こちらは、アレクサンダープラッツ駅前のカール リープクネヒト通り(先でウンター デン リンデン通りとなる)で、前方にランドマークのテレビ塔(368メートル、1969年築)が、その先にはフレスコ画「死の舞踏」で有名な「マリエン教会」が見える。これから、そのマリエン教会先にある「ムゼーウムス島」(博物館島)に向かうことにしている。
目的地の博物館島までは、900メートル程の距離だが、7日間フリー乗車券(バス、鉄道)を購入しており、路線バスに乗って向かう。博物館島とは、ベルリン中心部を南北に流れるシュプレー川(東)とシュプレー運河(西)との間の中州を指し、このウンター デン リンデン通りを境に中州の北半分に5つの美術館・博物館が集中している。
到着したバスに乗り、2つ目の停留所で降りると、北側正面に「旧博物館(Altes Museum)」の全景を捉えることができる。もともとはプロイセン王国の王室コレクションの収蔵と展示が目的で、建築家カルル フリードリッヒ シンケルの設計をもとに1823年から1830年にかけて新古典主義様式で建設された。中央棟と左右の中庭を取り囲む様に横長の長方形の建物が建っている。手前の広い空間は「ルスト・ガルテン」(庭園)で、もともとは王宮の庭園だったが、その後、閲兵場・大集会場・公園などに使われてきた。菜園として利用された時期もあり、その際はプロイセン発のジャガイモが植えられた。
ルスト・ガルテンの右側(東側)には、壮麗なドームが特徴の「ベルリン大聖堂」が聳えている。1905年に、プロイセン王国国王・ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の命により、建築家ユリウス・カール・ラシュドルフがネオバロック様式で9年の歳月をかけて建築したもの。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな被害を受けたが、1993年には修復され、往時の姿を取り戻している。
大聖堂は、(北側)記念教会、(南側)洗礼所並びに洗礼教会、(中央)説教壇のある説教の教会から成っている。11世紀から続く、プロイセンの名門ホーエンツォレルン王家の記念教会であり、フリードリヒ1世をはじめ、プロイセン王や王族の棺が安置されている。
ファサードは、大きなアーチがあるポーチで覆われ、左右には、コンポジット式の重厚な二連のジャイアント・オーダーが配されている。柱には、弾痕などの傷跡を補修した痕がいたるところに見られる。
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聖堂内に入ると、祭壇の荘厳とステンドグラスに目を見張る。主祭壇前面の祭壇テーブルは、ドイツの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテラーによるもので、白い大理石と黄系のオニキスから作られている。左右の金色の鉄で作られた床の燭台は、ドイツの新古典主義建築を代表する建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルによるもの。
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中央には巨大なドームが見える。ドームまでの高さは114メートルで、近くまで登ることができる270段の階段がある。周囲に描かれている8点の画は、ドイツの歴史画家アントン・フォン・ヴェルナー作で、山上の説教における至福の教えを描いた大判のモザイク画である。中央には、聖霊が描かれ、周囲の光線の花輪に飛び込んでいく様子が表現されている。
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祭壇に向かって左柱頭には、マルティン・ルターの彫像が飾られている。他の柱頭にも、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトンなど宗教改革者の彫像がある。この聖堂が、ルター派の礼拝をおこなっている大聖堂であることがわかる。
左手上部には、ドイツの名オルガン製作者ヴィルヘルム・ザウアーのワークショップによる113の弁と7200のパイプを持つ巨大なパイプオルガン(1905年作)があり、毎日午後3時からオルガンコンサートが催される。北ドイツ諸都市のプロテスタント教会には大規模なオルガンが設置され、オルガン音楽が盛んに演奏されたという。
そのパイプオルガン向かって右手に3人の像が見える。彼らの見つめる方向に目を向けると、
祭壇に向かって右アプスに、キリスト誕生の場面が見える。ツリーも飾られ降誕祭の飾り付けだったのだろうか。3人の像は「東方三博士」をあらわしているようだ。劇場のようにドラマチックな配置を演出しており、バロック様式の空間構成が採用されている。
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ホーエンツォレルン王家の墓所を通り、上に向かう階段を登っていくと、上の階には、博物館があり、大聖堂の模型などが展示されている。さらに階段を登ると、ドームの周りを回る通路があり、窓越しに外を見わたすことができる。こちらは北側を眺めた様子で、ボーデン通り沿いのポルチコ(アーケード)の先にギリシャ神殿を思わせる「旧ナショナル・ギャラリー」(Alte Nationalgalerie)や、左手前に「新博物館」 (Neues Museum)などが見える。さらに上へ続く階段は、本日は立ち入り禁止で行くことができない。
諦めて、「新博物館」に向かうことにする。大聖堂を出てポルチコをくぐる。ポルチコは、シュプレー川とシュプレー運河の間のボーデン通り沿い北側に170メートルほどの長さで続いている。
ポルチコを抜けると、ベルリン大聖堂から見下ろした博物館群が目の前に広がる。右前方が、旧ナショナル・ギャラリーで、正面がペルガモン宮殿の南壁面、そして、左側の南北に細長い長方形の敷地を持つ建物が、これから向かう「新博物館」 (ノイエス・ムゼウム Neues Museum)で、入口は中央にある切妻屋根の下となる。1階はポルチコで、通り沿いから直結していることから、雨でも濡れずに入口まで行ける。時刻は午前11時になったところ。
新博物館は博物館島の中では、2番目に建設された博物館で、旧博物館に収蔵しきれなくなった所蔵品を収めるために1843年から1855年にかけて建設された。収蔵予定の多くのコレクションはエジプトからの発掘品が主だったため、当初はエジプト博物館としての構想があったが、その後第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊され1999年まで廃墟のままとなっていた。その後改修を経て2009年に再オープンしている。
入口を入ったロビー(101)からは、2階のイオニア式の円柱のある踊り場まで直線階段が続き、その踊り場から左右の直線階段で3階に到着できる吹き抜けの階段ホールとなっている。こちらは、2階の踊り場から北壁側に飾られたレリーフ群を眺めた様子で、壁面には、もともとフレスコ画など華やかな装飾が施されていたが、現在は、煉瓦壁となっている。
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新博物館は、地上3階、地下1階で、階段ホールを中心に、長辺となる東展示室(入口側)と西展示室、そして側面の北展示室と南展示室とに分かれている。最初に、博物館を代表する作品の一つで、青銅器時代の「黄金帽」(Der Goldhut)から見学する。作品は、3階の南西角にある薄暗い展示室(305)の中央に、ほのかに照らされた灯りの中に浮かび上がるように輝いていた。
黄金帽(高さ75センチメートル、紀元前10~8世紀)は、ドイツ南部で出土され、当時の君主が儀式用に被っていたと考えられている。表面には、月の満ち欠け(カレンダー)が描かれている。
