カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ドイツ・ベルリン(その2)

2014-12-26 | ドイツ(ベルリン)
ベルリン中心部にあるUバーン(Untergrundbahn)(地下鉄)のアレクサンダープラッツ駅を下りて地上に出ると、昨夜から降り続いた雨は雪に変わっていた。


これから、前方に見える高架橋を走るSバーンに乗り換えて「イーストサイドギャラリー」に向かう。Sバーンとはドイツ語圏において、各国有鉄道など公的機関などが運行する都市近郊鉄道で、主に地上鉄道の形態を指している。もともとは、ベルリン東西を走行する高架軌道シュタット(cityの意)・バーンの頭文字に因んで名付けられた。


電車は南東から北西に向けて流れるシュプレー川沿いの右岸を遡るように走行し、すぐに2つ目の「ベルリン東駅」に到着した。ベルリン東駅は4ホームに8線と単線1線にトレイン・シェッド構造の大屋根を持つ大型の高架駅である。東ベルリンに属していた際、長距離列車の主要ターミナルだったが、ベルリン中央駅に機能が移ってからは、利用者が少なく閑散としている。


改札から南口に出て駅舎内のショップを抜け駅広場を過ぎると、中央分離帯のある大通り(ミューレン通り)が通っている。その通り沿いに色とりどりに塗られて壁が続いているのが見える。こちらが、目的地のイーストサイドギャラリーである。


ミューレン通りを横断し、そばまでくると4メートルほどの高さがあることがわかる。この壁は、冷戦時の1961年8月13日、東ドイツ政府によって建設されたものだが、建設時の最初は有刺鉄線を巻いて鉄条網をバリケード施し、2日後に、ブロックの塀に変わり、その後コンクリートの壁になったとのこと。


壁の頂部には、筒状のものを被せ円状にして、つかまりにくい構造になっている。


壁の反対側に行ってみると、こちらには人工物はなく空地が広がっている。その空地の50~60メートル先はシュプレー川である。壁はミューレン通りとシュプレー川とを一定間隔あけながら、東南方向に伸びている。


当時のベルリン市を分断していた壁の構造は、① 後背壁(高さ3.6メートル~4.2メートル)、② 金網の柵(触れると警報が鳴った)、③ 車が通る道路(国境警備隊がパトロールしていた)、なお金網と道路の間には監視塔が一定間隔で設けられていた。④ コントロールゾーン(歩くと足跡が残るように、常に柔らかい土でならされていていた)、⑤ 段差、⑥ 壁、となっており、壁の横幅は合わせて60メートル以上あった。また、壁内には、一定間隔で犬小屋があり、シェパード犬が目を光らせていた。


ベルリン市は、東西ドイツの国境の東側(東ドイツ)に位置していたため、西ドイツからは飛地の市となり、壁はぐるりと西ベルリンを取り囲んでいた。壁の全長155キロメートルあったという。


こちらには富士山が描かれている。イーストサイドギャラリーは、1989年、壁が崩壊した後、21カ国118人のアーティストにより描かれたもので、現在、オープン・ギャラリーとして保存されている。


壁とシュプレー川との間は空地であったが、ここには、何やら建物が建つらしい。後で知ったが、ここに、マンションとシュプレー川に架かる歩道橋が建設され、イーストサイドギャラリーは、一部撤去されるとのこと。2013年3月には、建設工事に先立ち、工事業者が壁の解体工事を実施しようとしたが、反対デモや反対集会(約6000人が参加)により、結局、解体工事は中断されという。


これは、ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー書記長の「兄弟のキス」。


こちらは、有刺鉄線を飛び越えて西側へ逃げる歩哨を捉えた写真を描いたものである。


壁は約1300メートル。どうやら、ここで、イーストサイドギャラリーは終了である。
それにしても、壁崩壊20周年の2009年に絵が新たに描き直されたが、かなり落書きが増えている。イーストサイドギャラリーは、ベルリン市の文化財保護物件とされているものの、オープン・ギャラリーであるが故の維持・保存の難しさを感じた。


