HAYASHI-NO-KO

北岳と甲斐駒ヶ岳

ロマンチストの独り言-23 【邂逅】

2004-12-31 | 【独り言】
ロマンチストの独り言-23

【邂逅】

 『邂逅』、僕がこの文字をそして言葉の意味を知ったのは、昭和42年春。大学4年になってからのことである。
 人と人の出会い、不思議な関わり合い、心のときめきや悲しさ等、あらためて言葉に綴ることなどしなくても、只それらの日々に語り合えた事を、その会話を交わせた笑顔を思い出しさえすれば、もうそれだけで十分満たされるようなそんな気がする日々があった。
 しかし、人の記憶など次から次へと移ろってしまう。
 たとえそれが、その時命懸けで守ろうとした事であったとしても。
 だからこそ、たとえ多くの誤謬に満ちた内容になる心配があるとしても、言葉に綴ることを僕は選択している。

 『邂逅』、その関わりの初めから2ヵ月ほど経った昭和42年初夏、3枚の便箋に人と人とのかかわりの不思議さ、大切さを感じたと綴ってくれた佐野礼子の手紙の中に初めて見つけた文字。
 春の邂逅から10ヶ月、僕は社会人となり研修の後神戸へ戻ったのだが、結局は彼女と別れた。別れることを意識したのでは無かったが、学生時代とは全く違った環境の中で会う機会は絶えた。
 僕より3年下だったし、当然1年に満たない関わり合いに過ぎなかったし、何と言っても将来を約束するにはお互いは若すぎた。
 しかし、今もそれを「青春時代」と言えるのであれば高校・大学の7年間の青春時代に、最も凝縮された形で心を開いて語り合えたのは佐野礼子の存在を置いて他には無い。
 そして、僕はこの章で可能な限りそのわずか10ヵ月に過ぎない日々を再現しようと思う。



 平成3年春、新幹線岡山駅。
 僕たちは長い空白の時を経て、何年振りかで会う約束をした。
 僕たちの関わり合いは、昭和42年春の出会いから翌年迄の短い期間、僕の結婚が昭和52年、その2年後に彼女も結婚し暫くして年賀状が届くようになった。
 その後、アラスカ・マッキンレーで遭難死した植村直巳さんを忍んで出版された本を送ってもらったり、瀬戸大橋開通の記念の冊子を貰ったりもしていたから20年以上も前からの関わりであることは忘れることはなかった。
 お互いのロマンチシズムが今も「共通の過去」を接点にして繋がっている…、そう感じているのは、もしかして僕だけのロマンチシズムなのか知れない。
ただ、結果的には一緒にならなかった(むしろ一緒になれなかったと書く方が正しい)二人の関係は、その時点、つまり昭和43年春の時点で過去になった筈だった。

 岡山に着いたのは、午後3時を過ぎていた。20年以上経っていた。
 『こんにちわ、久し振りですね。実は、子供も一緒に来ているの』
 意外な程明るく話しながら、二、三歩歩き始めた二人の前に、別のこんにちわ!!、が明るく響いた。
 時間を持て余し気味の、小学4年生と5年生の二人の男の子に多少気遣いながら、何から話し始めて良いのか途惑っていた。1時間余りの再会だった。
 岡山発5時前の「こだま」に乗る僕を改札まで見送ってくれた三人。ホームへのエスカレータから振り返ると、大きく手を振る二人が見えた。思わず手を振った。
 ホームで列車を待つ間、「やくも」で2時間の米子を、20年以上も昔の事を思い出していた。

