HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-21 【伯耆富士 大山】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-21

【伯耆富士 大山】

僕は大学生時代、ワンゲル部に属していた。
だから、スポーツとしての山登り、山歩きが中心だったし、何よりも体育会系クラブ活動の常として、団体行動重視、規律中心の生活だったから、本当に山の良さを感じたことは少ない。 

しかし、「広く山野を跋渉し、自然に親しむ」ことが、ワンダーフォーゲル活動の原点だった事には変わり無かったし、厳しい日々のトレーニングによって基礎的な体力も備わった。
長期の山行に備えての学内での合宿も、精神面での強化に役立ったし、春秋開催される神戸女子薬科大学との合ハイ、春の関西合ワン等の対外行事では多くの知人・友人を得た。

特に、冬のスキー合宿は、部外の人達を募ってのオープンスキーで、バイトとスキーを兼ねた貴重な体験が続いた。それに続く、早春の島旅では山とは違った様々な体験があったし、広い日本を存分に味わった。
僕の大学生活は、神戸商科大学ワンダーフォーゲル部(Kobe University of Commerce/Wander Vogelの頭文字を採って、特大のキスリングの背中には、KUCWVの切り文字が書かれた)という組織を中心に廻っていた。
大学名はその後単科大学だと言う事でKCEと変えられたが、今でも僕たちは略称としてKUCWVを使っている。

山行の一つ一つは、年間の活動報告の形で毎年発行されていた同部部誌『やまなみ』の、6号から9号に詳しいし、綴られている記録を紐解きながら、記憶の断片を広げる事は今でもいとも簡単に出来てしまうであろう程に、僕達の山行は充実していた。

ひ弱だった新人時代から、四年間が過ぎて、僕達の同期生はそれぞれ社会人としての道を歩みだす頃には、体力・精神両面で信じられないほどの強靭さを持つまでに成長していた。
学力は??だったが間違いなく、人間形成上最も充実した時間を、そのワンゲル生活時代に過ごしたのだと今も思っている。
しかし何故、山に登るようになったのだろう。きっかけは何だったのだろう。

その答えは簡単な事だ。

瀬戸内海の、小さな漁師町に生まれ、目の前に広がる瀬戸内海に浮かぶ淡路島程度しか高い山を知らなかった事も、大きな要因だった。
遊び回る範囲には、全く山と名前のつく場所などなかった播州平野真っ只中の地形。
明石市の最高地点は、海抜100㍍には満たなかったし、時折釣り舟に乗って出る、海からの眺めでも、微かな段丘の遥か北に、雄岡山・雌岡山(おっこさん、めっこさんと呼んでいた。御神体は男性器、女性器で何ともエロティックだったが、子供の頃には近づけなかった)が、辛うじて丘陵地の中に二つ抜きん出ている程度にしか過ぎない場所だった。
だから大学時代までに、自分の足で登った最も高い場所は六甲山頂だったし、それとても931㍍の高さの殆どをバスに運ばれて行くに過ぎなかった。
高校三年の春、葺合の熊野町(現在は、神戸市中央区。新幹線・新神戸駅の直ぐ東にある)から沢詰めで摩耶山に登っているから、考えてみれば、最も高低差のある距離を歩いたのはきっとそのクラス会の時ではないだろうか。その程度である。
突然、山に行くようになってしまった僕を、高校時代の仲間たちは不思議がった。
しかしその山歩きのお陰で、そして長期の合宿の終わった後の明石へ戻る道中で、四年間の間に僕は、実に様々な体験をした。
最初の長期合宿地・東北からの帰路、長江和子さんに出会った。
沖ノ永良部島・徳之島では元気な小学生達と遊んだし、諌早にツーちゃんも訪ねた。
秋田・大曲では大森政輔・玲子兄妹との乳頭温泉郷からの秋田駒ガ岳登山も出来た。
福岡・志賀島では、元気な小学生二人組とさんざん暴れ回ったし、豪雨の教室で読んだ、楳図かずおの「ヘビ少女」は今でも恐怖漫画の原点のように僕の頭の中にこびりついている。
そんな体験を積み重ねながらも、僕はワンゲル時代には時間的な余裕が有り余っていたにもかかわらず、個人的な山行は全くしていない。
確か卒論の仕上げの前に気分転換しようと出掛けた最後の合宿、上高地から、蝶・常念・槍の縦走の後に新穂高温泉からのバスで高山に下りた時、同行していた林正朗に誘われて、富士山に登る事になっていたのだが、車内だったか停留所だったかに周遊券を落としてしまうというヘマをやって、結局は独り高山泊りになってしまったこと、後にも先にも長期合宿の終わった後、別の山に登ろうとしたのはこの時きりだったと思う。
そして、不思議にもこの時登れなかった富士山は、結局今に至る長い年月、一度も登山の機会に恵まれずにいる。今では悔し紛れに、「富士山は登る山ではなく、眺める山なんだ」と言っている。
だから、富士山が望める場所では必ずその姿を確かめようとする。 