正面には、U1が走る高架橋がある。右手に見える尖塔を持つネオゴシック様式の建物は、シュプレー川に架かるオーバーバウム橋である。オーバーバウム橋は、1896年に完成した橋で、上部には、U1が走り、その下を歩いて渡ることができる。東西ベルリンに分断していた際には検問所が設けられていた。1998年製作のドイツ映画「ラン・ローラ・ラン」では、恋人の窮状を救うべく大金を用意するため、主人公のローラが赤毛を振り乱し駆け抜けるシーンで登場する。


左手に向かうと、300メートルほど先がU1のウーラントシュトラーセ駅。駅前に向かう信号機は、アンペルマンのデザインだ。アンペルマンは1961年、東ドイツの交通心理学者カール・ペグラウによってデザインされ、現在でもベルリンを中心に活躍している「歩行者用信号機」である。東西ドイツ統一後には、新たに、三つ編みの女の子がモチーフとなるアンペルフラウが登場している。


さて、これからウーラントシュトラーセ駅(U1)から地下鉄に乗り、「ベルリン国立博物館・アジア美術館」(Museum fur Asiatische Kunst)に向かう。ところで、U1線は、1902年にベルリンの東西を結ぶ目的で開業したベルリン最古の地下鉄で、こちらの駅は東側の終着駅として高架陸橋で建設された。現在の駅舎は、1990年のドイツ統一後に大規模な再建が行われ1995年に完成したもの。ちなみに路線の大半は地上で高架橋を走行する。


ヴィッテンベルクプラッツ駅でU3に乗り換え、9駅目のベルリン市南西に位置するダーレムドルフ駅で降りる。ダーレムドルフ駅は、駅舎を持つ地上駅だがプラットホームは低い位置にあるため、階段を上って出口に向かう。駅舎は木製で造られており天井や照明の支柱には蒔絵を思わせる様な装飾がされている。


駅を出て、振り返り駅舎を眺めると切妻屋根で木材を組み合わせ漆喰で仕上げた造りで、山小屋のようである。


目的地の「ベルリン国立博物館・アジア美術館」は、駅前から南に150メートル程のところにある。美術館は、1873年に設立された民族学博物館が前身で、1926年には東アジア美術館となり、2006年にインド美術館との統合により現在に至っている。


白とグレイを基調とした近代的で清潔感のある展示室で最初に出会うのはガンダーラ彫像で、左端の頭部像から、仏陀立像が二体、坐像、再び立像と続き、右端には「花輪を持つ女性像」(4~5世紀)が、サイズ毎のロの字型展示台に並んでいる。いずれも仏教美術が栄えた1~3世紀イラン系遊牧民族クシャーナ朝時代に制作された像で、中でも左から5番目の仏陀立像(高さ約1メートル)は「タフテ・バヒー仏教寺院(Takht-i-Bahi)」遺跡を代表する貴重な像の一つである。
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ガンダーラ彫像は、ヘレニズム文化の強い影響を持つ仏教美術で知られており、現在のアフガニスタン東部からパキスタン北西部ペシャーワル地方で繁栄した古代王国「ガンダーラ」に因んでいる。タフテ・バヒー仏教寺院は、ペシャーワルから北東に80キロメートルに位置し、仏教を保護奨励したクシャーナ朝第3代カニシカ王(在:144頃~171頃)が建造した寺院として知られている。