*  *  *
 
 大学4年になった僕は、やはり毎日ワンゲルの部室に入り浸っていた。
 卒業に必要な単位は、英語の2単位(成瀬教授の英語論文だったか)を残して、全て取得してしまっていた。
 ガリ勉タイプではなかったが、授業に出て2度の試験に答案を提出しさえすれば、そこそこの点数は取れたし「優」の数による就職先の選別もさして気にならなかった。
 むしろ早く温室から出たかったから、大学生活そのものへの興味も未練もそれぞれの感慨もあまりなかった。
 ワンゲル仲間との、日々の雑談・猥談や、連日の雀荘通いや、多少足を洗っていた学生運動のと言うよりも運動母体の派閥闘争の激化の方が感心事になっていた。
 そんな春のある日、林正朗から「合ハイに行かないか」と誘われた。
 聞けば、5月14日の日曜日に、六甲山で春の合ハイがあると言う。
 薬大四回生も何人か参加するようだから、こちらも参加した方が...程度のことだった。
 僕が通っていた大学は、一応男女共学だったが上級生に一人居ただけで、同じ回生には一人も女性が居なかった。
 だから、神戸女子薬科大学旅行部との、春と秋の合同ハイキングが定例行事として組まれていた。
 それまでの6回皆勤だった多くも、就職活動やアルバイトやその他もろもろの理由をつけて不参加、余り乗り気ではなかったが、麻雀仲間が全員参加ということで仕方なく、「付き合うか!!」程度の答えを返した。
 国鉄三ノ宮駅東口が集合場所だった。
 六甲山は駅の北にあるのに、集合は南側だった。
 神戸の街は東西に細長く、北にすぐ六甲山が横たわり南には海が広がっていたため、南、北の呼称よりも海側山側の呼称の方が一般的だった。
『あのォー、東口はここですか』
「そうや」
『南口はどこですか?』
「ここや。東口の海側やけど」、珍問答である。
 そんなやり取りの直後に、見慣れた顔が続いていた。
 その中に、僕達は、同級生の大石美加を見つけた。
 山形一子も居た。いっちゃんが声をかけてきた。
『商大さんは、何人来るん?』
「知らん。四回は4人だけや。皆バイトで忙しいんやて」
『私たちも』
「そやったら、何で来たん??」
『商大さんに、悪いしネ』
「嘘つけ。暇なんやろ。行くとこ無うて」  と、3年間のお付き合い故の憎まれ口。
『こんにちわ!!  同じパーテイですね。よろしくお願いします』と、今度はキュウちゃん。
1年後輩の堀内久子を、同級生はそう呼んでいたから、僕も気軽にそう呼んだ。
「4回生って、薬大じゃ、余年生って書くんやて?!」
『へえーっ、知りません!!  きっと2回生ですよ。そんな事考えるの』
そのやり取りを、唖然とした表情で見ていた1回生の中に、清楚な服装の佐野礼子が居た。
「キュウちゃん、あれ1回か??」
『そうですよ。佐野さんで、もう一人横に居る子も、同じ』 偶然だった。
 パーティ編成の中に、その名を見つけて一人喜んでいた。一つのパーティは男女10人だったように思うのだが、一体誰々が一緒だったのか。
 人間とは本当に自分に都合の良い部分だけを覚えているものだ。
 僕はその三ノ宮駅東口出会いの中で、山形一子と、堀内久子との会話、それに佐野礼子の清楚な雰囲気以外は忘れている。
 (国鉄三ノ宮駅は、先年の大震災で並走している阪急電車共々大被害を被り、高架駅も、改札口、商店街も、多くが改築・改装された。しかし、阪急電車との連絡口のある西口の様変わりに比べて、東口はさほど大きな変更も無く、当時の面影はどこかに見つけ出せそうな雰囲気が残っている。ただ、そこで僕たちが軽口を叩くことはもう無いことだろうけれど)
 思い思いに、三ノ宮から布引までの少しだらだらと登って行く道を歩き始めた。
 神戸市電が全線廃止になったのは昭和45年だったと思うから、当時はまだ三ノ宮から加納町方面への道路には市電の軌道があった。
 その電車通りの一つ東に北へ伸びる商店街があり、僕たちはその道を布引方面に向かっていた。
 誰だったかの思い付きで、集合場所として決められていた布引水源地の奥にある市が原までの間、ペアを組んで喋りながら歩くことになっていた。
 僕は、これも偶然ペアを組まれることになった佐野礼子と、少し照れながら取り止めも無く喋り始めた。しかし会話が続く筈も無い。
 話題が豊富なのはどうしても付き合いの長い3回生だし、時には冗談ばかりで1時間でも騒ぐことは出来たのだが、初対面のそれも1年生相手では勝手が違い過ぎて市民病院を過ぎ生田川沿いの道から、布引の滝への上り道になっても会話は続くことはなかった。
 覚えているのはもう一人の一年生が高知出身の葦原さんで、彼女は米子出身だということ。お兄さんが信州大学で4回生だということを話してくれたこと位である。
 合同ハイキング、略して合ハイをきっかけとして、時として仲間内の艶聞が伝わってくることが多かったのだが、不思議なくらい僕たちの回生での艶聞はなかった。皆それぞれの青春を謳歌していたが、全く女性に無関心だった者も多かったし、関心があっても無縁だった者の方がむしろ多かったという方が当たっているだろう。
 元気だったのは、吉田秀夫・小嶋重洋の葺合コンビと、入梅眞一くらいで後は暗かった。(神戸商大ワンゲル部部誌「やまなみ」8号に収録されている「ワンゲル紳士録」には、この間の事情が紹介されている)
 現在は新幹線新神戸駅が出来、周辺も一変してしまっているが、布引の滝への登山道は周辺住民の「毎朝登山」のコースであり20分程度の急な登りを過ぎると展望台に着き、そこからの景観は市街地の先に光る海を見渡せる、神戸に住む人間にとってはごく日常的なそして誰にでも手軽に手にすることの出来る素晴らしい景観だった。
 ぎこちない会話を途切れ途切れに続けながら、やっと布引展望台にたどり着く。みかんの缶詰を開ける。
 少し汗ばんだ体に、5月の風は…ちっとも涼しくなかったと思う。展望台から、布引の滝を見物に少し寄り道をした。
 しかし、いつもはかなりの水量で流れ落ちていた滝が細くなっていたので何人かの失望の声が上がり、早々にそこを辞した。渇水は、上流の布引水源地でも始まっていた。
 記憶はその水源地から昼食(いつものカレーライス)を作った市が原での午後のゲームまで飛んでおり、そのゲームそのものも余り覚えていない。
 ただ、多治見出身だった3回生の穂積さんとの会話だけが不思議なくらい鮮明に残っている。
 『本当に、楽しい企画が出来て喜んでいます。私は、引っ込み思案な性格でしたけど、この3年間で、色んな方々とお知り合いになれて、随分明るくなれました。ありがとうございました』

 帰路、布引展望台への途中で足を痛めていた(指の爪だったか)佐野礼子が、後ろ向きに坂道を下っていたのをふと思い出す程度で僕の記憶は、夕暮れの三ノ宮阪急西口の喫茶店・上高地に飛んでいるし、そこでの会話や共に語ったであろう人達の顔は全く覚えていない。
 ただ、僕がこの日を記憶しているのは、やはり佐野礼子との最初の出会いだったからだし、その最初の出会いの場であった国鉄三ノ宮駅東口での印象「清楚」という一点に繋がって行く日だからだろう。
 そしてもう一つ「理知的」という表現を、その後僕は彼女を思い出す時、何度も使っていたように覚えている。
 昭和42年5月14日日曜日、大学卒業までの1年足らずだったけれど、今に至る長い時間の中でほんの瞬時に近い程度の短い関わりだったにも拘らず、最も印象深い時間となっている佐野礼子との『邂逅』の時である。

 僕たちには、様々な個人的時間が与えられていた。
 学生時代の最後の年、社会人として世に出て行くための就職活動も始まっていたし、卒業に必要な学業単位の取得に追われている者も居たし、度重なる督促にも拘らず、授業料等の滞納を続けていた為、卒業さえも覚束なくなっていた者も居た。僕も滞納組の一人だった。
 気が付くのが遅かったのだろう。皆、遊びまわっていた訳ではないのだけれど、大学4年目の春、周りはそれまでに比べることが出来ないくらいに騒然とし始めていた。
 しかし、僕は心配事のトップであった単位に関しては英語を残してクリアしていたし、就職も漫然と音響関連の会社か旅行代理店と定めていたし、暮れのバイトで4年分の授業料は一括納付していたので、残るは卒業論文提出だけになっていた。
 悠然と(?)部室に顔を出し、誘われればわざわざ元町まで出掛けて麻雀三昧の日々だった。暇だった。
 だから、合ハイの翌々週、薬大で開催されるという「薬大祭」へのご招待には、二つ返事で出掛けることになった。
 『中谷、せっかく招待されとるんや。行ってやれよ』
 「他に、誰が行くんや?」
 『小嶋、行こうや』 そう言ったのは、入梅だった。
 結局その三人が、合ハイの取り持つ縁で4年間お付き合いさせて頂いた、神戸女子薬科大学へ出掛けることになった。
 二人は、いずれもダンディで女性に人気があったし、少なくとも好意を寄せていた相手は数人居た。
 しかし、当人達の思惑とは必ずしも一致していなかったところが僕には愉快だったし、何度も麻雀をやっている最中や、部室での雑談の折りに彼らをからかう材料にしていた。当日は雨だったと思う。
 旅行部の模擬店で、何か(ホットドッグだったか)を貰った後、教室(各サークルなどが展示をしていた)から、顔を出して呼んでくれた大西さんの言葉に、三人が揃って返事をしたのをぼんやりと覚えている。
 『中谷さ~ん、濡れますから、こちらに来て下さい』大西敦子は、2回生になっていた。
先年春、服部緑地での合ハイ以来、歌の好きな可愛い1年生として有名だった。
入梅も、小嶋も何度目かの合ハイで一緒になっていたから気軽に誘いに答えた。
▲ 前年の市ヶ原合ハイ 後列右端が大西さん、隣は穂積さん、松田さん 前列左から小嶋、入梅、成影 ▲

