カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

インド・ビームベートカー

2013-04-01 | インド(マディヤプラデーシュ)
ボーパール滞在3日目の朝、マンジェットホテルを午前7時にチェックアウトし、荷物を預けて、昨日同様にバスターミナルに向った。これから南に45キロメートルほど行った東西に延びるヴィンディヤ山脈南縁にあるビンベットカ(ビームベートカー)の岩絵を見に行くことにしている。岩絵とは、インド亜大陸における人類の最初期(1万年以上前の後期旧石器時代)から中世に亘るまでの痕跡が刻まれた「ビンベットカ岩陰遺跡群」のことで、世界文化遺産(2003年)に登録されている。

バスターミナルでは、フーシャンガーバード(ホシャンガバード)方面行きバスを係員に尋ね、指示された車両に乗り込んだ。乗車後は、車掌と乗客に、途中のビームベートカーで下車する旨をアピールしていたところ、午前7時20分に出発した。


ちなみに、今夜は、午後7時45分ボーパール駅発、ムンバイー(カルヤン)行き夜行列車(2A席)(1350ルビー+200ルビー(手数料)=1550ルビー)を予約していることから、時間までに必ず戻らなければならない。

車内で、運賃を徴収しに来た車掌に、30ルピーを支払い、レシートをもらう。バスは停車する毎に乗客が増え、市内を離れる頃には満席となった。午前9時を過ぎたころ、車掌から下りる準備をする様に合図をされた。しばらくするとバスは停車したが、他に下車する人はいなかった。向かい側にビームベートカーと書かれた案内板が見えたことから間違っていなく一安心である。
クリックで別ウインドウ開く

道路を横断すると、門型式の案内板に岩陰遺跡が写真入りで掲げられている。そして、インド鉄道の踏切があり、更にその先に、広い直線道が参道の様に続いている。
クリックで別ウインドウ開く

事前の情報では、岩陰遺跡の場所は、バス停から3キロメートルほど離れているとのことだが、木々も茂りまだ気温が高くないので、軽快に歩くことができそうだ。

直線道は10分ほどで大きく右に曲がり、その先に遮断桿のある木造の検札所が見えてきた。ここで入場料(100ルビー)を払い坂道を上っていく。バイクのそばにいた男から送っていこうかと誘いを受けるが、後にトラブルになっても面倒なので、丁重に断り歩いていくことにする。
クリックで別ウインドウ開く

なだらかな坂道にも関わらず、日差しが強くなり気温が上昇して汗ばんできた。夏を思わせる気候だが、周りの葉を落とした広葉樹の木々(雨緑林)を見ると、やはり乾季の2月であることが頷ける。。
クリックで別ウインドウ開く

道路の辺りは、赤土の中に、玄武岩らしき大岩が増え始め、溶岩棚の様に連なっている個所もある。荒野といった雰囲気である。時折、見学に向かう乗用車が後方から現れ、都度避けてやり過ごす。
クリックで別ウインドウ開く

その後、道路は蛇行し始め、木々で覆われた小山方面に向かっている。その小山の頂上付近まで来ると左側に赤土が広がる駐車スペースがあり、右側が、岩にスチール製の案内板が掲げられた岩陰遺跡の入口で、その奥(北西方面)に、石畳の通路が延びている。バス停から45分ほどの道程だった。
クリックで別ウインドウ開く

石畳の通路の突き当りには、仏塔の様な大きな岩山があり、その下部の洞窟を数人の見学者が覗き込んでいる様子が見える。そして左右には「珪岩の塔」と呼ばれる更に大きな岩山が取り囲んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

通路沿いにある解説板には、700を超える岩陰遺跡(ロックシェルター)が確認されており、内400ほどが、ビームベートカーを中心とした5つの丘に集中していると書かれ、そのうちの見学可能な15か所の遺跡が案内図(①~⑮)として示されている。

突き当りの大きな岩山は、15メートルほどの高さがあるが、4メートルほどの位置から大きく浸食を繰り返し、庇状になり地下へと続いている。周りの安全柵から洞窟の様になった地下を覗き込むと、古代人家族の生活風景を再現した像が飾られている。横にある解説板には、「ここは、1973年から1976年の間にインドの考古学者V.N.ミスラによって発掘調査が行われ、約4メートル、8層にわたり文化的堆積物の存在が確認された。これによりアシュール文化後期から中石器時代の終わりまでの人類の生活の痕跡(住居跡)があることが証明された。」と書かれている。
クリックで別ウインドウ開く

岩絵は、浸食した庇の奥に「象を従える武器を持つ象上の人物」と、その下に「雄牛に矢を放ち狩りをする人」とが描かれている。地中深くの暗闇に描かれていると想像していたので、高く明るい場所に、はっきりと描かれているのは意外だった。
クリックで別ウインドウ開く

左隣にある「珪岩の塔」は入口が二か所あり、すぐに合流して北西方面へ続く空洞となっている。その空洞内の壁面は、赤味を帯びた大きな筋肉の塊りが重なりあっている様に見える。入口左側の壁面に向かって、立ち姿で岩絵を描く古代人を再現した像が飾られている。ちなみに、こちらの空洞は、直径約39メートル、幅4メートル、高さ17メートルあり、高いアーチと広い空間を備えた寺院を連想され「講堂」とも呼ばれている。
クリックで別ウインドウ開く

