カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・パリ(その4)

2014-12-24 | フランス(パリ)
これから、パリ・オペラ座(ガルニエ宮)で、バレエを鑑賞することにしている。開始時間まで間があったことから、メトロに乗り、少し離れたフランクラン・デ・ルーズヴェルト駅を下車して、シャンゼリゼ通りにやってきた。正面が、ナポレオン・ボナパルト(1769~1821)の命により建てられた戦勝記念碑「エトワール凱旋門」(Arc de triomphe de l'Étoile)(1806年着工、1836年完成)で、シャルル・ド・ゴール広場の中心に建っている。
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毎年、年末を迎えるこの時期は、約2キロメートルにわたり、約400本もの街路樹がイルミネーションで鮮やかに彩られる。午後6時半を迎えたシャンゼリゼ通りの交通量は多く大渋滞している。

シャンゼリゼ通り沿いの店舗もイルミネーションが華やかで、多くの人で賑わっている。これからコンコルド広場(Place de la Concorde)の方向に歩いて行くが、ランドマークのオベリスクだけでなく、この日はライトアップされた観覧車(ルー・ド・パリ)の姿が確認できる。
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コンコルド広場から、セーヌ川右岸沿いに足を延ばし、コンコルド橋の近くからセーヌ川を望むと、「アレクサンドル3世橋」のライトアップされた装飾柱の先に、キラキラとした照明に包まれ、サーチライトを放つエッフェル塔を眺めることができる。
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こちらがセーヌ川右岸から見た「コンコルド広場」で、もともとは、1755年、ルイ15世の騎馬像が設置されたことから「ルイ15世広場」と呼ばれ、フランス革命以降には、騎馬像は取り払われ「革命広場」と改められている。ルイ16世やマリー・アントワネットへのギロチン刑が行われた場所でもある。そして現在の「コンコルド広場」は、1830年の7月革命以降に公式名となっている。
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コンコルド広場の中心部にはエジプトのルクソール神殿のオベリスクが聳えている。これは1836年に、エジプト国王ムハンマド・アリーから贈られたもの。そして、高さ60メートルの可搬式観覧車ルー・ド・パリは、2000年のミレニアムのお祝い以来、コンコルド広場に設置されている。持ち運びが可能なため、その後、オランダ、イギリス、タイ、ベルギー、イタリアなどの国々に移動してサービスが提供されているが、このたび、年末を控えてパリに里帰りしている。

上演予定時間が近づいてきたことから、オベリスクの先に見える建物の間の「ロワイヤル通り」を北に進み、三叉路となるマドレーヌ寺院から右方向に行った先のパリ・オペラ座(ガルニエ宮)に向かう。

パリ・オペラ座で、午後7時半よりバレエ「ラ・スルス」(泉)(La Source)を鑑賞する。ラ・スルスは、レオ・ドリーブとレオン・ミンクスの合作の2幕3場のバレエで、1866年にパリ・オペラ座にて初演されたが、その後は、上演されておらず、この度、一世紀半ぶりに復活上演されることになった。

舞台は、コーカサス地方の山岳地帯で、狩人ジェミルに恋した泉の精ナイラが自分を犠牲にして、彼が愛している隊商の娘ヌーレッダとの恋を手助けするといった悲哀恋愛を描いた内容である。
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中央がコロンヌ管弦楽団の指揮者コーン・ケッセルズ(Koen Kessels)で、左右が、泉の精 ナイラ(Naïla)役のシャルリーヌ・ギーゼンダナー(Charline Giezendanner)と、狩人ジェミル(Djémil)役のフロリアン・マグネネット(Florian Magnenet)、両端が、隊商の娘ヌレッダ(Nouredda)役のローラ・ヘケ(Laura Hecquet)と、森の妖精ザエル(Zaël)役のアクセル・イボット(Axel Ibot)になる。

見所としては、男性陣のダイナミックな踊りや女性たちの華麗な踊りはもちろんのこと、クリスチャン・ラクロワ(Christian Lacroix)の華やかで、カラフルな民族衣装や、エリック・ルフ(コメディ・フランセーズ芸術監督・俳優)による刺激的な空間表現などがある。特に、天井から吊り下げられたロープが、様々にアレンジされ、中でも、多くを束ねることで、コーカサスの山岳地帯の巨木広がる世界観をも具現化している点が印象深い。
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バレエ鑑賞後は、オペラ座の東ファサード(支援者のパヴィヨン)側にある「オペラ・レストラン」(こちらは日中の様子)で、午後10時から遅い夕食をいただいた。シーザーサラダ、トリュフのコキーレット、チキンスープリーム、白ワインを注文し、営業終了時間の午後11時にお店を後にした。

メインファサード側に戻ってみると、人通りはほとんどなく寂しい雰囲気である。ライトアップされたファサードを見上げると、その荘厳の豪華さに圧倒される。こちらのメインファサードには、14人の画家、モザイク職人、73人の彫刻家が装飾制作に参加したと言われている。
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モントロン公園(9区)そばにあるホテル「ウイリアム オペラ」をチェックアウトし、荷物をフロントに預けたお昼の12時過ぎ、8区にある「ジャックマール・アンドレ美術館」(Musée Jacquemart-André)にやってきた。美術館は、メトロ9番線ミロメニル(Miromesnil)駅から450メートルほど歩いたオスマン通り沿いにある。このあたりは高級邸宅が多く、同じような外観の邸宅が並んでいるので、懸垂幕がなければ通り過ぎそうである。


