石川県能登地方の景勝地として知られ、その形から「軍艦島」とも呼ばれる
見附島(同県珠洲市)の一部が能登半島地震の影響で大きく崩落した。
2022年の最大震度6弱、23年の最大震度6強の地震でも一部が崩壊したが、さらに拡大。
地元住民は衝撃を受けていた。
見附島は珠洲市の海岸近くにある小島で、最高所の標高は30メートル近くになる奇岩。
今回の地震後、船首と船尾に当たる部分が崩落し、土砂が周辺に積み重なった。
見附島を見に来ていた同市の小木勇希さん(42)は「子どものころから見慣れた景色が別物になってしまった。
これまでの地震でも崩れていたが、今回の被害は比べものにならない」と話した。
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軍艦島を始めて知ったのは高校2年の終わりの昭和48年(1973年)3月だった。
前の年の修学旅行の仲間7人のうち5人と、1年後輩の1人、計6人で、
奈良から能登半島に向けて旅行しようということになった。
片道約500キロ。
3人は50ccのバイク2台+自転車、あとの3人は電車。
満足な地図も、携帯電話も無い時代。
確か時刻表と、授業で使ってた日本地図帖が頼りだった。
2組(自転車は同じ道だが早めに出発したので実質3組)が、
行き違いをする事も無く、途中で落ち合い、旅を続けられたなあ、と今から思えば不思議でもある。
金など無いのでバイクにテントを2つ積んで走った。
3月の北陸がどんな天候なのかも調べず今から思えば無謀すぎる旅だった。
もう半世紀以上も前のことである。
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(金沢駅前にて、商業車の原付、ヤマハFB50)
(金沢城前で、左は吉澤君)
(東尋坊で、自転車の塩浜君と吉澤君)
雪混じりの雨が降る過酷な旅だった。
防寒具など無く、セーターの上に薄いウィンドブレーカーを2枚重ね着していただけ。
ともかく寒くて寒くてずっと震えてた。下着も手袋もぐっしょり濡れた。
驚くべきことに、私は雨具さえ持ってなかったのだ。
2枚重ねのウィンドブレーカーは無力過ぎた。
今なら絶対にやらない。
(威風堂々たる軍艦島)
この時に出会った軍艦島は高校生の私にとって衝撃的だった。
いかにも日露戦争当時の戦艦を思わせるその景観は軍艦好きの私の心を揺さぶった。
当時は観光化もされず、簡単な案内板があった程度だと記憶している。
威風堂々たる軍艦島。
軍艦島の正式名称が見附島だと知ったのはずいぶん後のことだ。
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宿泊はテント、金沢駅泊のあと、能登では珠洲駅前の食堂兼民宿に2泊だか泊めてもらった。
後輩の親戚の経営だったので好意で宿泊費を無料にしてもらったのだ。
禄剛崎の灯台。
大多数はバスで行ったが、私は起きれなかった。
連日ずぶ濡れで走って風邪をひいたんだと思う。
禄剛崎の灯台に行けなかったのがずっとずっと心残りだった。
帰りは金沢駅泊、最終は琵琶湖の湖岸泊。
真っ暗闇の中でテントを張り、そこらの井戸で水を汲んだ。
井戸水は鉄のニオイと味がした。
赤い井戸水。真っ暗だから飲めたと思う。
で、2007年にバイクでリベンジ。
下はその時の軍艦島。
バイクはヤマハSR250.
2007年のバイク旅行は自分のサイトに旅日記として書いた。
http://makom.my.coocan.jp/makom/kakurega/bike/SR250/touring/2007/2007noto.htm
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2009年には夫婦で車で行った。
2007年も2009年も、泊まったのは珠洲市の谷野旅館。
谷野旅館のおかみさんに聞いたら、廃線になって、珠洲はすっかり寂びれてしまったとの事。
多くの食堂や旅館は廃業されたらしい。
今回の地震で思い出の軍艦島が壊滅してしまった。
形あるものはいつか滅びるとわかってはいるが寂しい限りである。
何かしらの支援募金をするつもり。
現在、珠洲の谷野旅館も周辺の民宿も宿泊は出来ない。
復興したら、必ずまた、能登に行こうと思う。
変わり果てた軍艦島もしっかり見て受け止めよう。
ともかく、がんばれ、能登。
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