カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ドイツ・ベルリン(その3)

2014-12-26 | ドイツ(ベルリン)
ベルリン、文化フォーラムの近く、ラントヴェーア運河にかかる「ベントラーブロック橋」を渡り、シュタウフェンベルク通りを北に向け歩く。


橋を渡った左手には、「連邦国防省(ベントラーブロック)」がある。第二次世界大戦中には、ドイツ陸軍の最高司令部が置かれていたが、1944年7月21日、ここで一つの悲劇が起こった。


ナチス政権下。戦局はドイツにとって日に日に悪化の一途をたどっていた。国内予備軍一般軍務局参謀シュタウフェンベルク大佐は、これ以上戦況が悪化する前にヒトラーを暗殺して国内予備軍を結集・発動するクーデター「ヴァルキューレ作戦」を起こし、米英と講和してソ連から守ってもらうしかドイツが助かる道はないと考えていた。

そして、1944年7月20日、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」において、時限爆弾によりヒトラーの暗殺計画を実行するが、ヒトラーには軽傷を負わせるに留まった。その後、シュタウフェンベルク大佐は、抵抗グループ仲間数名とともに逮捕され、7月21日に入った深夜0時過ぎ、このベントラーブロックの中庭でトラックのライトの元、銃殺刑に処せられた。左端の人物がシュタウフェンベルク大佐である。
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シュタウフェンベルク大佐については、2008年のアメリカ映画「ワルキューレ」で、トム・クルーズが大佐を演じたことにより、多くの人にも知られることになった。一角には抵抗運動の資料館があり、自らの良心に従いヒトラーに抵抗した人々の5,000を越える写真や文書が展示されている。残念ながら本日は休みである。シュタウフェンベルク大佐が射殺された場所には、花輪がかけられている。


中庭にある鎖で手を繋がれているブロンズ像は、抵抗運動の記念碑。ここにも戦争の悲劇を伝える場所がある。


「ベントラーブロック」から200メートル東に歩くと昨日訪問した「ベルリン絵画館」や「ベルリン・フィル」がある「文化フォーラム」に到着する。今からベルリン絵画館の向かい(南側)にある「新国立美術館(Neue Nationalgalerie)」に向かう。この美術館は鉄とガラスからなる建物で、主にドイツと周辺国の20世紀の画家による作品が展示されている。


時刻は午後3時を過ぎたところ。館内に入ると、フロアから天井に向けて巨大な木材が立ち並んでいる。この1階部分は特別展の展示室らしい。これから、階段を下りた地下にある常設展示室の展示作品を鑑賞する。


最初の展示室に入ると、サルバドール・ダリ(1904~1989)の「夢の接近(1932)」(Der Traum kommt naher)が展示されている。ダリは1904年、スペインのカタルーニャ地方フィゲーラスで生まれ、シュルレアリスムの代表的な作家として知られており数々の奇行や逸話でも有名。
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ジャクソン・ポロック(1912~1956)の「イカルス(1946)」(Ikarus)。ジャクソン・ポロックは、アメリカの抽象表現主義の画家であり、絵の具をキャンバスに垂らしたり飛び散らせたりするアクション・ペインティングの技法を多様した。
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マックス・エルンスト(1891~1976)の「非ユークリッド型の蝿の飛翔に困惑する若い男(1942~1947)」(Junger Mann, beunruhigt durch den Flug einer nicht-euklidischen Fliege)。ハエに悩まされる表情が良く出ている。マックス・エルンストは、ドイツのブリュールに生まれた、20世紀のシュールレアリスムの画家であり彫刻家である。
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バルテュス(1908~2001)の「ピエール・レリスとベティ(1932)」(Pierre und Betty Leiris)。バルテュスの兄の学友であるピエール・レリスとその妻ベティを描いたものである。妻ベティは、けん玉で遊んでいる。バルテュスは、20 世紀最後の巨匠といわれるポーランド系貴族出身のフランス人画家で、近代美術界の潮流や慣例に抵抗して、おもに少女をモチーフとした独自の具象絵画の世界を築いた。1962年にはパリでの日本古美術展を準備するため初来日し、当時大学生だった出田節子と出会い、その後、結婚し2子をもうけた。
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ポール・デルヴォー(1897~1994)の「会議(1942)」(Die Begegnung)。ポール・デルヴォーは、ベルギー・リエージュ州生まれ。作品は、無表情で大きな目を見開き、堂々と裸をあらわにした女性が登場することが多い。静寂さの中に幻想的な世界が広がるその作風から「幻想画家」ともいわれている。
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次の展示室からは、現代アーティストによる、オブジェ、映像や写真を取り込んだ装置などを利用したインスタレーション・アートが続く。インスタレーション・アートとは、現代美術における表現手法やジャンルの一つで、ある特定の室内や屋外などにオブジェや装置を置いて、作家の意向に沿って空間を構成し変化・異化させ、場所や空間全体を作品として体験させる芸術のことであるが、正直よくわからない。