空洞は、突き当りで広めの踊り場になり、左に曲がって出口となる。その踊り場では、数か所の隙間から明かりが差し込んでおり、その手前左側のややピンクかかった壁面に「角のある動物」の岩絵が、赤紫色で左上に3頭、右側に5頭ほど描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

通路は、出口のすぐ先で右折して、左右の岩の間を通って、再び北西方面に石畳の通路が続いている。周りは雑木林が広がるなど、うっそうとした雰囲気である。所々にある巨石の間を通り抜け100メートルほど進み、2階建て戸建住宅ほどの大きさの巨石に沿って左側から回り込むと、浸食により大きくえぐり取られた壁面が目の前に現れ、その庇部分に岩絵「動物たちの群れ」が描かれている。こちらが第4窟(ロックシェルター4)で、多くの動物岩絵が描かれていることから「ズー・ロック」とも呼ばれている。
クリックで別ウインドウ開く

「ズー・ロック」には、灰色の壁面に白色塗料でゾウ、バラシンガジカ、バイソン、シカなどおびただしい数の動物が駆け抜ける姿が描かれている。1万年前から5000年前にかけて描かれたもので、ビームベートカーを代表する岩絵とされている。
クリックで別ウインドウ開く

「ズー・ロック」から石畳の通路は北向きになり、数十メートル先に、高さ3メートルほどの巨石が折り重なるビューポイント(展望台)がある。なだらかな箇所から岩の上に上ると、岩の先に平原が広がっており、緑の中に玄武岩の赤茶色の地層ラインが織りなす様子も良く見える。ちなみに、手前の岩の上に海亀の様な形をした岩が乗っているが浸食した結果なのか、人為的なものなのだろうか。。
クリックで別ウインドウ開く

石畳の通路は、展望台の手前から右折して階段状に下っている。その途中の左側に二つの石が積み重なった様な巨石があり足元に第8窟(ロックシェルター8)の表示があるので左折する。通路は巨石の下部をくぐり、隘路の様に先に繋がっている。
クリックで別ウインドウ開く

通路に覆いかぶさる様な岩の大きく浸食した内側に約2500年前に描かれた「馬に乗り狩りに向かう集団」や、白色塗料で描かれた人物などの岩絵がある。ここまで見てきた岩絵もそうだが、雨風の影響を受けにくい場所に描かれた岩絵ははっきりと残っている。
クリックで別ウインドウ開く

案内図(①~⑮)に従い、第8窟の谷間から洞窟を抜け、すぐ先の三差路を過ぎ北方面に向かう。その折り重なる様に連なる左側の巨石の浸食して庇の様になった第9窟には「象や馬など」の岩絵が描かれている。更にその左先には、安全柵が設置された第10窟があり、覗き込むと、浸食した壁面には白色塗料で描かれた人物像が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

折り重なる巨石の先に現れる三差路から右側して第11窟(ロックシェルター11)方面に向かう。前方には、通路を押しつぶそうとする様な空洞のある巨石が現れる。
クリックで別ウインドウ開く

第11窟は、その巨石の内側に、やや滲んだ様な白色塗料で「槍、弓を持つ人々や馬上の狩人など」が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

再び、三差路に戻り、もう一方に続く石畳の通路に向かう。すぐに下り坂になり、下り終えた踊り場から上部に聳え立つ巨石(第12窟)がある。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、その第12窟に描かれた「狩猟風景」で、特に、二頭を引き連れる大きなシカは立派な角と堂々とした体躯で描かれており、かなり古いものだがよく残っている。周りのやや太い線で描かれた狩りをする人々は、シカとはタッチが大きく異なり、後期のものであることが分かる。
クリックで別ウインドウ開く

少し先に、巨大なコブラが鎌首をもたげた様な巨石が聳えている。こちらの「コブラ岩」と名付けられた第15窟(ロックシェルター15)が最終窟で、この先から「No Entry」と書かれた立て札がある。
クリックで別ウインドウ開く

岩絵は「コブラ岩」の中央部に「巨大なバッファローに追われる人々」が描かれている。バッファローは、人物と比較して大変大きく迫力を持って描かれているが、手足の短さや、極端に大きな頭部のデフォルメなど愛嬌さも見事に表現されている。浸食した庇の内壁に描かれた岩絵と比べ、風雨にさらされやすい高い側面壁に描かれているにも関わらず色彩が良く残っている。。
クリックで別ウインドウ開く

Uターンして第8窟(ロックシェルター8)手前の三差路から、往路と異なる左側の通路を通り、右側に回り込んだ先にある三差路を左折して南方向に向かう。そして前方の左右を岩で囲まれた狭い通りの右側が、第7窟(ロックシェルター7)で「馬に乗り狩りをする人々」が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

第7窟を過ぎると通路は大きく右に曲がり上り階段になっている。上り詰めた右側に大きく浸食した第6窟(ロックシェルター6)がある。
クリックで別ウインドウ開く

第6窟には、白色塗料で「手を繋ぐ人々」が描かれており、その左側に彩色が薄くなった「動物の群れ」が描かれている。動物の群れは、躍動する様子が、第4窟(ズー・ロック)の岩絵に似ており、劣化の状況からもかなり古いものと思われるが、幾何学的に描かれた手を繋ぐ人々は後年のものと思われる。
クリックで別ウインドウ開く

これで、岩陰遺跡の見学は終わりである。使用されている顔料は植物系のものだが、近年は、劣化が進み化学薬品やワックスを使用して保存に務めているとのこと。正直、岩絵なのか浸食染みなのか分からないものも多々あったが、貴重な遺跡を見学することができて満足だった。。時刻は、まもなく午前11時半、日差しも照り付ける時間となったが、帰りは下りなので何とかなるだろう。往路同様に歩いて下山した。
クリックで別ウインドウ開く