こちらは、2~3世紀クシャーナ朝時代に造られた高さ約70センチメートルのガンダーラ「仏陀立像」で、アフガニスタン・バーミヤーンの「パイタヴァ僧院」からの出土である。像は、異教徒を改宗させるために、深い膜想に入った仏陀が、体の上部と足元から炎と水を交互に発出させたという奇蹟譚(双神変)を表している。肉体を強調するかのように密着する薄い衣の表現描写が見事な作品である。
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こちらも同時期にガンダーラで造られた「仏伝浮彫(誕生)」(パキスタン北西部出土、縦27.5センチメートル×横46センチメートル)で、右手を挙げて樹木の枝をつかむ摩耶夫人の右脇腹から、シッダールタ王子(仏陀)が誕生する場面を表したもの。
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こちらは、インド・デリーから140キロメートルほど南の「マトゥーラ」から出土した高さ1メートルの「ヴィシュヌ神」で、インド・グプタ朝(5世紀)時代の作品である。マトゥーラ地方の多くの作品は赤い砂岩仕様が特徴で、ガンダーラ美術とは異なる独自の仏像様式を生んだ地域でもある。
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「ベルリン国立博物館・アジア美術館」には、中央アジアの調査、探検を目的に1902年から4度にわたり組織されたドイツの探検家グリュンヴェーデルとル・コックの「トゥルファン(トルファン)探検隊」による多くの蒐集品が展示されている。探検隊は、天山山脈の北麓に位置するウルムチから、180キロメートル東南のトルファン地域に入り、そこから、天山南路(西域北道)に沿って、約1400キロメートル西のカシュガルまでの間の遺跡群の調査、発掘作業を行った。ここからは、トルファン探検隊のルートに沿って、西域北道からの展示品をみてみる(中央アジア(西域)地図参照)。

トルファン探検隊の出発地点となったトルファン地域には、高昌国(450~640)の都(高昌故城、カラ・ホージャ)、交河故城、アスターナ古墓群、ベゼクリク石窟寺院(千仏洞)などの都城跡、古墓、石窟寺院などが残されているが、こちらは「高昌国(高昌故城)」の寺院址から出土した塑像である。
「半円形の蓮華座に立つ仏陀(トルソー)」で、衣の襞の表現は肉体美が強調されヘレニズム美術の影響が大きく感じられる。発掘時から頭部は既になく壁に木釘で固定され、壊れた天井から滴る泥水痕で覆われていた。僅かに残る痕から蓮華座の花弁は赤、蓮肉は緑で、法衣は、褐色、襞端には緑が使われ、左下の衣裾の下に赤と青の二枚の下着を重ねていたことが分かっている。
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高昌国はトルファン市街の東45キロメートルに位置するオアシス都市で、周囲5キロメートルの城壁(版築)に囲まれていた。城内には、仏教、景教、マニ教など多くの宗教施設や廟等があったが、現在は建築物の破損が激しく、荒涼とした風景が広がっている。建物は、日干煉瓦と砂礫土で建てられていたが、中国風の構造とは異なり、イラン風のドーム構造によるものかインド式の段階式仏塔であった。

次は、同じく「高昌(高昌故城)」の寺院址から出土した8世紀制作の塑像「瞑想する仏陀像」。身体を覆っていた金箔は斑上に剥落しており、両腕が破損しているが、ややうつむき加減の顔は穏やかで慈愛に満ちた表情をしている。
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こちらも「高昌(高昌故城)」からの出土で、景教寺院(古代キリスト教ネストリウス派)の壁画片である。向かって左側は「若い信者、602~654年」で赤い服をまとい懺悔を行う女性信者を描いている。右側は「棕櫚(聖枝祭)の日曜日、683~770年」で、香炉と聖水器を持った僧侶と青葉の束を手にした三人が描かれている。
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「トルファン探検隊」のル・コックは、三群像のうしろの馬(ロバ)の前足は、騎士が司祭に近づいてきた場面で、復活祭前の日曜日の儀式を描いたものと考え、壁画片を「棕櫚(聖枝祭)の日曜日」と名付けた。ちなみに、聖母とキリストの神性を否定し異端と宣言されたネストリウス派は、東方に向け活動をし、635年に中国へ伝わり、大秦寺(景教寺院)が各地に建てられた。

こちらは「交河故城」からの出土品で、9世紀にシルクで織られた「十一面観音」(15.7センチメートル×17センチメートル)である。顔や頭部の仮仏も多く残っている。
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「交河故城」は、トルファンの西方約10キロメートルにあり、二つの川に囲まれた高さ30メートルの台地上に版築で築かれている。漢時代から続く大規模な城壁都市(敷地約1650メートル×約300メートル)だったが14世紀に戦火で焼け落ちたと言われている。

