カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

ドイツ・ベルリン(その1)

2014-12-25 | ドイツ(ベルリン)
前方に見えるガラス張りの近代的な建物は「ベルリン絵画館」(Gemaldegalerie)で、13世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ諸国の芸術品を数多く収蔵している。このエリアは、もともと旧西ドイツ側のポツダム広場の西、ティーアガルテン地区の芸術文化地区で、現在は「文化フォーラム(Kulturforum)」と呼ばれている。


中央の広場を中心に文化フォーラムの周りには、多くの施設が集まっている。ベルリン絵画館から左手前に繋がるレンガ色の建物は「図書館」で、更に左側に視線を移していくと、南側には、「聖マテウス(マタイ)教会」が建っている。1845年に建てられ1960年に再建されたプロテスタント教会で、鐘楼を持つ北側ファサードには3つのアーチ扉があり、身廊と側廊の天井毎に切妻屋根が覆っている。北イタリアのロマネスク様式を継承しているが室内は近代的なホールで、コンサート会場の利用も多い。


聖マテウス教会と向かい合う様に広場を挟んだ北側エリアには、オレンジ色の「ベルリン・フィルハーモニー」の建物が見える。ハンス・シャロウンによる設計で1963年に竣工した五角形のホールの建物で、どの客席からもステージが良く見える「ヴィンヤード型」(収容人数2,440席、室内楽ホールは1,180席)を採用している。そして後方に見える富士山の形をした構造物は「ソニーセンタービル」で、右隣のタワーはドイツ鉄道本社ビルである。


昨夜は、パリからエールフランス航空でベルリン・ブランデンブルク国際空港に午後9時40分に到着し、 カイザー・ヴィルヘルム記念教会(シャルロッテンブルク地区にある福音主義教会)を望むクリスマス・イルミネーションで飾り付けされたクアフュルステンダム通りから、南に行ったホテル(パーク プラザ ベルリン クダム)にチェックインした。そしてホテル西隣の通り沿いにある、レストラン(ツム パッツェンホーファー)で夕食を頂いた。遅い時間となったが本場ドイツのビールとソーセージは大変おいしかった。

今朝は、今夜から宿泊する「ムゼウムスインゼル(博物館島)」南側に位置するホテル(ベストウエスタン ホテル アム シュピッテルマルクト)に移動し、チェックインを済ませて、Uバーン2号線に乗りやってきた。

現在午前11時、これから「ベルリン絵画館」を見学する。展示室は、ドイツ、フランドル、イギリス、イタリア、フランス、スペイン、その他ヨーロッパと続いていることから、ブログでは、概ね展示順に紹介していく(続きはベルリン(その3)で紹介)。実際のところ、現地ではイタリア絵画から先に見学し、昼食後にドイツ、フランドル絵画の順番で鑑賞した(☆ベルリン絵画館 館内案内図)。

こちらは、ドイツ・ルネサンス期のハンス・ホルバイン(1497頃~1543)が、グダニスク出身でハンザ同盟の商人を描いた「ゲオルク・ギーゼ(1532)」で、カーネーションが入ったガラス瓶の透き通る質感や、周りの小物の描写などが大変リアルな作品。制作は、ホルバインがロンドンに渡った1532年にハンザ同盟ロンドン支部から依頼され描いた肖像画で、その数年後から、ヘンリー8世(在位:1509~1547)の宮廷画家となり、宮廷関係者たちの肖像画を多数描くことになる。
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次は、ホルバインと同時期に活躍したドイツの巨匠アルブレヒト・デューラー(1471~1528)の作品で、ニュルンベルクで描かれ市庁舎に展示された肖像シリーズである。市長の「ヤコブ・マッフェルの肖像(1526)」と、地元の上院議員で貴族の「ヒエロニムス・ホルツシューアーの肖像(1526)」が展示されている。肌、皺、髭の表現や鑑賞者を見据える視線など細密描写が凄い。作品は共に左上隅に署名がある。
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同じくドイツ・ルネサンス期のルーカス・クラナッハ(父)(1472~1553)の作品が三点展示されている。両側には、クラナッハ独特の、腰の細くくびれた独特なプロポーションのヴィーナスが、中央の作品を取り囲んでいる。向かって左側は「ヴィーナスと蜜蜂のキューピッド(1537頃)」で、右側が「ヴィーナスとキューピッド(1530頃)」である。