  教室にあった展示物は、専門家の分野だったが門外漢の我々に丁寧に解説をしてくれた後、旅行部の展示もあると教えてくれた。
 『私も、後で行きますから、ゆっくりしていって下さいネ』 案内してくれた教室には、何とテントが張ってあった。何人かの旅行部部員が居る。
 一人一人を覚えていたのは、もう何年も前のこと。今思い出してみるとぼんやり名前が浮かんでくるだけである。
 佐野礼子は不思議なくらいの気軽さでテーブルの前に広がっていた落書き帳に僕が書き綴た落書きを、一つ一つ見つけながら楽しそうに話していた。
 『日付を書くのが、好きなのね。この間も、歌集に一杯書き込んでいた』
 小嶋と二人、麻雀の上がり役等を書いている傍で、勝見さんが笑っている。
 『私たちにも、教えて下さい』
 「あかんわ。良家の子女は、覚えたらあかん」
 『それじゃ、残雪を教えて下さい』
 「失恋したん??」
 『違います。いい歌だから、覚えたいんです!!』
 「今歌うと、場が白けそうやから、明日歌ったげる」
 『きっと、ですよ。お礼に綿菓子買って来ますから』
 「残雪」と言うのは、山で覚えた歌の一つ。
 山の歌は、明暗両極端で、この歌は暗い失恋の歌である。

♩ 月影に残雪冴えて  山は静かに眠る
山小屋のひそけき窓に  雲は流れる
雪に埋もれし花か  遠き初恋の人
思い出のほだ火は燃えて  闇に消え行く

♫ 月影に残雪淡く  愛の誓いは空し
涙してこだまを呼べど  闇に消え行く
雪に埋もれし花か  遠き初恋の人
白樺の林の径を 辿る人もなし (後年、石原裕次郎が歌っているのを偶然聞いた。歌詞、メロディは少しばかり違っている。)

 この約束の所為で、翌日も地獄坂を登ることになった。前金の形で食べた、綿菓子は他の人達の手にかかってとんでもない姿になっていた。
 その日の日記に幾つかのエピソードを記し、彼女たちが出した性格判断のための絵も書き残した筈だ。
 そして一つきり覚えているのは、佐野礼子の書いた「山」の姿とそれに続く会話。先が尖って二つに分かれた山の姿を大山みたいだと言った。
 それに対する、彼女の反論。
 『私の性格は、一寸キツイの。でも大山は、見る場所によってはとても優しい山なんですよ』

*  *  *

 翌日、午後になって阪急岡本駅に着いた。しかし、誰も集まらず、結局一人で地獄坂を登った。旅行部の展示場で時間を潰していた。
 取り留めなく、僕は自分の時間を潰していた。その日も佐野礼子は、人懐こい笑顔と、一寸気取って片手を挙げながら現れた。
 フィナーレ前にファイアストームが計画され、出来れば歌唱指導を手伝ってほしいと言う、岡崎さんの申し出を断ったことが、もう何人かの人達に知られていた。
 「他にメンバー居たら、ええんやけど、俺一人やったら、止めとく。岡崎一人で大丈夫。保証する」
 皆が、そのフィナーレの準備に出ていってしまった後、残った数人が展示物の片づけを始めた。
 結局、そこを出るタイミングを失してしまった僕は後片付けを手伝った。懐かしい会話や、幾つかの山で覚えた歌を口ずさみながら。
 最後に大きな石を庭に戻し、グランドへ出たところで、神谷脩と出会った。そのフィナーレで、歌唱指導の補佐を頼んできた、岡崎さんが見事に大役をこなした事が嬉しかった。
 ぐるりと輪になっていた観衆を、二手に分けて「赤い帽子、白い帽子」と「仲良し小道」を歌わせることや、とんでもない大きさになってしまったにもかかわらず強引に実行してしまった、全員オシクラマンジュウなどの僕達のアイデイアを、そのまま使った引っ込み思案だと公言していたはずの彼女。
 最後は「一日の終わり」で締めくくるのが良い、と言った通りにその歌でファイアストームを終わりにした彼女に一人喝采を送った。
 その帰路、レストラン・ダイソーで散々喋った後、国鉄・摂津本山駅の下りホームで、高石ともやの「思い出の赤いヤッケ」を彼女から教わった。
 『私なんかが、中谷さんに教えてあげる歌があるなんて、驚き。でも、本当にいろいろ助けて頂いて感謝しています』

 ▲ 前年の合ハイの折の岡崎さん(左端)右端は島田 隣は川端さん ▲
 
 その、ファイアストームの始まる前だっと思う。
 グランドの端、遠くに神戸の町が見下ろせる一角に、少し疲れを(快い疲労を)感じながら立っていた僕の傍に、佐野礼子が近づいてきた。意外だった。
 その気軽さが意外だったし、そこに居る事など分かりはしない場所だったから余計びっくりした。
 『本当に、いろいろお世話になりました。皆、喜んでいます』
 少しドキドキしながら、言葉を捜して引っ込み思案な一週間ほど前の合ハイの時、清楚で理知的と感じた18歳がすぐ横に居る。
 この二日間、本当に気軽に対してくれた人だった。
 大学生になった事の意味を精一杯考え、勉強以外でも多くの事を体験したいと考えている事を、そして何よりも引っ込み思案な性格を少しは直してみたいと思っていると言う事を、何故そんなにも熱心に話してくれたのだろうと、暫くは不思議な感覚になってしまうほどに彼女は一気に喋った。
 30分近く二人きりで話していただろう。
 こんな会話を最後に、彼女は再度、終幕祭の輪の中に入っていった。
 『皆さんをお見送りする列がこの下に出来るんです。旅行部が最初の方に並んで最後の方に実行委員の人達が並ぶんです。私は、前から四番目』