そして、同じく「交河故城」からの出土品で8~9世紀に制作された「魔人像」。頭部に巻き髪を束ね、太く長い眉と隈取にした切れ長の目がエキゾチックで、顔には損傷がなく色彩も驚くほど残っている。一方、身体の装飾品は腕輪と首輪以外に、胸に痕が残るだけで、服装は肩から腕にかけての巻き布と、胸元を交差する紐だけになっている。両手で何かを支えていたようだ。
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次に、トルファン東方約50キロメートルにある「ベゼクリク石窟寺院」第37窟の床(9世紀)を飾っていた壁画である。朱色をベースとして、唐草文様の正方形の縁取りの中に香炉、花瓶、鳴り物などの仏具が描かれ、周りには白鳥や童子が舞う姿が描かれている。
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「ベゼクリク石窟寺院」は5世紀から14世紀までに造られた仏教石窟寺院で、仏陀の本生(前世)を描いた「誓願図」の壁画が有名である。しかし、壁画の大半は、ドイツを始め、スウェーデン、ロシア、イギリス、フランス、日本(大谷探検隊)の探検隊により持ち去られて世界中に散乱した。中でも最もよく保存された壁画部分は、ル・コックがドイツに持ち帰り、博物館に固定し所蔵したが、第二次世界大戦中に疎開できず、ベルリン爆撃で破壊されてしまった。。

こちらは「ベゼクリク石窟寺院」第8窟(14世紀頃)の壁画で「地獄」が描かれている。針の山地獄を中心に、八つ裂き、舌を抜かれる、釜ゆでの刑、蛇に噛まれるなどの阿鼻叫喚の地獄の様子が描かれている。中央上部には中国風の大きな屋根のある建物が描かれ、閻魔大王の代わりにトカラ文字が書かれている。
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そして、「ベゼクリク石窟寺院」の谷を北東に行った「ムルトゥク遺跡」から出土した「菩薩頭部」(10~11世紀)。塑像で作られているが、顔には損傷がほとんどない。左右の目の位置がややアンバランスだが、かえって人間的な温かみのある表情になっている。
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さて、次はトルファンから、西域北道を西に450キロメートルほど行った「ショルチュク千仏洞」(主要都市カラシャール(焉耆)南西に位置)からの出土品である。こちらはアジア美術館を代表する作品の一つで、塑像「初転法輪像」(8世紀)である。
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頭部は、波状髪を球状にした「肉髻」で、顔は頬骨がやや張り、あごと口が小さい。右肩を露出した偏袒右肩で、黄色の襦袢の上に朱色の大衣を纏っている。台座には、二対の花輪紋様と中心に鹿が描かれ、上部には反花(かえりばな)が描かれている。
1メートルほどの高さで、体躯はスリムな少年の様だが、両ひざと頂部とを結ぶ三角形の構図に安定感があり、表情に気高かく気品さが漂う素晴らしい像である。
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こちらもショルチュク千仏洞からの「仏陀立像」(6世紀)で、肉髻のある波状頭髪や頬骨がやや張った顔立ちなど先ほどの「初転法輪像」と良く似ている。肉体を強調するような衣の襞の表現も素晴らしい。
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同じくショルチュク千仏洞からの塑像で「デーヴァ(デーヴィー、デバター)女神像」(5~6世紀)。顔立ちはやはり先ほどの「初転法輪像」とよく似ている。デバターは、ヒンドゥ教の神々で、仏教では「天部」(天女)とされ、クメール美術で知られる「アンコール・ワット」では女官や踊り子たちを描いたレリーフとして知られている。左右の像は、上半身が裸で瓔珞を身に付け、中央の像は、衣を纏い、冠を被り、耳飾りを付けて合掌している。背中に残る壁面は壁龕から取り出した痕である。
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次は、ショルチュクから西に100キロメートルほどいった西域北道の中ほどに位置するクチャ(庫車)からの出土品をみてみる。
クチャは、オアシス都市で、古代の亀茲国にあたる。西域北道の中継地点でもあり、古来より仏教文化が栄え、近郊にはキジル、スバシ故城、キリシュ、シムシム、クムトラなど多くの石窟寺院が造られた。玄奘三蔵は、管弦伎楽は諸国に名高く、伽藍が100余り、僧侶は5000人余りで、説一切有部(小乗)を学習していると記録している。また、多くの仏典を漢訳(訳経僧)し、仏教普及に貢献した「鳩摩羅什(344頃~413頃)」の出身地としても知られている。

