馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

東電 逃電 その3 いい夫婦の日

2011-05-03 23:53:29 | 日記

東電 逃電 その3

こうして内部告発して私は軽食喫茶で皿洗いをするのだが

皿洗いと逃電と何の関係があるか理解できないと思いますが

大いに関係あります。

 

軽食喫茶はオフィスビルで1階にあり総合店舗

軽食喫茶、物品販売、旅行サロンが複合されていました。

旅行サロンには大学同期の女性がいました。

喫茶部には定年後嘱託になった独身オバサンが責任者でいましたが

オープンは10時ですが、オバサンは11時過ぎに来て

厨房でコーヒーを飲み、煙草を吸い、それからレジカウンターに

座り、会計をするだけ。

厨房には3人、元キックボクサーで東日本チャンピオンになった男が

チーフでいました。彼は人相と相違して優しい人柄でした。

ウエイトレスが4人いました。

私以外は社員ではなく、所謂、専門職や定年移籍、アルバイトです。

仕事分からず戸惑いも有りましたが、人間関係の心身ストレスが

なくなり、心は寂しかったが気持ちは楽でした。

知り合いから連絡があり、勤務場所を伝えると

皆さん、「ああ!東電の近くね」と言います。

その位この場所は大手企業がありましたが

取り分け東京電力は有名だったのです。

それこそ、東電社員は「下々の者、下がりおろう」と

新橋では肩で風切って闊歩していたのでしょう。

 

精神的ストレスから解放されて仕事は楽しかった。

近くに有名商社M物産があり、学校同期でバトミントン部女子主将働いていて

店にお茶を飲みに来ていました。

 

しかし、以前いた部の関係者は監視のため突然店に来たりしました。

レジのオバサンからは「あなた何したの、上からあなたの行動を見ておくようにと言われている」

私は答えなかった。

ある日突然、大学体育会山岳部の先輩が店に来た。

勤務する会社が近くにあったのだ。

「先輩!私も結婚でもしたいから、彼女紹介してください」

半分、冗談で言ったところ、数日後、昼の忙しいランチ時間に

女性を連れて入ってきました。

その後、先輩が銀座で場所を設定してお見合いのようなことをしました。

先輩が 「彼女はスタイル抜群、顔も十人並みだろう」

そんなこんなで、どんどん進行して、結婚に至るのですが

当時はまだマンション購入など考えず、公団住宅を申し込みました。

倍率抽選が高いので当選はないと踏んでいたのですが、当たってしまい

条件に婚姻証明が必要でした。交際始めて2ヶ月余りで

直ぐに籍を入れ、5月の連休中、松戸の公団に住みました。

 

トンネル会社は徐々に会社内に入り込み大きくなっていった。

しかし、本社内にいた女子社員は純粋なのでしょう

影ながら私への支援をしてくれたのです。

 

ある日、朝になっても、厨房の人もウエイトレスも出社していません。

10時オープンですが、私一人厨房でコーヒーを沸かし

ホールで水出し、注文取りの状態になり、客が同情して

自らセルフでコーヒーを取りに来ました。

奮闘の真っ最中に監視役の課長が現れました。

何も出来ない課長は厨房でガラスのコーヒーポットを

破損してしまい、いつのまにか店内から姿消していました。

現場仕事が出来ないので逃げたのです。

この課長こそ私にトンネル会社の実態を部長に言うべきだと忠告した

お方である。ずるい卑しい立ち回りに、遅ればせながらサラリーマン社会の

生き方が分かってきた。

この課長は逃電社長と同じ大学だがもっとお坊ちゃま だった。

中学から入学それも実家は北関東で有名な老舗旅館の次男

そして住まいは表参道のマンションだが、部屋の分譲ではなく

マンションそのものを所有していた。

ちなみにトンネル会社作った上司も四国の有名ホテルのオーナー一族

殆ど苦労知らずのコネ社員だらけ。

トンネル会社作った上司は役員への胡麻すりは尋常ではなかった。

私を運転手代わりに使い、役員の麻雀が終わるまで私を待機させ

深夜 大手町から東久留米に送らせる。

又は新宿歌舞伎町で深夜クラブのホステスが引けるのを

コマ劇場前で待ち上司、役員と食事をさせ、その後自宅まで

車で送り届ける。

それから、トンネル会社がある和光の倉庫で仮眠。

まあ、こんな事させられるより皿洗いの方が増しでした。

 

現場要員確保には苦しみました。

部長、課長は知らん振り、しかし本社女子社員が

管理部に状況を訴えました。

商事部門の後輩もトンネル会社と部課長のでたらめに

見切りをつけ退社して故郷に帰る決断しました。

退社に当たって大学同窓の副社長の自宅に出向き

トンネル会社の真相をぶちまけたのです。

その男は故郷のテレビ局に入社して、今ではは常務取締役になっている。

 

1122日私達は遅ればせながら結婚式をあげました。

今でこそ1122日を「いい夫婦の日」と言っていますが

当時は語呂合わせの意味合いはなかった。

レストラン事業部なので大手町にレストランがあり

そこに会社のホールもあり、コックさんが無償で調理してくれ

新橋のチーフ、ウエイトレスも手伝いしてもらい

立食パーティーをした。安くて豪華で大学のマンドリンクラブも

演奏してくれた。

今でこそ結婚式場ではなく、レストランで会費披露パーティーをするが

当時としては画期的であった。

会社の男子は出席しなかったが女子社員は来た。

まだ海外旅行が一般的でない時代に、新婚旅行にはフランス、イタリアに行きました。

 

現場を見ることもなく、経験もしない管理職がレストラン経営を指導

監督して経営会議をする。

虚構のマネジメントに怒りも感じなくなっていた。

 

月日は流れ、管理部課長から某日の夜に超一流ホテルのラウンジに来るように

電話がありました。

当日、常務取締役が管理部長、課長と待っていました。

今までの経緯を話すように言われ、実態を説明しました。

それから、月日は流れトンネル会社作った上司は違う関連会社に移動しました。

同時にその問題となった商事部門は銀座の営業部に移管されました。

部長が猛烈に反対しましたが社長が退けました。

部長も違う部門の支店長で移動しました。

しかし私は依然として新橋で皿洗いをして、スパゲティーを顔面に

ぶつけたい逃電相手に毎日淡々と仕事していました。

 

私も新橋に飛ばされた当初、退社を考えましたが、これでは負けを認めると思い

我慢したのですが、皿洗い2年目に入り、このまま仕事を続けても

将来展望が開けないと思うようになり会社辞めることを考え始めていました。

新橋勤務3年目に入る春、逃げ出した課長から電話が入った。

人事異動の連絡だった。

続く

 

幕張海岸