そして中央は「青春の泉(若返りの泉)(1546)」で、馬車などで運ばれてきた老女たちが、誰もが若返ると言われる伝説上の泉を浴びることで若さと美を取り戻し、晴れやかな表情になって行く姿が描かれている。
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他に、クラナッハ(父)の作品では、ヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)の三連祭壇画「最後の審判」(1482)(ウィーン美術アカデミー付属美術館に収蔵)の模写「最後の審判」(1524)が展示されている。正確に模写されているが、人物の体つきや表情を良く見るとクラナッハらしさが表れているのが印象深い作品。

次は初期フランドル派の画家の作品が並ぶ。こちらは小さい作品だが傑作が揃っている。


まず向かって左端は、神業とも評され卓越した技量を持つ初期フランドル派ヤン・ファン・エイク(1395頃~1441)の「教会の聖母子(1425)」(31センチ×14センチ)。教会内に立つ聖母は光り輝く宝石がちりばめられた王冠を身に着け女王として描かれている。キリストは、右手でネックレスを触っている。後ろの身廊内陣側の衝立には木彫りの聖母子像が飾られ、内陣では2人の天使が賛美歌を歌っている。
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特に教会内に差し込む光が明るく照らし、身廊の床に反射する描写などの着彩法が素晴らしく、聖母子の神々しく美しい姿も際立っている。西洋美術史上で最高級の光の描写との評価も高い。

右隣の作品は、ヤン・ファン・エイクの弟子で、初期フランドル派・オランダの画家ペトルス・クリストゥス(1410中頃~1475)の「エクセターの聖母(1450)」で、カルトジオ会修道院から制作依頼を受けていたヤン・ファン・エイクが亡くなったことから、クリストゥスがブルッヘにある彼の工房を引き継ぎ、構図を継承して制作したもの。そして次の展示ブロックには、向かって左からヤン・ファン・エイクの「ジョヴァンニ・アルノルフィーニの肖像(1440)」と「ボードワン・ド・ラノワの肖像(1438頃)」が並び、その隣に再びペテルス・クリストゥス最後期の作品で、ベルリン絵画館を代表する「若い婦人の肖像(1470頃)」へと続いている。
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作品は若干ひび割れが目立つが、肌のリアルな質感や、帽子の装飾、首飾りなど細部にわたり丁寧に描き込まれている。少女の左右の異なる意味ありげな視線が印象に残る。他に、クリストゥスの作品として祭壇画の一部「受胎告示と礼拝、最後の審判(1452)」が展示されている。

次に、初期フランドル派の画家ロヒール・ファン・デル・ウェイデン(1399頃~1464)の作品が展示されている。ウェイデンは、一時期忘れ去られた画家だったが、近年再評価が進み、ヤン・ファン・エイクとともに初期フランドル派を代表する巨匠とみなされている。人間性をも描き出したような精緻な描写の「若い女性の肖像」(1435頃)「ブルゴーニュ公シャルルの肖像」(1460)などの肖像画も素晴らしく、更に祭壇画の評価も高い。中でも、カスティーリャ王フアン2世の依頼によって描かれた「ミラフロレスの祭壇画」(1442~1445頃)はウェイデンの最高傑作と言われている。
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ミラフロレスの祭壇画は、キリストの誕生、死、復活を聖母マリアの視点から、多色絵具を使用し鮮やかに描いた作品で、どのパネルも縁飾りのあるアーチ状のフレーム構図が特徴で、視覚的に入場して宗教世界を味わうことができる。右端の「復活」のパネルには、背景に墓から立ち上がるキリストが描かれており、一作品に連続性が表現されている。