50分ほど鑑賞した後、昨日に続き「ベルリン絵画館」に再入館し鑑賞した。ブログでは、イタリア・ルネサンスの後期から盛期ルネサンス、バロック絵画、ロココの順番に主要作品を紹介する。(☆ベルリン絵画館 館内案内図)。

こちらは、盛期ルネサンスのヴェネツィアで活動したジョルジョーネ(1478頃~1510)の作品とされる「若い男の肖像(リトラット・ジュスティニアーニ)(1503)」。現存するジョルジョーネの作品は6点ほどとされており、その他に、ジョルジョーネ作の可能性が高いといわれている絵画が数点確認されているが、こちらは、その内の1点である。
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ジョルジョーネはそれまでの宗教的で古典的な表現画法から、当時の常識を覆す音楽、叙情、空想的な表現、色彩を使い分け対象を描いた。多くの画家たちは、そのジョルジョーネに影響し作品を描いたことから、現在でもジョルジョーネの作品かを見分けるのは困難な作品も多い。

次に、音楽家から画家に転じ、ジョヴァンニ・ベリーニ、続いてジョルジョーネの弟子となった異色の画家セバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485~1547)による作品「若いローマ人女性の肖像(1512頃)」。女性がリンゴとバラなどが入ったバスケットを持つことから、カエサリアの聖ドロテアとも解釈される。当初描かれていた背景の月桂樹の茂みは塗りつぶされ、田園風景を見下ろす開口部のある室内壁となったため、夕焼け前の光が室内に反射して女性の肌の美しさを際立たせる作品となった。制作直後は、ラファエロなどのフレスコ画で知られるローマ・ファルネジーナ荘に飾られていた。
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そして、正面の大きな絵画は、ルネサンス期・ヴェネツィア出身のロレンツォ・ロット(1480頃~1557)の「キリストと聖母の別れ(1521)」で、キリストが十字架刑のためゴルゴタの丘に向かう前、聖母マリアに別れを告げる場面を描いた作品。作品は、満月を思わせる円形窓のあるアーケード内にキリストが聖母の前に跪き別れを告げている。対する聖母はショックのあまり聖女と使徒ヨハネに支えられている。キリストの後ろには、聖ペテロと聖ヤコブが配し、手前にはベルガモ出身の貴婦人で寄進者(ドメニコ・ タッシ)の妻が描かれている。

ロットは、歴史画や肖像画を多く描いており、特に人物の内面描写が上手い。他にも、聖セバスティアヌスと聖クリストフォロス(1531)が展示されている。

そして、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ(1483~1520)の聖母子を題材に描いた4作品が展示されている。 テッラノーバの聖母(1505) 聖母子像と聖ヒエロニムスと聖フランシスコ(1502) ソリーの聖母(1502)、そして「コロンナの聖母(1508)」で、どの聖母マリアも優しい眼差しが印象的で愛情あふれる作品である。
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こちらは、同時代に活躍したヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノ(1490頃~1576)の作品が並んでいる。両側には、「フルーツボウルを掲げる少女(1555)」と、ヴェネツィアに亡命していたロベルト・ストロッツィとマッダレーナ・デ・メディチの娘を描いた「クラリッサ・ストロッツィ(2歳)(1542)」があり、中央に「ヴィーナスとオルガン奏者(1550頃)」が展示されている。同作品は、ワークショップを含めいくつかのバージョンがあるが、大部分をティツィアーノが描いているのは5点で、うち、マドリードにオルガン奏者版が2点、こちらのベルリン絵画館に1点、ケンブリッジとニューヨークにリュート奏者版がそれぞれ1点づつある。