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ロビー(101)真上(2階)にあるバッカス・ホール(201)には、ドイツ西部のライン川沿いのクサンテンで出土したブロンズ像「クサンテンの若者、The Xanten Youth(1世紀頃)」が展示されている。両目と右手は失われているが、少年の肌の質感が大変良く表現されている。晩餐会などでトレイを手に持ち配膳する少年と考えられている。
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クサンテンの若者が立つホールの内装は、床が幾何学文様のモザイクタイルに、紫茶色のピレネー大理石の柱で支えられた樽型天井、壁にはポンペイ様式のフレスコ画で装飾されているが、第二次世界大戦での損壊や経年劣化により多くが失われている。
次にエジプト コレクションを見学する。こちらは、2階西展示室の北側にある展示室(Sculptyre、208)で、古代エジプト書記官像や主に葬礼や崇拝のための彫像が数多く展示されている。
こちらは1階の北展示室の中央にある展示室109(30世紀、Thirty Centuries)で、「ベルリンのグリーンヘッド(紀元前350年頃、末期王朝第30王朝、硬砂岩)」が展示されている。頭の微細な凹凸感や顔の繊細な皺の表現が完璧といってもよいほど写実的である。モデルとなった人物は、詳しくは分からないが、顔立ちには豊富な知識と強い意志が感じられる。また頭を剃っていることから司祭と考えられている。しかし何故か緑色には見えないが、室内灯やこの時間の太陽光の影響なのかもしれない。
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グリーンヘッドと向かい合うように「2枚の羽冠を被ったティイ王妃の頭部像(紀元前1355年頃、新王国時代第18王朝)」がある。ティイ王妃はアメンヘテプ3世の王妃で、ツタンカーメンの祖母にあたる。威厳と気品をもった顔立ちをしており、写実的な表現が印象的である。
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北東角の展示室110(ファラオ)には「イアフメス・ネフェルタリ王妃(紀元前1152~1145、新王国時代、第20王朝)ストゥッコ」が展示されている。イアフメス・ネフェルタリは、ヒクソスを滅ぼしエジプトの再統一を果たしたイアフメス1世(第18王朝初代)の王妃で、彼女は、夫イアフメス1世の死後、幼い息子アメンヘテプ1世の後見人として摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いた。彼女の死後は、息子のアメンヘテプ1世とともに神格化される。彼女の肌の色が黒いのは、出身がヌビア人であるためとか、ナイル川が運ぶ肥沃な黒い大地を表わしたためなどの説がある。
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2階北東角のノースドームホール(天窓のある八角形のドーム下)(210)は、新博物館の最大の見どころ「ネフェルティティの胸像」の単体展示室となっている。中央に置かれたガラスケースの中に展示されており、前後左右、間近から鑑賞できる。古代エジプトの彫刻家トトメスが紀元前1345年に制作したとされ、頬から顎、首にかけての質感、曲線は余りにもリアルで、作り物に見えない。首筋の筋肉などが今にも小刻みに動き出すのではないかと思ってしまうほど。
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C C__Author / Philip Pikart
Other versions / Derivative works of this file: Nofretete Neues Museum-edit.jpg
アメンヘテプ3世の次のファラオがアマルナ革命(一種の宗教改革)を行ったことで知られるアメンヘテプ4世。ネフェルティティは、そのアメンヘテプ4世の妻である。なお、アメンヘテプ4世は、妻ネフェルティティの長女と三女も自分の妻にしたという。更に別の妻との間にできた子供がツタンカーメンであるといわれる。
時刻は、午後1時を過ぎたので、次に東隣の「旧ナショナル・ギャラリー」に向かった。旧ナショナル・ギャラリーは、19世紀初頭から美術館構想はあったが、銀行家ヨハン・ハインリヒ・ワグネルから絵画262点が寄贈されたことを契機に、1861年に美術館設立が決定された。旧博物館の設計も手がけたプロイセンの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が描いたローマ様式の寺院を模した建物のスケッチを基に設計され、1867年に工事が始まり1876年に開館した。ドイツ絵画を中心にフランス印象派コレクションや、彫像の名品を展示している。
この日は、3階と2階の大半では特別展「ゴットフリート・リンダウアー(ニュージーランドの画家)の先住民族マオリ人たちの肖像展」が開催されていた。
2階には、他に「カスパー ダーヴィト フリードリヒ」の絵画を集めた展示室があり、16作品が展示されていた。フリードリッヒは、19世紀、ドイツロマン派の代表者で、悲劇的な風景画という新しい分野を開拓したことで知られている。こちらの作品は「日の入り後のグライフスヴァルトの港(1808~12年)」で、フリードリヒの生誕地でもあるドイツ最北端のフォアポンメルン州にある街グライフスヴァルトを題材とした作品である。
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お腹が減ったので、地階に下りたが、ショップとカフェのみでレストランはなかった。カフェには菓子類しかなかったため、外にあった屋台でパニーノを購入してカフェでコーヒーと一緒に食べた。その後、2階の中央にある八角形の一番大きな展示室を見学をする。
こちらに、ジョヴァンニ・セガンティーニの「故郷に帰る(1895年)」(161×299センチメートル)が展示されている。死者を連れて故郷へ帰る家族の情景が夕焼けで赤く染まった雲と雄大なアルプスを背景に描かれた大きな作品である。
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セガンティーニは、1858年、北イタリアのアルコ生まれで、幼少期に母を亡くし、父とも別れミラノの感化院で過ごすなど不遇な少年時代を送っている。その後、ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び独立した。アルプスの風景などを題材とした絵画を多く残しており、アルプスの画家として知られている。表現方法として、印象派の技法を取り入れつつ、色彩輝く風景を表現する為に独自の「色彩分割法」を生み出し、細部まで対象物を明確にとらえている。
北隣の長方形の展示室には、エドゥアール・マネの晩年の肖像画的作品「温室にて(1879年)」が展示されている。マネと親交のあった知人のジュール・ギュメ夫妻をモデルに描いているが、妻の手に触れようと身を乗り出し手を近づける夫に対して、妻は無関心を装うなど微妙な距離感を感じる作品である。妻は、パリのサン・オノレ街で流行のドレスショップを営んでいたと言われている。
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同じ展示室には、19世紀の印象派の代表画家ピエール・オーギュスト・ルノワールの「ヴァルジュモンの子どもたちの午後(1884年)」が展示されている。モデルは、ルノワールを支援していた外交官で銀行家のポール・ベラールの3人の娘たちが務めている。