ウェイデンの祭壇画では、他にも「洗礼者ヨハネの祭壇画」(1455頃)や「ブラデリン祭壇画(1445~1450頃)」が展示されている。ブラデリンとは、オランダ南西部ミデルブルフの領主で、その教会のために制作依頼をした祭壇画のこと。中央パネルが、聖ヨセフ、聖母マリア、寄進者ブラデリンが描かれる「キリスト誕生」で、ロマネスク様式の建物の手前の円柱はキリストの受難を予感させ、遠景の町並みはミデルブルフが描かれている。そして向かって左右翼パネルに「ローマ皇帝アウグストゥスのヴィジョン」と「東方の三博士の到着」を配している。
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初期フランドル派の画家ジャック・ダレー(1404頃~1470頃)は、ブルゴーニュ大公家の宮廷画家で、アラスの聖ヴァースト修道院長ヤン・デ・クレルクから20年にわたり後援を受け多くの作品を描いたが、現存するのはその「アラスの祭壇画」4枚のみで、うち2枚が、向かって左側の「聖母のエリザベト訪問」と、右隣の「東方三博士の礼拝」である。ちなみに右端の「王の崇拝」はジャック・ダレー作品との説もあるが詳細は不明である。


ブリュッセルのロヒール・ファン・デル・ウェイデンの工房で修業し、1465年からブルッヘで活動した北方絵画を代表する画家ハンス・メムリンク(1430年代~1494)の聖母子像が3点、「聖母子の即位(1480~1490頃)」「聖母子の即位(1485)」と、「ベネデット・ポルティナーリの三連画の聖母子(1487)」が展示されている。
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三連画の聖母子は、向かって左右に聖ベネディクトゥスとフィレンツェ出身の大商人ベネデット・ポルティナーリ(ウフィッツィ美術館収蔵)が配され、背後の風景は繋がる様に描かれていた。他にメムリンクの作品では「老人の肖像(1470)」が展示されており、こちらも連作(二連作)のうちの一作品。老人は、毛皮付き黒いローブを着、黒い帽子をかぶり、ロッジア内の手すりに手を置いているが、背後のロッジアと風景は、もう一作品の「老婦人の肖像」(ルーヴル美術館収蔵)に続いている。これらの背景を連続させる肖像画の手法はイタリア・ルネサンス絵画にも影響を与えた。

こちらは、初期フランドル派で第2世代の巨匠フーゴー・ファン・デル・グース(1440頃~1482)の「モンフォルテ祭壇画(東方三博士の礼拝)(1470)」。スペイン・ガリシア州モンフォルテ・デ・レモスにある修道院に因んで名付けられた。祭壇は可動翼を備えたトリプティクの中央パネルだったが他は失われている。作品は、聖母子に跪き礼拝する赤いマントの王を先頭に、豪華な贈り物を持って王たちが並んでいる。突然の訪問者に驚くヨセフの表情は印象的である。下部の床は広角の遠近法で描かれ、自然に聖母子に視点が集中する様な工夫がされている。
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その後、メディチ家の銀行支店長を務めていたトンマーゾからの依頼を受けて制作した「ポルティナーリ祭壇画(1475頃)」で国際的名声を高めるものの、ヤン・ファン・エイクへの劣等感から精神的に追い詰められ自殺を図り翌年死亡した。こちらは、晩年に描いた「羊飼いの崇拝(1480)」で、左右の男が幕を開けて、鑑賞者に舞台を見せる珍しい構図となっている作品。