こちらは、クチャから西南約30キロメートルにある「クムトラ千仏洞」から出土した「菩薩交脚像」(7~8世紀)である。菩薩像とされているが、詰め襟の首元に、スリットのある鮮やかな朱色のドレスに、ズボンを穿く遊牧民族風の衣装姿である。ドレスには五枚花弁の紋様が、ズボンには大ぶりの五枚花弁の紋様が円形状にあしらわれている。髪は長い巻き髪で、胸元にはネックレスと装身具を付けている。なお、クムトラ千仏洞は5世紀から8世紀にかけて開窟し、112窟が確認されている。
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次に、クチャから、西約70キロメートル先のムザルト川の急流沿いの断崖にあった「キジル石窟寺院(千仏洞)」の壁画を見てみる。キジル石窟寺院は、3世紀末から8世紀末までに開窟され、東西2キロメートルの範囲に現在236窟が確認されている。中国政府により西から通し番号がつけられているが、ドイツの探検隊ル・コックは、いくつかの石窟に独特の名称を付け、多くの壁画を切り取ってベルリンに持ち帰った。

キジル石窟寺院の壁画は、ガンダーラ美術に影響を受け、輪郭線が柔らかく、穏やかな色彩を基調として描かれたが、その後、西域独自の発展を遂げ、輪郭が固い線となり、立体感をあらわす濃淡の差が大きくなっていく。ラピスラズリの青を多用する強い色彩効果は、キジル石窟寺院における壁画の特徴にもなった。

こちらは、キジル石窟寺院、第8窟(十六剣士洞、432~538)からの壁画で「トカラ女王」(縦153センチメートル×横170センチメートル)と名付けられている。前方を凝視する視線と合掌するピンと伸びた指先に力強さを感じる。トカラとは、印・欧語族に属する言語を使う民族で、高昌地域の東トカラ語と、亀茲地域の西トカラ語との二種の方言があったとされるが、8世紀頃、共に死語となった。
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以下、キジル石窟寺院の壁画を見ていく。向かって左側は第76窟(孔雀洞、6~7世紀)の壁片「仏陀の説法」で、右側は第77窟(像洞、406~425)の壁片「執金剛神像」である。執金剛神は右手に払子を持ち、台座に座る仏陀に涼風を送っていた。
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こちらは第224窟(マヤ洞、261~403)からの壁画で、古代インドに栄えたマガダ国の「アジャータシャトル(阿闍世)王と、彼の妃及びヴァッサカーラ大臣」が描かれている。阿闍世王は、前5世紀頃、父親の頻婆娑羅王を殺してマガタ国の王位に就いたが、のち仏陀の教えに従って仏教教団の保護者になった人物で、王舎城の悲劇として仏典に説かれている。
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こちらも第224窟(マヤ洞、261~403)からの壁画「弥勒菩薩(4世紀頃)」で、弥勒菩薩を中心に左右に黒い肌と白い肌の人物が合掌して敬っている。更に周りには、多くの国際色豊かな人物の姿が描かれている。弥勒菩薩は反花の青い台座に交脚人座の姿勢で座り、目を大きく開いて説法をしている。頭部には3つのメダリオンのある宝冠を被り、縁取りのある大きな円形光背が描かれている。上腕部の独特の紋様、首飾りや腕飾りなどは、色素の劣化によるものか刺青のように見える。
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他にも、第77窟(像洞、406~425)からの壁画「牛飼いのナンダ」(406~425)第207窟(418~536)からの壁画「仏陀の説法」などキジル石窟寺院からは多くの壁画が展示されている。