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こちらは、19世紀のスイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリンの代表作「死の島(1883年)」で、5枚描いた同じ題材の3作目となる作品である。暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいく情景を描いている。ヒトラーは、ベックリンの信奉者であり、この画は、ベルリンの総統官邸に掛けられていた。
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そして、こちらは、フランスを代表する写実主義の画家ギュスターヴ・クールベの「波(1870年)」。空に暗雲が現れ、嵐が近づいて来るのか、波が激しく飛沫をたてて押し寄せてくる。轟々たる波音も聞こえてくるよう。彼は当時のロマン主義や新古典主義に対して、美しいものは美しく、みにくいものはみにくく、あるがまま描く「写実主義」にこだわり続けた。レアリスムを追及した彼は天才と讃えられるが、一方では社会主義的野蛮人とも称された。今日では重要な革新者として位置づけられている。
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強い印象を与える女性の上半身を横から描いた作品は、フランツ・フォン・シュトゥックの「魔女キルケー(1913年)」で、モデルは、当時ベルリンで活躍していた舞台女優ティラ・デュリューとのこと。他にルノワールやココシュカの作品のモデルも務めている。画家のシュトゥックは、ミュンヘンで活躍した象徴主義の巨匠で、神話を題材にした寓意的な絵や、宗教画、肖像画などを多く描いている。
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続いて今朝バスを降りたルスト・ガルテン(庭園)の北側にある「旧博物館」に行く。正面にはアテネの古代建築をモデルとしたイオニア様式の柱廊が続き、屋根の庇には鷲の彫刻が飾られ、エンタブラチュアには「あらゆる様式の古代遺物の研究と情操教育のために、1828年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がこの博物館を創設した。」との碑文が書かれている。
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旧博物館には、古代ギリシャ、ローマの美術品などが収蔵されている。最初に1階の「ギリシャ美術」から見学する。こちらは東側面の中央にある展示室2で、壁には「アルカイック期の神々の神殿(Places of the Gods Sanctuaries in Archaic Greece)」と紹介されている。この時間、既に午後4時になり、疲れて睡魔が襲ってくる。
先に見える赤いボードの前には「生贄を捧げるクーロス像(紀元前530~520、ディディム遺跡)」が展示されている。胸の前の痕は、羊か子牛の生贄を抱えていたと考えられている。 ディディム遺跡は、トルコ西部エーゲ海沿いにあり、デルフォイと並ぶ神託のメッカとして栄えた古代都市で、紀元前8世紀から前6世紀にかけてアポロンを祭る神殿が建造され地神の神託所が存在していた。
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先隣りにある展示室3「アルカイック期の記憶と表現の慰霊碑(Memory and Representation Funerary Monuments in Archaic Greece)」には「ベルリン女神(紀元前580~前560、アッティカ地方)」が展示されている。ベルリン女神と名付けられているが、コレー(少女)像は、ギリシャ・アッティカ地方南部で出土した墓像である。赤く彩色された古代衣装のキトンに上着のヒマティオンを重ねてショールのように用いている。ネックレスやイヤリング、ブレスレッドなど装飾品を身に付け、右手にはザクロを持っている。
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こちらは、後ろから見た様子で、衣褶がみごとに表現されているのが確認できる。こちらで、東側面の展示室は終わる。
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ベルリン女神に向かって左側から、東西に長い北側の展示室となり、最初の展示室5「ギリシャ神話の神々と英雄のイメージ(Gods and Heroes Images From Greek Mythology)」には、キュリクスと呼ばれるワイン用酒杯が一枚ずつガラスケース内に展示されている。こちらは「パトロクロスに包帯を巻くアキレウス(紀元前500年頃、ヴルチ出土、アッティカ式赤像式)」で、トロイア戦争の英雄アキレウスに仕えた武将パトロクロスは、主人のアキレウスと竹馬の友でもあった。
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杯は円形で浅く広がった形状をしており、裏側には短い脚あり、ふちの両側に水平の取っ手が付いている。絵はワインを飲み干すと現われる様に中央に描かれていた。
西隣には中央棟の北側にあたる展示室6「ギリシア古典時代の人間像(The Human Image in the Greek Classical Period)」には、旧博物館の至宝とも言われる「祈る少年のブロンズ像(紀元前300年頃、ロードス島)」が展示されている。ルネサンス時代から多くのコレクターを経てプロイセン王フリードリヒ ヴィルヘルム2世の時代にベルリンにもたらされた。足先や指先にいたるまで、肉体を完全に写し取ったとも思える完成度の高さに驚かされる。紀元前4世紀の古代ギリシャの天才彫刻家リュシッポスのスタイルを踏襲していると言われる。
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更に西隣のパネルで仕切られた展示室7「古典アテネの生と死 古代都市の日常生活(Life and Death in Classical Athens Everyday Life in an Ancient Metropolis)」には、「ジュスティニアーニと名付けた少女の墓碑(紀元前460、ギリシャ・パロス島出土)」の美しい遺影が展示されている。古代ギリシャの女性が着用していた肩が開いた長衣(ペプロス)をまとっているため、未婚の女性と考えられる。左手には円状のピクシスを持ち、右手で香らしきものをつまんでいる。ペプロスを止める肩には飾り帯や耳にはネックレスを身に付けていた跡が残っている。
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後方の扉口から左に曲がった西側面の最初の展示室9「ギリシャ劇場 祭儀とエンターテイメント(The Greek Theatre Cult and Entertainment)」には、ひな壇上に飾られたクラテールが並んでいる。こちらは、持ち手のデザインから渦巻型クラテール「ギガントマキアが描かれたクラテール(紀元前350)」である。ギガントマキアとは、巨人族ギガースたちとオリュンポスの神々とのあいだで行われた宇宙の支配権を巡る大戦のことで、ゼウスはヘラクレスを参戦させたことにもより神々の圧勝に終わったとされる。
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古代ギリシャでは、ワインを水で希釈して飲んでおり、クラテールは混ぜるを意味する大型の甕である。宴会場では、クラテールに入れられた希釈ワインを、別の容器で汲んで、客の杯に注いでいた。