ちなみに、現在のパリの街並みは、1853年、皇帝ナポレオン3世の統治下、セーヌ県知事に任命されたオスマン男爵の手によるもの。今までスラム街のようだったパリは、その約17年の歳月を要した後、世界中の人々から賞賛される「花の都」へと大変身を遂げた。このオスマン通りは、そのオスマン男爵の名にちなんでいる。

黒い鉄扉を入ると、薄暗い石壁で囲まれた10メートルほどの通路があり、左側の扉を入るとチケットショップがある。その後は、左にカーブする坂道を上っていく。



左に回り込んだ左側(南側)にある広場の先に、巨大なポルチコのファサードを持つ大きな建物が現れる。こちらが「ジャックマール・アンドレ美術館」の展示会場となり、入口左右のライオン像が出迎えてくれる。
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ジャックマール・アンドレ美術館は、銀行家で芸術愛好家のエドゥアール・アンドレと、1881年に結婚した妻で画家のネリー・ジャックマールとの邸宅だったが、2人の遺産を受け継いだジャックマール・アンドレ財団により、1913年に美術館として発足している。そして、2人が収集したイタリア・ルネサンス、18世紀フランス、そしてオランダなどの絵画作品に加えて美術工芸品、家具、調度品等が華麗な邸宅と共に展示されている。

入口を入った最初の展示室が「絵画室」(サロン・デ・パンチャー)(Le salon des peintures)で、ジャン・マルク・ナティエ(Jean-Marc Nattier、1685~1766)の「ダンタン公爵夫人」(マチルド・ドゥ・キャニーの肖像)(1738)が展示されている。ナティエは、ルイ15世時代のフランスで肖像画家で、彼が描く優美にして繊細なタッチは一世を風靡しており、こちらの作品は、美術館のイメージキャラクター(図録、ポスター、ホームページなど)として採用されている。
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その上に掲げられた楕円額縁の絵画は、フランソワ・ブーシェ(1703~1770)の「ビーナスの眠り」(1738)である。ヴィーナスのポーズは、楕円形のフレームにフィットして描かれている。アモールは、眠りにつくヴィーナスを見守っており、そのヴィーナスの左手には真珠のネックレスが握られている。

こちらは、訪問客を招いて豪華なパーティーなどが催された「グランドサロン」(Grand salon)(114平方メートル)で、アンティークとモダンを組み合わせた18世紀らしい折衷主義の様式で設計されている。左奥の扉向こうに見える「絵画室」の南隣に位置していることから、絵画室が、グランドサロンのための控室であったことが頷ける。
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グランドサロンは南向きで、外観はドームを頂くロタンダとなっている。窓の外にはテラスが広がり、そのテラス先の背景として樹木が広がっているが、これは、1階下に延びるオスマン通りの街路樹を借景としている。サロンには、絵画の展示はないが、コワズヴォー、アントワーヌ・ウードン、ミケランジュ・スロッツなどの彫刻家による大理石の胸像コレクションが飾られている。
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このサロンでは、キャパを超える規模のレセプションパーティーの開催も可能で、その場合は、油圧ジャッキを使って西側面の仕切りを外して、隣接する部屋を一つの空間にすることで、千人ものゲストを迎えることができた。

グランドサロンの窓に向かって左扉の先は「タペストリーのサロン」(Salon des tapisseries)で、壁面には、18世紀、ボーヴェのタペストリー工場で編まれた、計3枚のタペストリーが飾られている。原案は、フランスの画家で、ブーシェに師事した、ル・プランス(Jean-Baptiste Le Prince)(1734~1781)によるもので、タペストリーには、ブルー・パールとローズ色を基調にロシア・スラブ地方の風景と人物が織り込まれている。
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そして、ソファの前の絵画スタンドに置かれた絵は18世紀イタリアを代表するヴェネツィアの景観画家、フランチェスコ・グアルディの「ポルチコ・ベネティアン(Portique venitien)(1760)」である。

東隣は、「執務室」(Le cabinet de travail)で、貴重な調度品が数多く配置されている。例えば、中央には、ルイ15世のお気に入りの家具職人ジャック・デュボワが制作した「ルイ15世のデスク」(1745)が置かれている。うす暗い金の装飾を盛り込んだ黒漆を基調に、ブロンズ製の縁取りフレームが4本の細く湾曲した脚先にまで施されており、重厚感と軽量感とが巧みに調和された作品となっている。他にも、寄木細工が施されたローズウッド製のタンスや、オービュッソンのタペストリーで覆われた肘掛け椅子などがある。
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壁には、18世紀のフランスの絵画が飾られ、天井には、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ(1696~1770)のフレスコ画で覆われている。

執務室の隣で、東端となる展示室は「私室」(Le boudoir)で、マリー・アントワネット王妃の公式肖像画家で知られる女性画家エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン(1755~1842)の「キャサリン・スカヴロンスカヤ伯爵夫人の肖像」(1790)が展示されている。革命の時にフランスを去ったルブランが、ヨーロッパを旅する途中に立ち寄ったナポリで、ロシア大使スカヴロンスキー伯爵に歓迎され、妻の肖像画を依頼され描いた作品である。モデルの夫人は、左手にメダリオンを持ち物思いにふけった表情で、椅子に腰かけている。
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「私室」の隣で東南角となる「書斎」(La Bibliotheque)には、ルイ14世時代の家具などが配置され、壁にはレンブラント、ヴァン・ダイク、ルイスダール、フランス・ハルス、フィリップ・ドゥ・シャンペーニュなどのフランドル絵画やオランダ絵画のコレクションが展示されている。


