HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-20 【恵那山から塩尻・みどり湖まで】

2004-12-31 | 【独り言】

ロマンチストの独り言-20

恵那山から塩尻・みどり湖まで】  昭和41年夏、限界に挑んだ中央アルプス全山踏破の記憶

長野県を中心にしてほぼ南北に連なる山脈は、日本アルプスと呼ばれている。
欧州のアルプスに似せて一般的に称されているその山脈は、飛騨山脈を北アルプス、赤石山脈を南アルプスと呼び、いずれにも富士山に次ぐ3000㍍級の高山を擁して日本の屋根に相応しく、登山家に親しまれている。
その二つの山脈に挟まれ木曽谷と伊那谷を従えて屹立する木曽山脈を、中央アルプスと称するのだが、最高峰の木曽駒ケ岳が3000㍍に少し足りず、他にめぼしい高山がないと言うだけで、南北両アルプスに比較して格段に低い扱いを受けている。
蛇足的に書くと、盟主・木曽駒ケ岳(標高2956㍍)は一般的な呼称にはなっているのだが、伊那では、西駒と称する。
これは、赤石山脈の北の端に孤高を守る、甲斐駒ヶ岳(標高2966㍍)を東駒と呼ぶのに対しての呼称である。

【前奏】
大学1年の秋だった。

幾つかの山旅の後、僕は始めて3000㍍級の山に登った。
その最初が、木曽駒ケ岳である。
午後になって中央本線上松駅で下車したKUCWVの一部隊は、特大のキスリングを背負って、パチンコ屋の騒音に少し気持ちを揺らしながら、駅前商店街を抜けた。
途中まではバス便か何かの利用だと信じていた一回生は、そのままどんどん歩き続ける上級生の後ろに黙って続くしかなかった。
広々とした河原に着いた頃には、秋の早い日暮れが迫っていた。初日のテントサイトはそこだった。

清々しい朝だった。
身を切るような冷たい風に急かされて、翌日早く木曽駒ヶ岳への上りが始まった。
かつての山岳信仰の名残が至る所にある登山道だが、僕達はその詳細を知る術を持ち合わせていなかった。
歩くコースや地形判断の為に欠かせない国土地理院の五万図は当時まだ共同装備として、PL・CLしか持っていなかったと思う。
勿論、ガイドブックの類も持ち合わせてはいなかったし、粗末な謄写版印刷のわら半紙に書かれた概略図だけが、唯一自分達の歩く予定のコースを知る術だった。
取り付きからの登りは寝不足気味で、30㌔以上の荷物に慣れていない僕達にはきつかった。
陽の射ささない西面の上りは、30分程度の歩行ではさほどの汗はかかなかったし、5分の休憩の度に、ゾクッと寒さを感じる位だった。
途中、粘土質の土に何度も足を滑らせ、かなり体力を消耗した。
真っ直ぐの、上り一本の径がほぼ90度直角に曲がる場所で、なお一層の急坂が眼前に現れたのにびっくりして倒れこんでしまった同じ回生の神吉の姿と、あきれたように彼を取り巻いた上級生の姿は、今でも奇妙に残っている。
とにかく滑り易い登山道だった。
深い切れ込みで木曽谷に落ちる木曽山脈。
その盟主・木曽駒ヶ岳への上松からの登山ルートは、登るにつれ御嶽山が霞みの彼方に雄大な姿を見せ、遠くに乗鞍岳を見晴るかす明るい径に変わって行く。
敬神小屋、金懸小屋などの名前もおぼろげに記憶に残っている。
途中には湧き水もあったし、散りかけていた紅葉が冷たい風に舞っていた。
頂上直下の石垣では、初めて寒々とした風から身を守ることが出来た。
2956㍍の山頂では、それまで全く見ることのなかった伊那谷を隔てた稜線の東に、薄く霞んだ八ヶ岳と南アルプス。
そのやまなみの間には富士山が見渡せた。
今でこそ、それらのシルエットを一瞥しても、山の名前を言う自信はあるのだが、残念ながら参考にすべき文献・資料の類を何も持たなかったその山頂では、富士山だけは、教えられるまでもなく識別できたのだがそれ以外、先輩達の指差す彼方の山々をただ眺めているだけだった。
その山行では、木曽駒ヶ岳から南に主稜を縦走し、南駒ケ岳から再び木曽谷に下る予定になっていた。
しかし、夜半からは強烈な風雨となった。
一夜明けて、必死で吹き飛ばされそうなテントをかばって過ごした夜来の風雨は多少おさまってはいたが、宝剣岳の通過には危険が多いと言う結論で予定された縦走そのものは中止された。
残念だと言う感覚と、やれやれという感覚が交差していた。
雪になりそうなほどの冷たい雨にうたれながら、すっかり葉を落とした樹林帯を抜けて、上松から一駅北の木曽福島駅に下りた。
たった一つのピークを踏んだだけだったが、それが中央アルプスへの最初の足跡になった。
昭和39年秋だった。


