昨夜の午後7時45分ボーパール駅を出発し、翌朝午前8時30分にカルヤン駅に到着した。カルヤン駅は、ムンバイから40キロメートル北東に位置している。ムンバイ駅が目的地だが、直通列車のチケットが購入できなかったため、これから近郊列車に乗り換えて向かうことになる。しかし乗車ホームと切符の購入場所がわからない。。
ホームを人の流れに沿って歩いて行くと、向かい側に溢れそうなほどの乗客を乗せて停車していた列車が、突然ドアを開けたまま動きだした。ドアから身を乗り出している男に、ムンバイCST(チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス)駅に行くのかと聞くと、周りにいた男たちも「そうだ、そうだ」と言って手を差し出してくる。咄嗟に列車に飛び乗ったが大失敗である。
車内は、まったく身動きが取れない上、周りの客は奥に行けというが行けないし荷物がつぶれそうだ。。何もこの混雑する列車に乗ることはなかった。なんとか車内の奥まで行き、隣の男にいつもこれほど混んでいるのか聞いたら、そうだと言った。
1時間後、ヘロヘロになりムンバイCST駅に到着した。駅構内は、多くの列車が同時に発着できる複数のプラットホーム(11本が長距離列車用で、7本が近郊列車用)がある巨大なターミナル駅で、南側が出口になっている。
駅構内から外に出ると、そのまま南に向けて歩行者専用通り(駅前通り)が続いており、通りの右側には巨大なヴェネツィア・ゴシック建築の建物が聳えている。こちらは、1887年、ヴィクトリア女王治世時にイギリス人F.W.スティーブンスの設計により建てられたヴィクトリア・ターミナス駅舎(旧名)である。
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駅舎は1996年に17世紀のマラーター王国の王チャトラパティ・シヴァージーに因んで「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」と改名している。その後2004年には世界遺産にも登録されており、ムンバイを代表する歴史的建造物である。
ムンバイの街は、16世紀、ポルトガル王国がイスラム王朝、グジャラート・スルターン朝(1407~1573)から譲り受けたが、1661年にポルトガル王女がイングランド王チャールズ2世(1630~1685)に嫁いだときの持参金としてイギリスに譲渡されたことからイギリス領となった。その後、イギリス東インド会社の商館が置かれるなど、19世紀にはイギリスのインド植民地支配の一大中心都市となり、イギリス風の建造物が多く造られた。
まずは、チェックインするべく今夜の宿泊ホテルに向かう。駅前通りに架かる駅の表示板を過ぎると前方に公園を持つ広場になる。公園を右手に見ながら通り過ぎ、東西に延びる大通りを横断して駅舎方向を振り返ると、駅舎の南壁を木々の隙間から眺めることができる。ちなみに、駅舎の正面は、西側になることから、今回は駅舎の裏側を歩いて来たことになる。
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次に、大通りを東側に歩くと、隣には、中央に大きなドームを持つインド・サラセン建築の「インド中央郵便局」が建っている。イギリス建築家ジョン・ベッグによりビジャープルにある霊廟ゴール・グンバズをモデルに1913年に建てられたものという。
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すぐ先の交差点を右折して南北に延びる大通り(シャヒッド・バガット・シン・ロード)を200メートルほど南に進んだ先の路地を左折した「フォート地区」に今夜の宿泊ホテル「トラベラーズ・イン」がある。ムンバイのホテルは宿泊料金が高い上、混雑しているので、今回は事前にネット予約をしておいた。宿泊料は1泊AC付朝食付きで3919円(税込)である。
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チェックインが終わりスタッフに次の目的地アウランガバード行きのバスの予約(850ルビー)をお願いすると、あっさり予約できた。実は、ボーパール駅で予約したアウランガバード行きの列車チケットは、今朝の時点でウエティングリスト15番目と、取得はかなり絶望的だった。しかしバスに乗車することが決まったので、後ほど駅で列車のウエティング・チケットはキャンセルすることにした。