2階は「エトルリアと古代ローマ美術」の展示会場で、2階の東西に長い北側の展示室の東側にある展示室3「ローマの生と死(Life and Death in Rome)」には「ナックルボーンで遊ぶ少女(紀元150~200、ローマ・チェリオの丘出土)」が展示されている。ナックルボーンとは、牛や羊の肢骨を使って遊ぶ古代のお手玉であり、この構図は、墓石の彫刻など、古代ギリシア以来しばしば表現された。
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次に2室先の西側にある展示室5「ローマン ヴィラの豪奢な生活様式(Roman Villas Luxury as a Lifestyle)」には「豹と闘うケンタウロス(紀元130年頃、ティヴォリ、モザイク)」が展示されている。ローマ帝国14代ハドリアヌス帝のヴィラ(別荘)ヴィッラ・アドリアーナの食堂床装飾の一部である。
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左に曲がり、西側面の南西角の展示室7「帝国の肖像(Rome-Faces of the Empire)」の壁面には「皇后リウィア(紀元42~54、ファレリ)」が展示されている。リウィアは、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母である。
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美しさや聡明さを兼ね備えていた彼女は、皇帝からの愛情と敬意も深く、皇帝の死後には「祖国の母」の称号を与えられている。そして、亡くなった後は、第4代皇帝クラウディウスによって正式に神格化され、ケレース(セレス)神と同様に豊穣の女神とされた。アートリビュトは麦の穂束である。
矩形の中央棟内部はローマのパンテオンを模した円形広間(ロタンダ)となっている。戦後、旧博物館は、大々的に改修されたが、1982年に行われたロタンダは古い形で再建された唯一の箇所だった。頂部に眼窓のあるドーム周囲には、赤を背景に、楽器を奏でる天使、人物、動物、魚、花文様などが描かれたパネルが4層構造に配されている。
ホールはライトグレーを基本色とし、周囲には、2階テラスを支える黄色い花崗岩の円柱を配し、間に女神ユーノ、アポロ シタロエドゥス(竪琴を備えたアポロ)、ミューズ神などの16体の石像が飾られている。2階にも同様に石像が飾られている。ロタンダへの1階出入口は、祈る少年のブロンズ像が正面に見える北側の展示室と、南側の正面入口側となる。
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午後5時半になり、外に出ると既に真っ暗だった。振り返ると、旧博物館の周囲には街灯がないため、正面口だけが輝いている。これから、シャルロッテンブルクのシラー劇場にオペラを鑑賞に行くことにしている。
旧博物館前の「ルスト・ガルテン」(庭園)中央に設けられた石畳の歩道を、ライトアップされたベルリン大聖堂を見ながら通り過ぎ、ウンター デン リンデン通りから路線バス(100系統)に乗って、西ベルリン地区にあるクーダム方面に向かった。
30分ほどバスに乗り、ツォー駅(ベルリン動物園駅)で降りると、東南側(動物園の南)に「カイザー・ヴィルヘルム記念教会」の尖塔が見える。1888年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼して建設された教会で、その後の第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊された。現在も、戦争の悲惨さを伝えているために、崩れたままの姿で保存されている。次にUバーンに乗り換える。
U2に乗り1つ目のエルンスト・ロイター・プラッツ駅で下車し、ビスマルク通りを西に100メートルほど歩くと、シャルロッテンブルクの「シラー劇場」に到着する。今夜は、こちらで行われる「魔笛」を鑑賞することにしている。魔笛は、モーツァルトが、生涯最後に完成(1791年)させたオペラで、おとぎ話を主体に一般市民向けに作られたこともあり大変人気がある。
シラー劇場は、1907年にミュンヘンの建築家マックス リットマンの設計計画に沿って建設され、ドイツの劇作家、詩人、哲学者フリードリヒ シラー(1759~1805)に因んで名付けられた。その後、ベルリン空襲により破壊されたが、1951年に現在の姿で再建されている。1993年には財政難で閉鎖されるが、ベルリン国立歌劇場(ベルリン大聖堂から西に400メートル)が改修工事に入ったため、代替会場として2010年に再オープンしている。
ロビーには、本日公演のプロブラムが掲示されている。本日の指揮者は、2008年からフランクフルト歌劇場音楽総監督を務め、2010年には、バイロイト音楽祭にも出演しワーグナーを得意とするセバスティアン・ ヴァイグレで、近年はN響も指揮するなど日本でもお馴染みである。
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神殿に仕える大祭司ザラストロ役のルネ・パーペは、1988年、ベルリン国立歌劇場でデビューし、今日に至るまで同歌劇場に所属している。ヨーロッパの各主要歌劇場やメトロポリタン歌劇場など世界各国で活躍。2006年、ケネス・ブラナー監督による映画「魔笛」でもザラストロ役を演じており、いまやバスとして不動の地位を築いている。
舞台美術は、フレッド・ベアンテとあるが、下段に、カール・フリードリヒ・シンケルの名前が見える。シンケルは建築だけでなく100以上の舞台デザインを劇やオペラのために制作した。魔笛の舞台も彼のスケッチをもとにしており、特に夜の女王の登場シーンのデザインは有名である。夜の女王はアナ・シミンスカからコルネリア・ゲッツに変更になっている。
劇場内にはバーがある。ちなみに、メニューを見てみると、ヴーヴ・クリコ11.5ユーロ(0.1L)、クレマンドロワール6.50ユーロ(0.1L)WeiBwein(白ワイン)/Rotwein(赤ワイン)5ユーロ(0.1L)、ビール4ユーロ(0.33L)、エスプレッソ2.50ユーロだった。
劇場内から舞台を望むと、手前のオーケストラピットが小さく見えた。ちなみに劇場の総席数は1,067席とのこと。
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公演は、午後7時に始まり、第1幕80分、休憩20分、第2幕70分の約2時間50分であった。有名なアリアや、個性的な登場人物など見どころも多い。また、ステージまでの距離が短いことから、俳優の姿が良く見える。オーケストラピットの小ささは音響には全く関係なかった。
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向かって左から、ルネ・パーペ(ザラストロ)、セバスティアン・ヴァイグレ(指揮者)、アンナ・プロハスカ(パミーナ)、マルティン・ホムリッヒ(タミーノ)である。歌声と全く関係ないが、タミーノ王子はちょっと貫禄がありすぎる印象だった。。
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オペラ鑑賞後は、U2でシュタットミッテ駅を降り、ジャンダルメン広場近くのレストラン「Lutter & Wegner」にやってきた。
まもなく午後11時になり、夕食が遅くなってしまったが、ワンプレートのドイツ料理を注文しているため提供が早い。ビール(ケーニッヒ ピルスナー)を頼み喉を潤していると、料理が運ばれてきた。内容は、酢漬けの牛肉を焼いた後に煮込んだ「ザウアーブラーテン」で、付け合せは、カルトッフェルザラート(ポテトサラダ)、ロート・クラウト、ザワークラウトである。大皿で結構ボリュームがある。