正面の一番小さい画は、レンブラント(Rembrandt、1606~1669)の「エマオの巡礼者」(Les Pelerins)(1628年頃)である。向かって右側のシルエットで表される人物がキリストで、背後に光源を配置し神秘さを強調している。対して巡礼者(キリストの弟子)は、光を正面に受け、驚く瞬間を捉えており、明暗を見事に可視化し劇的な効果を生み出している。
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エマオの巡礼者の左右には、同じくレンブラントの「アーノルド・トーリンクス博士の肖像画」(portrait du docteur arnold tholinx)(1656)と「アマーリエ・フォン・ゾルムスの王女の肖像」(portrait d'amalia von solms)(1632)が飾られている。
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アマーリエ・フォン・ゾルムス(1602~1675)は、オラニエ公(現在のオランダ王家)フリードリヒ・ヘンリーの公妃で、病弱だったオラニエ公の政治顧問として事実上の摂政として行動した。晩年は、孫となるオレンジ公ウィリアム3世の摂政評議会の議長をも務めている。彼女は、ホントホルストや、ヴァン・ダイクなどにも描かれている。

こちらは、バロック期のフランドル出身の画家アントゥーン・ヴァン・ダイク(1599~1641)の「男の肖像画」(1620頃)で、治安判事を描いたもの。作品は、当初、ヤーコブ・ヨルダーンス作とされ、次にルーベンス作「老人の肖像」とされたが、現在では特に異論なくヴァン・ダイクの作品とされている。
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東端の「私室」と反対側になる西端には「冬の庭」(ウィンターガーデン)(Le Jardin d'hiver)と名付けられた大理石のホールがある。彫像、ローマ時代のレリーフ、鉢植えの植物などが飾られている。


コリント式の茶色の大理石柱の奥は、吹き抜けになっており、左右に「名誉の階段」(L'escalierd' honneur)と名付けられた螺旋階段がある。


名誉の階段を上がって行くと、壁面に巨大なフレスコ画が現れる。ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの「アンリ3世の歓迎」(1745)で、1574年、アンリ3世(在位:1574~1589)(母がカトリーヌ・ド・メディシス)が、兄シャルル9世の崩御を継いでフランス王となるためパリへ戻る途中に立ち寄ったヴェネツィアにおいて、コンタリーニ公からの歓迎を受けている様子が描かれている。
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中央で首にラッフルを付けて右手を差し出している人物がアンリ3世で、その手を取る老人がコンタリーニ公になる。ところで、向かって右下に、この歓迎風景を見ている男が描かれているが、足が画面からはみ出しているのがなんともおかしい。もともとは、ヴェネツィアのコンタリーニ邸内を飾っていたものだが、1893年にアンドレス夫妻が購入し、この場所に移設したもの。

このフレスコ画の左右にもフレスコ画があり、こちらは、アンリ3世の歓迎をコンタリーニ邸から見学する人物たちの様子が描かれている。
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そして、1階入口の西側にある「ダイニングルーム」(La salle à manger)の天井にも、ティエポロのフレスコ画がある。こちらには、コンタリーニ邸のテラスの欄干手摺から身を乗り出し、階下を見つめる人々の姿が描かれ、猿が、手摺にぶら下がり尻尾がはみ出すだまし絵の効果を狙っている箇所もある。天井画は2階の「アンリ3世の歓迎」と一連のもので、もともとコンタリーニ邸では同じ場所にあったが、こちらジャックマール・アンドレ邸に移設した際に、分離して展示されることになった。
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「ダイニングルーム」では、ジャックマール・アンドレ美術館併設のレストラン、カフェとして営業している。まもなく午後3時になるが、まだ昼を食べていないので、こちらのレストランで食事をすることにした。天井画のアンリ3世の歓迎の様子を眺める人々の姿は、現在では、多くのテーブル席で食事する人々を羨む様な構図となっているのが洒落ている。

そして、店内の周囲の壁には、イーリアスの主人公アキレウスが活躍する冒険談が彩られた5つのタペストリーが飾られている。これらは18世紀にブリュッセルで織られたもの。


こちらのランチタイムは午後3時までなので、時間間際での注文となった。お昼の時間は行列ができるほどの人気のレストランとのことだが、この時間は比較的ゆっくり過ごせる。


再び、名誉の階段で、2階に戻り廊下を歩くと、正面にヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ・ヴェチェッリオ(1490頃~1576)の「フェデリーコ2世・ゴンザーガの肖像」(1560)が展示されている。フェデリーコは、第4代マントヴァ侯フランチェスコ2世とイザベラ・デステの子で、マントヴァ侯を継いでいる。この時代は、ルネサンスの宮廷文化の黄金期であり、彼自身も母親譲りの文化愛好者であった。
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こちらは、ペルジーノ(1448頃~1523)の「聖母子像」(1500)である。ペルジーノは、ルネサンス期のイタリアのウンブリア派を代表する画家で、ラファエロの師でもあった。彼はゆったりとした空間構成、牧歌的な風景、甘美な聖母子像を描くことで人気があるが、こちらも清々しい清涼感を与えてくれる風景が広がっている。
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1階のグランドサロンの真上となる2階展示室は「彫刻室」(La salle des sculptures)と名付けられている。その一角にある「アトリエ」(L'atelier)には、多くの美術品や調度品が飾られている。奥の壁に見える楕円状の「聖母子像」(15世紀)はルネサンス期イタリアのセラミック彫刻家ルカ・デッラ・ロッビアの作品で、他にもロッビア工房のセラミック作品が飾られている。
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正面の大きな画は、13世紀シエナ派のピエトロ・デ・ジョバンニ・ダンブロシオ(Pietro di Giovanni d'Ambrosio)の「聖カタリナ」(1444)で、向かって左の円柱上のブロンズ胸像は、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラ(1509~1566)の「ミケランジェロ」になる。彼は晩年のミケランジェロとの交際で知られている。手前の机上のガラスケースの中にも板状のブロンズ像が飾られている。

