8月6日 (月曜日)
原爆の日は、何回となく平和宣言をしてきているのを
見聞きしているが、
その前にこの誌を読んでから・・・だなあ~。
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峠三吉原爆詩集 『すべての声は訴える』の完全版収録
1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾により命を奪われた人、
また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、
そして生きているかぎり憂悶と悲しみを消すよしもない人、
さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ (峠三吉)
序/八月六日/死/炎/盲目/仮繃帯所にて/眼/倉庫の記録/
としとったお母さん/炎の季節/すべての声は訴える
など23編を収録
発行・下関原爆展事務局 B5判 119頁
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序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
八月六日
あの閃光が忘れえようか!
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルデイングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてぼろ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライにとぶ蝿の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仮繃帯所にて
あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあななたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/1f/5383927033a1adc61c2ce7beaf9cc1c2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e1/8501ebe6b1d37f025e3246ee1af868fe.jpg)
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彼は1951年に『原爆詩集』を発刊し、その翌年に広島市民と子どもの
アンソロジー『原爆雲の下より』を編纂した。
彼も被爆し初期の被爆者運動にも参加したこともあるが、
反戦・反原爆(反占領も)を強くアピールするようになった直接的な契機は、
アメリカの朝鮮戦争での 原爆使用を考慮するという
トルーマン声明(1950年)であった。
「広島市民からただちに意思表示を」(日記)すべきとして、
占領下のプレスコード(報道 禁止令)に抗って、
彼は原爆詩を激しく書き始めた。その背景には、ストックホルムアピール(原子兵器の禁止、国際管理などの世界平和評議会の決議)への彼 の信念があった。
「にんげんをかえせ」の詩句は、『原爆詩集』の冒頭の「序」の詩にあるが、
これは彼の反原爆=核兵器廃絶の心願の最たる発現で、
若い私た ちに「人間の起き上がってくるところを描こう」と、
よく言っていた彼の思いに重なる端的な絶句あるいは絶唱であろう。
峠三吉は1917年に生まれ、 1953年3月、手術途中で死去。
原爆症であった。36歳であった
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/namida.gif)
原爆の日は、何回となく平和宣言をしてきているのを
見聞きしているが、
その前にこの誌を読んでから・・・だなあ~。
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峠三吉原爆詩集 『すべての声は訴える』の完全版収録
1945年8月6日、広島に投下された原子爆弾により命を奪われた人、
また現在にいたるまで死の恐怖と苦痛にさいなまれつつある人、
そして生きているかぎり憂悶と悲しみを消すよしもない人、
さらに全世界の原子爆弾を憎悪する人々に捧ぐ (峠三吉)
序/八月六日/死/炎/盲目/仮繃帯所にて/眼/倉庫の記録/
としとったお母さん/炎の季節/すべての声は訴える
など23編を収録
発行・下関原爆展事務局 B5判 119頁
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序
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
八月六日
あの閃光が忘れえようか!
瞬時に街頭の三万は消え
圧しつぶされた暗闇の底で
五万の悲鳴は絶え
渦巻くきいろい煙がうすれると
ビルデイングは裂け、橋は崩れ
満員電車はそのまま焦げ
涯しない瓦礫と燃えさしの堆積であった広島
やがてぼろ切れのような皮膚を垂れた
両手を胸に
くずれた脳漿を踏み
焼け焦げた布を腰にまとって
泣きながら群れ歩いた裸体の行列
石地蔵のように散乱した練兵場の屍体
つながれた筏へ這いより折り重なった河岸の群も
灼けつく日ざしの下でしだいに屍体とかわり
夕空をつく火光の中に
下敷きのまま生きていた母や弟の町のあたりも
焼けうつり
兵器廠の床の糞尿のうえに
のがれ横たわった女学生らの
太鼓腹の、片眼つぶれの、半身あかむけの、丸坊主の
誰がたれとも分らぬ一群の上に朝日がさせば
すでに動くものもなく
異臭のよどんだなかで
金ダライにとぶ蝿の羽音だけ
三十万の全市をしめた
あの静寂が忘れえようか
帰らなかった妻や子のしろい眼窩が
俺たちの心魂をたち割って
込めたねがいを
忘れえようか!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
仮繃帯所にて
あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう
焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあななたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない
ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/1f/5383927033a1adc61c2ce7beaf9cc1c2.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e1/8501ebe6b1d37f025e3246ee1af868fe.jpg)
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彼は1951年に『原爆詩集』を発刊し、その翌年に広島市民と子どもの
アンソロジー『原爆雲の下より』を編纂した。
彼も被爆し初期の被爆者運動にも参加したこともあるが、
反戦・反原爆(反占領も)を強くアピールするようになった直接的な契機は、
アメリカの朝鮮戦争での 原爆使用を考慮するという
トルーマン声明(1950年)であった。
「広島市民からただちに意思表示を」(日記)すべきとして、
占領下のプレスコード(報道 禁止令)に抗って、
彼は原爆詩を激しく書き始めた。その背景には、ストックホルムアピール(原子兵器の禁止、国際管理などの世界平和評議会の決議)への彼 の信念があった。
「にんげんをかえせ」の詩句は、『原爆詩集』の冒頭の「序」の詩にあるが、
これは彼の反原爆=核兵器廃絶の心願の最たる発現で、
若い私た ちに「人間の起き上がってくるところを描こう」と、
よく言っていた彼の思いに重なる端的な絶句あるいは絶唱であろう。
峠三吉は1917年に生まれ、 1953年3月、手術途中で死去。
原爆症であった。36歳であった
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