初期フランドル派(後期)のヒエロニムス・ボス(1450頃~1516)が描く「パトモスのヨハネ」(1489頃)。作品は、パトモス島でキリストから啓示を受けた使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を執筆する姿を描いている。ヨハネの上向きの視線の先には天使と幼子と天国で即位したマリアが、下には、ヨハネのシンボルの鳥、筆入れインク壷、終末論をほのめかす悪魔(ボスらしい)が描かれている。背景は、ヒエロニムス・ボスの故郷スヘルトーヘンボス(オランダ南部)である。裏側には、円形に配置された「キリストの受難(1489頃)」が描かれている。
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初期フランドル派の画家ヨアヒム・パティニール(1480頃~1524)が描いた「エジプト逃避途上の休息(1520)」で、緑色と青色の色調変化が遠近感を出しており、広々とした空間表現に特徴がある。パティニールは、歴史絵画、風景絵画を多く描いたが、特にエジプト逃避は好んで描いており、幾つかのバージョンがある。ちなみにアルブレヒト・デューラーの友人でもある。
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次に、イタリア絵画を見ていくことにする。こちらは、アンドレア・デル・カスターニョ(1421頃~1457)の作品「聖母被昇天(1450頃 )」(150センチ×158センチ)で、フィレンツェのサン・ミニアート・フラ・レ・トッリ教会(18世紀廃止)の祭壇画ために制作された。聖母はボリュームのある青いマントに包まれ、バラが活けられた墓地から、四天使が支えるアーモンド状の雲を背景に上昇している。向かって左右には、聖ジュリアンと聖ミニアート(フィレンツェ最初の殉教者)が見守っている。
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こちらはルネサンス期フィレンツェ派の代表的画家ボッティチェッリ(1445~1510)の「シモネッタ・ヴェスプッチの肖像」(1460~1465頃)で、フィレンツェ一の美女と讃えられ、ボッティチェッリ「ヴィーナスの誕生」(ウフィッツィ美術館が収蔵)のモデルにもなった。


他にもその「ヴィーナスの誕生」と同じポーズを取る単体の「ヴィーナス」や、天使が歌う聖母子像王座に着座する聖母子像(1484頃)ジュリアーノ・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの弟で、パッツィ家の陰謀で暗殺された)などが展示されている。

フィレンツェの画家ピエロ・デル・ポッライオーロ(1441頃~1496)の「受胎告知(1470)」。ポッライオーロは、メディチ家の庇護を受け、兄で美術家のアントニオとよく仕事をした。作品は、アカンサスの装飾が施された豪華な大理石部屋に、重量感のある羽と宝石飾りを身に着けた天使ガブリエルが、傅き、上目遣いでマリアに告知し、対するマリアは敬虔を示唆するポーズで受け止めている。聖霊の鳩は、フィレンツェの街並みが見えるバルコニーに小さく描かれている。(作品中央部分)
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後期ゴシックのフィレンツェ近郊出身のジョット(1267頃~1337)の「聖母マリア永眠(生神女就寝)(1310)」。ジョットは、平面的なビザンチン絵画から、感情、空間、遠近感など革新的な絵画手法を生み出し近代絵画の扉を開けた。作品は、永眠するマリアが横たわり、中央背後にキリストがマリアの魂を比喩する幼子を腕に抱いて立っている。そして、マリアを抱えるペトロ、手前で傅くヨハネ、キリストの後ろで聖水で祝福するアンデレ、左側で詩篇を唱えるペテロなど聖人たちの悲しみや嘆きの表情が個性的に描かれている。
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他にも、ジョットの作品として、「キリストの磔刑(1315)」が展示されており、両作品は、フィレンツェのオンニサンティ教会の祭壇画を飾っていたとされている。

国際ゴシック様式を代表する画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ( 1370頃~1427)の「聖母子と聖ニコラウス、聖カタリナ(1395頃)」。ファブリアーノ(マルケ州アンコーナ県)のサン・ニッコロ聖堂のために制作された作品で、聖母子を中心に、聖ニコラウスと、アレクサンドリアの聖女カタリナ、そして寄進者が取り囲み、背景の2本の樹には、奏楽の天使たちが描かれている。ファブリアーノの繊細な細密描写は国際ゴシック様式と呼ばれ、ヨーロッパ各国の宮廷を中心に影響を与えた。
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フィレンツェ派の巨匠フィリッポ・リッピ(1406~1469)の「幼子キリストの礼拝(1459)」。もともとは、メディチ宮の礼拝堂に所蔵されていた作品で、幼子キリストと礼拝する聖母マリア、父なる神、精霊、洗礼者ヨハネが描かれている。マリアは、憂いと陰りを感じさせる繊細な表情をしている。なお本作以外にも「幼子キリストの礼拝」を描いた別作品2点がウフィツィ美術館に所蔵されている。フィリッポ・リッピの弟子にはボッティチェリがいる。
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フィリッポ・リッピの息子フィリッピーノ・リッピ(1457~1504)の「音楽の寓意」(1500)。フィレンツェ共和国を実質的に統治したメディチ家お抱え画家となり活躍した。作品は、ギリシア神話に登場する文芸の女神ムーサ(ミューズ)の一柱でエラトが描かれている。エラトは、愛らしい女を意味し、ソリストの役割に竪琴を持物としていることから、画面の至る所に楽器を配し天使と戯れる白鳥が描かれ古典的な心地よい空間を作り出している。
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初期ルネサンス期のフラ・アンジェリコ(1395頃~1455)の三連祭壇画「最後の審判(1450頃)」で、何度か描かれた「最後の審判」の中では最晩年の作品。青い衣を身に着け、青い雲海玉座に座り青いゲートから金の天使に守られ登場するキリストの周りをマリア、ヨハネ、使徒、聖人たちが取り囲んでいる。キリストは生と死の裁判官であり、右手は天国を指し、左手は地獄を指し示している。その地獄では悪魔サタンが人を食らい、火炙りや、釜茹など人々が苦悩する姿が展開されている。
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フラ・アンジェリコでは、他にも聖ドミニクと殉教者聖ペトルスを伴う「聖母子(1433)」や、聖人アンブロジウスの幼児時代の説話で口に蜂が止まり、刺さずに蜂蜜を垂らしたと伝わる「アンブロジウスの奇蹟(1441~1447)」が展示されている。

