ゲルハルト・リヒター「鏡の絵画」展に行ってきましたよ。
ちょうど一年近く前にリヒターの「8グレイ」を見てから、リヒター展やるといいなぁと思っていましたので、今回の企画展はとても楽しみにしていました。
一番気に入ったのが、「11枚のガラス板」(2004年)です。幅2m高さ3m近くある透明のガラス板が11枚重ねて立てかけられている作品。
ガラスは透明なのだから、ガラスの向こうがすっきり見通せそうなのに、でも全体に白い幕がかかったようになっていて、ガラスに映る自分も輪郭がぼんやりとしています。まるで、涙がいっぱいたまった目で、世界を見ているみたいです。
ビデオも上映されていたのですけれど、その中でリヒター氏が「自分のことはわからない。わかってはいけないんだ。全部わかって創作するなんてナンセンスだよ。」と云っていたのが印象的でした。私たちは、なぜこれをつくったのか、どういう意図がこめられているのかということを、作品や作家に向かって問いかけがちです。リヒター氏の言葉は、インタビュアーの問いをはぐらかしているようでいて、わからないことこそ創作の原点なのさと云っているようでした。
でも、私は思うのです。やっぱりこういう人は身体の中でちゃんとわかっているのだと。今自分が何をつくるべきかということをたぶんわかってしまっているのです。それを言語化するのではなく作品で表現してしまっているのだと。だからもう言葉が必要ないのだと。
上は「2本の蝋燭」1982。下は「雲の習作(逆光)」1970。
ちなみに最初の写真はポスターにもなっている「雲」1978。
レアンドロのプールを見たくて、コレクション展示「アナザー・ストーリー」も見ることにしました。
先日は混んでいたので恥ずかしくて躊躇した「アミューズメント・ロマーナ」(曽根裕・2002年)を体験できましたよ。布を腰から下に巻いて、階段を上っては滑り降りるという滑り台体験を5回くらいできるのです。誰かが滑るとごぉーってジェットコースターみたいな音がして、結構恐くて興奮してしまったんですよ。子どもの頃はもっともっと高い滑り台も得意だったのに。腹ばいになって頭から滑り降りたりしていたのに。大人になると恐くなってしまうものがたくさんあるのは、どうしてなんでしょうね。
参考記事
■「鏡は完璧な芸術家」(日本におけるドイツ2005/2006)
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■金沢21世紀美術館にゆく(2004.10.14)