☆  ☆  ☆


【序章】

 ▲ 甲斐駒ヶ岳からの中央アルプス全貌 左端に恵那山、木曽山脈の全体、薄く御岳の遠望、その右には経が岳なども見える。
これが昭和42年夏に歩いたやまなみで、下はその拡大画像で越百辺りから駒ヶ岳まで。

大学3年の夏は、さまざまな議論の末、当時愛読していた「山と渓谷」に、殆ど全山縦走をする人が居ない、と書かれていた中央アルプスに決めた。

有り余る体力が僕達にはあったのだろう。
冒険心もあった。
歩くからには主脈だけではなく、南の外れにある恵那山から、北の外れにある経ケ岳までを尾根通しで歩き、最後の集結地を塩尻郊外のみどり湖にしようと言う案がまとまったのは、春だった。
山と渓谷社刊行のガイドブック「中央アルプス」に書かれている幾つかのコース概要を繋ぎあわせ、空白部分は地元の観光協会等に問い合わせ、それでも不安な部分二個所は、自分達の目と足で確かめようと、恵那山から主脈へ続く南端ルート確認と、木曽駒ヶ岳を下りて最後のピークである、経ケ岳への北端ルート確認の為に下見隊を設定した。僕と吉田は前半の空白地帯を担当した。 未舗装の道を揺られ、清内路村役場からの丁寧な説明と、浜田が送った手書きの地図に幾つかの書き込みがされた便箋を手に、上清内路でバスを降りた。




  ▲ 清内路村からの返信文書と、手書き地図への書き込み コースは小黒川を遡るルートは選択せず長田商店横からのルートを採った。

 

恵那山からのルートに二案用意していた僕達は、恵那山の北に続く南沢山の稜線通しに、清内路村に入る峠にあるトンネルを越えて、兀岳(ハゲダケ)へ至るルートの確認に出掛けた。
かなり上部まで細い沢が続き、両側に高い樹林が続く一帯は、生計の大半を林業従事で立てている人達の日々の歩行によるのだろう、しっかりした小道に踏み固められていた。
しかし、手書きの地図に記されていた南沢山からトンネル上部に続く筈の小道は結局見つからなかった。
かなり背の高い熊笹と、4,5㍍程度の高さにしか生育していない杉の林が切れる辺りに道を示す点線が書かれてはいたのだが、稜線と思しき辺りを1時間以上かき分けて探し回っても見付け得なかった。
おまけに、天気のさえない日だったから、恵那山は望めなかったし、尾根から見えると聞いていた南アルプスの山脈は薄く見渡せただけだった。
結局、尾根通しコースを諦め、一旦清内路村の中心部に下りて、孫六沢を詰め、尾根越えで小黒川に出て、再度兀岳に登り直す案に切り替えることにした。
その小黒川詰めのコースの途中、桜井吾市さんの家があること、そこで兀岳へのルートを確認するのが一番良い方法だと村役場からの手紙には書かれていた。
冷たい雨が降り始めていたが、僕達は登山道(と言うよりも、地元の人達の生活道路)と、幾つも交わる獣道に何度も間違えて分け入ることを繰り返しながら、桜井吾市さんの家を訪ね当て、兀岳への取付きを聞き、道の分岐に目印の赤いビニールテープを巻きつけながらやっとの思いで二つ目の顕著なピーク、兀岳に登った。
晴れていれば間違いなく目指す中央アルプスの南部の山脈や、南に悠然と横たわる恵那山を望めただろう。
しかし、冷たい雨が降り続いていた。
雨にうたれ、追われるように兀岳を遮二無二下り、伊那に抜ける大平峠でバスを待った。
とにかく冷たい雨だったが、全山縦走の南半分で懸案だった、恵那山から大平までのルートが確認できたことで、すっかり気分は良くなっていた。
飯田に下り、当日は塩尻駅に野宿。
翌日塩尻高校に出掛けて校庭での幕営許可を受けに行ったのだが、許可されなかった為、当初の予定通り、郊外にあったみどり湖(現在は、中央高速道の塩嶺トンネルを抜けてすぐにあるみどり湖パーキングエリアがある)を二つのパーティの集結地にすることに決めた。