こちらのブロンズ像はドナテッロの「聖セバスティアヌスの殉教」(1450)で、ルネサンス期に多くの画家によって描かれた代表的な宗教画である。半裸の姿で体をゆがませたポーズをとり、全身に矢を受けている構図が多いが、こちらの像は、矢を受けているセバスティアヌスだけでなく、イレーネや射手たちも表されている。
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反対側には、美術館の紹介を行うビデオコーナーが上映されており、側面の壁にも、多くの浮彫レリーフなどが掲げられている。
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棚の上に飾られているのは、ダルマツィア出身の彫刻家、フランチェスコ・ラウラーナの「イサベル・デ・アラゴン」(1500)で、凛として静かな表情をした美しい胸像である。その上には、「シジズモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像」(1468)が掲げられている。彼はリミニの領主で、領土拡大のための徹底行動が、法王ピウス2世の反感を買い、1460年に破門されている。その後も、教皇庁からは、暴君、好色漢で残忍な異教徒の世評をたてられるが、彼は最高の芸術家たちを招聘するなどし、リミニをルネサンス芸術の地に変えている。
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窓際の隅に見える胸像は「ロレンツォ・ソデリーニ像」(15世紀)になる。ソデリーニ家はフィレンツェの名門貴族で、彼の孫には、1512年にフィレンツェ共和国の元首(正義の旗手)となったピエロ・ソデリーニがいる。
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左隣(「彫刻室」の西側)となる展示室「フィレンツェの部屋」(La salle florentine)には、パオロ・ウッチェロの「聖ゲオルギウスの竜退治」(1430~1435頃)がある。ウッチェロは、初期ルネサンス美術を代表する画家の一人で、遠近法を科学的アプローチで駆使した絵画を創出したことで知られている。作品は手前の道から都市の門に向けて遠近法が使われているものの、登場人物たちは、前面に帯状に整列させられた単純な構図で、やや不自然な印象を受ける。
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竜退治の舞台は、トルコ・カッパドキアの首府ラシアである。この街のはずれに恐ろしい竜が住んでいたが、羊を生贄に捧げることで、その災厄から逃れていた。しかし、遂に生贄にするべき羊がいなくなり、人間を生け贄として差し出すことになり、くじ引きの結果、王の娘に当たってしまう。その時、この地を通った聖ゲオルギウスが、竜に戦いを挑み勝利し、喜ぶ街の人たちをキリスト教に改宗させて去ったという。

ちなみに、ウッチェロが約30年後に描いた「聖ゲオルギウスの竜退治」(ロンドン・ナショナル・ギャラリー版)(1460~1470頃)では、遠近法に違和感は感じられず、ゲオルギウスと竜にも躍動感が感じられる。とは言え、ジャックマール・アンドレ版の方が、何とも味のある作品であり愛着を感じる。

「フィレンツェの部屋」の西隣の北西側の展示室「ザ・ベネチアン・ルーム」(La salle vénitienne)にも名品が並んでいる。上が、ジョルジオ・スキアボーネ(1437~1504)の「聖母子とパドヴァのアントニオ、殉教者ペテロ、そして二人の音楽天使」で、向かって左下が、パドヴァ派の画家カルロ・クリヴェッリ(1430頃~1495)の「救いの木を持つボナヴェントゥラ」(1490)になる。左下に見える小さな人物はフランシスコ会の寄進者である。
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ジョルジオ・スキアボーネの下で中央の大きな絵は、初期ヴェネツィア派を代表する画家の1人、ヴィットーレ・カルパッチョの「アマゾーンの女王ヒッポリュテとアテナイ王テーセウス」(1495)で、ギリシャ神話の世界が描かれている。ミュケナイ王は、ヘラクレスにアマゾーンの女王ヒッポリュテの腰帯を取って来いとの命令をくだしたため、アテナイ王テーセウスともに、アマゾーンに向かう。これは、個性的な帽子をかぶり馬に乗ったアマゾーン7人の女性戦士とテーセウスとの交渉場面を描いている。
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その右隣は、ボッティチェッリの「エジプトへの脱出」(1505)で、ヘロデ王による嬰児殺しを避けるために行われた幼子イエスを抱くマリアとヨセフとの逃避行が描かれている。エジプトへの逃亡を描いた多くの表現では、マリアがロバに座り、子供を膝に乗せているのがよく見られるが、本作は、メアリーは子供を腕に抱いて立っており、ロバは彼女の隣で草を食んでいる。
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「ザ・ベネチアン・ルーム」には、ジョヴァンニ・ベリーニ、アンドレア・マンテーニャ、カルロ・クリヴェッリなどの大作がそろっている。向かって左側には、アンドレア・マンテーニャ(1431~1506)の「この人を見よ」で、棘の冠を被ったイエス・キリストが民衆に晒されるところが描かれている。作品名は、キリスト処刑時のユダヤ属州総督のピラトの発した言葉に由来している。隣は、同じく、マンテーニャの「聖ヒエロニムスとトゥールーズの聖ルイのいる聖母子」(1455)で、印象的なキリストの顔と、深みのある個性的な人物表現に特徴がある。
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中央に飾られているのは、ジョヴァンニ・ベリーニ(1430頃~1516)の「聖母子像」(1510)で、この美術館のメインの一つともいえる作品になる。ベリーニはヴェネツィア派の第一世代(15世紀)最大の巨匠で、祭壇画、ピエタ・磔刑などキリストを主題とする宗教的作品を多く描いている。