これからムンバイの北25キロメートルの地にある「カンヘーリ石窟群」に近郊列車で行くことにしている。近郊列車には、今朝カルヤンから乗車した、セントラルライン(中心部線)の他に、ハーバーライン(港線)とウェスタンライン(西部線)の3路線がある。「カンヘーリ石窟群」へは、ウェスタンラインを利用することになるが、CST駅とは異なり、1.6キロメートルほど西にある「チャーチゲート駅」からの発着となる。
まずは、ホテルを出て「シャヒッド・バガット・シン・ロード」を南に行き、最初の交差点を右折して西に向かう。タクシーに乗るか考えたが、市内の通りはどこも混雑しており、歩いた方が早そうだ。
通りは、南北に延びる大通りにぶつかり、左折して大通り沿いを歩く。ちなみに、この大通りを北に行くと「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」の西側正面口に到着する。
すぐ先で視界が広がると、左側が広場「フタートマ・チョウク」になっており、1864年に建てられたローマ神話の女神フローラの泉が建っている。右側は複数の大通りが集中する交差点になっている。
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歩いて来た方角を振り返ると、左側からの大きな通り(マハトマ・ガンジー・ロード)と挟まれるように(南方向を正面に)「オリエンタル・ビルディング」と書かれたコロニアル様式の建物が建っている。この建物は「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」を設計したイギリス人F.W.スティーブンスの設計によるものである。この広場前の交差点を西側に横断し、300メートルほど進んだ右側に「チャーチゲート駅」がある。
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チャーチゲート駅構内にあったファストフードで、ハンバーガー、ポテト、コカコーラのセット(110ルビー)を食べ、カンヘーリ石窟群の最寄駅ボリヴァリ駅までの切符(15ルビー)を購入して近郊列車(ウェスタンライン)に乗る。この時間は今朝の列車と異なり余裕で座れる。
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45分ほどで、ボリヴァリ駅に着いた。地上ホームから跨線橋を通って東口の階段を下りて行く。
駅前広場には、オートリキシャが集まっており、すぐに勧誘攻撃にあった。カンヘーリーに行くと伝えると往復で1,500ルピーと言う。そんなバカな、地球の歩き方では30ルピーとある。すると30ルピーで行くというオートリキシャがあったので乗り込み、車内でミカンを食べていると、あっという間に到着した。しかしそこは、サンジャイ・ガンディー国立公園(ボリヴァリ国立公園)の入口であった。
国立公園は、自然保護指定区域になっており、総面積103.09平方キロメートル(東京ドーム約22個分)の敷地面積を誇っている。公園敷地内には、カンヘーリ石窟群のほかにインドヒョウ、アクシスジカ、サル等々の野生動物や野鳥が数多く生息しておりサファリツアーなどもあるそうだ。
窓口で入園料(35ルピー)を支払い、カンヘーリー石窟群までの距離を聞くと、なんと7キロメートルもあるらしい。どうしようか考えていると、車で送迎をするという男が現れた。料金を尋ねると800ルピーと言うので、700ルピーと言い返すと返事のないまま乗れと言われて出発した。
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なだらかなカーブが続く坂道を上って行くと、広場になって行き止まりになった。鮮やかな色合いの石窟寺院の案内板があり、横から石階段が山頂に向けて続いている。車はここまでのようで下りると、男は1時間半後に迎えに来ると言ってすぐに去って行った。
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階段を上りつめると、正面にチケットショップがある簡素な長方形のコンクリート建物に到着した。窓口で100ルピーを支払い、すぐ左の短い階段を上ると、左側に花壇のある広場があり、右側の岩裾を縫うように通路が続いている。先の岩壁を右側に回り込むと、目の前が開け右前方に目的の石窟群が現れた。
カンヘーリ石窟群は、2世紀から3世紀にかけて造られた前期仏教石窟寺院群で109の石窟があるが、多くは小窟や未完成窟である。最初に現れる大きな2本の柱で支えられた2階建ての石窟は第1窟だが、内部は装飾のない平面の壁や天井があるだけの未完成窟だった。ちなみに第1窟は僧侶が住む「ビハーラ窟」として建造された。