 独り、正門への坂を下った。
 キャンドルの列が続いていた。聞いていた通り、列の最初は見慣れた顔ばかりだった。
 彼女は、言葉通りに四番目だった。
 少し気にはなったのだが、躊躇なく彼女に一枚のメモを手渡した。
 翌週開催が予定されていた、マンドリンコンサートに一緒しようという意味の内容だった。
 グランドでの会話の中に、引込み思案の性格を直す為にもいろんな催し物には出来るだけ出掛けた方が良いという風な事を話し、たまたま予定があった、マンドリン部のコンサートに誘ってみたのである。その返事は、聞かなかった。

(挿話)
神戸女子薬科大学は、その後男女共学になった。
大学のある神戸市東灘区は、先年の大震災で被害が大きかった場所。
阪急岡本駅以南は特に被害も大きく、現在のJR摂津本山駅南では一階部分が完全に押し潰されたビルや、途中階が無くなってしまったマンション、それに木造のアパート群の多くが瓦礫と化した地域である。
学舎は、駅から15分ほど北にあり、通称地獄坂と呼ばれていた急坂を上り詰めるのだが、その坂道の周辺には不思議なくらい被害の跡はなかった。
僕は半ば安堵しながら、懐かしくその坂を登りきったあたりから、東神戸の表向きは平静さが戻ったような景色を眺めた。
しかし、その日僕は正門を入ってすぐの守衛所までは足を運んだが、思い出のグランドには立たなかった。
どこかに自分自身の第三者的な視線を恥じる心があったのだろう。
しかし今も少しだけ気がかりである。
僕たちが、恐らく始めてお互いの存在を身近に感じ合えたその場所は、今でも残っているのだろうか。

*  *   *

 マンドリンコンサートは、夕方6時の開場だった。
 神戸国際会館は三ノ宮駅の南、フラワーロード沿いにあり、市電通りを挟んで反対側には神戸市役所があった。
 僕は待ち合わせの時間を30分早目にして、市役所北側にある花時計で暫く喋ろうと思っていた。
 しかし、会館の前の列は開場の30分以上前だというのに階段下まで伸びていた。
 指定席ではなかったから仕方なく、西日が強いその国際会館の階段下迄続いた列の後ろに付いた。
 神戸商科大学のマンドリンクラブは、結構有名だったし演奏そのものも上手かった。二人きりでコンサートなんて似合わなかったから、柳本も誘っていた。しかし、彼は事情があって来なかった。
 どんな事情だったか、あるいは女性と一緒だと言う事で、彼が遠慮してくれたのか。
 僕は「星の王子さま」を持参していた。
 曲の合間にぎこちなく交わしていた会話の中で、僕はこの童話を紹介し岩波愛蔵版を貸した。
 そのデートを含めて、わずかな期間で急速に近づく事の出来た一人の少女。
 幾つもの演奏曲目はすっかり忘れてしまっているのだけれど、最後に演奏された曲がベートーベンの交響曲第八番だった事だけははっきり覚えている。
 歯切れの良いスタッカートを今でも覚えている。
 演奏会が終わり、まだまだ話し足りない様子だった彼女の為に人混みを避けて市電通りを元町の方へ歩く。
 柳本と一緒に行く、コンサートの後の定番になっていた「CONCORD」は閉まっていた。
 残念だったが仕方なくトアロードの「らんぶる」へ。
 クラシック音楽を聞かせる「らんぶる」は、会話の無い2時間を過ごすには絶好の場所なのだが、語り合うには些か不都合な喫茶店。
 しかし、心地よい気分で僕は二人掛けの席を見て、『バスの席のようね』と不思議そうに笑っていた彼女を前にして暫く黙っていた。
 何を話したのだろう。空腹だっただろうから、何か食べたのだろう。コーヒは飲んだように思うのだが。
 心が一杯だから何もいらないワ、なんて何時だったか大笑いして喋った事を、そんな会話が出来るまでに親しくなっていた事を、今思い出すのだがその日の会話にあったとは決して思えない。
 その日の帰路は、しかしはっきり覚えている。
 阪急電車の西口切符売場の前で、阪急ににするか国鉄にするかの会話があり結局国鉄で帰る事に決めたのは、
 『国鉄の方が、40円で10円安い』 の一言だった事。その10円安い切符を2枚買った事。そして、旧型電車の中で同じ薬大寮生が乗っている事を少し気にしながら交わした幾つかの会話。
 「米子の住所、教えてくれる?」『あっ、年賀状でも..、よなごしおおたにちょう、覚えやすいのよ。サン、シ、 ゴ。町からちょっとはずれてて、へんぴな所。電話が無いから不便だワ』
 僕たちは、ひとしきり彼女の故郷の事を語っていた。
 『のんびりしてて、良いところです』
 「明日は、6月4日だから、ムシ歯の日だね」と突然話題を変えた僕に、にっこり微笑んだ時の白い歯が印象的だった。
 買ってもらった切符を大切な日の記念として手元に残すつもりなら、摂津本山駅に着いてそのまま下り電車に乗り換えたのだが、その時の僕にはそこまでの回転は無かった。
 改札を出て、結局はタクシーの多い阪急岡本駅まで歩く。
 途中でも大勢の薬大生。
 大半が学内にあった「如修塾」という名の寮に入っている学生だったから彼女も少しばかり気になったのだろう。
 同乗者が見つかったのを機にさよならを言った。その帰路は何故だか阪急電車に乗った。
 しかし、その日以降佐野礼子を送って摂津本山駅には何度か降り立ったが、不思議な事に阪急岡本駅から帰った事はない。