大学最後の山は、卒業の年の冬、四年間騒ぎ回った長野・小谷村の蕨平スキー場。
稗田山の裾野に広がるその狭いゲレンデだった。
現在は、乗鞍国際なんて気取った名のスキー場に変身してしまっている。

石田守男さんの民宿は4年間、石田恭朗さんの民宿(木渡花スキーハウスとか言う名前が付けられていた)は2年間、その部屋の隅々まで僕達の笑い声で溢れ、宿からゲレンデまでは現在ではとてもスキー客など呼べそうにない長い道程だったけれど、それなりに愉快な道だった。
僕達はそこで、参加した人達の食事や風呂の準備、スキー道具類の手入れ等を手伝い乍ら、昼間はしっかりゲレンデで滑っていた。

そのワンゲル時代に登れなかった多くの山に、社会人に成ってからは幾つも足跡を印している。
その殆どが単独行だったから、記録として残す事など無く、自分自身の記憶だけが今も残っているに過ぎない。
富士山以外の3000㍍は全部登る…と豪語していたのもその頃だったし、学生時代に登った折の劔岳は五万図では3003㍍だったから、格下げ?になってからも歩いた。
その劔岳の東、黒部渓谷をダムから欅平まで途中阿曽原で一泊すれば歩ける…と出掛けたのが、昭和51年秋でそれ以降本格的な山は歩いていない。

ちょうど大学に入った年に新潮社から刊行された深田久弥の「日本百名山」が、同社から文庫本として刊行されたのが
昭和53年、その後中高年登山ブームなどがマスコミの喧伝?で広がるや、バイブルのごとく「百名山」が人々の口に上った。
たしかに「目標」に数を置いて一つ二つと消し込んでゆくのは励みにはなるだろうけれど百名山には全く興味はなかった。
歩くのは専ら土日に有給休暇が使えたから二泊か三泊が大半で、山仲間との日程調整の必要がない単独行ばかりだったけれど、結果的に百名山に記された山が多い事に気付かされたのは皮肉なことだった。
九州や北海道までは足を運べず、遠出したとしても北か南のピークハントや、八ヶ岳辺りが関の山だったから、当然の帰結だったかも知れない。
考えてみれば、学生時代のような長期合宿など再現することは社会人には叶わないことだから。

地元兵庫の最高峰・氷ノ山も何度も歩いたけれど、最も多く登ったのは鳥取県の西にある大山である。
標高1714㍍、南に広がる蒜山高原からのルートはあるが連山の形でなく、独立峰として孤高を守っている。
大山を「だいせん」と読めるのは、山好きな人か、西日本に住んでいる人だと思う。
現在住んでいる神奈川県には、昔からの信仰登山の山、大山(おおやま)があるため、余計にそう感じる。

眺める位置によって様々な姿を見せる大山は鳥取県の西部にあり、その秀麗な山容から旧国名の伯耆を冠して伯耆富士と呼ばれているし、現在の島根県、旧出雲からも良く見える為出雲富士とも呼ばれていると聞いた。
最後の大山登山となったのは昭和49年秋、初心者女性ばかりを引き連れて桝水高原に下った後、出雲市駅前の紙屋旅館に泊り、翌日出雲大社に詣でた日、山門前の蕎麦屋の二階から見事に澄み切った空の果てに眺めた大山は、遮る前衛の山などなく孤高を守っていたし、間違いなく出雲富士だった。
しかし、伯耆の国から眺める大山は、例えば幾重にも1000㍍程度の山並みが続いている中国山地を縦断している伯備線の車窓からは、前衛の山々が邪魔をしているため山地を抜けてからも暫くは見えない。

