Kennyのブログあれこれ

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金山城跡 新田神社

2011-03-09 18:02:10 | 日記
3月9日(水曜日)

湿った畑の草取りで半日かかってしまった。
玉ねぎの床にマルチをかけなかったので
苗の間・間に雑草がいっぱい(仏の座)
取りにくいことこの上ないが、ゆっくりゆっくり!取った!
蕪・青菜等全部元気よくトウが立って、黄色い花が咲き始めた。
緑の葉物は殆んどが黄色い花が咲く。
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午後ちょっと風が出てきたが時間がもったいないので
太田市の金山城跡に行って新田神社まで散歩する。

地図がわかりやすい・・!
新田神社に系図の説明看板が

天皇家の方々がご使用された石の腰掛
良くは知らないが元々この山、赤松の木が多く松茸が出たそうである。
それで誰だったかこの地区の山は天領だったとか!
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調べてみれば
金山城とは
標高240m、比高190m。

金山城(かなやま・群馬県太田市金山)は、
足利山地の西南部が渡良瀬川によって切り離された地塊の
南端に築かれた難攻不落の大城郭である(『日本城郭大系』)。
周辺には多くの出城(北城、坂中城、西城、見附出城、八王子砦など)
が配された。

文明元年(1469)、
岩松(新田)家純の築城、長楽寺の僧・松陰西堂の縄張りとされる

文明十年(1478)七月、太田道灌が訪城
。三日間滞在し、松陰西堂と兵書などについて雑談、城を見学し、
「天下の名城」と讃えたという。

その後、実質的な城主となった横瀬(由良)氏の時代に全盛を迎え、
上杉氏、武田氏、後北条氏、佐竹氏など戦国の雄に取り囲まれ、戦乱に見舞われた。
永禄六年(1563)に武田信玄、翌七年(1564)は上杉謙信が攻めたが落ちなかった。


しかし、天正十二(1584)、北条氏政の謀略で小田原城に誘い出され捕らわれの身となった
城主・由良国繁と弟・長尾顕長(館林城主)の帰還を条件に開城し、後北条氏の家臣が城番として配置された(『日本の名城・古城事典』『現地説明板』)。

天正十八年(1590)後北条氏の滅亡とともに廃城。
江戸時代には金山「館林」として徳川幕府直轄地となり、
良好な城跡遺構を遺す結果となったという。

関東の名城に選ばれる山城で、相当の規模をもっている。また惣石垣の中世城郭として大変貴重である。
しかも、随所に中世の山城らしい遺構も混ざっており、
見所は豊富である。
また、非常に整備も行き届いており観光地としても多くの人を呼んでいるようだ。
ただ、復元が完璧にやられ過ぎており、どこまで遺構なのか復元なのかがわかりずらい。
本丸~三の丸は、神社などの建物が乱立し、遺構が失われている。


写真は軽ハイキングで撮ったもの・・・(後で少し勉強しよう@@;)



大光院「呑龍様」の名で広く知られている大光院(だいこういん)は
金山南麓にある浄土宗の寺院で、正式には義重山新田寺大光院といいます。
慶長18年(1613)に徳川家康により、その祖とした新田義重追善のため、
寺領300石で呑龍上人(どんりゅうしょうにん)を開山として創建されました。
呑龍は生活困窮者の子供を弟子として引き取って養育、その高徳により、
現在も「子育て呑龍」として厚い信仰を集めています。

毎年母がバスで私を連れてきた。
幼い時の写真がある。子育てを呑龍様に託したらしい。
帰りにお菓子を買って貰えた。
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