【第一章】
大阪駅23時30分発東京行普通列車で名古屋下車。
中央線に乗り換えて中津川駅に着いた僕達は、恵那山の懐深くバスで分け入り、終点川上(かおれ)で下車した。
バスを降りて、野熊ノ池と言う淀んでとても飲料には出来そうにない池の辺で昼食を摂り、長い長い夏合宿のスタートを切った。
かつてはそこからの登山道が恵那山信仰登山に利用されていたようだが、僕達は中津川沿いの林道をかなり上流まで歩き、黒井沢から恵那山の南東に延びる稜線に取付いた。
夏だと言うのに日が射していなかったし、風が強く吹いていた為に、殆ど汗もかかない一息の上りだった。
頂上までのルートは殆ど記憶にないのだが、木製の三角測量台と、恵那山神社の祠があった。
朽ち果てた何本かの大木と、見晴らしの利かない頂上だったことを覚えている。
風が音を立てて舞っていた。
恵那山からは、中仙道が開かれるまでは関所があった、神坂峠(みさかとうげ)を越え、笹原が広がる富士見台を越えて下見をした南沢山経由で、清内路村に至る。
わずかの登りで着いた恵那山山頂にも関わらず、神坂峠への下りでは早速コースを間違えた。
富士見台から南沢山の間は、想像していた以上に道は荒れていたし、倒木の多さが一層歩行を困難にした。
踏み固められたポピュラーな北アルプスの登山道とは余りにも違っていた。
生い茂った熊笹は背丈以上にもなっていたから、何のことはない草原の真ん中を、踏み跡を捜して歩くと言うよりも、薮こぎして下ったと言う方が正しい。
ガイドブックにあった「放牧の牛がのんびり草を食む、牧歌的な富士見台」は僕達には嘘だとしか思えなかった。
鋸状の笹の葉で露出している手や顔のかなりの部分に切り傷を負い、初めは面白半分に鉈をふるい切り拓いていた薮こぎに途中から辟易し、難渋し、予想以上に体力を消耗した。
捻挫組と、薮こぎで消耗し切った体力に、途中で全員での行動は無理と判断し、パーティを二分した。
僕はCLとしてパーティの先頭を引いていたからそのまま先行し、南沢山の頂上と思しき辺りで、テント設営と食事準備を優先すべく再度パーティを分割した。
程なく下見で訪れた清内路峠に直進する稜線の分岐に至り、南沢山の東稜を駆け下って、清内路村の中心部にある神社の境内に着いた頃には日暮れが近かった。
夏とは言っても、山深い里の夕暮れは早い。
テント設営、食事の準備が終わっても最後発メンバー二人は到着しなかった。
懐中電灯の明かりを頼りに途中まで出迎えに行こうとした矢先、疲労困憊の体で二人が到着した。
口数の少ない夕食だった。 