こちらはアジア美術館を代表する作品の一つで第171窟(417~435)の壁画「神と乾闥婆」である。乾闥婆とは、ガンダルヴァ神のことで、仏法護持の八部衆の一人で帝釈天に仕え、香だけを食し、伎楽を奏する神で知られている。壁画は2メートルほどの高さがあるが、ドイツ探検隊は、顔、その他大切な部分を切り込まないように、曲線あるいは鋭角に境界線を引き、11枚に裁断しドイツに持ち帰ったという。
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頭部付近を見ると、壁画が前面に貼り出している。ヴォールト天井近くに描かれていた壁画を切り取ったことが分かる。描かれた像の手つきを見ると、竪琴を奏でていると思われる。左側の黒い肌の神の左手が白いのは意味があるのだろうか。。向かって左側の白い肌の神の宝冠や装飾飾りは、前述の弥勒菩薩と良く似ている。
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館内には、キジル石窟寺院から切り取った壁画を、石窟を造って再現する展示方法がとられている。再現されているのは、第123窟(763~907)の主殿で、左右正面の壁には、仏陀、菩薩、飛天などが描かれている。正面のアーチ型にくり抜かれた中央奥には塑像で造られた本尊が、手前の二か所の突起にも塑像の神像などが奉られていたのだろう。右側の壁には、仏陀立像が描かれているが、顔や体は破壊されている
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主殿には、周りを唐草模様などで縁取りされたドーム天井があり、暗くてわかりにくいが、仏陀と菩薩が首を傾け、それぞれ向き合う姿が四体ずつ放射状に繰り返し描かれている。損傷個所も多いが、破壊されず美しい姿を留めている。
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主殿の左右にある周歩廊も再現されている。その周歩廊側面にも仏像が並んで描かれているが、こちらも、目や身体が破壊されている。これらは、イスラム教など偶像否定の信仰により破壊されたものと言われている。
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周歩廊奥壁の天井部には飛天が描かれている。
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さて、次に、クチャ(庫車)から西域北道を西に500キロメートルほど行った「トゥムシュク遺跡」から出土した「デバター女神像(6~7世紀)」(高さ72.7センチメートル)である。右の手の平を前に出し、左足を振り上げている不思議なポーズをしている。トルファン近郊の「交河故城」から出土した「魔人像」と並んで展示されており、見比べるとエキゾチックな顔立ちが良く似ている。
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トゥムシュクは、トルファンからは1100キロメートル西に位置しており、西域北道の西の終着点カシュガル(疏勒)まで残り300キロメートルの距離となる。

おなじく、トゥムシュク遺跡からの壁片(7~8世紀頃)で、上の小さな壁片(14センチメートル×73センチメートル)には、中央に馬と光背を付けた天女らしき女性が数人描かれている。下の壁片(51センチメートル×75センチメートル)には、仏陀が説法している姿と冠を被った王族と家来らしき姿が描かれている。
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以上が「トルファン探検隊」による西域北道からの蒐集品の一部である。ル・コックがベゼクリク石窟寺院やキジル石窟寺院などの壁画を大量に切り取ってドイツに持ち帰ったことは、文化遺産の破壊・略奪であるとの批判があるが、塑像や壁画片などは、特に、維持、保存など管理が難しいにもかかわらず、美しい姿を今も見せてくれているアジア美術館には、これからも当時の姿のままを後世に残していってほしいと思う。

最後にネパールからの美しい木造彫刻を二点を見て終わりにする。最初に「王冠を被る仏」(16~17世紀)(76センチメートル)で、薄い衣の表現は、経年劣化により首元から肩にかけてと左腕以外には分かりにくくなっているが、王冠は、花の装飾を中心にして、細かい宝石風の縁取りなど丁寧に掘り込められている。右手指を下に向け地面に触れる降魔印(触地印)を結んでおり成道前を仏陀を表している。
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もう一点は、結跏趺座から片足を下げる遊戯座の姿勢を取る 「座る神像」(15~16世紀)(72センチメートル)で、やや劣化が激しいが、こちらも繊細な冠の表現や写実的な肉体表現などが素晴らしい像である。

今回は、仏教美術を中心に1時間半ほど見学した後、美術館内のカフェで、 昼食(サツマイモ甘煮とサワークリーム、スープ、サラダ、ビール)を頼んだ。昼なので、ビールは躊躇したが、スタッフから「ビールなくして人生なし」とまで言われ注文した。他の客も普通に飲んでおり、日本の美術館ではあまり見られない風景であった。再びUバーンで、ベルリン中心部に戻った。

(2014.12.26)

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