*  *  *

  その阪急岡本駅は、幾つかの大学が近辺にある為、学生の乗降は多いが、ふだんは閑静な住宅街の中の駅。
 駅前商店街は駅から南に続く道と、東西に長い商店街がT字型に伸びている。
 マンドリン・コンサートが終わって10日経った夕方、2度目のデートをした。
 『佐野さんですか? 一寸待ってて下さい。起こしてきますから』
 そう言って109号室へ戻ってくれた瀬合さんは、同じ旅行部で彼女と同室だった。
 不在中に電話を貰い、少し遅いかなと思いつつ如修塾へ電話したのは9時を過ぎていた。ほんの一言だけの会話だった。
 『午後三時過ぎだったら、空いていますけど。近くの方がいいです』 ということで、阪急岡本駅で会う事になった。
   翌日、マンドリン・コンサートの日に彼女に貸していた「星の王子さま」との交換に木村書店で買っていた同じ愛蔵版と、ワンゲル部誌「やまなみ」の最新刊(僕たちの回生の記録が詰まった、第8号)を持って行った。
初めての出会いがあった5月の合ハイの時と同じように清楚な印象があった。
 落ち着いた話し方の中に、自分の意見は通す筋の強さ、頑固さとも言えそうなくらいの芯の強さがその後の会話にもあった。
「ダイソー」と言う名のレストランは、阪急岡本駅から南へ下って行く商店街と、東西に長く延びている商店街の交点にあった。
 先日の薬大祭の終わった後、何人かで暫く騒いでいたこと等を話しながら、中へ。既に冷房が入っていた。
『何だか、悪いみたいね』
 そう言ってテーブルに差し出した本の横に、マンドリンコンサートの夜貸したもう1冊を並べた。会話は続いた。
『星の王子さま』との出会い、そのきっかけとなった高校時代の秋の藤本との交流の日々、ユッカの会話や一番好きだったオリオンの左足、リゲルの話、金木犀のこと、夕陽のことなどを次々喋っていた。
 寂しい時には、夕陽が見たくなるんだ..と言う大好きなフレーズも、しっかり覚えていたことが嬉しかった。
 そのようにして、幾つかの『星の王子さま』に繋がるエピソードを断片的に話しながら、この人のことはきっといつまでも大切に覚えておかなければならない人になる、と感じていた。
 『本当に人間関係って、大切にしなければいけないと思いました。私、この間のコンサートの時、丁度ベートーベンの曲をやっていた時、あなたが言ってくれた人間関係を大切にしなければいけないという言葉を聞きながら、ちょっと泣いてしまいました。気付かなかったでしょう??』
 そう言いながら、実家のおばあさんとの少し気まずかった関係や、殆ど話すことの無かった日々のことを追想していた。
 『マンドリンの後、すぐに私、手紙書いたわ。初めてよ、おばあさんに』
 そのような心に残る会話と一つ一つが新鮮に思える語らいの中に、自分達にとってお互いにが、かけがえの無い存在になって行くことを少しずつ実感し始めていた。
 僕はその日、岩波少年少女文庫愛蔵版の『星の王子さま』に、明石公園の中にある仲良し広場の近くで撮影したユッカの花の写真を栞にして手渡した。その時の会話。
 『私は、この星の王子さまという童話や、日記のことを思い出す時、きっと中谷さんを思い出すワ』
 何時間喋っていたのだろう。初夏の日暮れ、薄暗さの中で僕たちはその店の前で西と東に別れた。
 何時間か前に揃って持っていた『星の王子さま』を交換して。
 その夜、彼女に宛てた始めての手紙を認めた。
 人間関係の大切さを、春の一つの偶然の出会いから、幾度かの会話を通してお互いを少しずつかけがえの無い存在として感じ始めていることを、その会話の中に今でも大きな比重を占めていたと実感できる『星の王子さま』からの一つの言葉を何枚かの便箋のどこかに記したと思う。

  It is the time you have wasted for your rose that makes your rose so important.   
  僕は、あなたの為にそんなに時間を無駄にしたとは思わないけれど、あなたを大切に思っています と言う程度の言葉と共に。

*  *  *

彼女からの最初の手紙は、何度読み返したことだろう。
便箋3枚に綴られた文字の一つ一つも、横長の封筒の体裁も、貼られていた15円切手も随分長い間覚えていた。
僕は、その最初の手紙の中にこの章のタイトルに使用した、『邂逅』という文字を見つけた。
――私にとっても、とても楽しく有意義な一日でした。
――あらためて、人間関係を大切にしなければと思いました。
――大学に入って、わずか2ヶ月の間に知り合ったことは、とても幸運でした。
――人と人との邂逅に驚かされます。
――逢った回数は少なくとも、多少ずつ感化・影響を受けていると思います。
――あなたを「星の王子さま」と日記で覚えておくといいましたが、単にその二つは、印象を強くするものであり、 もっともっと大切なことを教えて下さった様な気がします。
――又いつか、青空の下で話し合うことを楽しみにしています。

丁寧な文字で綴られたその手紙の最後に、就職試験に出掛ける僕を気遣ってくれる一言と、故郷米子からわずかの距離にある松江のことが記されていた。
その翌日だったか、就職試験の為に東京へ出掛けた。
筆記試験に合格し、面接試験をうけた翌日、明石へ戻り出発前に受け取った手紙のお礼と、とりあえず試験は終わったことを告げる為に(と言うより、一刻も早く優しい声が聞きたくて)如修塾へ電話する。
『お帰りなさい。良かったですね。一安心ですか。えっ、明石にですか?』
僕は、少し浮々した気分だったのだろう。時間があれば、明石へ出てこないかと誘った。
意外な返事が返って来た。
『いいですよ。土曜日の午後だったら試験も終わってますから。でも、どれくらいかかりますか? 明石まで。そうですか、40分ですか。電車は、何処に乗ればいいですか?  前の方ですね』
意外なほど、彼女の声も弾んでいるように感じた。
勝手な想い過ごしだったのかもしれないが、明るく弾んだ声に聞こえたし僕自身は大袈裟に言えば浮き上がっていた。