Konig Pilsner 0.3l 12,Sauerbraten 22.50,Himmel und Erde 18.50,0.2l Spatburgunder 6 = 59
お腹も一杯となり、すっかり体も温まったころ、混雑していた店内は静かになり、最後の客となっていた。
(2014.12.27)
目的地の博物館島までは、900メートル程の距離だが、7日間フリー乗車券(バス、鉄道)を購入しており、路線バスに乗って向かう。博物館島とは、ベルリン中心部を南北に流れるシュプレー川(東)とシュプレー運河(西)との間の中州を指し、このウンター デン リンデン通りを境に中州の北半分に5つの美術館・博物館が集中している。
到着したバスに乗り、2つ目の停留所で降りると、北側正面に「旧博物館(Altes Museum)」の全景を捉えることができる。もともとはプロイセン王国の王室コレクションの収蔵と展示が目的で、建築家カルル フリードリッヒ シンケルの設計をもとに1823年から1830年にかけて新古典主義様式で建設された。中央棟と左右の中庭を取り囲む様に横長の長方形の建物が建っている。手前の広い空間は「ルスト・ガルテン」(庭園)で、もともとは王宮の庭園だったが、その後、閲兵場・大集会場・公園などに使われてきた。菜園として利用された時期もあり、その際はプロイセン発のジャガイモが植えられた。
ルスト・ガルテンの右側(東側)には、壮麗なドームが特徴の「ベルリン大聖堂」が聳えている。1905年に、プロイセン王国国王・ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世の命により、建築家ユリウス・カール・ラシュドルフがネオバロック様式で9年の歳月をかけて建築したもの。その後、第二次世界大戦のベルリン空襲で大きな被害を受けたが、1993年には修復され、往時の姿を取り戻している。
大聖堂は、(北側)記念教会、(南側)洗礼所並びに洗礼教会、(中央)説教壇のある説教の教会から成っている。11世紀から続く、プロイセンの名門ホーエンツォレルン王家の記念教会であり、フリードリヒ1世をはじめ、プロイセン王や王族の棺が安置されている。
ファサードは、大きなアーチがあるポーチで覆われ、左右には、コンポジット式の重厚な二連のジャイアント・オーダーが配されている。柱には、弾痕などの傷跡を補修した痕がいたるところに見られる。
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聖堂内に入ると、祭壇の荘厳とステンドグラスに目を見張る。主祭壇前面の祭壇テーブルは、ドイツの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテラーによるもので、白い大理石と黄系のオニキスから作られている。左右の金色の鉄で作られた床の燭台は、ドイツの新古典主義建築を代表する建築家カルル・フリードリッヒ・シンケルによるもの。
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中央には巨大なドームが見える。ドームまでの高さは114メートルで、近くまで登ることができる270段の階段がある。周囲に描かれている8点の画は、ドイツの歴史画家アントン・フォン・ヴェルナー作で、山上の説教における至福の教えを描いた大判のモザイク画である。中央には、聖霊が描かれ、周囲の光線の花輪に飛び込んでいく様子が表現されている。
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祭壇に向かって左柱頭には、マルティン・ルターの彫像が飾られている。他の柱頭にも、カルヴァン、ツヴィングリ、メランヒトンなど宗教改革者の彫像がある。この聖堂が、ルター派の礼拝をおこなっている大聖堂であることがわかる。
左手上部には、ドイツの名オルガン製作者ヴィルヘルム・ザウアーのワークショップによる113の弁と7200のパイプを持つ巨大なパイプオルガン(1905年作)があり、毎日午後3時からオルガンコンサートが催される。北ドイツ諸都市のプロテスタント教会には大規模なオルガンが設置され、オルガン音楽が盛んに演奏されたという。
そのパイプオルガン向かって右手に3人の像が見える。彼らの見つめる方向に目を向けると、
祭壇に向かって右アプスに、キリスト誕生の場面が見える。ツリーも飾られ降誕祭の飾り付けだったのだろうか。3人の像は「東方三博士」をあらわしているようだ。劇場のようにドラマチックな配置を演出しており、バロック様式の空間構成が採用されている。
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ホーエンツォレルン王家の墓所を通り、上に向かう階段を登っていくと、上の階には、博物館があり、大聖堂の模型などが展示されている。さらに階段を登ると、ドームの周りを回る通路があり、窓越しに外を見わたすことができる。こちらは北側を眺めた様子で、ボーデン通り沿いのポルチコ(アーケード)の先にギリシャ神殿を思わせる「旧ナショナル・ギャラリー」(Alte Nationalgalerie)や、左手前に「新博物館」 (Neues Museum)などが見える。さらに上へ続く階段は、本日は立ち入り禁止で行くことができない。
諦めて、「新博物館」に向かうことにする。大聖堂を出てポルチコをくぐる。ポルチコは、シュプレー川とシュプレー運河の間のボーデン通り沿い北側に170メートルほどの長さで続いている。
ポルチコを抜けると、ベルリン大聖堂から見下ろした博物館群が目の前に広がる。右前方が、旧ナショナル・ギャラリーで、正面がペルガモン宮殿の南壁面、そして、左側の南北に細長い長方形の敷地を持つ建物が、これから向かう「新博物館」 (ノイエス・ムゼウム Neues Museum)で、入口は中央にある切妻屋根の下となる。1階はポルチコで、通り沿いから直結していることから、雨でも濡れずに入口まで行ける。時刻は午前11時になったところ。
新博物館は博物館島の中では、2番目に建設された博物館で、旧博物館に収蔵しきれなくなった所蔵品を収めるために1843年から1855年にかけて建設された。収蔵予定の多くのコレクションはエジプトからの発掘品が主だったため、当初はエジプト博物館としての構想があったが、その後第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊され1999年まで廃墟のままとなっていた。その後改修を経て2009年に再オープンしている。
入口を入ったロビー(101)からは、2階のイオニア式の円柱のある踊り場まで直線階段が続き、その踊り場から左右の直線階段で3階に到着できる吹き抜けの階段ホールとなっている。こちらは、2階の踊り場から北壁側に飾られたレリーフ群を眺めた様子で、壁面には、もともとフレスコ画など華やかな装飾が施されていたが、現在は、煉瓦壁となっている。
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新博物館は、地上3階、地下1階で、階段ホールを中心に、長辺となる東展示室(入口側)と西展示室、そして側面の北展示室と南展示室とに分かれている。最初に、博物館を代表する作品の一つで、青銅器時代の「黄金帽」(Der Goldhut)から見学する。作品は、3階の南西角にある薄暗い展示室(305)の中央に、ほのかに照らされた灯りの中に浮かび上がるように輝いていた。
黄金帽(高さ75センチメートル、紀元前10~8世紀)は、ドイツ南部で出土され、当時の君主が儀式用に被っていたと考えられている。表面には、月の満ち欠け(カレンダー)が描かれている。