翌日は、結局休養日にするしかなかった。
定時に流されていたNHN第二の天気予報を聞き、天気図を付ける為に持参していたラジオと、ダンボールを切り抜いて作った碁石だけが、唯一の娯楽だった。
何為すこともなく夏の怠惰な一日を清内路村に過ごした。 


 
▲ 清内路村から小黒川沿いに入り、桜井吾市さん宅に立ち寄り、兀岳を越えた。この五万図は後に入手したもので、当時は持参していなかった。

下見を済ませていたコースだったから、途中までは順調に進んだかにみえた四日目。
村の中心を流れる孫六沢を溯り、小黒沢への峠越えをして桜井吾市さんの家に至る途中で一度分岐を間違え、峠越えでは左右逆方向に歩き始める始末。
高山の一本道、登山道の明確な場所とは違って、ふだん人が行き交う生活路が錯綜し、林業従事の人達の使う様々な踏み跡が残る場所だったから、当然道標など必要もないのだろう。
そのことが結果として僕達に、正しい山道の方向や、五万図上での径の判断を混乱させた。
一度稼いだ高度をそのまま保っても、兀岳に至るような気もしたのだが、散々道に迷い、精神的にも疲れ切っていた為下見の結果通りのコースを採ろうと言うことで、何とか桜井吾市さんの家に着いてのはお昼近くになっていた。
大幅な遅れも気掛かりだったが、何とか辿り着いた民家。
その庭をお借りして、の昼食では、自家製のお新香が何よりのご馳走だった。

元気を少し取り戻したのも束の間、兀岳の上りでは、目印に枝に巻き付けていた筈の赤いビニールテープが見つからず、小黒沢を詰めて最後は稜線の見える谷底から、植林の境界となっているのであろう、見事に伐採された杉の木の境界線まで直登することになった。
兀岳はその稜線から程ない距離だった。
標高1636.2㍍。越えて行く予定の木曽山脈が黒々と続いていた。
頂上には間違いなく赤いテープが残されており、二日前に通過した先発隊のメッセージもあった。
丸一日遅れていることになる。
誰もが口には出さなかったが、焦りを感じていた。
しかし、それ以上に疲労が溜まっていた。
少しでも時間を稼ごうと、大平峠ではなく、北東方向に見下ろせる大平地区まで直接稜線を下った。
しかし、当然乍ら登り同様まともな道ではなく、山アザミのトゲに苦しめられることになったが、意外な程に笑い声も響き、下りゆえ快調だった。
しかし、集落に入ってもそこは幕営地ではなかった。
テントサイトに予定していた東沢山荘まではかなりの距離を残していた。
紛らわしい山道とは違って、車が走るほどの広い林道が延々と続いていたから、一層苦しいワンデリングだった。
夕暮れ近く、東沢山荘到着。
白い飛沫を上げながら流れる沢で、久々に水浴びをした。 


【第二章】

翌日から、いよいよ中央アルプスの領域に入る。
両側に木曽と伊那の谷を分けて屹立する木曽山脈の南端は、摺古木山(すりこぎやま)への取り付きから始まる。
摺古木天然公園と記されたその周辺の景色は、たしかに自然が作った広々とした公園のようでもあったし、とうとうと流れる沢が登山道を横切ったり、風倒木でさえも一つのモニュメントなのだろうかと言う風情だったりもした。
しかし、僕達には景観を愛でたりそこに寛いで一服といった余裕はなかった。先を急ぎ、少しでも早く予定の幕営場所に辿り着きたい一心だった。
相変わらず雲行きは良くない。
訪れる人の少ない所為だろう、顕著な形での頂上碑を確認できないまま摺古木山を越え、次の白ビソ山を越えた辺りで再び錯綜する小道にルートを間違えたりして未開ルートを歩くことの困難さを実体験させられた。
安平路山と奥念常岳との鞍部付近でテントを張る予定だったが結局どこがその鞍部か確認できないままその日の行程を終えてしまうほどに、疲労困憊だった。
森林限界を越えていない所為で、視界は一向に開けないし天候も冴えない。
それ以上に体力の消耗が激しくただ足元を見ながら、時折前を向いて歩くだけの時間が続いていた。
森林限界を越えて、展望がひらけ、左右に懐かしい山並を見ながら、足元に高山植物でも見つけられるようになれば、体力はともかく少しは気力も回復するだろう、そんな淡い期待だけを持って眠りに就いた。
遠くで轟く雷鳴が一晩中鳴り響いていた。

