神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

長岡京・乙訓寺。

2007年09月12日 | ◇京都府 -洛外

大慈山乙訓寺

(だいじさん おとくにでら)
京都府長岡京市今里3-14-7

洛西三十三観音霊場・第6番札所





〔宗派〕
真言宗豊山派

〔御本尊〕
合体大師像
(がったいだいしぞう)



 7世紀のはじめに推古天皇の勅願によって聖徳太子十一面観音像を御本尊として創建したのが乙訓寺の始まりといわれ、京都最古の寺院といわれる広隆寺とほぼ同時期の建立ではないかと見られています。桓武天皇が長岡京へ遷都した際には「京内七大寺」の筆頭としての寺格を与えられて大規模な伽藍の増築が行われたそうです。

 ちなみに「乙訓」という地名は山城国葛野郡から新しい郡を分離させる際、葛野を「兄国」、新しい郡を「弟国」と呼んだことから付いた名前だといわれています。越前国から王朝を継いだ継体天皇が518年に河内国で即位されたのち、同年3月に都を移したのが「弟国」といわれ、その時に宮を築いたのが乙訓寺のあるあたりだといわれています。




空海が唐から持ち帰ったという故事から植えられた蜜柑の木。



 784(延暦3)年に行われた長岡京への遷都。天武系から天智系への皇統の移動、南都仏教勢力の政治力を削ぐため、大仏建立後も災難が続くなど鎮護都市としての効力に期待が持てなくなったため、など様々な理由が考えられますが、新都造営にかかる莫大な出費や南都仏教勢力の抵抗など、遷都への反対意見も強かったようです。

 そんな状況で始められた長岡京の造営工事のさなか、建都長官の藤原種継卿が建築現場で暗殺されるという大事件が起きます。たちまち容疑者として遷都反対派だった大伴一族が検挙され、一族の長・大伴継人卿が斬罪の処されます。さらに大伴一族と深い交流があったという理由で、桓武天皇の異母弟である早良親王が黒幕の嫌疑を掛けられて乙訓寺に幽閉されるという事態に発展します。




長岡京市の指定文化財である本堂。



 実の息子・安殿親王への譲位を望む桓武天皇にとって、幼少期に東大寺で修行し、還俗して親王となったのちも奈良の寺院勢力に対して影響力を持っていた早良親王に対する警戒は強かったはずで、暗殺事件に乗じて無実の罪を被せて陥れたと考えられます。早良親王は身の潔白を訴え、断食して抗議しますが、淡路島への流罪となって護送される途中、淀川沿いの河内国高瀬橋付近で衰弱して無念の死を遂げます。しかし遺骸は都に戻されることなく、非情にもそのまま淡路島へ送られて葬られました。

 それ以後桓武天皇の周囲を襲った悲劇は凄まじく、夫人である藤原旅子と母・高野新笠が相次いで亡くなり、皇后・藤原乙牟漏までもが31歳の若さで急逝します。安殿親王も病いに伏せることが増え、悪疫の流行や天変地異が相次いで起こり、「早良親王の怨霊の成せる業である」ということで親王鎮魂のために様々な対策を施しますが、最終的に風水的により怨霊から身を護ることが出来る都・平安京への遷都を行うに至りました。




ご本尊「合体大師像」でゆかりの深い八幡宮が鎮座しています。



 811(弘仁2年)になると、嵯峨天皇の勅命を受けた弘法大師・空海が別当として乙訓寺にやってきます。唐に渡り、長安の青龍寺で密教第7祖である恵果和尚の灌頂を受け、真言密教の奥義を極めて帰国した空海に大きな関心を寄せていた嵯峨天皇にとって、早良親王ゆかりの乙訓寺空海を配したのは、その霊験で怨霊を鎮めるという効果も期待してのことだったと思われます。

 翌年10月には、乙訓寺において初めて空海最澄が顔をあわせました。唐で学ぶ期間の短かった最澄にとって、空海から学ぶ「真言の法」は大変有意義なものだったと考えられます。その後2人は宗教観の違いから袂を分かつ結果となりましたが、仏教界の両巨頭が始めて対面した場所として、乙訓寺は大きな舞台の役割を果たしました。




修行大師像



 菅原道真公を重用したことで有名な宇多天皇は、醍醐天皇へと譲位したのち仁和寺で出家して法皇となり、897(寛平9)年に乙訓寺を行在所として移られてきました。これにちなんで乙訓寺「法皇寺」とも呼ばれるようになりました。室町時代には内紛が起こるなど次第に寺勢は衰えを見せます。足利義満公によって僧侶たちの追放が行われて南禅寺伯英禅師が配され、一時期乙訓寺は禅寺となったこともありました。戦国時代の兵火に巻き込まれたことも時勢の衰退に拍車をかけたようです。

 江戸時代中期、乙訓寺徳川綱吉公の大きな信任を受けた新義真言宗の僧・隆光の手によって再興が行われ、境内の整備がなされて再び真言宗の寺院として勢力を取り戻すこととなりました。隆光が学んだ長谷寺は7000を越える牡丹でも有名で、その縁から昭和に入って長谷寺から牡丹が移されて境内を彩っています。




国指定の重要文化財・毘沙門天立像が納められている毘沙門堂。



アクセス
・阪急電車「長岡天神駅」下車、北へ徒歩15分
・阪急電車「長岡天神駅」より阪急バス20系統にて「薬師堂」下車、北東へ徒歩3分
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拝観料
・大人300円、小人100円

拝観時間
・8時~17時

公式サイト
   京都洛西・乙訓寺