稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

高齢の高段者

2017年01月30日 | 剣道・剣術
やがては自分自身も高齢になる。
だから自分自身への言い聞かせ、自戒として書いておく。

若い頃は身体が動くので問題は無い。
やがては加齢とともに足腰が弱ってくる。
打ち込めたはずが打ち込めなくなり、捌けるものが捌けなくなる。

恐らく悩みながら、徐々に剣風が変化してくるものなのだろう。
変化したなかで、若い者に打ち込めたり、捌いたりする技が身に付くのだと思う。
熟練、塾達、老練、錬達・・・・。しぶい老剣士になれたら良い。
そして決して見苦しく打ち込んだり、見苦しく捌くことは止めようと思う。

いままで出会った八段先生はみんな素晴らしかった。
こちらがどのように攻めて打ち掛かっても捌かれる。
捌かれて、捌かれて、打つ手が無く、居付いてしまうとそこをすかさず打たれる。
まるでお釈迦様の手のひらの上の孫悟空のようなものである。
仕方が無いので最後は基本通りに打ち込んでいくしかなくなる。
28日の土曜日の互礼会に来られたM先生、S師匠、S先生がまさにそうだ。


(1月28日、大阪府剣道道場連盟の互礼会、長正館にて)

私が心掛けているのは相手が何段だろうが、最初の一太刀は真剣勝負だということ。
金曜日の騒動(勝手に騒動と呼ぶ)は、師範が私を捌けなかったのが原因だ。
師範の体調が悪いのか、師範の攻めや威圧感はほとんど感じられなかった。
守りは固いので、探り足、攻め足で、間合いを詰め、何回か打ち込んだ。
打ち込んでも、変に避けられるだけなので、乱戦気味だったのは確かだ。

打ち込みを見事に捌かれたら「参りました」となるのだが、
最後まで見事な有効打突はお互い無かった。

元々、師範とは剣風が合わないというのもある。
しかし、どんな相手でも合わせるのが八段ではないのか?とも思う。
合わないからと言って、相手を全否定してしまうような発言はいかがなものか。
(昨年辞めたJMは人格までを否定され辞めることを決意したのだ)

自分が高齢になって捌けなくなったらどうするか。
素直に相手の強さを認め、その上で相手に何らかのアドバイスを与えたいと思う。

そして今回の稽古としての反省だが、稽古は稽古と割り切り、
師範を動かし、動いたところを、見事な面に打ち込めるように稽古を積むと誓う。
剣道は自分自身との戦いなのだ。
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