ルネサンス初期のマサッチオ(1401~1428)の「キリスト降誕(トンド)」(1427頃)。マサッチオは若くして亡くなったが、多くの芸術家に多大な影響をあたえた。フィリッポ・リッピもマサッチオから絵画を学び、強く影響を受けた一人である。作品はフィレンツェの旗を掲げたトランペッターがお祝いの演奏をしているが、そばにいる修道女達の迷惑そうな表情が最高である。裏側にはペットと遊ぶ赤ん坊の絵が描かれている。
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他にもマサッチオの作品があり、こちらはピサの「サンタ・マリア・デル・カルミネ教会」の礼拝堂を飾った「ピサの祭壇画」(1426頃)の散逸したパネルの一部とされる。展示は「四人の聖人(聖ヒエロニムス、聖アウグスティヌス、カルメル会の二人)」と下部にプレデッラ「聖ジュリアン伝、聖ニコラス伝」(悪魔に騙され、ナイフを手に両親を殺そうとする聖ジュリアンと黄金の玉で娼婦させられる三人の姉妹を助けようとする聖ニコラスの異なる二つの物語を統一して表現している。)、「東方三博士の礼拝」「聖ペテロの殉教、聖ヨハネの斬首」と並んでいる。
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ピエロ・デラ・フランチェスカ( 1415~1492)による「聖ヒエロニムス」(1450)で、隠遁して聖人としての生活を送っているヒエロニムスの姿だが、しょぼくれた老人にしか見えない。。初期の代表作「キリストの洗礼」(ロンドン・ナショナルギャラリー収蔵)と同時期に描かれた作品で、空や木々など風景の描き方が良く似ている。
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こちらの横を向く「聖母子(1460頃)」は、マンテーニャ、クリヴェッリの師匠でもあったフランチェスコ・スクァルチォーネ(1397頃~1468)の作品で、現在、彼の作品と特定されている2点の内の一つで大変貴重なもの。ちなみにもう1点は、祭壇画でパドヴァにある。
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作品は、風景を隠す様に覆われた赤いカーテンの前で、聖母が幼子キリストを金の刺繍で縁取りされた黒い(珍しい)ベールフードで覆う様に抱きかかえている場面。手すりの上でしがみくキリストと聖母の視線はそれぞれ別の方向を見ている。2人の光輪や聖母の袖口には碑文が綴られており、手すりにはリンゴ、上部にはフルーツ、リボン、花輪などが描かれている。