ところが、当日は大変なことになってしまった。
彼女の乗る摂津本山から、明石までは、各駅停車の電車で約40分。
2時頃に、明石駅のホームで待っている約束だった。
しかし、寮を出る時間が遅れて、彼女は三ノ宮駅で各駅停車の電車から、宇野行きの普通列車に乗り換えてしまった。
三ノ宮~明石間は各停で30分、幾つかの駅を通過する普通列車でも2,3分程度しか早くはないのだが、少しでも早くと思った彼女は、三ノ宮駅で乗り換えた。
僕は明石駅の浜側ホーム、つまり各駅停車の電車ホームで待っていたし、「明石駅にホームが二つもあるなんて知らなかった」彼女は
普通列車で、山側ホームに到着し、出迎えが居ないことを気にしながら、改札を出てしまった。
3時を少し過ぎていただろう。
諦めて、ホームをもう一度端から端まで歩き、改札を出た。
その、まさしくその瞬間だった。
僕たちはバッタリ改札の前で出会えた。
『ホームが二つもあるなんて、知らなかったの。ごめんなさいね。一人で公園に行ってきました。あの、ユッカも見てきました』
そう、一気に喋ってから、本当に嬉しそうな笑顔になった。
お堀端を少し西に歩くと、正門である。
曇っている空から、今にもパラパラと降り出しそうな午後の明石公園に、僕たちはその正門から入った。
坤と巽の二つの隅櫓が、少し陰気な日の中にそれでも輝いている。
展望台にあがり、暫く故郷の話に耽る。
『米子にも、お城の跡があるわ。もっと高い場所にある。周りはやっぱり公園になっていて...』
桜掘から、剛ノ池に出る。
ポツリポツリ降っていた雨の為に、芝生が濡れてしまっていた。
だから、座って喋ることも出来ず、二人は池を東側からぐるりと一周し、桜掘を抜け、薬研掘のあたりから、東の丸にある国旗掲揚台に辿り着いた。
降っていた雨は、何時の間にか止んでいた。
どれくらい座っていただろう。
少し疲れてそこを辞し、東帯郭から、仲良し広場に下る。


 ▲ 明石公園のユッカ(アツバキミガヨラン) ▲
 
ユッカの花があった。
駅へ戻り、喫茶店で僕たちは、お互いの気持ちを伝えた。
寒すぎる冷房だったことと、静かに一言一言話してくれる彼女が、時々目を伏せていたことを覚えている。
  満ち足りた気持ちで一杯になっていたのだろう。
しかし、その日彼女を寮まで送らなかった。
別れたのが8時前だったせいだろうか。
一人で帰ると彼女が言ったのだろうか。
それ以上二人で居る時間を持つことに何か支障でもあったのだろうか。
間違いなく、僕達は明石駅のホームで別れている。
ただ、気まずく別れたのではない。
電車が出る直前、座席に座っていた彼女がわざわざドアのところまで歩いてきて、手を挙げたことを今でも覚えているから。
冷房が既に夏の到来を伝えてくれた7月最初の日だった。

*  *  *

  その明石駅の別れから、次の再会まで1ヶ月半があった。
大学が夏休みに入った所為もあったが、お互いの気持ちを打ち明けてしまった後、不思議なくらいの虚脱感を抱いて、少し暑さにバテていたこともあって怠惰な日々を送っていた。
旅に出よう、と思ったのはその怠惰な生活からの脱出だった。
そして8月も半ば過ぎた頃、大学生活最初の夏、故郷米子で過ごしている彼女を訪ねることになる。
明石から、姫新線・因美線経由の急行かいけに乗った。
しかし、途中因美線の踏み切り事故の影響で大幅な遅れになり、雨の津山駅で回復待ち。

結局列車は鳥取駅で運転打ち切り、後続列車の急行三瓶に乗り換えることになり、随分遅れての米子着となってしまった。
しかし、彼女は雨上がりの米子駅西口改札で待っていてくれた。
懐かしい笑顔だった。
公衆電話ボックスから出てきた、妹の陽子ちゃんにも出会った。
大山方面へ案内してくれるつもりだったようなのだが、1時間以上遅れてしまったためそれを断念した。
『お城の方へ行ってみよう』
明石公園散策の時に話してくれた湊山に登る。
残念ながら、伯耆富士・大山の優雅な姿は、厚い雲の中で裾野だけがうっすらと霞んでいた。
『きれいだわー』
と、まるで始めてきた人のような話し振りが印象深く残っている。
『海の方に行ってみようね』
と言うことになり、余り人気の無い坂道を下り、夕暮れまで僕たちは、中海に面した、錦公園で海を見ながら話していた。
予定時間になっても戻ってこない貸しボートで大笑いし、殆ど波の無い鏡のような水面に反射して眩しかった太陽が、次第に空を赤く染めながら西に傾いて行くのを見ながら、
お互いの故郷や、友や、昔話で綴り、飽きること無くそこに座っていた。
次第に暮れて行く西空。
しかし、雲が少なかったせいだろう、青空がそのまま薄く灰色に変わってしまい、期待していた夕焼け雲は見られなかった。
『もう少し、雲があれば良いのにね』
しかし、今も不思議に思うのだが、本当に夕焼けを見ること無くそこを離れている。
大学病院・教会・公会堂....。
盆踊りが予定されていた米子公会堂の前での会話。
『行こう! 踊ろうかナ?』
「踊ればいいョ」
暫く浴衣の事などを語り、喧燥から離れて、ちょっとした商店街の中にある喫茶店「デート」へ入った。
喫茶店のマッチが面白いと言うので一つ貰ったが、その箱にはハートマークと、ローマ字で「DETO」と書かれていた。
しばらく、その少し冷房の効き過ぎた喫茶店で僕たちは、二人の関係についての話題を語っていた。
『誰にも話していないワ。でも瀬合さんは、私が中谷さんと会っていることは、知っていると思う』
夜9時を過ぎていただろうか。
効き過ぎていた冷房に、少しばかり文句を言いながら席を立った。
外は、すっかり暗くなってしまっていた。
遠くに駅構内の入換用に働いている、蒸気機関車の汽笛が聞こえる。
「駅は近い??」と訪ねた僕に、
『そう。汽笛が聞こえるでしょ』と、静かな調子で答えてくれた。
今もって不思議に感じるのは、喫茶店を出て駅の方に向かう途中、三叉路になっているところがあったのだが、彼女は右に折れずに左に折れた。
少し大回りをした、と今でも思っている。
喫茶店から、駅までは10分足らずだったが、街灯も少なく暗い道だった。
米子駅は、米子鉄道管理局舎も兼ねた大きな建物で、夜10時を過ぎていたのだけれど、窓の多くにはまだ部屋の明かりが煌煌と点っていた。
だから、余計に喫茶店からの道の暗さが印象に残っている。
駅の正面玄関で僕たちは、彼女のお父さんとお兄さんに出会った。
丁度夏休みで帰たくさんの彼女のお兄さんは、信州大学に在学中で僕と同じ学年だった。
一言二言の短い会話を交わし、心尽くしのビールを頂く。
そして、改札口へ急いだ。
『私、見送るのはいやだけど』
そう言いながらも彼女は入場券を買って、ホームまで僕を見送ってくれた。
「山陰均一周遊券」は、当時の貧乏学生には有効な切符で、地域内では急行列車の自由席であれば、乗り降り自由。
まだまだ急行列車も、夜行列車も数多く走っていた頃だから、体力がありお金の無い学生には重宝がられていた。
僕はその日、米子駅から夜行急行列車しまねに乗ってその夜を過ごし、翌日萩を歩きまわった後、再び米子に戻って、
今度は山陰・木次・芸備線を走って広島に至る夜行急行ちどりに乗って、深夜に周遊券の南の端にある備後落合駅で、
今度は、米子行急行ちどりに乗換え、早朝米子着の時刻表を設定していた。
「明後日の朝、米子に戻ってくる」
と平然と話す僕に、彼女は静かに笑いながら話した。
『米子に着くのは、朝6時過ぎネ』
 