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ロビー(101)真上(2階)にあるバッカス・ホール(201)には、ドイツ西部のライン川沿いのクサンテンで出土したブロンズ像「クサンテンの若者、The Xanten Youth(1世紀頃)」が展示されている。両目と右手は失われているが、少年の肌の質感が大変良く表現されている。晩餐会などでトレイを手に持ち配膳する少年と考えられている。
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クサンテンの若者が立つホールの内装は、床が幾何学文様のモザイクタイルに、紫茶色のピレネー大理石の柱で支えられた樽型天井、壁にはポンペイ様式のフレスコ画で装飾されているが、第二次世界大戦での損壊や経年劣化により多くが失われている。
次にエジプト コレクションを見学する。こちらは、2階西展示室の北側にある展示室(Sculptyre、208)で、古代エジプト書記官像や主に葬礼や崇拝のための彫像が数多く展示されている。
こちらは1階の北展示室の中央にある展示室109(30世紀、Thirty Centuries)で、「ベルリンのグリーンヘッド(紀元前350年頃、末期王朝第30王朝、硬砂岩)」が展示されている。頭の微細な凹凸感や顔の繊細な皺の表現が完璧といってもよいほど写実的である。モデルとなった人物は、詳しくは分からないが、顔立ちには豊富な知識と強い意志が感じられる。また頭を剃っていることから司祭と考えられている。しかし何故か緑色には見えないが、室内灯やこの時間の太陽光の影響なのかもしれない。
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グリーンヘッドと向かい合うように「2枚の羽冠を被ったティイ王妃の頭部像(紀元前1355年頃、新王国時代第18王朝)」がある。ティイ王妃はアメンヘテプ3世の王妃で、ツタンカーメンの祖母にあたる。威厳と気品をもった顔立ちをしており、写実的な表現が印象的である。
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北東角の展示室110(ファラオ)には「イアフメス・ネフェルタリ王妃(紀元前1152~1145、新王国時代、第20王朝)ストゥッコ」が展示されている。イアフメス・ネフェルタリは、ヒクソスを滅ぼしエジプトの再統一を果たしたイアフメス1世(第18王朝初代)の王妃で、彼女は、夫イアフメス1世の死後、幼い息子アメンヘテプ1世の後見人として摂政を務め、混迷の時代に終止符を打つとともに、第18王朝繁栄時代の基礎を築いた。彼女の死後は、息子のアメンヘテプ1世とともに神格化される。彼女の肌の色が黒いのは、出身がヌビア人であるためとか、ナイル川が運ぶ肥沃な黒い大地を表わしたためなどの説がある。
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2階北東角のノースドームホール(天窓のある八角形のドーム下)(210)は、新博物館の最大の見どころ「ネフェルティティの胸像」の単体展示室となっている。中央に置かれたガラスケースの中に展示されており、前後左右、間近から鑑賞できる。古代エジプトの彫刻家トトメスが紀元前1345年に制作したとされ、頬から顎、首にかけての質感、曲線は余りにもリアルで、作り物に見えない。首筋の筋肉などが今にも小刻みに動き出すのではないかと思ってしまうほど。
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C C__Author / Philip Pikart
Other versions / Derivative works of this file: Nofretete Neues Museum-edit.jpg
アメンヘテプ3世の次のファラオがアマルナ革命(一種の宗教改革)を行ったことで知られるアメンヘテプ4世。ネフェルティティは、そのアメンヘテプ4世の妻である。なお、アメンヘテプ4世は、妻ネフェルティティの長女と三女も自分の妻にしたという。更に別の妻との間にできた子供がツタンカーメンであるといわれる。
時刻は、午後1時を過ぎたので、次に東隣の「旧ナショナル・ギャラリー」に向かった。旧ナショナル・ギャラリーは、19世紀初頭から美術館構想はあったが、銀行家ヨハン・ハインリヒ・ワグネルから絵画262点が寄贈されたことを契機に、1861年に美術館設立が決定された。旧博物館の設計も手がけたプロイセンの建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーが、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が描いたローマ様式の寺院を模した建物のスケッチを基に設計され、1867年に工事が始まり1876年に開館した。ドイツ絵画を中心にフランス印象派コレクションや、彫像の名品を展示している。
この日は、3階と2階の大半では特別展「ゴットフリート・リンダウアー(ニュージーランドの画家)の先住民族マオリ人たちの肖像展」が開催されていた。
2階には、他に「カスパー ダーヴィト フリードリヒ」の絵画を集めた展示室があり、16作品が展示されていた。フリードリッヒは、19世紀、ドイツロマン派の代表者で、悲劇的な風景画という新しい分野を開拓したことで知られている。こちらの作品は「日の入り後のグライフスヴァルトの港(1808~12年)」で、フリードリヒの生誕地でもあるドイツ最北端のフォアポンメルン州にある街グライフスヴァルトを題材とした作品である。
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お腹が減ったので、地階に下りたが、ショップとカフェのみでレストランはなかった。カフェには菓子類しかなかったため、外にあった屋台でパニーノを購入してカフェでコーヒーと一緒に食べた。その後、2階の中央にある八角形の一番大きな展示室を見学をする。
こちらに、ジョヴァンニ・セガンティーニの「故郷に帰る(1895年)」(161×299センチメートル)が展示されている。死者を連れて故郷へ帰る家族の情景が夕焼けで赤く染まった雲と雄大なアルプスを背景に描かれた大きな作品である。
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セガンティーニは、1858年、北イタリアのアルコ生まれで、幼少期に母を亡くし、父とも別れミラノの感化院で過ごすなど不遇な少年時代を送っている。その後、ミラノのブレラ美術学校で絵画を学び独立した。アルプスの風景などを題材とした絵画を多く残しており、アルプスの画家として知られている。表現方法として、印象派の技法を取り入れつつ、色彩輝く風景を表現する為に独自の「色彩分割法」を生み出し、細部まで対象物を明確にとらえている。
北隣の長方形の展示室には、エドゥアール・マネの晩年の肖像画的作品「温室にて(1879年)」が展示されている。マネと親交のあった知人のジュール・ギュメ夫妻をモデルに描いているが、妻の手に触れようと身を乗り出し手を近づける夫に対して、妻は無関心を装うなど微妙な距離感を感じる作品である。妻は、パリのサン・オノレ街で流行のドレスショップを営んでいたと言われている。
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同じ展示室には、19世紀の印象派の代表画家ピエール・オーギュスト・ルノワールの「ヴァルジュモンの子どもたちの午後(1884年)」が展示されている。モデルは、ルノワールを支援していた外交官で銀行家のポール・ベラールの3人の娘たちが務めている。