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その先隣りには第2窟がある。石窟前の広い通路を先まで行って第2窟全体を振り返って見ると、巨大な亀の甲羅が覆いかぶさっているように見える。庇を支える柱があったと思われるが失われたのだろう。窟内の右端にはストゥーパ(仏塔)が見える。
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その右端のストゥーパ(仏塔)は、大人ほどの身長サイズで、周りを壁に囲まれた狭いながらも「チャイトヤ窟」(礼拝堂)を形成している。仏塔の覆鉢はふっくらとした円形で欄循の浮彫のある基壇にすっぽりと収まった姿をしており、頂部にはやや大きな傘竿があり天井と繋がっている。信者や参拝者は、この仏塔の周歩廊を行道(右遶)し礼拝したのだろう。
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周歩廊の後部壁面には、後代に刻まれた仏陀の浮彫装飾がある。蓮華座に座る仏陀像の左右には菩薩の脇侍が配し三尊像を形成している。
次に、そのチャイトヤ窟を挟んで左隣には、やや前面に張り出した位置に仏塔の円形状の基壇のみが残っている。
更にその左隣の少し後方には、仏塔に広めの周歩廊を設けたチャイトヤ窟がある。こちらの仏塔は、装飾のない基壇と丸みのある覆鉢のみで傘竿はないことから、右端の仏塔よりも早い時期に建造されたと思われる。壁面には多くの彫刻が施されているが、こちらも全て後期のものである。
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仏塔の右側面に刻まれた仏陀立像は、螺髪や衣の襞も細かく表現されている。そして仏塔の後部には、しなやかに曲線を描く仏陀立像や菩薩像らしき像も見える。左側面の下部には、仏龕に彫り込まれた仏陀椅像が並んでいる。
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このチャイトヤ窟の左側から第2窟の一番左端までは内陣と前廊とを隔てる壁が続いている。その壁面には高さ2メートルほどの内陣への扉口が2か所と、小さなのぞき窓が1か所あり、仏像の浮彫が数か所に施されている。
そして隣りにある規模が大きく西側を正面にした石窟が、カンヘーリ石窟群を代表する第3窟である。まず通路から低い階段を上った左右には守護神ドゥワラパラ像が彫られている。おそらくこの像の上にはサーンチーに見られたような塔門(トラナ門)があったのだろう。そしてその像の左右には欄循の玉垣の浮彫が続いている。ちなみに右端の第2窟との境にあるナーガ像のレリーフは損傷が少なく良く残っている。
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左右の守護神ドゥワラパラ像の間を通った先にあるファサード手前の左右岩肌には、大きな柱の浮彫があり、基壇に細かい装飾が、上部の柱頭にヤクシャと獅子の装飾が施されている。そのファサードを形成する角柱の正面には何らかの工作物があったのか接続痕らしい穴があちらこちらに開いている。
中央の2本の角柱の内側には寄進者の銘文が残されている。ファサード正面に向かって左角柱の内側には「ヤジャニヤ・シュリー・シャータカルニ王(在位174~203年)の世に2人の商人が寄進した」との記録がある。王は、サータヴァーハナ朝(前230~220)の後期の最も偉大な王でインド西部および中央部の南部地域を再征服したことで知られている。なお、王の横顔が刻まれた貨幣がグジャラートから出土している。
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左端の角柱と、ファサードの手前の柱頭装飾を持つ浮彫柱との間(北側壁面)には小室があり、奥に更に扉口が、左右には仏陀椅像と仏陀立像の彫刻が施されている。ちなみに、対となる南側壁面には、小室はなく二基の仏塔の装飾のみが施されている。
ファサードの角柱の内側には前廊があり、左右両端には、天井に達する4メートルほどの大仏像が建っているが、碑文が書かれた時代より後期に造られたと考えられる。