 計画した通り僕は、急行しまねを長門市で下車し、時間潰しに美祢線で3つ目の駅、渋木に行った。
目的があった訳ではない。
時間潰しだった。
夏の朝とは言っても4時過ぎだったから、駅舎の周辺を歩いただけで、すぐに戻った。
薄暗さの中で、蒸気機関車の吐く煙が絶好の被写体になってくれた。
長門市に戻り、今度は仙崎へ。
ここで夜は完全に明けた。
萩市内を歩き、大汗かいて指月山に登った。
萩城址は暑さの中だった。
その夜、再び米子に戻り、駅前の風呂屋で萩の大汗を流し再び夜行列車を宿舎とすべく、広島行きの「ちどり」に乗った。
深夜、備後落合駅で米子へ向かう「ちどり」に乗り換えたのは、僕を含めて3人居た。
やはり貧乏学生である。
急行第2ちどりは、17日の朝、数分遅れただけで米子駅に着いた。
彼女は、2日前、初めて出迎えてくれた西側の改札口で出迎えてくれた。
細く降り続いていた雨が、時々激しく降ってきた。
一人で行くつもりだった、日御碕も、出雲大社も、松江へもいけないナ、と思った。
彼女は、自転車で駅まで来ていた。
雨が少し小降りになってきた頃、僕は彼女から思いがけない申し出でを受ける。
『松江だけ行くんなら、私も行ける』
そうして僕は、雨上がりの米子の町を歩き、彼女の家を訪問することになった。
雨上がりのデコボコ道を歩き、踏切でハチロクの牽く貨物列車を待つ。
線路を越え、橋を渡る。一面緑の田圃が広がっている。
この田園風景の中を、つい数ヶ月前まで、彼女は自転車通学していたのだろう。
『ここ、私んとこの田圃なのョ』
『田舎でしョ? 米子ってほんとにちっぽけだワ』
「そうじゃないョ。それにいい所だし、本当にのんびりしてて、静かな所だネ」
何年も前の諫早の、春の会話と同じように、ウキウキした気分で答えた。
『米子って、田舎でしょ?』
を何度も繰り返す彼女に、懐かしい友を思った。
三叉路を左にとってすぐ、家に着いた。
米子市大谷町345、駅から遠くて、電話がないから不便だワ、とマンドリンコンサートの夜、寮へ戻る各駅停車の中で話してくれた、彼女の生まれた家の前に立っていた。
陽子ちゃんの部屋だった。
着いてすぐ彼女は一枚の便箋に丁寧に描かれた地図を持ってきた。
『きのうの夜ネ、眠かったけど書いたワ。余りうまくないけど』
そう言って、15日の午後二人して歩いたコースが、赤のボールペンで記された米子の町の地図を渡して下さった。
その地図は、今も手許に残っている。
『松江だけなら、もっと遅くてもいいワ....』
の言葉に安心し、朝食を頂く。
米子駅には10時半過ぎ着いた。
門司行き普通列車は3番ホームに入っていた。
僕は、発車前に上りホームに入ってきた特急やくもを写すべく、ホームに降りた。
心配そうに、客車の窓から覗いている彼女が手を挙げた時、薬大祭の日の展示場での彼女の姿をふと思い出して笑ってしまった。 

松江は思っていた通りの静かな町並みが続いていた。
僕たちは歩くことが好きだったから、どこかに座って話すことよりも、ぶらりぶらり歩きながら時折立ち止まって会話することが多かった。
宍道湖に流こむ川岸には、いくつもの漁船が留まっていたから、不思議な位港町の雰囲気を感じた。


▲ 正面からでは無く脇道から入った松江城。ここでのもう一枚の記念写真はパネル張りして米子に届けた。▲
 
松江城は、最上階が展望台になっていた。
  『余り他の人達は通らない道なの』
と、言いながら裏道を抜けて正門から、お堀に。そう言えば、お城へは、正規のルートではない、県庁横の坂道から入った。途中、変な場所で登閣料金を支払う。
  『普通のコースじゃないのよ』  そういって笑ったあと、
  『記念にね』と、入場券の一枚を手渡してくれた。   
20円だった。
お堀端をぐるっと回り込む形で、小泉八雲記念館の方へ歩く。
屋敷町の風情の残るその道の途中、いくつもの百日紅を見つけた。
「サルスベリがたくさんさいている」
『きれいな花ね』
「まだ??」
のんびりと歩きながら、案外遠い場所にある八雲記念館への途中で何度か尋ねた。
別に歩き疲れたわけではない。
何というか、甘えていたのだろう。
八雲の旧居が並んでいた。


 ▲ 旧居の庭に咲いていたルリヤナギ ▲
 
記念館を出て、元来た道をお城の方へ戻り、少しばかり疲れを感じて遅い昼食を松江大橋のたもとで摂る。
学生証に貼った高校時代の写真で大笑いしたことをふと思い出した。
松江大橋を渡り、宍道湖畔へ。
遠く松江城をみはるかす午後の宍道湖は、キラキラと湖面が輝き、多少寝不足気味の目に痛かった。
のんびり歩いてきた松江の街。
いつだったかの手紙に記されていた言葉を思い出していた。
――古い城下町のもつ素朴さに、とても魅されて、米子に劣らぬほど愛着を感じています――
宍道湖の午後、満ち足りた気持ちと、心地良い疲れを湖面を渡ってくる風の中に感じながら、「ゴズ」釣りをのんびり見ていた。

▲ 宍道湖にて。左後方に松江城が見える。 ▲
 
三人姉弟の竿を借りて真似事の釣り。
『ゴズ釣り遠足って、あったのよ。むかし』
そう言って、遠くを見るような目をしながら笑った。
暑さに少し喉が渇いたと言って、近くのガソリンスタンドまでジュースを買いに。
グレープとオレンジの2本のジュースは、瓶入りだった。