水場が遠すぎると判断して幕営地を決定した翌朝、何時の間にか降っていた雨に濡れて、広い熊笹の葉には、水滴がびっしり付いていた。
一時の喉の渇きを潤してくれたその水滴は、しかし歩行者には無情だった。
歩き始めて数分、細々と安平路山(あんぺいじやま)を越えて奥念常岳(おくねんじょうやま)に続く道は、雨粒に濡れてお辞儀をした熊笹の所為でユニフォームもズボンもぐっしょりと濡れてしまった。
縦走とは言え、森林限界を越えていない山頂は展望も冴えない。
陽射しさえあれば直ぐに乾く筈なのに、天気も冴えない。
遠い筈の水場が、歩き始めて半時間ほどの場所にあったことも大きなショックだった。
間違いなくその場所が、テントサイトだった。
僕たちの読図力は、無残にも崩されたのだが、周辺の視界が殆ど確認できないほどに、疲れていたのだろう。
見晴らしの利かない場所でこそ要求される読図力なのだが、自分達の居る場所さえ分らなかったのだから、判断力も鈍っていた。
午後になってやっと森林限界を抜け2600㍍級の越百山(こすもやま)へ取付いた。


▲ 越百山


 ▲ 後年入手した観光案内パンフレット 中には全山縦走の殆どが描かれた地図があった。
左が南半分で恵那山から駒ヶ岳まで、右が駒ヶ岳から塩尻まで。 既にロープウエイが架けられていた。▲


一向に冴えない天候は、雨こそ降らなかったが、期待した360度周辺のやまなみの遠望を困難にした。
しかし、行く手の木曽山脈の主稜は南駒ケ岳の先に、綿々と北に延びていた。
近くに真っ黒な岩陰の仙涯嶺(せんがいれい)。
日本百名山の著者、深田久弥さんが表現した通り『長い尾根道は、一面に匐松に覆われ、磊磊と言うむずかしい漢字が似合うような岩の群れが、巨人のおもちゃ箱をひっくりかえしたように散乱していて、しかもそれが皆白い花崗岩なので匐松の緑と相映じて、美しい景色』だった。
深い緑の樹林から抜けて、やっとアルペンムードに浸れると言う感慨と、北に綿々と続く果てしない山塊に、ここ数日の難行を思い出しての再びの不安とが交錯した、奇妙な感覚だった。
花崗岩を砕いて鏤めたようなその景観は、真夏のカッと照り付ける太陽の下で見ればさぞ見事な輝きだっただろうと今も悔しく思い出される。
仙涯嶺は、北の宝剣岳(ほうけんだけ)ほどではないが岩肌に付けられた目印や、クサリを頼りの峻路。
疲れた体には厳しい路が続いていた。
直接触れる岩肌はひんやりと冷たい。


 
▲ 左は南駒ヶ岳からの南望 仙涯嶺を振り返る。  ▲ 右は南駒ヶ岳からの北望 空木岳、赤梛岳と遠く木曽駒方面。

背中に背負った特大のキスリングの重みと、疲れからふらつく度に、岩にぶつかり一層危険な状態になった。
滑落の心配こそなかったが、びっしょりと冷や汗をかかされる難所だった。
岩場にしがみつくように咲いていたシロバナツメクサ等の高山植物がせめてもの慰めだった。
僕は高山植物の咲く領域に達したことに密かな楽しみを覚えていた。
峻路の行く手にはますます大きく、南駒ケ岳が見え、一気に頂上に駆け上がった。
今度は行く手に空木岳(うつぎだけ)が大きい。
赤椰岳(あかなぎだけ)との鞍部に到着した頃、少しだけ陽射しが戻った。