フランドルの画家で芸術一家の家長であったピーテル・ブリューゲル(父)(1530頃~1569)の作品が展示されている。向かって右側は、「二匹の猿(1562)」で、背景には当時住んでいたアントウェルペンの港町(ブリュッセル近郊)が描かれている。


そして、同じくブリューゲル(父)初期の代表作「ネーデルランドの諺(1559)」。当時の人々の生活を舞台に、様々に繰り広げられる諺や格言の場面が100種類ほど描かれている。作品は、中央に、夫に青い(偽善)コートを着せる赤い(罪)服を着た妻(夫を欺く妻の意)を据え、修道士がキリストに不遜な行為(髭をつける)をとる姿(計略で人を騙す意)、村人、神、悪魔、動物、魚など様々なモチーフを使い、描かれている。
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次に、イタリア・バロック絵画の最大の画家カラヴァッジョ(1571~1610)の「勝ち誇るアモル(愛の勝利)(1602)」が展示されている。作品はパトロンの一人で、ローマの銀行家・美術本収集家ジュスティニアーニ侯からの依頼により制作されたもの。足元に散乱された楽器、書物、防具などから「世俗の生き方や名声をも軽蔑したことで、アモルは勝ち誇る愛嬌を浮かべている」との解釈もできる。しかし一方で、歯も笑みもゆがんだ普通の少年が、舞台用の羽根を背中に付け、おどけたポーズでモデルを演じている様にも見える。
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フランドル・バロックからは画家の王とも呼ばれ、諸外国までその名声を轟かせた巨匠ルーベンス(1577~1640)の作品が展示されている。こちらは「小鳥と遊ぶ子ども(1616頃)」で、動画の一場面を切り取ったかのような構図が印象的な作品である。
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他にも、ルーベンスらしい肉感的な女性美を追求した「アンドロメダ(1638)」が展示されている。母カシオペアが神々の怒りをかい、娘アンドロメダを怪物の生贄に供さなければならなくなったが、英雄ペルセウスによって救い出され妻となる。作品では、助けに来るペルセウスが後方に小さく描かれている。

オランダ・バロックからは、レンブラント(1606~1669)の「長老たちに脅かされるスザンナ(1647)」が展示されている。作品は2人の長老達がスザンナの水浴を覗き見する「スザンナと長老たち」の続きで、スザンナが若い男と姦通していると通報すると脅迫して姦淫の要求をして拒否される場面を描いている。スザンナの鑑賞者に救いを求める目が印象的な作品である。結果的に長老達の虚偽証言を暴き、スザンナの無実は証明されることになる。
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レンブラントの作品では、他に、暗い書斎で書物を広げる「豪華な赤いマントを羽織るミネルヴァ」(1631)両替商(1627)、冥界の神プルートーが、春の女神プロセルピナを我が物として連れ去ろうとする様子を描いたプロセルピナの誘拐(1631)サムソンとデリラ(1628頃)洗礼者ヨハネの説教(1634頃)など数多くの作品が展示されている。