こちらはアントネロ・ダ・メッシーナ(1430頃~1479)の「ある青年の肖像(1474)」。額の中にある制作時期と画家名が書かれた折り目の付いた用紙は、描かれた作品の一部であり驚かされる。メッシーナは、ヴェネツィア派の初期の画家と位置づけられるが、大半が生まれ故郷のシチリアで活躍した。油彩技法に加えてフランドル絵画の細密描写など当時の西欧絵画の融合をみせ晩年にヴェネツィアに滞在しジョヴァンニ・ベリーニらの画家と交流し大きな影響を与えている。
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ルネサンス初期のカルロ・クリヴェッリ(1430頃~1495)の「王座に就く聖母子と聖人達」(1488)。カメリーノにあるフランシスコ会教会のために制作依頼されたもので、精密描写に金箔を施した豪奢な作品。王座に就く聖母マリアに抱かれるキリストが聖ペトロに鍵を授与する場面で、向かって左右がアスコリ司教・守護聖人の聖エミディウスと、トゥールーズ司教の聖ルイ(1274-1297)。聖エミディウスと聖母マリアの間にアッシジの聖フランチェスコが描かれている。
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ヴェネツィア派の巨匠ジョヴァンニ・ベッリーニ(1430頃~1516)の「キリストの復活」(1475~1478)で、 ヴェネツィア・サンミケーレ島のサン・ミケーレ・イニーゾラ教会の家族礼拝堂(ヴェネツィア貴族マルコゾルジ)の祭壇画として制作された。作品は、3人の兵士が警備していた巨大な岩下にある墓が開かれ、キリストが朝焼けの空に、右手で祝福のサインを示し、左手には、勝利の旗を持って復活、上昇していく。女性3人が歩く坂道の後方の街並みはヴェネト州モンセーリチェがモデルである。
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ジョヴァンニ・ベッリーニの作品は、他にも「二人の天使に支えられる死せるキリスト(1475~1480)」「ピエタ(悲しみのキリスト)(1495)」や、聖母子像などが展示されている。またベッリーニ家として、父のヤーコポ・ベリーニの「ヨハネとペテロ(1435頃)」や、兄のジェンティーレ・ベリーニの「聖母子(1460)」も展示されている。

ところで、15世紀当時人気のヴェネツィア絵画とは、ベッリーニ家とヴィヴァリーニ家(ムラーノ島を拠点)のそれぞれの工房で制作する作品で、二大流派として共にライバル関係にもあった。展示室には、そのヴィヴァリーニ家の始祖アントニオ・ヴィヴァリーニ(1418~1484)の「東方三博士の礼拝」が展示されている。

その後、ヴィヴァリーニ家が衰退していくが、理由の一つとして、遠近法を駆使した画面構成やリアルな人体表現を追求したアンドレア・マンテーニャの影響とも言われている。こちらは、そのアンドレア・マンテーニャ(1431~1506)による「キリストの神殿奉献」(1453)で、それまでの板絵ではなくキャンバスに描かれた初期の作品の一つである。
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作品の背景はすべて黒でデザインされ、聖母のベール、キリストが包まれたリボン、向かい合うシメオン聖職者の髭などは白でデザインされている。キリストとシメオンの間で、シメオンの方向を向いているのは聖ヨセフで、その4人には光輪が描かれている。聖母の肘、キリストの足(枕の上)が欄干の前面に置かれているのは、マンテーニャお得意の視覚的イリュージョンである。ちなみに彼の義兄弟ジョバンニ・ベリーニは、同時期、同じ構図の作品(光輪は無し)を描いている。

ジェンティーレ・ベリーニに師事したヴェネツィア派のヴィトーレ・カルパッチョ(1465頃~1525頃)の作品が2点展示されている。共に連作シリーズのうちの1点。大きい作品が「聖ステファノの生涯(聖ステファノの助祭就任)」(1511)で、左隣が「死せるキリスト」(1505)で、台の上に置かれたキリストの遺体を中心に、遠景まで丁寧な描写が行われている。良く見ると、右奥で復活するキリストの姿も描かれている。


ヴェネツィア派のチーマ・ダ・コネリアーノ(1459~1517)は、アントネロ・ダ・メッシーナの影響も受け、風景表現を得意として静かな雰囲気を感じさせる作品が多い。また、聖母子をテーマに多くの作品を残しており、会場には、山頂に城郭のある風景やアルプスを思わせる峰々を背景にした聖母子(1492~1494頃)や、澄み渡る青空を背景に玉座に座る聖母子を描いた「聖母子と聖ペテロ、聖パウロ(1495~1497頃)」などが展示されている。
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途中、美術館内のカフェで昼食を取り、結局、閉館時間の18時まで鑑賞したが、翌日も再訪することにした。続きの主要作品はベルリン(その3)で紹介する。

