Summer of '42 (FILMING LOCATION) - Michel Legrand (1971)
(7)おもいでの夏 卒業。
https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/2c8d684d5b3ad465279307bc4b5fc743
19歳で卒業する頃、
造船所の甲板から転落して瀕死の重傷を負った父も自宅に戻った。
結核療養所にいた弟も帰って来た。
兄も大学入学した。
食料品店で働いていた母のみの稼ぎから抜け出した。
漸く普通の家庭生活になったのだ。
僕の心の浮き沈みも落ち着き出した。
受験勉強は順調ではなかった。
山登りは中断した。
江の島の砂浜で白波が、砂を押し寄せては、返す波頭を
空白の頭で眺めた。
振りかえる先には、富士と丹沢山塊が屏風の如きじっと立っている。
湘南の砂浜や江ノ島から見た海岸風景 - 朝と夕暮れの情景 (Full HD)
ひとしきり、心を落ち着かせると
証券会社支店に電話した。
駅前バス停ベンチで待った。
リツコさんは、海辺のレストランで励ましの本を差し出した。
戦後、
日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた[4][注 1][5]。この3年間は出生数が250万人を超えており、合計すると約800万人程度の出生数となる。1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多であり、この出生数は2019年の出生数86万5239人の約3.1倍である[6][7][注 2]。なお、この期間に生まれた世代は団塊の世代と呼ばれる。
大学受験が最も競争率が高く、旧課程の受験生不利であった。やはり、付け焼き刃の受験では、駄目か?
数校受験したがみな落ちた。
いったい、これからどうやって生きていこうか?
最後の合格発表の掲示板を
補欠合格欄を観た。
なかった。
正規合格もみてみた。
番号はあった。
窓口で合格通知票と年間授業料分の奨学金通知を貰った。
高校退学を引き留めた恩師の母校であった。
ひとしきり、心を落ち着かせると
証券会社支店に電話した。
駅前バス停ベンチで待った。
リツコさんは、海辺のレストランで励ましの本を差し出した。
戦後、
日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた[4][注 1][5]。この3年間は出生数が250万人を超えており、合計すると約800万人程度の出生数となる。1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多であり、この出生数は2019年の出生数86万5239人の約3.1倍である[6][7][注 2]。なお、この期間に生まれた世代は団塊の世代と呼ばれる。
大学受験が最も競争率が高く、旧課程の受験生不利であった。やはり、付け焼き刃の受験では、駄目か?
数校受験したがみな落ちた。
いったい、これからどうやって生きていこうか?
最後の合格発表の掲示板を
補欠合格欄を観た。
なかった。
正規合格もみてみた。
番号はあった。
窓口で合格通知票と年間授業料分の奨学金通知を貰った。
高校退学を引き留めた恩師の母校であった。
後に恩師は大喜びであった。
リツコさんはに、知らせるべき走った。
湘南電車に飛び乗った。
海辺のレストランで、意外にも静かに
「良かったね」と言った。
寂しげな目を下に落とした。
やつれていた。
続く
別れの予感 林部智史