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こちらは、19世紀のスイス出身の象徴主義の画家アルノルト・ベックリンの代表作「死の島(1883年)」で、5枚描いた同じ題材の3作目となる作品である。暗い空の下、墓地のある小さな孤島をめざし、白い棺を乗せた小舟が静かに進んでいく情景を描いている。ヒトラーは、ベックリンの信奉者であり、この画は、ベルリンの総統官邸に掛けられていた。
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そして、こちらは、フランスを代表する写実主義の画家ギュスターヴ・クールベの「波(1870年)」。空に暗雲が現れ、嵐が近づいて来るのか、波が激しく飛沫をたてて押し寄せてくる。轟々たる波音も聞こえてくるよう。彼は当時のロマン主義や新古典主義に対して、美しいものは美しく、みにくいものはみにくく、あるがまま描く「写実主義」にこだわり続けた。レアリスムを追及した彼は天才と讃えられるが、一方では社会主義的野蛮人とも称された。今日では重要な革新者として位置づけられている。
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強い印象を与える女性の上半身を横から描いた作品は、フランツ・フォン・シュトゥックの「魔女キルケー(1913年)」で、モデルは、当時ベルリンで活躍していた舞台女優ティラ・デュリューとのこと。他にルノワールやココシュカの作品のモデルも務めている。画家のシュトゥックは、ミュンヘンで活躍した象徴主義の巨匠で、神話を題材にした寓意的な絵や、宗教画、肖像画などを多く描いている。
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続いて今朝バスを降りたルスト・ガルテン(庭園)の北側にある「旧博物館」に行く。正面にはアテネの古代建築をモデルとしたイオニア様式の柱廊が続き、屋根の庇には鷲の彫刻が飾られ、エンタブラチュアには「あらゆる様式の古代遺物の研究と情操教育のために、1828年、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世がこの博物館を創設した。」との碑文が書かれている。
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旧博物館には、古代ギリシャ、ローマの美術品などが収蔵されている。最初に1階の「ギリシャ美術」から見学する。こちらは東側面の中央にある展示室2で、壁には「アルカイック期の神々の神殿(Places of the Gods Sanctuaries in Archaic Greece)」と紹介されている。この時間、既に午後4時になり、疲れて睡魔が襲ってくる。
先に見える赤いボードの前には「生贄を捧げるクーロス像(紀元前530~520、ディディム遺跡)」が展示されている。胸の前の痕は、羊か子牛の生贄を抱えていたと考えられている。 ディディム遺跡は、トルコ西部エーゲ海沿いにあり、デルフォイと並ぶ神託のメッカとして栄えた古代都市で、紀元前8世紀から前6世紀にかけてアポロンを祭る神殿が建造され地神の神託所が存在していた。
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先隣りにある展示室3「アルカイック期の記憶と表現の慰霊碑(Memory and Representation Funerary Monuments in Archaic Greece)」には「ベルリン女神(紀元前580~前560、アッティカ地方)」が展示されている。ベルリン女神と名付けられているが、コレー(少女)像は、ギリシャ・アッティカ地方南部で出土した墓像である。赤く彩色された古代衣装のキトンに上着のヒマティオンを重ねてショールのように用いている。ネックレスやイヤリング、ブレスレッドなど装飾品を身に付け、右手にはザクロを持っている。
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こちらは、後ろから見た様子で、衣褶がみごとに表現されているのが確認できる。こちらで、東側面の展示室は終わる。
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ベルリン女神に向かって左側から、東西に長い北側の展示室となり、最初の展示室5「ギリシャ神話の神々と英雄のイメージ(Gods and Heroes Images From Greek Mythology)」には、キュリクスと呼ばれるワイン用酒杯が一枚ずつガラスケース内に展示されている。こちらは「パトロクロスに包帯を巻くアキレウス(紀元前500年頃、ヴルチ出土、アッティカ式赤像式)」で、トロイア戦争の英雄アキレウスに仕えた武将パトロクロスは、主人のアキレウスと竹馬の友でもあった。
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杯は円形で浅く広がった形状をしており、裏側には短い脚あり、ふちの両側に水平の取っ手が付いている。絵はワインを飲み干すと現われる様に中央に描かれていた。
西隣には中央棟の北側にあたる展示室6「ギリシア古典時代の人間像(The Human Image in the Greek Classical Period)」には、旧博物館の至宝とも言われる「祈る少年のブロンズ像(紀元前300年頃、ロードス島)」が展示されている。ルネサンス時代から多くのコレクターを経てプロイセン王フリードリヒ ヴィルヘルム2世の時代にベルリンにもたらされた。足先や指先にいたるまで、肉体を完全に写し取ったとも思える完成度の高さに驚かされる。紀元前4世紀の古代ギリシャの天才彫刻家リュシッポスのスタイルを踏襲していると言われる。
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更に西隣のパネルで仕切られた展示室7「古典アテネの生と死 古代都市の日常生活(Life and Death in Classical Athens Everyday Life in an Ancient Metropolis)」には、「ジュスティニアーニと名付けた少女の墓碑(紀元前460、ギリシャ・パロス島出土)」の美しい遺影が展示されている。古代ギリシャの女性が着用していた肩が開いた長衣(ペプロス)をまとっているため、未婚の女性と考えられる。左手には円状のピクシスを持ち、右手で香らしきものをつまんでいる。ペプロスを止める肩には飾り帯や耳にはネックレスを身に付けていた跡が残っている。
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後方の扉口から左に曲がった西側面の最初の展示室9「ギリシャ劇場 祭儀とエンターテイメント(The Greek Theatre Cult and Entertainment)」には、ひな壇上に飾られたクラテールが並んでいる。こちらは、持ち手のデザインから渦巻型クラテール「ギガントマキアが描かれたクラテール(紀元前350)」である。ギガントマキアとは、巨人族ギガースたちとオリュンポスの神々とのあいだで行われた宇宙の支配権を巡る大戦のことで、ゼウスはヘラクレスを参戦させたことにもより神々の圧勝に終わったとされる。
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古代ギリシャでは、ワインを水で希釈して飲んでおり、クラテールは混ぜるを意味する大型の甕である。宴会場では、クラテールに入れられた希釈ワインを、別の容器で汲んで、客の杯に注いでいた。
2階は「エトルリアと古代ローマ美術」の展示会場で、2階の東西に長い北側の展示室の東側にある展示室3「ローマの生と死(Life and Death in Rome)」には「ナックルボーンで遊ぶ少女(紀元150~200、ローマ・チェリオの丘出土)」が展示されている。ナックルボーンとは、牛や羊の肢骨を使って遊ぶ古代のお手玉であり、この構図は、墓石の彫刻など、古代ギリシア以来しばしば表現された。