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前廊から身廊への入口となる左右壁面には男女二組のレリーフ像が飾られている。向かって右側のレリーフは一部破損しているが、左側のレリーフは、ほとんど破損がないまま残されている。男女は重そうな大きい長方形のイヤリングに個性的なターバンを身に付けている。女性のアンクレットも重そうに見える。これらは、サータヴァーハナ朝時代の装身具を表していることから、碑文と同時代に制作されたと考えられる貴重なレリーフである。
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左右の男女のレリーフ像のすぐ上にも、仏像彫刻があり、その上の中央には、天井近くまで届く大きな半円形状の明かり窓がある。
レリーフ像の間の扉口を入ると石窟内は、身廊を形成する巨大なチャイトヤ窟になっている。当時は多くの僧侶がストゥーパの前で礼拝していたのだろう。その身廊を形成する左右の装飾柱は全部で34本あるが、ストゥーパの周りは単純な八角形のシャフトになっている。柱頭には、ロマネスク様式を思わせる精緻な彫刻が施されている。また、アーチ型屋根の側面にある小さな穴は、天井が木で覆われていた痕跡とされる。
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柱頭彫刻には、仏陀の生涯や仏教説話を題材にしたものがモチーフとされているが、具体的な仏陀の姿は表現されていない。このように柱頭には仏陀の象徴としての菩提樹やストゥーパ(仏塔)として表されており、第3窟はカンヘーリ石窟群の中でも初期の作品であることがわかる。
第3窟から外に出て、通路まで戻り振り返ると、欄循の玉垣の左端に階段があり小さなチャイトヤ窟がある。ことらが第4窟である。
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第4窟は一人が何とか入り込める程度の広さしかなく、仏塔も第2窟の2つの仏塔よりも小さい。仏塔の基壇部分には欄循の浮彫があり、更にその下には、仏陀像が彫られている。ストゥーパの形状は初期のものと思われるが、基壇の仏陀像は後期に彫られたものである。壁面にも仏陀像が彫られておるが、こちらも後期に彫られたものである。
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第4窟までを見て帰る人が多いようだが、迎えの車が到着するまで時間があるので、できるだけ先まで行ってみることにする。もちろん109窟を全て見学するのは無理だが。。第4窟の後は、丘の上り下りが続くようだ。
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階段を下りた右側には、岩肌を削ったベンチがある。その先右側の窟には第32窟と表示があったが、全ての窟に番号が付けられていないため、迷子になりそうである。
多くの石窟は空洞や未完成だが、第67窟には多くの彫刻が残されている。
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正面を飾る柱内側の前室の扉口左右の壁面には、仏陀椅像を中心に三尊像の彫刻群がある。
石窟内の壁面には、椅像に加え、仏陀の立像、坐像が隙間なく彫られている。
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丘の上からは、国立公園一帯を見渡すことができ、遠くには、ムンバイ市内のビル群も見える。
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約束の時間が近づいて来たので入口に戻ると時間通り車の迎えが到着した。最初に乗車した国立公園の入口で降りて700ルビーをドライバーに支払い、オートリキシャー(20ルビー)に乗りボリヴァリ駅に戻った。
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列車に乗り、途中のマハーラクシュミー駅で下車してドービーガートの見学をする。この地区は、ムンバイのホテルや病院のリネンなどを洗濯して生計を立てているとされる人たちの街で、5000人以上が働いているという。近くまで行くと、面倒も起こりやすいらしいので、駅の上の陸橋から眺めるだけにした。
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陸橋から反対側を眺めると、タワービルが並んでいる。インドの貧富の差を感じる風景である。。
再び列車に乗り、更に途中のマリーンライン駅で下車し、アラビア海に面したマリーンドライブを見学する。バック・ベイと呼ばれている。北側を眺めると、大きく西方向に湾曲して真西まで続いている。