マリアは、記念碑的な玉座に座り、後ろに張られたロープにカーテンが掛けられている。その玉座の垂直面とカーテンの水平面は十字架を形成している様に見える。

向かって右側にはマンテーニャの「聖母子と三人の聖人」(1485)がある。頬を寄せ合う二人を中心に、左右に、マグダラのマリアとヨセフが寄り添っており、そのヨセフの奥にはわずかに別の聖人の顔が見える。
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向かって右端のマンテーニャの祭壇画の下にある小さな画は、クリヴェッリの「聖人たち」(1493)で、左から、剣を持つ聖パウロ、中央が聖アウグスティン、右端が聖ブルーノになる。この指を咥えるポーズは、さまよう隠者のシンボルを表している。
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エドゥアール・アンドレとネリー・ジャックマール夫妻が収集した多くの作品は、美しい調度品と共に、美しく、華麗なブルジョワ邸宅の隅々にまで見事に溶け込んでいる。すっかり長居をした午後5時頃に美術館を後にした。
(2014.12.23~24)
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フランス・パリ(その3)

2014-12-23 | フランス(パリ)
日本航空(JL)5057便で、羽田空港を午前0時半に発ち、フランス・シャルルドゴール空港に午前5時半に到着した。空港からパリ市内へは、パリ高速鉄道(RER)が便利だが、スリが多いこともあり、今回も、空港バス「ロワシーバス」(RoissyBus)に乗車する。乗客も10人ほどで安心感があり、約1時間ほどで無事パリ・オペラ座(ガルニエ宮)前のバス停に到着した。まもなく午前8時で、夜明けまであと30分ほどになる。
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バス停の道路向かい側が、頂部をドームによって覆われたオペラ座の西ファザード「皇帝のロタンダ」で、もともと皇帝が直接入館できるように2重の専用斜道構造となっている。その手前には、オペラ座の設計者フランス建築家シャルル・ガルニエ(Charles Garnier、1825~1898)の胸像が飾られている。オペラ座のメインファサードは南側になり、回り込んだ東側には、西側と対になる同じデザインの「支援者のパヴィヨン」と名付けられた関係者向けのファサードがある。

オペラ座の東側にある、ショセ・ダンタン=ラ・ファイエット駅からラ・ファイエット通りを北東に1キロメートル行った左側の「モントロン公園」(パリ9区)そばにあるプチホテル「ウイリアム オペラ」が今夜の宿泊ホテルになる。荷物を預けて市内を散策することにした(以下ルートマップ参照)。


ホテル前のラ・ファイエット通りを東方面に450メートルほど歩くと10区に入る。左手に見える教会は、「サンヴァンサン・ド・ポール愛徳修道女会礼拝堂教会」である。こちらの教会は、カトリック修道女カタリナ・ラブレが、聖母マリアの出現によって示されたお告げとイメージをもとにデザインされた「不思議のメダイ」で知られており、奇跡のメダル教会ともいわれている。


教会の南側から、シャブロル通りを東に300メートル歩き、左手に続く建物が「マルシェ・サンカンタン」である。北側のプティオテル通りと東側のマゼンタ大通りとの三角形の敷地に建てられており、ピンクのレンガと緑の鋳鉄製のアーケードが特徴的なマルシェである。パリにマルシェは多いが、こちらは1866年に建てられた歴史あるマルシェである。


営業時間は、午前8時から午後8時まで(日曜日は午後1時30分まで、月曜日は休み)で、店内にはクリスマス準備に大忙しのお肉屋さんや、


美味しそうなチーズ屋さんなど多くのお店がある。チーズの種類の多さは、日本とは比べ物にならない。さすがチーズの国フランスである。


マルシェの前の交差点を超えると、左側に「パリ東駅」(Gare de l'Est)が見えてくる。東駅はフランス東部やドイツ、ルクセンブルク方面と東へ向かう列車が発着することから名付けられている。


東駅前から、南に数十メートル下ったマジェンタ通りとの交差点の左側に、ステンドグラスと高い尖塔(肝心の尖塔が切れてしまった。。)で知られるゴシック式建築の「サン・ローラン教会」が建っている。古代ローマ街道の跡地に建てられたが、現在の教会は10世紀と15世紀の建築を基礎とし、19世紀にステンドグラスのあるファサードとして再建されている。


サン・ローラン教会のファサードに向かって左側の北側廊沿いを通り、後陣から東方向に延びるレコリ通りに入る。左側には旧ヴィルマン軍病院の跡地に建設された「ヴィルマン庭園」(1977年創設)がある。軍病院は、前線から帰還した負傷者がすぐに治療を受けられる様に、1861年、北駅と東駅の近くに設立されたが、現在は、ポータルのみが残されている。レコリ通りを東に歩いていくと、通りは突き当たりの丁字路になり、その先にアーチ鉄橋が見えてくる。


