわしく刀剣が多数所蔵されている事でも有名です。平安時代の京の名匠・初代三条宗近作の「三条」、1398(応永5)年に美濃国守護・土岐頼益公が奉納したのではないかといわれている備前国長船の名匠・康光作の「康光」、奈良時代の鉄製の鉾は特に有名で、国の重要文化財に指定されており、戦前は国宝とされていたそうです。他にも、1642(寛永19)年に社殿が再建された際の造営文書や棟札、1017(寛仁元)年の後一条天皇即位の際に諸国の大社48社に奉献されたものの一つとされている駅鈴や古絵馬など、多数の文化財が納められており、毎年11月3日の文化の日には一般公開も行われています。
1642(寛永19)年再建の拝殿。1966(昭和41)年に国の重要文化財に指定されました。
同じく1642(寛永19)年再建の本殿(左)と摂社の樹下社・隼人社(右)。
南宮大社では、様々な祭典や神事が行われています。2月の節分の日に行われる「節分祭」では、939(天慶2)年の平将門の乱で討たれ、火を噴きながら京へと飛んだといわれる平将門公の怨霊の首を南宮大社の祭神である隼人神が矢で射落としたという伝説にちなみ、裏側に「鬼」と書かれた大きな的に神職が12本の矢を射かける「大的神事」が行われます。5月4日(例大祭の前日)には、境内に設けられた斎田で、「早乙女」に選ばれた3歳から5歳までの21人の少女たちが苗に見立てた松葉を並べて田植えの所作を演じる「御田植祭」が執り行われます。翌5月5日の「例大祭」では、南宮大社の元宮があったとされる府中の御旅神社へ神輿が渡御する「神幸式」や、南宮山の奥にある蛇池から運んできた「蛇頭」を祭礼場に組まれた「蛇山」と呼ばれる13mの高さの櫓に取り付け、夜明けから神輿が戻るまでお囃子に合わせて「蛇頭」を激しく舞い動かして五穀豊穣を祈願する「蛇山神事」などが行われて、大いに盛り上がります。
また、毎年11月8日には「金山祭」が行われます。「金山祭」は「鞴祭(ふいごまつり)」とも呼ばれ、御祭神である金山彦命が府中から南宮山へと遷宮されたと伝えられる紀元前93(崇神天皇5)年11月9日の日付にちなみ、神様をお迎えする前夜祭のような意味合いで行われています。このお祭りでは、地元の刀匠の方々の奉仕による古式鍛錬式が行われ、烏帽子と直垂姿の「野鍛冶」によって鍛錬された小刀が神職の手で神前に納められたのち、高舞殿で舞楽や雅楽が奉納されます。鉱山・鍛冶・鋳物の神である金山彦命を祀る南宮大社ならではの「金山祭」には、事業の繁栄と安全祈願のために全国各地から金属業者や鉱山業者が数多く参拝に訪れます。
社殿の右手にある北門(左)と御神木の旧跡(右)。
新幹線からも見える大鳥居は、高さ21m。東海地方有数の大きさを誇ります。
アクセス
・JR東海道本線「垂井駅」下車、南西へ徒歩13分。
南宮大社地図 Copyright:(C) 2011 NTT Resonant Inc. All Rights Reserved.
【境内図】 南宮大社公式ホームページより転載 (http://www.nangu-san.com/)
拝観料
・境内無料
拝観時間
・6時~18時(開門時間)
公式サイト
岐阜県の歴史散歩 | |
山川出版社 |