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次に、南側を望むと、同じように大きく湾曲している。どちらも、近代的なビルが立ち並んでいることから、ムンバイがインド最大の都市で、南アジアを代表する世界都市の一つであることが頷ける。
ホテルには午後5時に戻り、シャワーを浴びて、少し休憩した後、夕食はホテル近くの「カフェ・ユニバーサル」に行った。
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生ビール、焼きそば、タンドリーカバブ(計590ルビー)を頼み、堪能した後、昨夜の車中泊もあり、疲れてすぐ寝た。。。
(2013.2.26)
ホームを人の流れに沿って歩いて行くと、向かい側に溢れそうなほどの乗客を乗せて停車していた列車が、突然ドアを開けたまま動きだした。ドアから身を乗り出している男に、ムンバイCST(チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス)駅に行くのかと聞くと、周りにいた男たちも「そうだ、そうだ」と言って手を差し出してくる。咄嗟に列車に飛び乗ったが大失敗である。
車内は、まったく身動きが取れない上、周りの客は奥に行けというが行けないし荷物がつぶれそうだ。。何もこの混雑する列車に乗ることはなかった。なんとか車内の奥まで行き、隣の男にいつもこれほど混んでいるのか聞いたら、そうだと言った。
1時間後、ヘロヘロになりムンバイCST駅に到着した。駅構内は、多くの列車が同時に発着できる複数のプラットホーム(11本が長距離列車用で、7本が近郊列車用)がある巨大なターミナル駅で、南側が出口になっている。
駅構内から外に出ると、そのまま南に向けて歩行者専用通り(駅前通り)が続いており、通りの右側には巨大なヴェネツィア・ゴシック建築の建物が聳えている。こちらは、1887年、ヴィクトリア女王治世時にイギリス人F.W.スティーブンスの設計により建てられたヴィクトリア・ターミナス駅舎(旧名)である。
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駅舎は1996年に17世紀のマラーター王国の王チャトラパティ・シヴァージーに因んで「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」と改名している。その後2004年には世界遺産にも登録されており、ムンバイを代表する歴史的建造物である。
ムンバイの街は、16世紀、ポルトガル王国がイスラム王朝、グジャラート・スルターン朝(1407~1573)から譲り受けたが、1661年にポルトガル王女がイングランド王チャールズ2世(1630~1685)に嫁いだときの持参金としてイギリスに譲渡されたことからイギリス領となった。その後、イギリス東インド会社の商館が置かれるなど、19世紀にはイギリスのインド植民地支配の一大中心都市となり、イギリス風の建造物が多く造られた。
まずは、チェックインするべく今夜の宿泊ホテルに向かう。駅前通りに架かる駅の表示板を過ぎると前方に公園を持つ広場になる。公園を右手に見ながら通り過ぎ、東西に延びる大通りを横断して駅舎方向を振り返ると、駅舎の南壁を木々の隙間から眺めることができる。ちなみに、駅舎の正面は、西側になることから、今回は駅舎の裏側を歩いて来たことになる。
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次に、大通りを東側に歩くと、隣には、中央に大きなドームを持つインド・サラセン建築の「インド中央郵便局」が建っている。イギリス建築家ジョン・ベッグによりビジャープルにある霊廟ゴール・グンバズをモデルに1913年に建てられたものという。
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すぐ先の交差点を右折して南北に延びる大通り(シャヒッド・バガット・シン・ロード)を200メートルほど南に進んだ先の路地を左折した「フォート地区」に今夜の宿泊ホテル「トラベラーズ・イン」がある。ムンバイのホテルは宿泊料金が高い上、混雑しているので、今回は事前にネット予約をしておいた。宿泊料は1泊AC付朝食付きで3919円(税込)である。