ここが「サン・マルタン運河」で、1キロメートルほど北のラ・ヴィレット貯水池と3.5キロメートル南のセーヌ川とを結んでいる。このサン・マルタン運河は、ナポレオン1世が、1825年、市民に飲み水を提供するために作ったもので、現在では観光のための遊覧船も走っている。


運河は、25メートルの高低差があるために9つの閘門(こうもん)があるが、鉄橋から南のセーヌ川方面を眺めるとその閘門の一つがあり、構造を確認することができる。ジャン=ピエール・ジュネ監督の映画「アメリ」(2001年)で、主人公のアメリが石で水切りをしていた場所がこちらである。


陸橋を渡った側の運河沿いのジェマッペ通り沿いには「北ホテル」がある。マルセル・カルネ監督の映画「北ホテル」Hotel du Nord(1938年)の舞台となっており、こちらのアーチ橋を渡ってきた男女2人が、河川敷にあるベンチに座るシーンから映画は始まっている。


冒頭シーンでは、ベンチに座る2人の背後に現在と変わらぬ北ホテルの全景が映し出される。当時の映画はセット撮影だったとされているが、ホテルを含めた周囲の景観は現在とほとんど変わっていない。ちなみに北ホテルは、現在レストランになっている


再び、陸橋で運河の西側に戻り、メトロ5号線のジャック・ボンセルジャン駅から、シャトー・ドー通りに入ると左側にサン・マルタン・マルシェがある。


こちらも常設のマルシェで、店内には、新鮮な魚介類がたくさん並べた魚屋さんなどがある。


先の交差点を左折して南に向かうサン・マルタン通りを進むと、交差点の中心に「サン・マルタン門」が建っている。太陽王として知られるルイ14世が、1674年に造った凱旋門で、アーチの上の彫刻は、フランス国王軍がブザンソン(スイス)奪取と軍と三国同盟(ドイツ・オランダ・スペイン)の解体をあらわしている。


次に、サン・マルタン門から、サン・マルタン大通りを600メートルほど東に向かうと「レピュブリック広場」になる。このあたりには、ビストロも多く若者も大勢訪れる。レピュブリックはフランス共和国(Republique Francaise)を名に冠した場所で、広場中央にフランス象徴のマリアンヌ像が飾られている


レピュブリック広場から、南方面のタンプル通りに入る。ここから3区に入る。正面三叉路角にはメトロ「タンプル駅」入口がある。建築家エクトール・ギマールのお馴染みのアール・ヌーヴォーデザインの駅のゲートを見ながら左手タンプル通りを南に進む。タンプル通りは1830年代、パリ演劇界の中心地で、最盛期には15もの劇場が軒を連ねており、当時は「犯罪大通り」とも呼ばれていた。


「犯罪大通り」といえば、フランス映画史上に残るマルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」Les Enfants du Paradis(1945年)でお馴染みである。

タンプル通り左手には、パリ市内に多くの店舗を展開しているスーパー「モノプリ」Monopirixがあり、その店先には、特設の魚介のマルシェが出ていた。蟹、海老、牡蠣等が山積みになっている。


通り向かい側には「ハンガリー教会の聖エリザベス教会」が建っている。13世紀のハンガリーの王女、ハンガリーの聖エルジェーベト(エリーザベト)(1207~1231)に捧げられた教会で、ティンパヌムには、キリスト降架の浮彫が、左右に、ルイ9世(セントルイス)とハンガリーの聖エルジェーベトの彫像が飾られている。1938年からはエルサレムの聖ヨハネ騎士団の修道院教会となっており、マルタ十字の旗が見える。
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モノプリを過ぎたすぐ先の左側には「ドゥ・トンプル広場」がある。左折してブルターニュ通り沿いから広場に入る。この場所には12世紀から13世紀、テンプル騎士団によって建てられた要塞があり、フランス革命中には刑務所として使用されフランス王室が投獄されていた。その後、王党派の巡礼地にもなったことから、ナポレオン1世が1808年に取り壊しを命じたため、今では当時の面影はない。


広場には、小さなメリーゴーランドがあり、こんなところもパリらしい。また、小さな池のそばには鶏が放し飼いされていた。

広場からブルターニュ通りを東に向かうと、交差するシャルロ通りの手前右側に「マルシェ デ アンファン ルージュ」への入口がある。17世紀から続くパリで最も古いマルシェである。入口を入ると、正方形の敷地に、5つのアーケードが並行し、肉屋、魚屋、ビストロ、ワインバー、ハンバーガー、ケバブ、イタリア料理、中東料理など各国の料理を提供するお店が並んでいる。
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先の交差点を右折して「シャルロ通り」を南に向かう。交差点の左角には、パリジェンヌたちが集う人気のカフェ「シャルロ」(Le Charlot)がある。このあたりからマレ地区に入る。マレ地区は、中世のころまで、沼地(Marais)だったことから、名付けられた。16世紀末~17世紀に入るとアンリ4世が、このあたりを開発し、多くの貴族の邸宅が建てられた。現在貴重な歴史的資産として保存されている。
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シャルロ通りを南に進み、左折して少し東側に行ったところに「パリ国立ピカソ美術館」(Musée National Picasso-Paris)がある。ピカソの遺族が相続税として物納した作品が中心となっていることから、ピカソが最後まで手元に留めていた貴重なものが多い。 2009年以降、改修工事が行われていたが、遅れに遅れ、2カ月前にリニューアルオープンしている。この日は多くの人が訪れていた。