僕が始めてその姿を見つけたのは、二度目の山陰一人旅で夜行列車の途中乗換えを失敗し、広島まで行ってしまった昭和43年早春、三次から乗った芸備線のディーゼルが新見駅から再び備中神代を過ぎ、山深く分け入って幾つかの駅を通過し、大きく蛇行する川の流れに沿って線路も大きくカーブした、伯備線の根雨・黒坂間だった。雪を頂いた山が目に飛び込んだのは、本当に唐突とだった。

早春の伯備線車窓からの景色は、所々に雪の跡はあったものの、近くに見える山並みには残雪の気配が全くなかったから、唐突と目に飛び込んだ真っ白なドーム状の山容に「間違いなくあの山が大山だ」と気づいた。
深夜の、備後落合駅での乗換えに失敗して遠く広島まで乗り過ごしてしまった僕は、しかしのんびりと又米子に向かって引き返す途中だった。

1時間足らずの後に佐野礼子に会えることになっていたこと、その再会が約束されている米子駅までの車窓から、それまでに何度も何度も彼女から聞かされていた秀麗な山容を、初めて自分の目で眺めたことで一層浮々した気分になっていた。

その姿は一旦視界から無くなるのだが、山間部では見ることの出来なかったなだらかに延びた裾野部分までが、江尾を過ぎ伯耆溝口、岸本あたりでは全て東に広がった。
米子駅に出迎えてくれた彼女は、興奮気味に伯備線からの大山の見事な山容を話す僕の為に、皆生温泉からの大山を見せるべくバスに乗せてくれた。
皆生の海からの島根半島方面に続く景色もすばらしかったけれど、日野川河口で眺めた大山は今でも一番見事な大山だと思っている。
孝霊山には雪はなかったが、大山はたっぷりと残雪を頂いたまま、早春の淡い光の中に輝いていた。僕たちは、まだまだ冷たい海からの風の中で、長い時間大山の優雅な姿を見ていた。
しかし、アクセントのように、ほぼ東西方向に屏風状に広がる大山の稜線が真ん中辺りにあるピークの剣が峰から次第に高度を下げ、もう一度少しだけ高さを上げるその頂きが三鈷峰と名づけられたピークであることを知ったのは随分後のことになる。
三鈷峰は稜線からはずれ高度もかなり低いから、登山口のある南光河原からは頂き部分が辛うじて望める程度だし、裾野を西に回り込んだ桝水高原からは山頂部分に隠れてしまうし、南壁が見事に見渡せる鍵掛峠あたりからは見えないし、伯備線からもかなり米子寄りにならないと見えて来ない。 

大学一年の春、ワンゲル入部の最初に新人練成合宿があり、蒜山・大山ルートも選定されていたが僕は入部が遅れた所為もあって参加しなかった。
だから憧れの山のまま大学時代には終ぞ登る事はなかった。
大山は大学四年の春に、合ハイが縁で知り合えた佐野礼子の故郷の山だったし邂逅直後の会話には必ず登場していたからますます憧れの山として僕の中に膨らんでいった。
邂逅の夏に訪れた米子では、約束はしていなかったけれど間違いなく、二人で登山口のある大山寺まで登っただろうと思う。
しかし、運悪く津山線で発生した事故の影響で乗っていた列車は鳥取止めになり、米子到着が大幅に遅れてしまったせいで楽しみにしていた大山へは行けなかった。
石垣だけが残されている城址公園、米子・湊山からの展望も、頂上付近は厚い雨雲に覆われ裾野だけしか見せてくれなかったその日の大山。
翌年早春の二度目の旅で、やっとその姿を僕の前に現した大山。
僕がその山に登った最初は、だから昭和44年夏だった。
佐野礼子は大学三年生になっていたが交流は途絶えていた。
如修塾を退寮し、阪急岡本駅から保久良神社への途中の奥田さん宅に下宿を始めた彼女とは、時折手紙の交換はあったものの顔を合わす機会は皆無だった。
しかし僕達はたった一度だけ、二人にとっての懐かしい場所の一つ、国鉄・摂津本山駅の前にある喫茶店で2時間近く喋る機会を持った事がある。
旅行部の活動の一つだったか、別に始めたのだったか、彼女の口からはユースホステル活動についての様々な話題が飛び出してきた。
四季の明確な日本、それぞれの季節に旅心をそそられて出掛ける小さな旅には豪華な宿よりも旅人同士の語らいの楽しみがあるユースが一番だ、と熱っぽく喋る彼女を前にして、僕は随分心が和んだ。
半年余りの、ささやかなかかわりに過ぎなかった日々を忘れられずに居る僕とは違って、もっと多くの体験を学生時代に積みたいと話す彼女を前にして、僕は自分自身の話を何一つ出来なかった。
効き過ぎる冷房に、
『自然の風じゃないと、喉がおかしくなる』と言った彼女の笑顔を見ながら
「そうだね。僕はこの夏、一度大山に登ろうと思っている」と告げるのがやっとだった。
気持ちの中に持っていた(一緒に登らない??)という一言は結局言い出せなかった。
しかし、そんな僕の心などすっかり見透かされていたのだろう、彼女はさりげなくこう呟いた。
『今年は米子には帰らない。ユースでいろいろやらないといけないし』その後で、しかしこうも付け加えた。
『大山の縦走路は、毎年崩壊が進んでこのままだといつか縦走出来なくなるって言われている。早く登っておかないと時間がないかも知れない』