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次に2室先の西側にある展示室5「ローマン ヴィラの豪奢な生活様式(Roman Villas Luxury as a Lifestyle)」には「豹と闘うケンタウロス(紀元130年頃、ティヴォリ、モザイク)」が展示されている。ローマ帝国14代ハドリアヌス帝のヴィラ(別荘)ヴィッラ・アドリアーナの食堂床装飾の一部である。
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左に曲がり、西側面の南西角の展示室7「帝国の肖像(Rome-Faces of the Empire)」の壁面には「皇后リウィア(紀元42~54、ファレリ)」が展示されている。リウィアは、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの妻で2代皇帝ティベリウスの母である。
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美しさや聡明さを兼ね備えていた彼女は、皇帝からの愛情と敬意も深く、皇帝の死後には「祖国の母」の称号を与えられている。そして、亡くなった後は、第4代皇帝クラウディウスによって正式に神格化され、ケレース(セレス)神と同様に豊穣の女神とされた。アートリビュトは麦の穂束である。
矩形の中央棟内部はローマのパンテオンを模した円形広間(ロタンダ)となっている。戦後、旧博物館は、大々的に改修されたが、1982年に行われたロタンダは古い形で再建された唯一の箇所だった。頂部に眼窓のあるドーム周囲には、赤を背景に、楽器を奏でる天使、人物、動物、魚、花文様などが描かれたパネルが4層構造に配されている。
ホールはライトグレーを基本色とし、周囲には、2階テラスを支える黄色い花崗岩の円柱を配し、間に女神ユーノ、アポロ シタロエドゥス(竪琴を備えたアポロ)、ミューズ神などの16体の石像が飾られている。2階にも同様に石像が飾られている。ロタンダへの1階出入口は、祈る少年のブロンズ像が正面に見える北側の展示室と、南側の正面入口側となる。
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午後5時半になり、外に出ると既に真っ暗だった。振り返ると、旧博物館の周囲には街灯がないため、正面口だけが輝いている。これから、シャルロッテンブルクのシラー劇場にオペラを鑑賞に行くことにしている。
旧博物館前の「ルスト・ガルテン」(庭園)中央に設けられた石畳の歩道を、ライトアップされたベルリン大聖堂を見ながら通り過ぎ、ウンター デン リンデン通りから路線バス(100系統)に乗って、西ベルリン地区にあるクーダム方面に向かった。
30分ほどバスに乗り、ツォー駅(ベルリン動物園駅)で降りると、東南側(動物園の南)に「カイザー・ヴィルヘルム記念教会」の尖塔が見える。1888年にドイツ皇帝ヴィルヘルム1世を追悼して建設された教会で、その後の第二次世界大戦のベルリン空襲で破壊された。現在も、戦争の悲惨さを伝えているために、崩れたままの姿で保存されている。次にUバーンに乗り換える。
U2に乗り1つ目のエルンスト・ロイター・プラッツ駅で下車し、ビスマルク通りを西に100メートルほど歩くと、シャルロッテンブルクの「シラー劇場」に到着する。今夜は、こちらで行われる「魔笛」を鑑賞することにしている。魔笛は、モーツァルトが、生涯最後に完成(1791年)させたオペラで、おとぎ話を主体に一般市民向けに作られたこともあり大変人気がある。
シラー劇場は、1907年にミュンヘンの建築家マックス リットマンの設計計画に沿って建設され、ドイツの劇作家、詩人、哲学者フリードリヒ シラー(1759~1805)に因んで名付けられた。その後、ベルリン空襲により破壊されたが、1951年に現在の姿で再建されている。1993年には財政難で閉鎖されるが、ベルリン国立歌劇場(ベルリン大聖堂から西に400メートル)が改修工事に入ったため、代替会場として2010年に再オープンしている。
ロビーには、本日公演のプロブラムが掲示されている。本日の指揮者は、2008年からフランクフルト歌劇場音楽総監督を務め、2010年には、バイロイト音楽祭にも出演しワーグナーを得意とするセバスティアン・ ヴァイグレで、近年はN響も指揮するなど日本でもお馴染みである。
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神殿に仕える大祭司ザラストロ役のルネ・パーペは、1988年、ベルリン国立歌劇場でデビューし、今日に至るまで同歌劇場に所属している。ヨーロッパの各主要歌劇場やメトロポリタン歌劇場など世界各国で活躍。2006年、ケネス・ブラナー監督による映画「魔笛」でもザラストロ役を演じており、いまやバスとして不動の地位を築いている。
舞台美術は、フレッド・ベアンテとあるが、下段に、カール・フリードリヒ・シンケルの名前が見える。シンケルは建築だけでなく100以上の舞台デザインを劇やオペラのために制作した。魔笛の舞台も彼のスケッチをもとにしており、特に夜の女王の登場シーンのデザインは有名である。夜の女王はアナ・シミンスカからコルネリア・ゲッツに変更になっている。
劇場内にはバーがある。ちなみに、メニューを見てみると、ヴーヴ・クリコ11.5ユーロ(0.1L)、クレマンドロワール6.50ユーロ(0.1L)WeiBwein(白ワイン)/Rotwein(赤ワイン)5ユーロ(0.1L)、ビール4ユーロ(0.33L)、エスプレッソ2.50ユーロだった。
劇場内から舞台を望むと、手前のオーケストラピットが小さく見えた。ちなみに劇場の総席数は1,067席とのこと。
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公演は、午後7時に始まり、第1幕80分、休憩20分、第2幕70分の約2時間50分であった。有名なアリアや、個性的な登場人物など見どころも多い。また、ステージまでの距離が短いことから、俳優の姿が良く見える。オーケストラピットの小ささは音響には全く関係なかった。
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向かって左から、ルネ・パーペ(ザラストロ)、セバスティアン・ヴァイグレ(指揮者)、アンナ・プロハスカ(パミーナ)、マルティン・ホムリッヒ(タミーノ)である。歌声と全く関係ないが、タミーノ王子はちょっと貫禄がありすぎる印象だった。。
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オペラ鑑賞後は、U2でシュタットミッテ駅を降り、ジャンダルメン広場近くのレストラン「Lutter & Wegner」にやってきた。
まもなく午後11時になり、夕食が遅くなってしまったが、ワンプレートのドイツ料理を注文しているため提供が早い。ビール(ケーニッヒ ピルスナー)を頼み喉を潤していると、料理が運ばれてきた。内容は、酢漬けの牛肉を焼いた後に煮込んだ「ザウアーブラーテン」で、付け合せは、カルトッフェルザラート(ポテトサラダ)、ロート・クラウト、ザワークラウトである。大皿で結構ボリュームがある。
Konig Pilsner 0.3l 12,Sauerbraten 22.50,Himmel und Erde 18.50,0.2l Spatburgunder 6 = 59
お腹も一杯となり、すっかり体も温まったころ、混雑していた店内は静かになり、最後の客となっていた。
(2014.12.27)
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