1705年にフランス貴族ド・ロアン家のために建てられた「オテル・ド・ロアン」(現:国立公文書館の一部)がある東側のヴィエイユ・デュ・テンプル通りを南に行き、交差点を左折すると東西に延びる「フラン・ブルジョワ通り」(Rue des Francs-Bourgeois)となる。歴史的建造物も多く、近年はファッションやサブ カルチャーの中心として注目を集めている。通りを一路東に向かう。このフラン・ブルジョワ通りを境に北側は3区、南側が4区となる。
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右側の建物は、15世紀以来、法曹界、財界、政界にかかわってきたスカロン家のために1634年に建てられた「オテル・ド・クーランジュ」(Hôtel de Coulanges)で、先の入口には、1707年のポータルにはロココ調の装飾が施されている

左側には「オテル・ダルメラ」(Hôtel d'Alméras)がある。1613年にブルボン朝フランス国王アンリ4世の顧問で財務長官のために建てられたもの。その後、フランス革命期の政治家、軍人のポール・バラス(1755~1829)や、フランスの映画監督、脚本家アラン・コルノー(1943~2010)などが住んだ。改修、修繕は行われ、室内装飾などは当時のものは残っていないが、邸宅自体は、概ね当時のままである。


そして、先隣りの左側には、1585年に建てられた「オテル モルティエ ドゥ サンドルヴィル」(Hôtel Mortier de Sandreville)がある。パリの商人でブルジョアのバルベット家が所有していたが、その後の相続で分割され、後の継承者により1630年にオテルとなっている(ファサードは1767年に改修)。


フラン・ブルジョワ通りとパヴェ通りの角にある右側の、望楼のある建物は、16世紀に建てられた「オテル・ラモワニョン」(Hôtel de Lamoignon)で、1750年には治安判事ギヨーム・ド・ラモワニョンの住まいとなっている。同じ頃、パリの検察官を務めたアントワーヌ・モロー(1699~1759)が、歴史的文書への情熱に駆られ、ラモワニョンよりオテルを借りて図書館にしており、1968年には「パリ市歴史図書館」となっている。
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フラン・ブルジョワ通りを少し進むと、パリ市歴史図書館への入口がある。ティンパヌムにはラモワニョンの紋章看板を掲げるアモール(天使)の浮彫が残されている。
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パリ市歴史図書館の向かい側には、「カルナヴァレ博物館」(Musée Carnavalet)への入口がある。こちらは16世紀に建てられたオテル・カルナヴァレを1866年にパリ市議会が購入し、博物館としたもの。1989年には、隣接する同じく16世紀に建てられたオテル・ドルジェヴァルを購入し拡張している。


門から中庭を覗いてみる。ここの常設展は無料で入れるが、今日は時間の都合があり、また機会があれば


邸宅やショップを眺めながらフラン・ブルジョワ通りを400メートルほど歩いてくると、


視界が広がり、右側に「ヴォージュ広場」(Place des Vosges)が現れる。ヴィクトワール広場、ドーフィーヌ広場、ヴァンドーム広場、コンコルド広場と並ぶパリの5つの王立広場の一つで、1612年、アンリ4世により造られたパリで最も古い広場でもある。


広場は、一辺が140メートルの正方形の敷地で、周囲を車道と2階建ての赤レンガの住宅に囲まれている。こちらの住宅には多くの貴族や政治家などが住んでいた。中心の広場は彼らの憩いの場でもあり、馬術競技なども行われていたとのこと。


1階部分は回廊になっており、アーケードのついたお店が並んでいる。カフェもあり、寛ぐ人々の姿も見える。


ヴォージュ広場からは、一旦、フラン・ブルジョワ通りを少し戻り、セヴィニェ通りを南下すると、通りの奥に教会が見え始める。


セヴィニェ通りは、リヴォリ通りに突き当たる。向かい側に建つのは「サン・ポール・サン・ルイ教会」(Eglise Saint-Paul-Saint-Louis)である。ローマにあるバロック建築のジェズ教会を模して、1627年から1641年にかけて建造された。ルイ13世がこの場所の土地を提供したので、聖ルイが教会の名前の由来となっている。
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リヴォリ通りの北側を東西に延びる「ロジエ通り」(Rue des Rosiers)を歩く。マレ地区にある通りで、ユダヤ人街になっており、通り沿いにはイスラエル料理やベーグル、ファラフェルのお店などが集まっている。


ロジエ通りから、再びリヴォリ通りに出て、「パリ市庁舎」(オテル・ド・ヴィル・ド・パリ、Hôtel de Ville de Paris)に向かう。午前11時半、リヴォリ通りの南側に広がる「パリ市庁舎」前の広場に到着する。市庁舎の巨大なファザードは、広場の東側にある。1533年、フランソワ1世の発願により建設が始められ、ルイ13世統治下の1628年に完成している。なお、現在の建物は1871年に火事で焼失したため、再建されたものである。
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メリ-ゴーランドの横の列は、スケートリンク入場の列。この時期、市庁舎の広場を利用して、特設スケートリンクが設置され、多くの家族連れで賑わっている。