麓にある検札所の係員からチャイを飲まないか勧められるが断った。また、踏切を渡った左側にある「Madhya Pradesh Tourism」にホテルとレストランとの表示があり、ビールを飲みたくなったが、何時にバスが来るか分からないため、諦めて幹線道路沿いで待機することにした。持参した水を飲み、バナナなどを食べていると、10分ほどでバスが到着した。車掌にボーパール行きかを尋ねたところ、頷いたので乗車した。待ち時間が少なくラッキーだった。


バスに乗るとすぐに寝てしまった。乗車後1時間ほど過ぎた午後1時半頃にバスターミナルに到着した。ターミナルは、正方形の待機場で、三方向に真新しい屋根付きのガレージが30(10×3)ほどあり、それぞれに各方面毎の乗降口がある。配送センターにも似ており、朝とはあまりに異なる風景だった。引き続き乗車していると車掌から終点なので降りるように促された。

ガレージに入り建物内を抜けると、バスターミナルの西隣には、車寄せの広いスペースを持つ近代的なターミナルビルがあり「Inter State Bus Terminals(ISBT)」(州間バスターミナル)と表示されていた。こちらは、幹線道路側から眺めたターミナルビルの全景である。


近くにオートリキシャが停車していないため、広い幹線道路を横断し、左車線側の歩道をボーパール方面の標識に沿って歩いたが、前方から現れた通行人に鉄道駅を尋ねると、反対方向を指さしたのでUターンすることにした。


歩道沿いには、覆い茂った木々が連なり、郊外を走るバイパス道路といった印象である。しばらく歩くと右側に路地があり、その奥に複数の線路が見えたので、そちらに向かった。そして左先の線路を横断する高架歩道橋を渡って振り返ると「ハビブ・ガンジー駅」と書かれていた。ボーパール駅の隣駅(約6キロメートル南)だった。


駅前に並ぶ建物はどれも新しく、道路も広く新市街といった雰囲気である。市内バスを探していると、オートリキシャが近づいてきたので、ボーパール駅に行きたいと伝えると100ルビーと言う。市内バスに乗りたかったこともあり断るが、50ルビーで良いと言うので乗ることとした。。

ハミディアロードまでは、結構距離があり時間もかかったため100ルピーを払って下車した。しかし、まだ午後3時前で、列車の出発時間まで時間があった。ボーパールは、ガイドブックにこれといった見どころがないと書かれていたが、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)近くにいたオートリキシャに3時間ほど観光したい旨を伝えると、①Taj Ul Masajid、②Jain Temple、③Lake view、④Manjeet Hotelと手書きの用紙をくれたので、250ルビー支払うことで合意し、オートリキシャに乗り、ハミディアロードを西に向け出発した。


1.5キロメートルほど先からハミディアロードは大きく左に曲がり南に向かう。前方右側に見えてきた大きなモスク「タージ・ウル・マスジット寺院」が最初の目的地とのこと。そのモスクは東門(正門)、北門、南門が正方形(一辺約100メートル)の回廊で結ばれた敷地内の西側にあり、ピンク色のファサードに、大きな3つの白亜のドーム、左右両側に高いミナレット(18階建て)を備えている。ボーパール市内でこれほど大きなモスクがあるのには驚かされた。規模や形状などは、オールド・デリーのジャーマー・マスジド(1656年竣工)と大変よく似ている。
クリックで別ウインドウ開く

礼拝堂内には多くの信者が集まっていた。後で知ったが、このモスクは、ムガル帝国の第17代(最後の)君主バハードゥル・シャー2世(在位:1837~1858)治世に工事が始まったが、財政難から中止され、実際に工事が再開したのは1971年で1985年に完成したとのこと。
クリックで別ウインドウ開く

礼拝堂内は連続する花弁アーチや、アカンサスの葉などの唐草文様の装飾が施された柱、精緻な浮彫装飾などで溢れており、外観、礼拝堂ともに伝統的なムガル建築で建てられている。
クリックで別ウインドウ開く

再びオートリキシャに乗りハミディアロードから、東西に延びるメイン・ロード(スルタニア・ロード)へ合流して西に向かう。中央分離帯があり高速道路を思わせる様な大通りを進むと、前方に小山が見えてきた。運転手はその小山方面を指さし、これから小山に向かうと言っているようだ。
クリックで別ウインドウ開く

目的地の小山は、「タージ・ウル・マスジット寺院」から、西に4キロメートルほどの距離になる。オートリキシャは、メイン・ロードの北側の路地裏に停車し、向かい側にあるロープーウェイ駅を指さした。ここで待っているから行ってこいと言うことらしい。


駅は鉄骨と屋根だけある簡易なもので直ぐに乗車口がある。ロープーウェイが近づいて来ているのが見える。係員に運賃50ルビーを支払いロープーウェイに乗り込むが、他に乗客は来なかった。乗車後、麓側を眺めていると、大きな湖(アッパー湖)が見え始めた。


山頂は標高600メートルだが、麓駅との高低差は80メートルほどであることから、直ぐに山頂駅に到着した。山頂駅の湖側には足元が悪いゴツゴツした岩が続いているが、見渡す限り広がる湖の眺めは圧巻で、大変気持ちが良い。「アッパー湖」は、東西幅約14キロメートル、31.5平方キロメートルの大きさがあり、この大絶景は、ハミディアロードやボーパール駅前の薄汚れた喧騒な街のイメージを一変させてくれた。
クリックで別ウインドウ開く