 ▲ 上は赤梛岳からの南駒ヶ岳 後方は仙涯嶺    ▲ 下は赤梛岳からの北望、空木岳、北に核心部が連なっている。


テントサイトは、そこからかなり下った場所、摺鉢窪小屋(すりばちくぼごや)周辺が指定地だった。
カール状の地形だったそのテントサイトで、久し振りに笑い声が戻ったのは、久しく見なかった太陽が顔をのぞかせた所為だっただろう。
周辺に散らばった枯れ木を拾い集めての夕食準備も、暮れ行く南駒ケ岳のシルエットを見ながらの夕食も愉快だった。
翌日登り直すことになっている主稜が、ほんのりと紅を残した夕闇の空に横たわっていた。 

遥か下方に樹林帯が見渡せる、摺鉢窪小屋の朝は清々しかった。
昨日越えてきた南駒ケ岳と赤椰岳との鞍部に再び登り直す。
主脈縦走路の明瞭な踏み跡は、数日間の樹林帯や薮コギに辟易していた僕達を、本来の渡り鳥に戻ったようなうきうきした気分にさせてくれた。
KUCWV先発隊が辿ったであろうその花崗岩を粗く砕いて鏤めた縦走路は2700㍍を抜けていた。

標高2864㍍の空木岳への登りにかかって、少しペースの鈍りかけてきた僕達のパーティは、その頂上では元気を回復した。
しかし、崩れ易い石屑道が北西方向に急激に下る木曽殿越(きそどのこえ)迄の300㍍近い下降では、再び足を痛めるメンバーも出てしまった。
鞍部から再び200㍍近い直登となる東川岳、そこから延々と続く2700㍍級の山々の上り下りを考慮し、全員が木曽駒ケ岳直下の天狗荘前テントサイトに辿り着くことが困難と判断し、何度目かになるパーテイ分割を決断した。

 

▲ 木曽殿越からの直登で着く最初のピーク・東川岳からの南望 空木岳と南駒ヶ岳 間の赤梛岳は小さなコブ   ▲ 下の画像は、木曽駒ヶ岳への縦走路 東川岳・熊沢岳 遠景は空木岳・赤梛岳・南駒ヶ岳 ▲

僕は、今日木曽駒頂上で出会う予定の、本部隊に状況報告する為、二回生の島田と二人で先行した。
木曽殿越からの直登に近い東川岳への道も、空木からの下り同様ガラガラの浮き石の多い道だった。

再び2700㍍の高さを確保した主脈縦走路は遥か彼方まで同じような高さを保っているように見渡せたが、檜尾岳(ひのきおだけ)や、濁沢大峰(にごりさわたいほう)等の顕著な山頂以外にも幾つものコブの上り下りを繰り返す道だった。
合宿が始まった直後、富士見台の下りで捻挫してしまった島田は、すっかり回復して予定よりもハイペースで飛ばす僕にぴったり付いていた。
岩峰の連なる宝剣岳の通過は、さすがに緊張を強いられたし、飛ばし過ぎで少し弱っていた足が力を入れる度にガクガクと震えるのには参ってしまった。
日頃のトレーニングがこんな状況の時には役に立つ。

▲ 宝剣岳 その後にロープウエイが架かったから、簡単に手が届く場所になってしまった。▲

 

しかし、三点確保をしてもまだ不安定な、特大のザックを背負っての宝剣通過は、やはり危険な行為だっただろう。
冷や汗がぐっしょりユニフォームまで濡らしていた。
その峻路を抜けて、山小屋を見つけた時は正直飛び上がりそうなほどに嬉しかったが、残念ながらそこは宝剣宮田小屋。
本部隊の待つテントサイトは、小さなピークの中岳を越え、30分歩いた先だった。
本部隊として、我々縦走隊を支援してくれた小嶋と江崎が、テントサイトで野菜を切っていた。
後発部隊は、途中で幕営するかも知れないからと、四人で夕食準備をし、テントを持参していない二人は小屋泊りを申し込みに行って休んでいる最中、何と後発部隊が到着した。
二時間半の遅れだった。
様々な批判もあったが、危険な宝剣の岩場を薄暗さの中で通過してきたことを、単純に僕達は喜んだ。劇的な再会だった。