その後、バスに乗り、ドイツ連邦議会議事堂(Reichstag、ライヒスターク、帝国議会堂)に向った。議会議事堂の頂上には巨大なガラス張りのドーム(丸屋根)があり事前に予約しておけば内部を見学することができる。毎日約1万人近い観光客が訪れるとのこと。


道路脇に、特設の建物があり、警備員に予約確認書を提示した後、その場でセキュリティチェックを受け、スタッフに引率される。この時間の見学者は20数人だった。議事堂は、古典主義を踏襲するネオルネッサンス建築で、正面口にはコリント式の6本の円柱がポルチコを形成し大きなペディメントがある屋根を支える壮麗な造りとなっている。


そのポルチコから議会議事堂に入り、右手の大型エレベーターで、ドーム(丸天井)の始まりまで一気に上がり、後は歩いて螺旋状のスロープを上がっていく。外観のネオルネッサンス建築とは異なり、ガラス張りで近未来的なデザインをしている。そして中央には鏡で覆われた巨大なコーンが下の議場に向けて垂れ下がっている。


通路沿いの手すりから下を覗き込むと、ガラス越しに議場には青い座席が並んでいるのが良くみえる。ちなみにドームのガラスは常に角度を変え直射日光を議場に入れないようにしながら、常に明るい光で満たすよう設計されているとのこと。


ところで、初期の議事堂は、ドイツ国時代の1884~94年に当時の最先端技術の粋を集めて建てられたが、1933年2月27日夜、突如の出火で炎上している。当時の首相アドルフ・ヒトラーは、出火を共産党員による放火と決めつけ、老齢のヒンデンブルク大統領に、緊急大統領令を発布させて、共産党員1000人以上を逮捕、拘束、虐待などの暴挙に出る。

その後、議会議事堂は修復されないまま、1943年のベルリン大空襲の被害を受け徹底的に破壊されてしまう。その後、東西ドイツに分断され、西ベルリン側となるが、西ドイツの首都がボンとなったため、結局廃墟のまま取り残されてしまい、修復されたのは、ドイツ再統一後(1990年)、連邦議会の議事堂として使用が決まった後で、完成は1999年であった。

南側(右)に青く輝くソニーセンターがあり、南東側(左)すぐそばにはブランデンブルク門が見える。門の上には、ドイツ彫刻家ヨハン・ゴットフリート・シャドウ(1764~1850)により制作された四頭馬車(クアドリガ)に乗る女神ヴィクトリアの雄々しい姿を望むことができる。先ほどから降り始めた雨が激しくなり、ガラスを叩きつけるバチバチという音が激しくなり始めた。よく見ると雪が混じっている様だ。。


東側(議会議事堂の裏)アレクサンダープラッツ方面を眺めると、天を突き刺すように伸びるテレビ塔(Femsehturm)が見える。テレビ塔は、1965年から1969年にかけて建設され、高さ368メートル、団子を串で刺したようなデザインが面白い。東京スカイツリー(634メートル)は別として、東京タワー(333メートル)より高い。なお、テレビ塔の手前の高層ビルは国際貿易センタービルで、鹿島建設の設計・施工で建てられたもの。


議会議事堂を40分ほど見学した後、次に「ブランデンブルク門」に向かった。ブランデンブルク門は、ベルリンから各地に向かう街道と壁が交差する個所に、物資に関税を課すために設置した18の関税門の一つで、西のブランデンブルク方面(90キロメートル先)に向かう街道口に、1791年、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の命により建てられた。


第二次世界大戦では、廃墟になり、ブランデンブルク門のすぐ西側の現在見上げている辺りに境界線が引かれ、門は東ベルリン側となった。1957年に修復されたものの、1961年にはこの場所に「ベルリンの壁」が建設され門は鉄条網とブロックで閉鎖されてしまう。