僕は独りきりその夏の大山に登った。
小さなサブザックが一つだった。
米子駅前からのバスは、懐かしい駅前商店街を抜け、時間が止まっているのではないかと感じるような景色の中を走り、大山寺の下に広がる博労座駐車場に着いた。
古刹大山寺の門前に広がる観光地の雰囲気が少し目障りだったから、緑濃い大山の北面を間近にして足早に登山口に向かった。
みやげ物店が軒を連ねている場所からはかなりの高度差で、大山北壁が見渡せる。

▲ 大山登山の拠点博労座駐車場からの大山。米子からの定期バスが運行されている。夏山登山道はなだらかに見える。▲

南光河原に架かる橋の下は、水など流れてはいなかったが、下流はるかに町並みが見渡せた。
大山北壁の崩落によって運ばれた無数の石クレが河原を埋め尽くしている。
雪解けの頃が最も崩落の激しい時期だと聞かされていたのだが、想像以上の光景を、登山口に至る前に見せ付けられてしまった。
現在では、その河原の石を大山山頂に持って登ることが提唱されていると聞いた。
ささやかな自然回復への助力なのだろう。
そのことを耳にして僕は、昔山頂から持ち帰った石をいつか戻しに行かなければならないと思っている。 

夏山登山口は、南光河原に架かる橋を渡り、桝水高原への車道を少し登った場所から始まる。
深い木立の間に続く石段は長年の風雨に晒されて奇麗に風化し、多くの人々に踏みしめられた結果、不規則に段差が出来たり歪んだりしている。
苔むした石段は延々と続いているように感じられ、そのまま大山寺周辺に散在する宿坊等に至る小道を幾つか分岐していたりする。
冬の厳しい寒さに耐え、代りに雪解けの豊富な水に恵まれて鬱蒼と茂る杉の深い木立は、いつしかブナの木立に変わり、石段が果てる頃には根がらみの、自然なままの山道になる。
登り易い山だとは聞いていたが、夏山シーズンだった為か、とにかく人が多いのには閉口した。
登山道は整備されているし、深い木立の中を縫う道は、山自体が独立峰のために殆ど尾根伝いの一本道。
多少のジグザグはあるが、直登に近い感覚だったから、六合目の小屋辺りまで一気に登ってしまった。

▲ 六合目の避難小屋からは元谷への分岐路が付いている。東には三鈷峰が見渡せる。▼


そこからは、北壁から一気に落ちる見事なガレが見渡せる。
大山寺裏から元谷を経由しての道が合している。
早朝に登ったのか、山頂で一泊したのか、既に下山してくる人達にも出会う。
大半が何人かのパーティ、グループだから、ブナ林の中を歩く頃は良かったが、森林限界を越えた辺りからの石屑の道では、下って来る人達の落とす石が危ない。
時折、登って行く人達が蹴落とす石もあったりして、追い抜きすれ違う場所もあるのだろうが初めての登山道だったから勝手が分らず、度重なる落石に驚かされたし、結果的にこの登山道の荒れ方が、主脈縦走路の荒れ方にもつながっているのだろうと感じた。