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チェックインが終わりスタッフに次の目的地アウランガバード行きのバスの予約(850ルビー)をお願いすると、あっさり予約できた。実は、ボーパール駅で予約したアウランガバード行きの列車チケットは、今朝の時点でウエティングリスト15番目と、取得はかなり絶望的だった。しかしバスに乗車することが決まったので、後ほど駅で列車のウエティング・チケットはキャンセルすることにした。
これからムンバイの北25キロメートルの地にある「カンヘーリ石窟群」に近郊列車で行くことにしている。近郊列車には、今朝カルヤンから乗車した、セントラルライン(中心部線)の他に、ハーバーライン(港線)とウェスタンライン(西部線)の3路線がある。「カンヘーリ石窟群」へは、ウェスタンラインを利用することになるが、CST駅とは異なり、1.6キロメートルほど西にある「チャーチゲート駅」からの発着となる。
まずは、ホテルを出て「シャヒッド・バガット・シン・ロード」を南に行き、最初の交差点を右折して西に向かう。タクシーに乗るか考えたが、市内の通りはどこも混雑しており、歩いた方が早そうだ。
通りは、南北に延びる大通りにぶつかり、左折して大通り沿いを歩く。ちなみに、この大通りを北に行くと「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」の西側正面口に到着する。
すぐ先で視界が広がると、左側が広場「フタートマ・チョウク」になっており、1864年に建てられたローマ神話の女神フローラの泉が建っている。右側は複数の大通りが集中する交差点になっている。
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歩いて来た方角を振り返ると、左側からの大きな通り(マハトマ・ガンジー・ロード)と挟まれるように(南方向を正面に)「オリエンタル・ビルディング」と書かれたコロニアル様式の建物が建っている。この建物は「チャトラパティ・シヴァージー・ターミナス駅舎」を設計したイギリス人F.W.スティーブンスの設計によるものである。この広場前の交差点を西側に横断し、300メートルほど進んだ右側に「チャーチゲート駅」がある。
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チャーチゲート駅構内にあったファストフードで、ハンバーガー、ポテト、コカコーラのセット(110ルビー)を食べ、カンヘーリ石窟群の最寄駅ボリヴァリ駅までの切符(15ルビー)を購入して近郊列車(ウェスタンライン)に乗る。この時間は今朝の列車と異なり余裕で座れる。
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駅前広場には、オートリキシャが集まっており、すぐに勧誘攻撃にあった。カンヘーリーに行くと伝えると往復で1,500ルピーと言う。そんなバカな、地球の歩き方では30ルピーとある。すると30ルピーで行くというオートリキシャがあったので乗り込み、車内でミカンを食べていると、あっという間に到着した。しかしそこは、サンジャイ・ガンディー国立公園(ボリヴァリ国立公園)の入口であった。
国立公園は、自然保護指定区域になっており、総面積103.09平方キロメートル(東京ドーム約22個分)の敷地面積を誇っている。公園敷地内には、カンヘーリ石窟群のほかにインドヒョウ、アクシスジカ、サル等々の野生動物や野鳥が数多く生息しておりサファリツアーなどもあるそうだ。
窓口で入園料(35ルピー)を支払い、カンヘーリー石窟群までの距離を聞くと、なんと7キロメートルもあるらしい。どうしようか考えていると、車で送迎をするという男が現れた。料金を尋ねると800ルピーと言うので、700ルピーと言い返すと返事のないまま乗れと言われて出発した。
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なだらかなカーブが続く坂道を上って行くと、広場になって行き止まりになった。鮮やかな色合いの石窟寺院の案内板があり、横から石階段が山頂に向けて続いている。車はここまでのようで下りると、男は1時間半後に迎えに来ると言ってすぐに去って行った。
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階段を上りつめると、正面にチケットショップがある簡素な長方形のコンクリート建物に到着した。窓口で100ルピーを支払い、すぐ左の短い階段を上ると、左側に花壇のある広場があり、右側の岩裾を縫うように通路が続いている。先の岩壁を右側に回り込むと、目の前が開け右前方に目的の石窟群が現れた。