湖は、多様な動植物が生息する重要な湿地として、ラムサール条約にも指定されるなど、綺麗な水質を持ち、ボーパール市民の主要な飲料水源として利用されている。もともと、現在のマディヤ・プラデーシュ州南西端一帯(マールワー地方)を支配したパラマーラ朝(ヒンドゥ王朝)のボージャ王(在位:1010~1055頃)により整備された歴史的な開拓湖とのこと。ちなみにボーパールは、そのボージャ王の名前に由来している。

索条をくぐった場所から麓を覗き込むと、真下にヒンドゥ教寺院の尖塔や、その先にここまで来たメインロードが見える。更にその向こうの木々に覆われた中にはインド鉄道が通っている。
クリックで別ウインドウ開く

ロープーウェイ山頂駅には、ショップが併設されているが、閑散期なのか半分シャッターが下りている。辺り一帯はプロムナードが設置されている。


所々にベンチや遊具などが設置されており公園になっているが、プロムナードはコンクリートにペンキを塗っただけで、地面も赤土に岩が転がり、芝生などの緑もなく、ゆっくり散策する雰囲気にない。。


北東側を眺めると、赤茶色の土壌のなだらかな斜面が続き、その先の平地に住宅地が広がっている。湖側もそうだったが白い建物が多い。熱を反射して吸収しないための工夫なのだろう。
クリックで別ウインドウ開く

北西側に見える岩山の上に建つジャイナ教寺院(マヌアバンキテクリ(Manuabhan Tekri))が、2番目の目的地と言うことなのだろう。屋根部分は、特徴的な砲弾状の高塔(シカラ)や、ピラミッド状のドラビダ型など、ヒンドゥ教やジャイナ教寺院の伝統的な建築様式で建てられている。下に見える駐車場を過ぎて近くまで行ったが、階段の手前で封鎖されており、残念ながら近づくことはできなかった。。なお、ロープーウェイを利用しなくても車でこの場所まで上ることが出来るようだ。。
クリックで別ウインドウ開く

10分ほど公園を散策したが、アッパー湖の見晴らし以外に特に見るべきものがないので、再びロープーウェイに乗って下山すると、オートリキシャが待っていた。最後にアッパー湖沿いを走って、ハミディアロードに戻った。
クリックで別ウインドウ開く

まだ午後4時半だったので、約束のマンジェットホテルには戻らず、ハミディアロード沿いで降ろしてもらい、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)でキングフィッシャー・ストロング(110ルビー)を買い、隣でスナック(チャージ込24ルビー)を買って、奥にあるテーブル席で飲んだ。ビールは美味しかったが、もう少し雰囲気の良い場所で飲みたかった。。


昨夜は気が付かなかったが、ハミディアロード沿い(南側)に「Manohar」の表示の綺麗な外観のレストランがあったので入ってみる。店内も清潔感があり、お弁当や、ハンバーガー、ピザなどがテイクアウト用として売られており、安心して、ピザ(105ルビー)を買った。


マンジェットホテルに預けていた荷物を取りに行き、ハミディアロードを横断して駅前通りから駅に向かったが、日が暮れて、人通りが一層多くなってきた。


まだ午後7時前なので、駅前に並ぶ屋台の食材を少し物色したが、安心して食べられそうなものはなかった。


ホームのウエイティングルームで、日本から持参した赤ワイン(キャンティ ベリーニ)を飲みながらピザを食べた。日本で食べるクリスピータイプと変わらない味だったが、値段の割にサイズが小さく、やや物足りなかった。。列車は予定より30分ほど遅れた午後8時20分に到着し乗り込んだ。ボーパール滞在中は大きなトラブルもなく、無事行程を終えることができた。
クリックで別ウインドウ開く
(2013.2.25)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド・サーンチー (その2)

2013-04-01 | インド(マディヤプラデーシュ)
今朝、インド中央部マディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールから路線バスで北東50キロメートルほどに位置する同州ラーイセーン県サーンチーにやってきた。サーンチーは、丘陵地に精緻な仏教彫刻が当時の姿のまま残る貴重な仏教遺跡として世界的に知られている。これまで、そのサーンチーの遺跡公園にある「第1ストゥーパ(仏塔)」を見てきたが、これから東門先の階段のある寺院遺構(第45寺院)に向かうことにする。
クリックで別ウインドウ開く

仏塔と第45寺院手前の階段の間にも、王柱、小仏塔、僧院らしき建造物の遺跡が残されている。こちらの王柱(王柱25)は、インド北西部に勢力を持ったギリシャ人の王国インド・グリーク朝(前2世紀頃~1世紀頃)の王アンティアルキダス(前115~前95)の大使ヘリオドロスが献上したもので、シュンガ朝(前180頃~前68頃)時代に建てられたとされる柱である。


階段を上った先は、南北に広がる長方形の基壇の上で、あちらこちらに遺物が残されている。第1ストゥーパ(仏塔)の東側に広がる基壇全域が一つの重要な宗教施設だったことが覗える。