▲ 頂上に近づくほどに、三鈷峰が目立つし、その東には長い吊り尾根を持った勝田が山が見える。▼


ダイセンキャラボクの純林が見事に広がる頂上台地の手前では、元谷に向かってストンと切れ落ちた場所があり、これも毎年雪解けの頃には、徐々に侵食が激しくなっていずれは登山道の付け直しが必要になると聞かされた。
頂上に向かって左は見事なお花畑の広がる場所。
右手はその侵食によって登山道さえも消されようとしているガレ場。
日本海からの冷たい風に晒され、深い雪が解ける折にその岩肌も一緒に削り取られて行くという自然界の摂理。
伯備線からの遠望、伯耆富士と呼ばれる優美な姿からはとても想像できない荒々しい姿を目の当たりにして、礼ちゃんの言っていた、『時間がない』を実感していた。
夏山登山道の両側に広がる、見事な北西稜のブナ林の保護も行われているし、頂上台地を埋めるダイセンキャラボクの濃い緑の純林は、天然記念物に指定されていると聞いた。
しかし、肝心の登山道それ自体が崩壊してしまえば..と寂しい気持ちになってしまった。
桝水高原からの登山道と合するあたりには小さな池があった。
地図など持たずに登ったからそれが池なのか、単なる水溜まりなのかは知らなかったが、咲き残った高山植物、薄いピンクのフウロの仲間だけが見事な群落を作っていた。
大山山頂小屋は超満員だった。
僕は小屋での休憩を諦め、初登頂(?)記念にバッジを二つ買い求めただけで、大山山頂碑のある台地に登った。
小屋から至近の山頂はしかし、石ころ一つ無く茶色の土が踏み固められた異様な光景だった。
風化が進んでいる。
その後何度も登ったその頂上碑周辺、山頂小屋周辺の雰囲気は殆ど変化が無い。
この頂上台地そのものも崩壊が進んでいるのだと、随分経ってから聞かされた。
大山主脈縦走が禁止されたと言う記事を読んだのは、何時だったろう。
縦走路のあちこちが崩落し、完全に踏み跡の無くなってしまった個所も出来、夏山シーズンを前に通行止めの措置が取られたという記事だった。
東京生活を始めて以降は、遠い地のこと故に新聞記事にもならないし、縦走が緩和されたという話は聞かない。
険峻な登山路も元はといえば人がそこを歩きたい為に作った道。
崩落は自然の摂理だし、人的な加工は一層の自然破壊に繋がる筈で、これ以上手を加えないで欲しいと考えたりしていた。
富士山同様、眺めるだけの山になってしまったのだろう、少し寂しい気もする。 

頂上からは、剣が峰が凛々しい姿で東に見え、その右に異様な突起状の烏ケ山が見える。
高度をどんどん下げて稜線は蒜山高原方面に延びているのだろう。
西に遠く微かに三瓶山が、南は老年期に入った中国山地の、軟らかな稜線が幾重にも重なっている。
目立って高い山が無いのだから、南方遥か彼方には、天気さえ良ければ四国の山々さえも望めるのではないか、と思われるほど大山は孤高を守っている。

北は日本海。島根半島の先端、美保関に向かって、弓ヶ浜半島がその名の通り見事な円弧を描いている。
そのような好天はむしろ秋の方が多いと山頂小屋で教えてもらったのだが、二時間余りのアルバイトで得られるその景観は、長い間憧れの山だったということもあって一層僕を楽しい気分、得意げにさせてくれた。
願わくは....と一瞬感じたのは自然だろう。
子供の頃から日々の生活の中にこの山を見、遠足登山を何度も果たしてきた、佐野礼子の故郷の山。
自分の故郷の山を持たない僕にとっては、特別意味のある山になった。 