ブランデンブルク門をくぐり東側の正面から眺めてみる。ベルリンの壁が建設された後、第二次世界大戦から残されていた廃墟も撤去され無人地帯となるが、1989年のベルリンの壁崩壊後にようやく門の下を通行できるようになり、2000年に清掃と改修工事が行われ現在に至っている。雨は小ぶりになり、ライトアップされたブランデンブルク門は美しく幻想的に輝いている。
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ブランデンブルク門から、ウンター・デン・リンデン通りを東に向かい、フリードリヒ通りを南下、イエーガー通りを左折して「ジャンダルメンマルクト」に向かう。

ジャンダルメンとは憲兵という意味で、広場に面して近衛騎役兵舎があり「ジャンダルム(憲兵)」に利用されていたことから名付けられた。ベルリンで最も美しい広場と言われ、特にこの時期はクリスマスマーケットが開催され多くの観光客でにぎわう。広場は、南北縦長の長方形の敷地で、中央西側にコンツェルトハウス、北側にフランスドーム、南側にドイツドームと3つの建造物が向かい合う様に建てられている。イエーガー通りはそのコンツェルトハウスとフランスドームとの間に続いている。


敷地内に入ると「WeihnachtsZauber Gendarmenmarkt」(クリスマス・ マジック・ジャンダルメンマルクト)と電飾文字が掲げられ、多くの特設テントが並んでおり、クリスマスグッズ、アクセサリー、アロマショップ、陶器、ソーセージ、チーズ等が売られている。

広場に入り南側に進んで振り返ると、フランスドームの美しい姿が望める。フランスから逃れてきたプロテスタント「ユグノー派」のための教会として、1701年から1705年にかけて建てられ、1785年に拡張して現在のバロック様式の建物となった。しかし第二次世界大戦中に大きな被害を受け、1977年から1981年の間に再建された。ドーム型タワーにはユグノー博物館と展望台がある。


右側が広場の中央西側に建つコンツェルトハウス・ベルリンで、ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(1952年に東ベルリンで設立、旧ベルリン交響楽団)の本拠地である。19世紀前半のドイツ最大の建築家カール・フリードリヒ・シンケルによりギリシャ様式で建てられた。正面には、ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家で、ゲーテと並ぶドイツ古典主義の代表者で知られるフリードリヒ・フォン・シラー(1759~1805)の像が飾られている。ベートーヴェン交響曲第9番の「歓喜の歌」には、シラーの「歓喜に寄す」が用いられている。


南側にはドイツドームがある。フランスドームと左右対称に並んでいる。1708年に竣工し、その後、プロイセンのフリードリヒ2世(フリードリヒ大王)によりドームと円柱堂が増築された。ドイツ国内最大のルター派教会で、1945年には火災で破壊されるが、ドイツ再統一後の1993年に再建された。1996年にはドイツ歴史博物館が開館している。


赤いパラソルの周りは多くの人で賑わっている。寒くてビールは飲めないと思っていたら、みな温かいワインを飲んでいる。グリューワイン(温葡萄酒)と呼ばれ、ワインと香辛料などを温めて作るホット・カクテルの一種で冬場の人気のアルコール飲料とのこと。飲んでみると味はともかく体が温まってきた。


時刻は、午後9時半を過ぎたので、ジャンダルメン・マルクトを出て、シャルロッテン通りとイエーガー通りの交差するレストラン「アウガスティーナ・アム・ジャンダルメンマルクト」に夕食を食べにやってきた。店内は、大変混雑していたが、ちょうど入れ替わりの時間だったのかすぐに解消され席に案内された。


飲み物は、エーデルシュトッフ(1L 8.4ユーロ)と赤ワイン(フランツ ケラー、シュペートブルグンダー フォン ロス 6ユーロ)を頼み、料理は、メインの2品のみで「ポルチーニ茸ラビオリ」(steinpilz-maultaschen16.5ユーロ)と、


「カモのグリル」(Bauernente24.5ユーロ)を注文した。ドイツ料理は、プレートに付け合わせの野菜があることが多いが、ボリューム感のある肉が大半を占めていた。美味しく頂けたが、野菜の前菜を頼んでも良かった。。

(2014.12.25)

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