そして、オランダ・バロックの代表格とされ、ベルリン絵画館を代表する作品の一つ、ヨハネス・フェルメール(1632~1675)の「真珠の首飾りをつける女(1664頃)」で、窓の横のやや高い位置にある小さな額入りの鏡を覗き込み、高価な真珠を身に付ける女性の恍惚とした表情をとらえている。黄色を基調にした柔らかい色合いが温かみを感じさせる作品。背景の壁には、地図が描かれていたが、最終的に女性に関心が集まる構図となった。
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同じく、フェルメールの「紳士とワインを飲む女(1658~1660頃)」。作品は、明るい日差しが差し込む一室で、彫刻椅子に座り、金の刺繍が施された赤いドレスの女性が、ワインを飲みほした瞬間で、マントを纏って立つ男性がテーブルの上のデカンタの取っ手をつかみ、女性にもっとワインを飲ませようとしている。作品からは、草花が織柄のテーブルクロス、金の額縁のある絵画や、紋章があしらわれた豪華なステンドグラスなど上流階級の暮らしぶりが伺える。
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スペイン・バロックからは、蚤をとる少年(ルーヴル美術館収蔵)や無原罪の御宿りで知られるセビーリャ派の巨匠ムリーリョ(1617~1682)の「キリストのバプテスマ(1655)」である。セビリアのサン・レアンドロ修道院のために描いた洗礼者ヨハネの連作のうちの一作で、ヨルダン川において洗礼者ヨハネから洗礼を受ける様子が描かれている。


スペインのカラヴァッジョとも評されるスペイン・バロックの画家スルバラン(1598~1664)による「ドン・アロンソ・ヴェルドゥゴ・デ・アルボルノス、don alonso verdugo de albornoz(1635)」。セビリアの貴族ドン・アロンソの子息を描いた作品。


バロック美術の全盛期に、独自の画風を駆使しロレーヌ地方で活躍したラ・トゥール(1593~1652)の初期の代表作「豆を食べる農民の夫婦(1622頃)」。貧しい男女が救済院の入口で受け施しの豆を食べる様子を描いた作品で、眩しいまでの光の下、薄汚れてほつれた衣服をまとった老人二人が夢中で豆を口に運ぶ姿は迫力があり圧倒されるほどの写実性が感じられる。後年、ラ・トゥールは、明と暗を劇的に描き(キアロスクーロ)「夜の画家」とも呼ばれている。


バロックに続きロココ時代からは、フランスの画家アントワーヌ・ヴァトー(1684~1721)の作品が展示されている。ヴァトーは「雅びな宴」と言われた柔和な色彩と軽やかな筆致画法で、野外で愛を語り合う若い男女や踊りなどのモチーフを確立させた。「野外でのエンターテインメント(1720)」や「舞踏(1719)」が展示されている。「舞踏」には、大人は登場せず、子供たちの演奏の下、豪華な衣装を身にまとった少女が、舞台中央から観客を見据える様に堂々と立ち尽くす姿が描かれている。
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こちらもロココを代表するフランスの画家フランソワ・ブーシェ(1703~1770)の「ヴィーナスとアモル(1742)」。多作家として知られ生涯に1000点以上の絵画に加え版画や素描など様々なデザインの仕事も数多くこなした。作品のアモルはローマ神話の愛の神でクピードーとも呼ばれ、背中に翼をつけ、足元に恋の矢(クピドの矢)が置かれている。作品には、矢を撃つ気紛れな幼児としての表情が巧みに描かれている。
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ジャン・シメオン・シャルダン(1699~1779)の「若い素描家(1737)」で、素描家は、視線を静かに下げ、静謐な表情で、左手に持った筆記具を、右手のナイフで削っている。シャルダンはロココ時代のフランスの画家だが、当時の主流の歴史画ではなく、シンプルで美しい静物画や家庭のインテリアなど風俗画を描いた。特に柔らかな光の描き方、子供の無邪気さの描写には卓越した能力を持ち鑑賞者を大いに喜ばせた。制作には時間をかけ、生涯で描いた作品は僅か200枚ほどであったという。
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ルーアン出身のロココ期の画家ジャン・レストゥー(1692~1768)の「スキピオの寛容(1728)」。レストゥーは、祖父、伯父や両親、兄を含め画家という家庭に育った。作品のスキピオとは、共和政ローマ時代の政治家スキピオ・アフリカヌスで、ローマとカルタゴが戦った第二次ポエニ戦争ではローマの将軍を務め、戦後、宿敵カルタゴに寛容な方針で臨んだことで知られている。作品は、スキピオがスペイン・カルタヘナを包囲し王子の婚約者を人質にとるものの、祝い金として開放して送り返したことで、カルタヘナがローマ軍傘下に入った際のエピソードを描いている。