一息いれて縦走路に入った。
夏山登山道の混雑とは違って、静かな道だった。


▲ 大山山頂碑の辺りからの剣が峰、こちらの方が山頂碑のある場所より高い。左は烏が山。▲

▲ 縦走路途中から、優雅な吊り尾根を持つ勝田が山と細い尾根道が続く縦走路。左端にユートピア小屋が小さく見える。▲

しかし、剣が峰までの途中の縦走路は、尾根通しの道ばかりではなく、何度かは稜線を外れ、時には樹木の茂る中を抜けて行くこともあったりして、聞いていたほどに荒れてはいなかった。
ただ、所々土塊がバラバラと音立てて崩れる場所や、道が途切れて飛び越えなければならなくなっている個所も幾つかあったりした。
しかし、想像よりは軽度だった。
軽く幾つかのコブを越え、剣が峰に着く。
屏風状の大山のちょうど真ん中辺りに位置するその場所からは、西の外れの1714㍍三角点頂上台地がドーム状に見える。
南には蒜山高原方面に続く尾根を従え、異様な山容の烏ケ山が近い。
縦走路は少し登り気味に、先ほどまでとは違って殆ど緑の無い乾燥しきった石屑道になる。
やがて下り一方の感じになり、途中で南に烏ケ山の異様なトンガリ帽子への道を分ける。
昭和39年春、ワンゲルの同期のメンバーの何人かは、蒜山からこの道を辿ってきた筈だ。
上りはさほどのことは無いのだろうが、下りは滑落の危険も十分にある様な峻路が続いている。
北壁の崩落だけが話題になっていたが、南に延びるその稜線部分は同じように危険な状態だった。


▲ 縦走路からの北東望、真下に元谷を見下ろす。右のピークは三鈷峰。▼



▲ 三鈷峰から縦走路東端を俯瞰する。下は、左端の辺りからユートピア小屋を見下ろした図、ピークは三鈷峰。▼




ユートピア小屋が真下に見え、なお高度を下げた稜線が東に続く幾つかの山脈を見渡す辺りからは急激な下降路。
ガラガラの石屑道で、晴れて乾燥している場合は問題ないのだろうが、雨の降った後などは難儀する場所だろうと感じた。

高度差は200㍍近くあるだろうか、一気の下りでコンクリート製のユートピア避難小屋に着く。
それまでの荒々しい石屑の道とは違って、小屋周辺はちょっとしたお花畑が広がる優しい草原。
主脈の東端に位置するその場所からは、笹原の登山道に変わっていた。
主脈稜線は随分高く見える。午後の陽射しに荒々しい北壁の襞は一層陰翳を濃くしていた。
そろそろ下山だ、と思いながら僕は、下り道で小屋の下から続く小道の先に見つけていた、一つのピークが気になっていた。
そこに登れるという事はその時まで知らなかった。
三鈷峰という名前を分岐の標識見つけた僕は、迷わず寄り道する事に決めた。
平坦な道だが、余り辿る人がいないとみえ背丈よりも高く茂った笹原をかき分けて、そのピークの取り付きに辿り着くと、北壁はまた少し違った影を見せる。
取り付きからはかなりの急登だったが狭い頂には、やはりユートピア小屋までの下りに見たと同じ、脆い石屑が累々と重なっていた。







暫く、誰も居ないその頂で僕は遠く次第に薄霞がかかって行く弓ヶ浜や米子の辺りを眺めていた。
それ以前に何枚か写していた大山の写真。
伯備線からの大山の、その左端にちょっとしたアクセントになっている三角錐が今自分の座っている三鈷峰だった。
何度かの米子訪問の折、駅前商店街のつるだ屋という屋号の和菓子屋さんで買った「三鈷峰」という名の和菓子の包み紙に描かれた絵を、初めて伯備線の車窓から残雪に輝く大山を眺めた日を思い出していた。 

夏山登山道は屏風状にそそり立つ主脈の北西稜がメインルートになっているが、登山道は他に大山寺側から北東に延びる稜線を辿る逆ルート、元谷から夏山登山道の六合目小屋に至るルートもあった。
しかし、いずれのルートをとっても三鈷峰は縦走路から外れて孤高を守っている風情だったから、敢えて寄り道をしようという人以外は登ることはなかったのだろう。
僕も三度しか登っていないけれど、その後何度も眺めることの出来た、伯備線や山陰本線の車窓からの優雅な山容の山なみの東の端にあった微かな突起は初めてそこに登った夏以降見逃すことはなかった。
静かすぎる頂きで昼寝したこと、乱舞するトンボに安眠を妨げられたことも、遠い遠い日々のささやかな山旅の記憶。
分岐に戻り、大山寺方面への登山道を下る。