その基壇中央の一番奥に建つのが、9世紀後半にかけて建設された「第45寺院」でインドにおける最後期の仏教寺院とされている。
クリックで別ウインドウ開く

もともとインドで開花した仏教は、マウリヤ朝を始め、クシャーン朝、グプタ朝、パーラ朝(8世紀後半~12世紀後半)などの歴代の王朝の庇護を受けて繁栄してきたが、その後は、教義が密教化したことなどもあり、ヒンドゥ教へと融合していく。その後、ゴール朝(11世紀初頃~1215)などのイスラム勢力の台頭等により各地の寺院・僧院が破壊され、仏教は衰退していった。

サーンチー近郊の都市ヴィディシャーは、9世紀初頭から14世紀初頭までヒンドゥ王朝パラマーラ朝の首都であったが、13世紀に勢力を拡大したイスラム系の「奴隷王朝(マムルーク・スルターン朝)(1206~1290)」の侵攻により多くの寺院が破壊された。しかし、このサーンチーは、既に世間から忘れられ密林化していたことから大きな被害を免れることができた。。

正面を覆っている金網から堂内を覘くと、右手は失われているが、瞑想する美しい姿の仏陀坐像が祀られている。
クリックで別ウインドウ開く

第45寺院は、サーンチーの中で最も大きな寺院で、現在もその威容を見せてくれる。しかし、建物上部を側面から見上げると、不揃いの大きな石を無造作に積み上げた様な不安定さも垣間見える。寺院に向かって右側面の下部にも仏陀坐像が飾られている。こちらは手足が破損しているものの、グプタ朝時代の特徴の光背の繊細な装飾が良く残っている。他にも寺院の基壇の周りには細かい装飾が数多く残されている。
クリックで別ウインドウ開く

第45寺院の基壇上から東門と第1ストゥーパを眺めてみる。綺麗に整備された公園に建つ仏塔は、威厳と崇高さの中に、それでいて親しみやすさと優美さをも兼ね備えた印象を与えてくれる。
クリックで別ウインドウ開く

基壇上を北東側に歩いて行くと、第1ストゥーパの北門から北東方面へ続く参道の先に、塔門(トラナ門)が確認できる。
クリックで別ウインドウ開く

こちらの塔門は約5メートルの高さで、その先の第3ストゥーパからは、やや離れて建っている。第3ストゥーパは、第1ストゥーパと比べ小ぶりで、頂部の傘蓋は、シンプルな一重になっている。南側から塔門を入り、ストゥーパに沿って右側の階段を上り、中壇欄楯内の繞道を右遶し左側の階段を下りる参拝ルートは、第1ストゥーパと同じ造りである。この仏塔は階段、欄楯ともにシュンガ朝時代に建てられたと考えられている。
クリックで別ウインドウ開く

第3ストゥーパの前の塔門を正面から見てみると、仏塔のやや右側にずれて建っていることが分かる。塔門は、仏塔よりやや後年の紀元前50年頃サータヴァーハナ朝(前3世紀~3世紀初頭)時代に建てられたと考えられている。装飾は、全体に施されているが図像はやや単純である。
クリックで別ウインドウ開く

一番上の横梁には、葉の巻蔓の中に精霊が表現されている。この種の巻物は一般的にヘレニズムを起源としている。そして、真ん中の横梁には、ストゥーパ(仏塔)を安置した塔院(チャイトヤ)に多くの信者が参拝する様子が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

一番下の横梁は「インドラ神(帝釈天)の天国」を表している。中央には神の館があり、インドラ神(帝釈天)が女性に囲まれ玉座に座っている。手前には川が流れ、パビリオンの左右の山と雑木林には神と半神がくつろいでいる。両端には、ナーガ族が座り、蛇のとぐろは、海の怪物(マカラ)と絡み合っている。

塔門左右の柱頭には第1ストゥーパの西門と良く似たヤクシャ像が施され、その下の角柱箇所には、向かって左側に「仏塔を崇拝する信者」が、右側には「獅子が乗るアショーカ王柱」のパネルがある。それぞれのパネルの下には、合掌する信者たちの姿が表現されている。。
クリックで別ウインドウ開く

塔門をくぐって、仏塔正面から欄楯を見ると右端の柱のみに細かい装飾が施されている。それでは右側の階段を上って中壇の繞道に行ってみる。


欄楯内から塔門を眺める。一番下の横梁には、葉の巻蔓の中に口から蔓を吐き出す精霊が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

欄楯内の繞道を右遶してみる。仏塔は、近年修復されたのか、石が新しく丁寧に積まれている印象だ。
ところで、この第3ストゥーパからは、仏陀の十大弟子のサーリプッタ(舎利弗)とモッガーラナ(目連)の銘が刻まれた骨壺が発見されたという。


次に、第1ストゥーパの西門前まで戻り、更に西側に続く階段を下りて修道院「第51修道院」を通り第2ストゥーパに向かう。こちらは正方形の池を持つ修道院とされるが詳細は不明。
クリックで別ウインドウ開く

坂道や階段は、大きな石を並べて造られているが、メンテされていないため、デコボコして歩きずらい。周りには建造物の遺構を思わせる瓦礫があちらこちらに散乱している。


なだらかな下り坂を300メートルほど行った山の斜面に「第2ストゥーパ」(仏塔)が見えてきた。第2ストゥーパは、傘蓋がない丸みのある覆鉢で、仏塔からやや離れた周囲を1階のみの欄循で囲まれている。仏塔の中壇には(欄循はないが)右遶できる繞道があり、東側の左右に繞道に繋がる階段がある。
クリックで別ウインドウ開く

こちらのストゥーパからは、4つの小さな遺物箱が見つかっている。中には人骨が収められており、ブラーフミー碑文によれば、10人の聖者の名前が記載され、その中には第3回結集を提唱し主宰したモッガリプッタ・ティッサ(目犍連帝須)の名前があった。