 ▲ 近くのガソリンスタンドまでジュースを買いに行った二人 ▲
 
 
少し残ったそのジュースを一本に集める。
『いい色になったわ。飲んでみない?』
そうやって遊んだ日々のことを、彼女も思い出していたのだろう。
親しげに笑い会っている僕たちに向かって、件の姉弟達は釣り糸を湖水に垂らしながら尋ねる。
「お兄ちゃん達、何処から来たの?」 
「あの人は、恋人? 結婚するの?」
笑って答えない僕を無視して、今度は彼女に向かって尋ねる。
「お姉ちゃん達は、恋人同士? いつ結婚するの?」
『友達よ』
次第に西に傾き始めた夏の太陽。
しかし、何故だったか僕達は、宍道湖の心に染みる筈の夕陽を見ること無く、松江駅に戻った。
切符を買う間、彼女は駅舎の外に出て西を見ていた。
きっと、夕陽が見たかったのだろう。
きっと寂しかったのだろう。
『切符、まだ売っていないから、夕焼け見ているのよ』
『私はいつでも来れるわ。でも、....』
僕は、その日二人して宍道湖の夕日を見ていることに耐えられない寂しさを感じてしまっていた。
何故だったのか、今でも分からない。
口に出しては言えなかったのだが、もう一度、宍道湖の夕焼けを二人で見たいと考えていた。
何もかも一度に手に入れてしまうことの怖さのようなものを感じていた。
幾つかの笑顔は思い出すことは出来るのだが、その松江駅から、米子までの急行やえがきの車内で交わした切ない会話は思い出せない。
大人っぽい会話だったのだろう。
愛することを語ったのだと思う。
それに答えた彼女の会話はきっと噛み合ってはいなかった。
いつもそうだった。
僕が性急すぎたし、彼女は愛する事への拘りを持ちつづけていた。
米子駅に戻り、独りで帰ると言う彼女を無視して僕は朝初めて歩いた田圃道を切ない別れの気分に浸りながら歩きたかった。
『いいわョ。私一人で帰れるから』
「送ってあげたい気分になっているんだよ」と、彼女を無視して、自分勝手な言い分を伝えた。
当然だが会話は少なかった。
すぐ傍に彼女の息遣いを感じ、途中新加茂川に架かる橋を渡った辺りで取り合った手の温かさを、夏の短い旅の何にも代え難い記念に残せると思った。
僕たちは、静かに歩いた。
十軒長屋を過ぎ紫好園の前を通り、集会場まで来た。
その先で道は左右に分かれる。
彼女の家へは、少し登りになった左の道をとる。
その分かれ道に、上部の無い石燈篭があった。
手紙を書くことを約束して別れたのは、その三叉路に着いて5分以上も後だった。

手紙はすぐ来た。
―― 楽しい一日でした。虫の声に秋の訪れをふと感じる夜です。
の書き出しで、心の触れ合いの大切さ、人間関係の大切さ、素直な心の大切さを綴った手紙だった。
しかし、彼女の純粋さを僕が伝える度に、彼女は一つの拘りを持ってしまったのだろう。
3度目だったと思うこの時の手紙には、こう記されていた。
『――  あなたが、私が純粋であると言って下さった時、嬉しさを覚えました。涙が流れるほど嬉しく。でも、悲しみの涙となってしまうのです。時々、私の純粋さは、あなたに対してだけだと自分を疑ってみるのです。――』
彼女は、愛に触れることが、大人になることが恐ろしいのです、とも記していた。
そうなのだろう。
僕たちはその松江を二人きりで歩いた日迄に、わずか3ヵ月しかお互いの心を交わし合ってはいなかった。
会った時間は短くても、随分感化・影響を受けています、と記されていた最初の手紙の明るさとは違って、この夏の日の手紙は、その後の二人の寂しさの原点になってしまった。

*  *  *

そして、夏休みが終わり、秋になっても会う機会が持てなかった。
明るい笑顔が戻ったのは、9月も終わる頃だった。
本当に久し振りに三ノ宮駅西口の花屋さんの前で待ち合わせた。
明るい日差しの中にも、少しずつ秋の気配が漂い始めていたその日、そこから海の方に真っ直ぐ伸びるフラワーロードと呼ばれていた広い道路の西側を、少し離れて歩いた。
並んで歩くことが少し不自然なくらいに僕は距離を感じていたからだろう。
彼女も、少し気まずさを感じながら、距離を置いて歩いた。
花時計を通り過ぎ、市役所の建物を過ぎると東遊園地に着く。
初めての場所だったが、少ない会話にも疲れてその公園の噴水を取り囲むように置かれている木のベンチに座った。
午後の日差しが真正面から差し、噴水越しに虹が見える。
『どう思った? 私の田舎』
最初の会話は、彼女が切り出した。
何処で買ったのか思い出せないのだが、不二家のルックチョコレートを開けて、
『どれがいい? 』
と聞いたのは彼女だったから、僕が買ったのではなかったのだろう。
彼女は間違いなく、オレンジだった。
あの、宍道湖の湖畔、白潟公園で飲んだジュースも、オレンジジュースだった。
彼女が尋ねた、米子の印象に答えて、
「静かでのんびりしていて、好きな町になった」と話す僕に、
『そう、よかったわ。でも何も無い町でしょう』と言いながらも、ふっと微笑んだ彼女を横にして、いつもの饒舌を取り戻した。
途切れ勝ちだった会話は、夏以前の親しみ深い会話に戻った。
  会話は弾んだ。
初めての山陰旅行で写した多くの写真を、自分で引き伸ばして持参していた。
気に入った写真はキヤビネ版や、四つ切りに引き伸ばして。
松江城を背景にした写真と、宍道湖畔で写した写真は、今もぼんやりと覚えている。
その後僕は米子に、その松江城を背にした写真をパネル貼りにして送っている。
勿論、もう一つの目的だった山陰本線の蒸気機関車達の写真も持参していたが、彼女は半ば呆れ顔でこう言った。
『こんなに沢山撮ってたのね。私の写真よりも多いわ』
「今度行った時は、もっともっと撮ってあげるよ」
『自分で引き延ばしできるからいいわね。悪く撮れた時は修正してね』そう言って、本当に優しく笑った。

『邂逅 続き』へ
 

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