▲ 三鈷峰とユートピア小屋の中間部に元谷経由、大川寺方への道が付いている。そこからの大山北壁と、右端が大山山頂碑のあるピーク ▼


北壁の直下に近づくように登山道が付けられていたから、崩壊する山肌にほんのわずかに残る緑と、灰色から白に近い石屑が、午後の逆光線の中で、一層不気味な陰翳を付けていた。
一般的な登山道ではなくショートカットとして利用されていた元谷への下降点は、もう一つの登山道、北東方に延びる稜線を辿る道との分岐になっていた。
元谷へは、まさしく砂走り風に、ガレの中を滑り降りて行く。
しっかりした登山靴でも靴紐を固く結んでいないと石屑が侵入するし、下手に転倒でもすれば、上から石屑が降ってきそうなほどの急傾斜だし、所々にポッカリと穴が開いたように水の流れの跡があったり、巨大な岩を巻いて下るしかない個所もあったから、危険極まりない下降路だった。
大山の崩壊を決定的にしている雪解けや豪雨の後、そこは崩れた岩と水が流れ落ちる沢筋になる筈で、途中二個所の水場には豊富な水が流れていた。
何とか清水という、粗末な板切れに書かれた札が下がっていた。
ふだんは、特に雨の少ない夏場はまったく水の枯れたガレ場なのだろう。
石屑がドタ靴に幾つか入ってしまう。
危険な傾斜が緩慢になり、大きく右に折れて広々とした河原に出る頃、パラパラ雨が降ってきた。
青空と、黒い雲が異様なコントラストだった。
土石流防止の堰堤を越え、作業車用であろう黒々とした未舗装の道に飛び出す頃には通り雨も止んだ。
空は又夏の青空に戻った。
突然耳に入ってきた蝉時雨の中に人の声が聞こえ始める頃、大山寺の裏手にヒョッコリ飛び出した。
午後3時近かっただろうか。
大山寺は、深い森の緑の中に静かな佇ずまいだった。
鈍く光っている牛のモニュメントが横たわっていた。
長い石段を下り、幾つかの旅館・宿坊が並ぶ石畳を駆け下り、賑やかなみやげ物店の並ぶ辺りでもう一度、巡ってきた大山を振り返りたくなって南光河原に出てみた。
登り初めには気付かなかった三鈷峰が濃い緑の木々の上に、辛うじて頭だけを覗かせていた。 

その後、僕は何度も大山に登っている。
昭和46年晩秋、吉田秀夫達と登った折は山頂付近で雪に遭い、山頂の碑の前で悔し紛れの雪合戦はしたものの縦走は果たせなかった。
直後の椎間板ヘルニア手術でしばらくは山歩きを断念したが、会社の同僚達との山行を再開し、昭和49年秋、近所迷惑五人組と登った折は、全員が登山経験初めてというメンバーだったこともあって最初から縦走は諦めていた。
今振り返ってみればその秋、芒の穂が風に揺れ、吾亦紅や松虫草が咲き乱れる桝水高原に下ったのが僕の大山登山の最後になっている。 

昨日夜、かなり遅くなって東京駅に着いた。
9時50分発の通勤快速が発車するホームの反対側に、サンライズ出雲・瀬戸が入線してきた。
今年秋から走り始めた寝台電車特急である。
ブルートレイン出雲も残っているけれど、伯備線を経由して行くこの電車特急は、愛称通り朝日の中に浮かぶ大山を毎朝眺めながら走っているのだろう。

日野川の河口で、残雪の大山を見た日から30年経っている。佐野礼子が目敏く見つけて車が映り込んでいる画像。



【画像追加】
▼ 懐かしい日野川河口からの大山。皆生温泉から暫く歩いて眺めた大山は、もう何年も昔話。▼
 
▼ 暑い夏に上がった米子城跡からの大山は雲の中だったけれど、何年か後に会社の同僚と大山縦走の後に上がった折には薄く見えた。▼


コメントを投稿