第1ストゥーパと同様に、東西南北の四か所に欄循内への出入り口がある。この第2ストゥーパを取り巻く欄循には、多くの装飾が施されている。仏塔は第1ストゥーパよりやや後年に造られたとされるが、装飾自体は、第1ストゥーパの装飾より早いとされている。
クリックで別ウインドウ開く

これら欄循のメダイヨン装飾は、ジャータカ(本生譚)、ガンダーラ地方からの職人によって作られたギリシャ風モチーフ(ケンタウロス、グリフィン、ギリシャ神話の神々、ヘレニズム的な花のデザイン)、仏教のシンボルなどがあり、現存する最古の大規模な仏塔装飾(紀元前115年頃)と呼ばれている。またジャータカの挿絵の発祥の地と考えられている。
クリックで別ウインドウ開く

柱のアショーカ王柱、仏陀を象徴する傘のある聖樹や経行石、スキタイ人の衣装を着た人物など様々なモチーフが表現された柱の装飾は、やや後年の紀元前80年頃或いは紀元前15年頃のものとされる。
クリックで別ウインドウ開く

2時間半ほど見学した後、園内入口そばにあるヴィハーラ寺院へ向かった。堂内の仏陀像は、サールナート博物館の初転法輪像に似ていた。
クリックで別ウインドウ開く

その後、正面の階段を下りて、チケットショップ横にある美術館で見学する。展示数は少なく、少し見学した後、麓まで下りてきた。時刻は午後12時40分で、周囲には、朝と異なり、土産ショップなども営業している。ボーパールに戻るにはまだ早いので、近郊にあるヒンドゥ教遺跡「ウダヤギリ石窟寺院」の見学に行くことにする。


今朝バスを下りた交差点あたりで、声をかけてきたオートリキシャの運転手に、石窟寺院の見学と、最寄りのヴィディシャー駅まで送ってもらう条件で交渉し、150ルビー支払うことで合意した。乗車後、東西に走る列車の踏切を横断すると、田舎の風景が広がった。オートリキシャは砂利道を勢いよく飛ばして行く。


しばらくすると、前方に小高い岩山が見えてきた。運転手は振り返り、そろそろ到着だと言っている。ウダヤギリ石窟は、マディヤプラデーシュ州ヴィディシャー近く、サーンチーからは北東に約7キロメートルに位置し、南東から北西にかけて、2つの小高い岩山が重なり合う長さ2.5キロメートル、高さ110メートルほどのウダヤギリ丘陵にある。


街道は、南から岩山に沿って東側を通っており、石窟寺院の入口は、2つの岩山が重なる中央付近にある。石窟は北東面にある20窟から形成されており、残された碑文には、グプタ朝の4世紀の最後の数十年に作成されて401年に奉献されたと記述されている。

開窟された5世紀から12世紀にかけて、ウダヤギリ石窟はヒンドゥ教の聖地として多くの巡礼者が訪れたという。その後は歴代のイスラム王朝により破壊され人々から忘れられてしまうが、19世紀になり、インド考古調査局を設立したイギリスの考古学者アレキサンダー・カニンガム(1814~1893)によって発掘された。

街道から石窟寺院の入口を入ってすぐのコンクリート板の屋根で保護された石窟が最大の見所である。


その最大の見所は、第5窟の巨大なヴァラーハ像のパネルである。ヴァラーハとは、ヒンドゥ教における猪の姿をしたヴィシュヌ神のことで、重要なダシャーヴァターラ(10のアヴァターラ)の内の第3のアヴァターラを表している。このレリーフでは、アスラの一族ダイティヤとの長い戦いの末に、大地の女神プリティヴィーを地の底から救いだし左肩に乗せた姿を表現している。
クリックで別ウインドウ開く

レリーフ左右上部には、リシと呼ばれる賢者(仙人)や、火の神アグニ、暴風神ルドラなどの神々が立ち並び、女神を救ったヴァラーハを歓喜して迎えている。

足元には、向かって左側に、美と富と豊穣と幸運を司るラクシュミーと、右側のナーガ・デーヴァ(蛇神)とがヴァラーハを称えている。ナーガ・デーヴァの後ろにはウダヤギリ石窟を神に寄進して開窟した人物としてグプタ朝(320~550)の王チャンドラグプタ2世(在位:376頃~415頃)が刻まれている(損傷が激しく頭部は失われている)。そして、後ろに外務大臣ビラセナが仕えている。
クリックで別ウインドウ開く

すぐ右隣が第6窟で、中央に長方形の神殿への入口(縦2メートル×幅1メートル)があり、奥にリンガが祀られている。入口の左右縁取りに柱の浮彫があり、柱頭にはガンガーとヤムナーの二女神が装飾されている。その入口に向かってすぐ左側の壁面には、右手にトリシューラ(三叉槍)を持つシヴァ像とその隣に聖域を守る守護神ドゥワラパラ像が刻まれている。そして、左端側面には太鼓腹で左足を下に投げ出すガネーシャ像などが見える。
クリックで別ウインドウ開く

向かって右側の壁面には、守護神ドゥワラパラ像で、隣が人格神を杖にする直立不動のヴィシュヌ像、更にその隣が、水牛の魔神マヒシャを殺すシヴァの妻の女神ドゥルーガー像である。概ね80センチメートルほどのサイズのレリーフが壁面に並んで刻まれている。
クリックで別ウインドウ開く