カンヘーリ石窟群は、2世紀から3世紀にかけて造られた前期仏教石窟寺院群で109の石窟があるが、多くは小窟や未完成窟である。最初に現れる大きな2本の柱で支えられた2階建ての石窟は第1窟だが、内部は装飾のない平面の壁や天井があるだけの未完成窟だった。ちなみに第1窟は僧侶が住む「ビハーラ窟」として建造された。
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その先隣りには第2窟がある。石窟前の広い通路を先まで行って第2窟全体を振り返って見ると、巨大な亀の甲羅が覆いかぶさっているように見える。庇を支える柱があったと思われるが失われたのだろう。窟内の右端にはストゥーパ(仏塔)が見える。
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その右端のストゥーパ(仏塔)は、大人ほどの身長サイズで、周りを壁に囲まれた狭いながらも「チャイトヤ窟」(礼拝堂)を形成している。仏塔の覆鉢はふっくらとした円形で欄循の浮彫のある基壇にすっぽりと収まった姿をしており、頂部にはやや大きな傘竿があり天井と繋がっている。信者や参拝者は、この仏塔の周歩廊を行道(右遶)し礼拝したのだろう。
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周歩廊の後部壁面には、後代に刻まれた仏陀の浮彫装飾がある。蓮華座に座る仏陀像の左右には菩薩の脇侍が配し三尊像を形成している。
次に、そのチャイトヤ窟を挟んで左隣には、やや前面に張り出した位置に仏塔の円形状の基壇のみが残っている。
更にその左隣の少し後方には、仏塔に広めの周歩廊を設けたチャイトヤ窟がある。こちらの仏塔は、装飾のない基壇と丸みのある覆鉢のみで傘竿はないことから、右端の仏塔よりも早い時期に建造されたと思われる。壁面には多くの彫刻が施されているが、こちらも全て後期のものである。
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仏塔の右側面に刻まれた仏陀立像は、螺髪や衣の襞も細かく表現されている。そして仏塔の後部には、しなやかに曲線を描く仏陀立像や菩薩像らしき像も見える。左側面の下部には、仏龕に彫り込まれた仏陀椅像が並んでいる。
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このチャイトヤ窟の左側から第2窟の一番左端までは内陣と前廊とを隔てる壁が続いている。その壁面には高さ2メートルほどの内陣への扉口が2か所と、小さなのぞき窓が1か所あり、仏像の浮彫が数か所に施されている。
そして隣りにある規模が大きく西側を正面にした石窟が、カンヘーリ石窟群を代表する第3窟である。まず通路から低い階段を上った左右には守護神ドゥワラパラ像が彫られている。おそらくこの像の上にはサーンチーに見られたような塔門(トラナ門)があったのだろう。そしてその像の左右には欄循の玉垣の浮彫が続いている。ちなみに右端の第2窟との境にあるナーガ像のレリーフは損傷が少なく良く残っている。
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左右の守護神ドゥワラパラ像の間を通った先にあるファサード手前の左右岩肌には、大きな柱の浮彫があり、基壇に細かい装飾が、上部の柱頭にヤクシャと獅子の装飾が施されている。そのファサードを形成する角柱の正面には何らかの工作物があったのか接続痕らしい穴があちらこちらに開いている。
中央の2本の角柱の内側には寄進者の銘文が残されている。ファサード正面に向かって左角柱の内側には「ヤジャニヤ・シュリー・シャータカルニ王(在位174~203年)の世に2人の商人が寄進した」との記録がある。王は、サータヴァーハナ朝(前230~220)の後期の最も偉大な王でインド西部および中央部の南部地域を再征服したことで知られている。なお、王の横顔が刻まれた貨幣がグジャラートから出土している。
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左端の角柱と、ファサードの手前の柱頭装飾を持つ浮彫柱との間(北側壁面)には小室があり、奥に更に扉口が、左右には仏陀椅像と仏陀立像の彫刻が施されている。ちなみに、対となる南側壁面には、小室はなく二基の仏塔の装飾のみが施されている。