イタリア・ロココを代表するカナレット(1697~1768)はヴェネツィア共和国の景観画家・版画家で、都市景観画を得意とした。こちらは、ヴェネチアの大運河(カナル・グランデ)沿いにあるリアルト市場や魚市場のエリアから、リアルト橋方面を描いた作品で、その手前右側にある「カンポ・デ・リアルト(1758~1763)」も展示されている。建物や運河に差し込む光や空気感まで巧みに表現されている。
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ところで、現在のヴェネツィアは、頻繁に、水上交通「水上バス(ヴァポレット)」が運行しており、大運河の様相はだいぶ異なるが、作品に描かれる建物の形状など街並みは、現在の姿とほとんど同じであり、永年にわたる景観保護のための徹底した規制維持には、頭が下がる。。

同じく、イタリア・ロココから、18世紀ヴェネツィア派セバスティアーノ・リッチ(1659~1734)の「バト・シェバの入浴(1725)」が展示されている。作品は、イスラエルの王ダビデが、王宮の屋上を散歩している際、4人の侍女が準備する風呂に入浴しようとするバト・シェバ(ヒッタイトのウリアの妻)に目を留めた場面を描いている。リッチは、ルネサンスへの回顧的な古典観念を取り入れ、宗教画、神話画や歴史画などを多く描いた。


これで、ベルリン絵画館の鑑賞は終了である。絵画館は芸術・歴史的にも貴重で重要な作品が多く、収蔵レベルの高さに大変驚かされた。じっくり鑑賞するには、数日要するほどである。この日は1時間半ほど鑑賞し、午後6時に絵画館を出た。その後、バスに乗ってポツダム広場で下車する。ポツダム広場は、南北をエーベルト通り、東西をポツダム通りが交差する北西角にあり、そこにはベルリンの壁の一部と案内パネルを展示し、悲劇を後世に伝える努力がなされている。

西隣には、ガラス張りの高層ビル、ドイツ鉄道本社ビルが建ち、更に西隣が、ソニーセンタービルになる。

そのポツダム広場から、中央分離帯があるポツダム通りを南側に横断し、クリスマス・マーケットに向かう。


正面の時計は、ヨーロッパ初の信号機で、1924年から1934年まで使われたものを1997年に復元したものである。五角形で、それぞれの面に時計と信号が配置されている。どちらかといえば信号機より時計の方が目立っている。ちなみに、後ろの高層ビルはダイムラークライスラーシティビル。


今夜も、屋台でグリューワインを購入し、クリスマス・マーケットを散策することにする。こちらの屋台の上には、イルミネーションで飾られた巨大なクリスマス・ピラミッドが聳えている。クリスマス・ピラミッドとは、もともと、ドイツのエルツ山脈地方で、鉱山労働者のクリスマス伝統行事に端を発した木工民芸品で、台にとりつけたロウソクを灯すとそのロウソクの炎の熱で起こされた上昇気流により天使や上部の羽根の飾りが回る仕掛けとなっている。こちらはその民芸品を巨大にしたもの。


マーケット会場を通りに沿って南西方面に進むと、突き当たりが、ベルリナーレ・パラスト(Berlinale Palast)と名付けられる毎年2月に開催されるベルリン国際映画祭 (通称ベルリナーレ)のメイン会場の場所である。ベルリン国際映画祭は、カンヌ国際映画祭、ヴェネツィア国際映画祭と並んで世界三大映画祭の一つに数えられている。そのベルリン国際映画祭のメイン会場となる広場には鮮やかなクリスマス・ツリーが飾られている。


広場の名称は「マレーネ・ディートリッヒ広場」と名付けられている。マレーネ・ディートリッヒは、このポツダム広場から約4キロメートル南のシェーネベルク地区で生まれた。ヴァイマル共和国のドイツ映画全盛期に「嘆きの天使(1930年)」で、退廃的な雰囲気の美貌、セクシーな歌声、その脚線美で一躍名声を得た後、アメリカに渡り、ハリウッド映画「モロッコ(1930年)」「上海特急(1932年)」などの映画に出演した。