コンクリート板で保護された第5窟と第6窟以外は、2つの岩山が重なる峡谷を東西に続く階段を上った左右に続いている。


第10窟の両脇には門衛神が彫られているが、かなり損傷が激しく摩耗している。


神室内のヴィシュヌ像は、顔が破壊されている。第9窟と第11窟も小ぶりな窟で、神殿内を覗き込むとやはり顔が破壊されたヴィシュヌ像が見える。


第13窟には、一面金網で保護されており、窟内に2メートルほどある「アナンタ竜王の上に横たわるヴィシュヌ神(Anantashayana Vishnu)」の像がある。第5窟と同様に、足元には、グプタ朝の王チャンドラグプタ2世が刻まれている。全体的に保存状態は良いが、横からしか確認できないが、顔の凹凸感がないことから、削り取られた様に見える。身体の下にある足元まで続く竜王のとぐろは分厚く表現され、寝心地が良さそうだ。
クリックで別ウインドウ開く

竜王の頭は、ヴィシュヌ神の頭の下に複数の形で刻まれている。良く見ると、竜王の細い舌も刻まれており面白い。
クリックで別ウインドウ開く

しばらく上ると、右側に景色が広がった。南東方面になり、麓に通ってきた街道が見え、手前右下には第5窟と第6窟のあるコンクリートの天井が見える。
クリックで別ウインドウ開く

更に岩肌に沿って続く階段を上って行く。途中でガネーシャ像の祠のある岩や空洞の洞窟を過ぎ、尾根状に続くなだらかな道を北側に向かうと、右側に田園風景が広がっている。麓には、古びた民家が集まっており、北東方面に続く道の先には広い中庭を持つジャイナ教寺院の建物が見える。
クリックで別ウインドウ開く

尾根に続く道の左側には、見るも無残に瓦解し、煉瓦が散乱する寺院の遺構が残されている。目的地に着けない遺構に延びる階段が何とも寂しい。手前には、アショーカ王柱の様な太い直径を持つ円柱がむなしく転がっている。
クリックで別ウインドウ開く

すぐ先から岩山を大きく右に曲がり込むように下っていくと中腹に再び石窟が現れる。こちらは第19窟で、ウダヤギリ石窟寺院の中では最も大きな石窟である。前面には通路を広くした様な広場があり複数の柱が建っている。入口の周囲は細かく装飾されガンガーとヤムナーの二女神の姿も見える。入口に向かって左側には碑文が残っている。神殿内には複数のリンガが祀られ、中央には顔の付いたムカリンガと言うリンガがあり、シヴァ神が乗るナンディ(牡牛)像が向き合うように鎮座している。
クリックで別ウインドウ開く

神殿内を支える柱の柱頭は細かく装飾されている。花弁が並ぶ紋様に重なるように動物の顔と花弁を掴む手が彫刻されているのは微笑ましい。また柱頭中央部の網紐の捻じれ具合や房の表現など繊細な彫刻が綺麗に残されている。
クリックで別ウインドウ開く

近くの岩壁には、シヴァ神と神妃パールヴァティーのレリーフがあり、保護のために金網が取り付けられている。しかし像は全体的にかなり摩耗してしまっている


次に、ヘリオドロスの柱の見学に向かう。街道を道なりに東に向かい、ベトワ川に合流するハラリ川を橋で渡ると到着である。ヴィディシャーの中心部は、現在は3キロメートルほど南に位置しているが、古代は、ベトワ川とハラリ川との分岐点にあり、ベスナガルと呼ばれていた。紀元前6世紀から5世紀にかけて、シュンガ朝、シャイシュナーガ朝、サータヴァーハナ朝、グプタ朝の下で重要な交易の中心地として栄えていた。アレクサンダー・カニンガムによる調査で、城壁の残骸や、寺院欄楯の跡、仏塔、土器、多数の硬貨などが発見されている。


ウダヤギリ石窟寺院から5キロメートルほどの距離で、ヘリオドロスの柱は、サークル状の広い敷地内にポツンと建っている。サーンチーの第45寺院前にあったヘリオドロスの柱と異なり、こちらは完全な形で残っており驚かされた。高さは6.27メートルある。


ヘリオドロスの柱が建てられたのは紀元前113年と記録されており、当時このヴィディシャーは、シュンガ朝(前180頃~前68頃)の支配下にあり、バーガバードラ王(前94頃~前83頃)の治世であった。

この地には、ヴァスデヴァ寺院があり、インド北西部に勢力を持ったギリシア人の諸王国インド・グリーク朝(前2世紀頃~1世紀頃)の王アンティアルキダス(前115~前95)の大使であったヘリオドロスがこの地を訪れ、改宗して、ヴァスデヴァ神に捧げるために、石柱を建てたとされる。


柱頭部分はサールナートにおける「アショーカの獅子柱頭」と似た蓮弁装飾を浮彫にしたデザインである。ただ、高さとスリムな形状は、デリーの南にある、世界で最も高いミナレット「クトゥブ・ミナール」の敷地内に建つ、錆びない鉄柱「チャンドラヴァルマン鉄柱」と良く似ている。
ちなみに、後で知ったのだが、その「チャンドラヴァルマン鉄柱」は、もともとウダヤギリに設置されていた説があるらしい。
クリックで別ウインドウ開く