【第三章】
翌朝、本部隊が歩荷してくれた、新鮮な野菜類・米を受け取り、二年前の秋、木曽側の上松から登った、標高2956㍍の木曽駒ケ岳山頂で別れる。
伊那側への下りにかかり、真下に濃が池を見下ろし、大正元年だったかの、伊那郡中箕輪小学校集団登山の遭難碑を眺める。
山岳小説家などと呼ばれている、新田次郎の小説「聖職の碑」に詳しいその事件だが、碑は意外な程の大きさだった。
周辺は這松帯だった。
小さな上り下りを繰り返した後、勢いに任せての下りは、先行する他パーティとの競争になるほどのペース。
まさに飛び跳ねながらの表現がピッタリ来るような快速だった。
大樽小屋からは、通常の登山道と分岐し、僕達は尚も山通しのルートを採ることになっていた。
1000㍍以上を一気に駆け下り、木曽駒への登山道の本ルートから外れ、馬返しからの四時間近いブッシュとの格闘の途中、僕は完全にバテてしまった。
五万図にある1895㍍地点の南沢山を越え、権兵衛峠への下りは殆ど記憶にない。
南の大平峠同様、木曽と伊那の交通路になっていた権兵衛峠には、下見の折はザーザーと水が流れていたと報告されていた。
しかし、伊那側にかなり下らないと水は流れていなかった。
昔日の面影などどこにも残っていないただの峠だとしか、その日の僕には思えなかった。
天気は崩れるけはいだった。
権兵衛峠から経ケ岳へは、林が先頭を歩いてくれた。
送電線の鉄塔などもあり、途中までは営林署の人達が監視に歩く踏み跡が続いていたが、途中からはやはり熊笹に苦しめられる微かな踏み跡を辿るコースに戻った。
視界が冴えない所為か、行けども行けども辿り着かない経ケ岳の頂上。
時間だけはどんどん経過し、疲れている筈なのに足だけが微かな踏み跡を辿っていることが不思議だった。

▲ 経が岳山頂

長い夏合宿の最後の2000㍍ピーク、経ケ岳頂上に着いたのはお昼頃だったろうか。
眺望はなかった。
薄靄の中に越えてきた木曽の山脈が見晴らせる筈だったが、記憶の中にさえも残らない程度の眺望しかなかった。
山頂からは、東稜線を辿って川島村方面に下る予定だった。
しかし、下見隊や先発隊が残してくれたであろう目印が見つけられず、結局五万図にある、大滝沢へ直接下るルートを採ることになった。
考えてみるまでもなく、先発隊との二日の遅れから、その差を縮めることだけに腐心していた所為だろうと今にして思う。
地形図の読み方だけは間違っていなかったから、稜線から大滝沢源流地点への下降は容易だった。
軽くなったザックを薮の中に放り投げたり、ソリ代わりに下に敷いて斜面を滑り下りたりと、久々の笑いが山頂付近に響き渡った。
他に誰も居なかった。
しかし、その後が大変だった。
当然、下るに従って水量は増える。
沢のどちらか一方に小道を期待したのだが歩けるような場所は全くない。
倒木が沢の両側を狭くしていた辺りでは、水を避けてサーカス擬きの歩行を繰り返していたが、遂には沢に浸かる羽目になる。
途中で雨も降り始め、ただでさえ濡れ鼠の僕達は、すっかり観念して倒木渡りの曲芸を諦め、ザブザブと水嵩が増しつつある沢の中を歩き始めた。
やはりここでも特大のザックが邪魔だった。
どれ位水の中を進んだだろう、途中で昼食も摂ったから林道のある大滝地区に着いた頃には、夏の陽射しは傾きかけていたし、山深い里には、日暮れが迫っているような雰囲気だった。
少しでも塩尻に近づきたい僕達は濡れたユニフォームを乾かす目的で林道を歩き続けた。
道の横には、難行苦行で下って来た大滝沢が、降った雨も集めて、異様なほどに飛沫を上げながら流れていた。源流部分とは言え、よくも下った来たと感慨深かった。
村外れの大滝橋付近まで下りそこで幕営することに決めた。
四時を過ぎていた。
疲れてはいたが、まだまだ集結地の塩尻までは40㌔近くを残している。
まして後半部分は一般道、それも車の走る国道を歩くことになる。
出来ればナイトワンデリングで距離を稼ごう、などと唯一元気な一回生の横山の弁に、不思議なくらい皆が同意し、最終日は真夜中の起床となった。