ファサードの角柱の内側には前廊があり、左右両端には、天井に達する4メートルほどの大仏像が建っているが、碑文が書かれた時代より後期に造られたと考えられる。
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前廊から身廊への入口となる左右壁面には男女二組のレリーフ像が飾られている。向かって右側のレリーフは一部破損しているが、左側のレリーフは、ほとんど破損がないまま残されている。男女は重そうな大きい長方形のイヤリングに個性的なターバンを身に付けている。女性のアンクレットも重そうに見える。これらは、サータヴァーハナ朝時代の装身具を表していることから、碑文と同時代に制作されたと考えられる貴重なレリーフである。
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レリーフ像の間の扉口を入ると石窟内は、身廊を形成する巨大なチャイトヤ窟になっている。当時は多くの僧侶がストゥーパの前で礼拝していたのだろう。その身廊を形成する左右の装飾柱は全部で34本あるが、ストゥーパの周りは単純な八角形のシャフトになっている。柱頭には、ロマネスク様式を思わせる精緻な彫刻が施されている。また、アーチ型屋根の側面にある小さな穴は、天井が木で覆われていた痕跡とされる。
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柱頭彫刻には、仏陀の生涯や仏教説話を題材にしたものがモチーフとされているが、具体的な仏陀の姿は表現されていない。このように柱頭には仏陀の象徴としての菩提樹やストゥーパ(仏塔)として表されており、第3窟はカンヘーリ石窟群の中でも初期の作品であることがわかる。
第3窟から外に出て、通路まで戻り振り返ると、欄循の玉垣の左端に階段があり小さなチャイトヤ窟がある。ことらが第4窟である。
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多くの石窟は空洞や未完成だが、第67窟には多くの彫刻が残されている。
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正面を飾る柱内側の前室の扉口左右の壁面には、仏陀椅像を中心に三尊像の彫刻群がある。
石窟内の壁面には、椅像に加え、仏陀の立像、坐像が隙間なく彫られている。
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丘の上からは、国立公園一帯を見渡すことができ、遠くには、ムンバイ市内のビル群も見える。
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約束の時間が近づいて来たので入口に戻ると時間通り車の迎えが到着した。最初に乗車した国立公園の入口で降りて700ルビーをドライバーに支払い、オートリキシャー(20ルビー)に乗りボリヴァリ駅に戻った。
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列車に乗り、途中のマハーラクシュミー駅で下車してドービーガートの見学をする。この地区は、ムンバイのホテルや病院のリネンなどを洗濯して生計を立てているとされる人たちの街で、5000人以上が働いているという。近くまで行くと、面倒も起こりやすいらしいので、駅の上の陸橋から眺めるだけにした。
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陸橋から反対側を眺めると、タワービルが並んでいる。インドの貧富の差を感じる風景である。。
再び列車に乗り、更に途中のマリーンライン駅で下車し、アラビア海に面したマリーンドライブを見学する。バック・ベイと呼ばれている。北側を眺めると、大きく西方向に湾曲して真西まで続いている。
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次に、南側を望むと、同じように大きく湾曲している。どちらも、近代的なビルが立ち並んでいることから、ムンバイがインド最大の都市で、南アジアを代表する世界都市の一つであることが頷ける。
ホテルには午後5時に戻り、シャワーを浴びて、少し休憩した後、夕食はホテル近くの「カフェ・ユニバーサル」に行った。
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生ビール、焼きそば、タンドリーカバブ(計590ルビー)を頼み、堪能した後、昨夜の車中泊もあり、疲れてすぐ寝た。。。
(2013.2.26)