Kennyのブログあれこれ

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3月10日 東京大空襲

2011-03-10 08:33:48 | 日記
3月10日(木曜日)
6時少し前、
田圃に溜った水に薄氷が張っている。
富士山の雪の頂上部がきれいに見える。

今日は東京大空襲のあった日。
66年前の今日10万人の方が亡くなったと言われる。
生まれる前のことでは有るが物凄く身近に感じる。
隅田川の桜見物に行ったら慰霊碑に黙祷を捧げよう。
浮かれているこの世の幸せの半世紀以上前に殺戮が有ったことを
きちんと胸に刻もう。

以下のURLに詳細を書かれている方がおりました。
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

命がけでネガ写真を守り抜いた人の貴重な資料写真が添付されている。
目をそむけたくなるような事実。もしこの写真がなければ、米国の無差別爆撃の
実態はあかさなかったであろう。
写真と絵を借用。

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東京では関東大震災の教訓を生かして、
公立学校の校舎を鉄筋コンクリート製に建て替えていました。
これは生徒を守るだけでなく大規模火災の避難場としての役割も担っていました。
横川国民学校もそのような校舎を備えていました。

 3月9日から10日に変わった0時から数分過ぎた時
米軍の空襲が開始されました。低空で飛行するB29から雨あられのように
焼夷弾が投下されました。木造の住宅に空から石油をまかれ火をつけられたようなものです。
おりからの強風に煽られ、30分も経たない内に下町中が火の海なりました。
人々は逃げ場を失い多くの人が犠牲になりました。

 そんな中、横川国民学校に非難してきた人、千数百名。
想像を絶する火勢により学校の敷地や校舎にも火が移ってしまいました。
さらに追い討ちをかけるように焼夷弾を浴びせられ、
避難してきた人の殆どが犠牲になりました。

 犠牲者の屍は炭化し。熱でおなかが炸裂、胎児が露出した妊婦もいた。
と井上氏の書は語っています。井上氏も気を失い命を落とすところだったが奇跡的に生き残った。そして「親子断末魔の声終始わ忘るなし。」と筆を置いています。




絵 吉野山氏提供とある

約熱と当日は凍るほどの寒さの日だったらしい。

*ドリフターズのいかりや長介さんも横川国民学校の出身で井上先生は彼の担任でした。
いかりやさん一家は横川国民学校の裏で文房具店を営んでいましたが、
静岡県富士市に疎開をしていたため空襲の難から逃れています。  
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以下は自分の備忘録として・・・!
 
 
小説「繭(まゆ)となった女」
小林美代子:講談社:昭和47年)から

 昭和20年3月10日。焼夷弾で街中が炎に包まれていく中で
本所横川町に住んでいた若い女性が、横川小学校の講堂に逃げ込んだ。
講堂は既に500人ほどの人々で埋め尽くされ、外は火の海。
もう駄目だと皆が覚悟を決めていた。

その時、一緒にいた将校が「回りは火に囲まれてしまった。
表は全滅だ。
扉の前も炎の海で開ることが出来ない。
自分たちでここを守る以外に生きられない。」と叫び、
皆で吹き込んでくる火の粉を消していく。

 しかし「二階に火がついたぞ!」と声があがり、
将校は「決死隊の第二陣出ろ、出るものはいないか、若い者でてこい」と叫ぶ。
講堂の校庭に面した防火用水池の向こうも火の海だ。
若い男が一人校庭に面した窓から飛び下りると、五、六人がそれに続いた。
以降小説から引用

用水池から、一メートルほどのこの火中では虫のような赤い手押しポンプで、
二階へ放水している。
あまりにも心もとない細い水は、たぎり立つ炎の中に一本の放射線となって頭の上あたりに、
そそぎこまれている。
ホースを握っていた一人が、低空のB29から、油脂弾か、焼夷弾の直撃を受けて、
人の形のまま火になって倒れた。私は思わず顔をおおった。・・・・・

決死隊に出た人たちは助かったのか、死んだのかはわからない。
ただ一人講堂に、全身皮膚を泡立つほど黒く焼けただらせ、
堅く目を閉じたまま、わずかに呼吸していた。
この勇気ある若者が死ぬくらいなら、われわれ全員が一緒に死んでもよかったのだ。

この若者にとって、われわれ全員の命より、自分の命が尊いはずだし、
少なくとも同じ重さの命であった。私はその若者が生き残った私たちの身代わりの、
キリストの分身のように思えた。
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