【終章】
最後の日はわずか四時間の仮眠をとっただけで、午前0時起床。
とにかく衣類の一部はまだ乾いていない。
疲労感は残っていたが、空腹感はない。
途中での朝食を決めて、テント撤収即行動に移った。
何しろ山深い里である。
街灯などある筈もなく、民家など全くない村外れ。
幸い、平坦な道路が続き、沢に転げ落ちる心配もなかったから、懐中電灯を片手に漆黒の闇の中を1時間1ピッチのハイペースですっ飛ばした。
暗闇での朝食は昨夜の残り飯。
各人のザックのサイドポケットや後ろに無造作に括り付けられていた飯盒の中で、すっかり団子状態になってしまっていたのだが、それでも空腹を満たした。
川上村を過ぎる辺りで東の空がやや白みかけ、四時半過ぎ、門前という集落の辺りで完全に夜明けを迎えた。
朝の陽射しが寝不足の目に痛かった。
まだ行程の半分にも満たない。
地図で見当を付けていた峠越えをして中村地区に着く頃には、湿っぽかった衣類は完全に乾いていた。
睡魔が間断なく襲ってくる。
中村への峠越えルートを探しに出ている間の休憩時間に、残った何人かはグッスリ眠り込んでしまっていた。
中村地区に下りて、民家の庭先を借りての二度目の朝食。
山羊の乳と胡瓜の漬物は何よりの差し入れだった。
一時間以上休んだだろうか。
各自思い思いの休息だった。
それまで余り気にならなかった真夏の太陽は、9時を過ぎて益々輝きを増し、疲れ切った僕達に容赦はなかった。
民家の間を暫く歩く内はまだ気が紛れたのだが、車が走る国道に出てからはさすがに暑さと、排気ガスに苦しめられた。
途中の記憶には、小野集落の大きな神社の、涼しげな鎮守の森と、道路の下を抜けていた鉄道線路位しか残っていない。
善知鳥峠(うとうとうげ)を越え、塩尻平への下りに入る頃、僕と林は皆から遅れてのんびり最後のワンデリングを楽しんだ。
追い抜いて行く大型トラックの運転手が時折車のスピードを落として、怪訝な顔で僕達を見ていた。
ヒッチハイクを思い付かないほど僕達は疲れ切っていた。
しかし、下りきった辺りに広がる畑で二人は、たわわに実ったトマト畑を見つけ、しっかり何個かを頂いた。
勿論無断である。
皆が待つみどり湖に着いたのは、昭和41年8月13日午後1時半過ぎだった。
短い反省会の後、悪銭苦闘の夏合宿のフィナーレに予定していたキャンプファイアまでの間は、ひたすら眠ることだけだった僕達。
しかし、肝心の終幕祭は突然の雷雨で中止となってしまった。
何もかもをその雨に流したくはなかった。

何時間も続く熊笹の道を切り開いたり、道無き道を集落目指して駆け下りたり、沢の源流を無理やり下ったり、危険極まりない岩場を薄暮に越えたり。
遂には12時間の超過酷なロード歩きに及んだり。
なにもかもが他の山群では味わえない体験だった。
塩尻郊外のみどり湖からの帰路は、どのようなルートを採って明石に戻ったのかの記憶が全く無い程に、強烈すぎる山行だった。 

昭和41年夏以降、僕は中央アルプスのどの山にも登っていない。

【挿入した画像は昭和41年当時のものではない】


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