ヒトラーはマレーネがお気に入りでドイツに戻るように要請したが、マレーネはそれを断って1939年にアメリカの市民権を取得したため、ドイツではマレーネの映画は上映禁止となった。

1950年代からは歌手活動が中心になり、1960年に念願の故郷ベルリンでの公演を行ったが、その際暖かい歓待も受けるものの「裏切り者」と罵声を浴びせられることもあったという。1975年コンサート中に足を骨折して引退、その後は、パリで隠棲生活し、1992年に亡くなり、生まれ故郷のベルリンの地に葬られた。死後、この広場が「マレーネ・ディートリッヒ広場」と命名された。

戻りは、ショッピングセンター・アルカーデン(ARCADEN)内を通る。こちらにもツリーが飾られている。


ここのクリスマスのイルミネーションは鮮やかである。室内なので、外の寒さに比べると暖かい。


ポツダム広場を後にし、バスで次のマーケット会場に向かう。ポツダム広場は、第二次世界大戦で徹底的に破壊され、その後のベルリンの壁で分断された地区である。長く荒れ地だったが、1999年から再開発が進められた。振り返ると、今は、ダイムラークライスラーシティ、ソニーセンターがポツダム広場の最新の建物になっている。


赤の市庁舎前のクリスマスマーケットに到着した。赤の市庁舎はベルリンの東の中心部アレクサンダープラッツの近くにある。巨大で鮮やかに電飾されている観覧車が印象的である。観覧車はクリスマスのための期間限定とのこと。


マーケット会場入口横に置かれている車には、キャッシングマシーンが乗っている。移動式とは驚き。


会場に入ると、お馴染みの屋台やショップに加えて、乗馬の施設がある。こちらも特設の馬場であろう。子供をポニーに乗せておじさんがポニーを先導し馬場を歩いている。


ライトアップされた赤の市庁舎(Rotes Rathaus)が美しい。ベルリンの市庁舎で、1861年から1869年に北イタリアの盛期ルネッサンス様式で建造された。赤い硬質煉瓦からできている。ベルリン大空襲の際は大きく破壊されたが、1951年から1956年の間に再建された。


こちらには、子供用の列車のアトラクションも用意されている。童話のお姫様をモチーフした像まである。まさに遊園地である。


出入り口そばには、子供用の空中ブランコにオルガンを演奏するオジサンがいる。


アレクサンダープラッツのクリスマスマーケットを通り、地下鉄に乗りホテル近くのレストランに向かう。


シュピッテルマルクト駅(U2)を降りる。


シュピッテルマルクト駅の前のライプツィガー通り(ポツダム広場から伸びる)を渡り、シュプレー運河を渡ったムゼーウムス島の南端にあるレストラン「ロッティスリー ヴァイングリューン(Rotisserie Weingrun)」で夕食を頂くことにしている。


この日は、ベルリンビール(ベルリナー・ピルスナー300ml 3.5ユーロ)、ワイン(キュヴェ・ロット0.5l 14ユーロ)を頼み、付け合わせ野菜(Grill gemuse 4ユーロ、,Kartoffel stampf4ユーロ)と牛肉のリブロース(Dry Aged Entrecote、27ユーロ)、Spare Ribs 15ユーロを注文した。


食後、レストランを出て、シュプレー運河を渡るとすぐ左に運河に降りる階段があることから、ライプツィガー通りの下を通ってホテルに帰れそうだ。階段を下りて振り返ると、運河に架かる橋(ゲルトラウーデン橋)は、かなり古そうにみえる。ムゼーウムス島は、南北に流れるシュプレー川と、このシュプレー運河の中洲の上にある。13世紀頃、シュプレー川を挟んで東にベルリン、西のムゼーウムス島にケルンという小都市があった。後日、17世紀の古地図を調べてみたら、同じ位置に橋が描かれていることから、歴史的な橋なのかもしれない。なお、橋の後方に見える建物が、レストランである。


運河沿いの歩道を歩いてホテルに帰る。前方の連続するアーチ窓の青い光はUバーンのシュピッテルマルクト駅になる。

(2014.12.26)

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