次に、このパリ市庁舎前を南下し、次に「シテ島」へ向かうべく、正面のアルコル橋を渡る。橋先がシテ島で、前方にノートルダム大聖堂のファサードの巨大な塔が見える。
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アルコル橋からセーヌ川(西側)を眺める。観光遊覧船(ヴデット・デュポン・ヌフ)が通ろうとしている橋はノートルダム橋。橋の左側のシテ島には商事裁判所と奥には王室管理府(コンシェルジュリー)が望める。
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アルコル橋をわたると、すぐに「ノートルダム大聖堂」(Cathédrale Notre-Dame de Paris)に到着する。大聖堂は1225年、全長128メートル、幅48メートル、高さ91メートルと、当時では、それまでにない壮大なスケールの大聖堂として建設された。外観から白い貴婦人とも称されている。フランス革命では大きな被害を受けるものの、現在見られる彫刻群、塔などの多くは19世紀に改装されている。長い時代を乗り越えてきた大聖堂は、ロマネスク様式のテイストを一部に残した初期ゴシック建築の傑作である。
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ノートルダム大聖堂は、1831年、ヴィクトル・ユゴーの小説「ノートルダム・ドゥ・パリ」の舞台となった。その後、1998年にはミュージカル化され、パリ初演以来、世界15カ国で上演され大ヒットした。また、皇帝ナポレオンはこの大聖堂で戴冠式を行っている。まもなくお昼の12時になるが、この時間は、大聖堂の塔に上るための長蛇の列が続いていた。

大聖堂から西に100メートル歩くと「最高裁判所」(パレ・ド・ジュスティス)である。こちらにも長い列が続いている。ここにはパリ最古のステンドグラスで知られるサント・シャペル(Sainte chapelle)があり、これを見学するための列である。


すぐ隣が、最高裁判所の入口になる。手前には、1776年制作の金箔が用いられ精巧な細工が施された鉄柵で覆われている。中庭の先の主玄関となるファサードは、1786年に、新古典主義様式で修復されたもの。フランス革命期には革命裁判所が置かれている。ちなみに、左端に聳える尖塔がサント・シャペルである。
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最高裁判所の前を通過し、シャンジュ橋の手前を左折して、セーヌ川沿いを西に歩く。通りの左側には「コンシェルジュリー」と呼ばれる裁判所付属の牢獄であった建物が建っている。もともとフィリップ4世(在位:1285~1314)の宮殿だったが、フランス革命では、マリー・アントワネットをはじめ多くの王侯貴族がここに囚われた。


前方に見えるのが「ヌフ橋」(ポンヌフ)で、シテ島の下流先端を通りセーヌ川の左岸(南側)と右岸(北側)を結んでいる。ここから見えるのは、右岸にかかる部分である。16世紀から17世紀にかけて建設されたパリに現存する最古の橋である。レオス・カラックス監督のフランス映画「ポンヌフの恋人」(Les Amants du Pont-Neuf)(1991年)でお馴染みである。


コンシェルジュリーを越え左折すると、最高裁判所の入口があり、向かいに小さな「ドーフィヌ広場」がある。こちらは、広場から最高裁判所を眺めている。


振り返った反対側は、シテ島の先端に近いため、三角形の敷地となっており、周囲には広場を取り囲むように住宅が立ち並んでいる。以前、左手の住宅には、俳優のイヴ・モンタンと女優のシモーヌ・シニョレ夫婦が住んでおり、1階のレストランで良く姿が見られたという。それにしても先ほどまでの喧騒が嘘のような、まことに静かな場所である。


セーヌ川の左岸(南側)のヌフ橋を渡り、シテ島を後にしセーヌ川沿いを西に向け歩くと、左手に丸天井が印象的な「フランス学士院」が見えてくる。単にクーポールと言えばこのフランス学士院のことを示すほど。4つのアカデミーで構成され、中でも最古のものがフランセーズである。1635年、ルイ13世の宰相リシュリューによって設立された。このフランセーズの重要な使命はフランス語の辞書の編集で終身身分の40名のアカデミシャンにより改版を重ね現在に至っている。


フランス学士院前の歩行者専用の橋(ポン・デ・ザール)をセーヌ川右岸(北側)に渡ると正面に見えるのが「ルーヴル宮」(現:ルーヴル美術館)である。もともとシテ島を中心としたパリを防護するための城塞だったが、16世紀前半、フランソワ1世がルネサンス様式の建物として改造したのが始まりである。


しかしその後、国王の宮殿はヴェルサイユに移ったことから、荒廃してしまい、フランス革命時の革命政府が、美術館とすることを決め、1793年にルーヴル美術館として開館することになった。

ポン・デ・ザールを渡りながら、右手をみると、先ほどまでいたシテ島がみえる。ここから見るとヌフ橋(ポンヌフ)がシテ島の先端を横切っている様子が良くわかる。
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ポン・デ・ザールを渡り終え、アーチ門をくぐると「ルーヴル美術館」の一辺160メートルの正方形のクール・カレ(Cour carrée)(中庭)となる。こちらはルーヴル美術館を構成する3翼(北のリシュリュー翼、東のシュリー翼、南のドゥノン翼)の内の、東のシュリー翼の後方(東側)に位置しており、周囲に同じスタイルの建物が取り囲んでいる。


ポン・デ・ザールから直線ルートでクール・カレを過ぎ、ルーヴル宮を後にすると、直ぐにリヴォリ通りとなる。左折すると、左側には、ルーヴル美術館のリシュリュー翼(北翼)の外壁が続いている。


リヴォリ通りから、オペラ大通りを歩き、オペラ座ガルニエ宮に向かう。建物の並びをみると、良く統一されており、パリの建築規制の厳しさが良くわかる。


正面に見えるのがオペラ座ガルニエ宮になる。
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ナポレオン3世の発案により、1875年に造られた歌劇場。誠に美しい建物である。そろそろ時刻は午後1時になる。これで、パリの歩きは終了である。
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(2014.12.23)
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