敷地内にある樹の付け根には、石版やリンガなど寺院の遺物だろうか。。無造作に並べられている。
クリックで別ウインドウ開く

ヴィディシャーの街に向かうべく再びハラリ川に近づくと、川には大勢の人々が集まっている。道路左側から石畳の道が川縁まで続いている。対岸の水面に浸かった石畳の道には、多くのオートリキシャや車が停車している。タイヤは水面に浸っているが、どうやら旧道を使っての自然の洗車場らしい。なかなか珍しい光景を見せてもらった。
クリックで別ウインドウ開く

すぐ先でベトワ川を渡る。左岸沿いに建つ白い祠堂と、中州内に建つ2棟の祠堂は、ヒンドゥ教寺院である。雨季には川の増水することから、祠堂は、厚みのある基壇の上に築かれている。ベトワ川は、この中州の先で、左からのハラリ川と合流して北東方面に流れて行く。


ベトワ川を渡ると、突然、左右に建物が立ち並び、次に、多くの商店が並び始めた。オートリキシャは、ヴィディシャーの街中を2キロメートルほど南に進んだ。ちなみにヴィディシャーは人口15万人ほどの中堅都市である。


午後2時半にヴィディシャー・バスセンターに到着した。鉄道駅からは、西に1キロメートルほど離れている。列車でボーパール駅に戻ることも考えたが、路線バスは本数も多いことから、往路と同じく、復路も利用することにした。停車中の路線バスに乗り込み、ボーパールまでの乗車賃50ルビーを車掌に支払って座席に座ると、すぐに発車した。その後、バス停に停車するたびに乗客が増え続けて車内は大混雑となった。


出発から1時間半ほど過ぎたころ、突然バスが故障するハプニングがあり、後発の混雑するバスに乗り換えることになった。混雑するバス内に苦しい姿勢で立ち続けた後、午後4時40分にボーパールのバスステーションに到着した。大変疲れたが、昨夜と同じ酒屋(ワインショップ)で、ビールとウイスキー(240ルビー)を買って、ホテルに戻り、レストランに、フライライスとタンドリーチキン(280ルビー)を頼んで、ようやく人心地がついた。
(2013.2.23)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

インド・サーンチー(その1)

2013-04-01 | インド(マディヤプラデーシュ)
インディラ・ガンディー国際空港から旅行会社の車に乗り、ニューデリー駅に到着した。これから、午前6時発の列車に乗り、インド中部マディヤ・プラデーシュ州の州都ボーパールに向かう。今回も、前回のインド訪問と同じく、現地の旅行会社に空港からデリー市内までの送迎と、列車のチケット(往路はニューデリーからボーパール(運賃2,010ルビー、手数料200ルピー)及びボーパールからカルヤン(ムンバイ)まで、帰路はジャルガウンからニューデリーまで)の購入依頼をしておいた。


予約席は、ファーストクラスで、進行方向左側の2列席の窓際、リクライニングもできる幅広の快適なシートである。隣の通路側はオランダの男性で、周囲も欧米系の観光客だったが、ほとんどがアーグラで下車した。人気のインド観光ルートは、デリー、アーグラ、ジャイプールの3都市周遊と言われており頷ける。


ファーストクラスでは、①ミネラルウォーター(2リットル)、②30分後の紅茶とお菓子、③朝食のオムレツ、コーンフレーク、牛乳、菓子、④スープ(11時半)、⑤ターリー(昼食時)が提供された。ターリーとは、コース料理をまとめて提供されるプレート料理のことで、甘み、しょっぱさ、苦み、すっぱさ、渋み、辛さの6つの味覚を含めることが必須とされる。こちらのターリーにはチャパティとライス両方に加え、ヨーグルトが付いていた。
クリックで別ウインドウ開く

しばらくすると、⑥デザートとしてアイスクリームとバナナ、⑦紅茶が運ばれてきた。過剰とも思われるほどのサービスで、正直あまりリラックスできなかった。スタッフには、チップとして1ドル札を渡すと、何度も感謝された。

列車は、順調に走行していたが、お昼頃から速度も遅くなり、頻繁に停まりだした。結局ボーパール駅への到着は、2時間遅れの午後4時となった。途中、うとうとする時間もあったが、緊張感もあり熟睡までは至らなかった。駅出口は地上ホームから跨線橋を通った西側になるが、降車客で大混雑し時間がかかった。
クリックで別ウインドウ開く

ボーパールは、インドの中央部マディヤ・プラデーシュ州の州都で人口180万人の大都市である。こちらは、1984年に起こったアメリカ企業による世界最大の化学工場事故で世界的に知られている。事故当時は、強い毒性を持つガスが街を直撃し、死者、後遺症者が数万人に上ったとされる。現在も多くの住民が健康被害で苦しんでいる。

ホテルは、ボーパール駅西口から歩いた先の大動脈ハミディアロード付近で探す予定だったので、オートリキシャの勧誘を振り切り、反対車線を南方向に歩いていくと、直角にカーブするハミディアロードに合流しており、混雑する三叉路となっている。周辺には信号も横断陸橋などもないことから、何人もの人が、無謀にも横断している。見習ったものの、かなり危険を感じた。こちらはハミディアロードを渡り終え、駅方向を眺めた様子である。ちなみに牛や犬も車道に侵入しており、インドならではの風景だった。
クリックで別ウインドウ開く

ハミディアロードを渡った西側の路地には3件のホテルが並んでおり、その内の一軒「マンジェットホテル」に1,320ルビー(550ルビー×2泊+220ルビー(サービス料)AC無し、ホットシャワー)で泊まることにした。


部屋でシャワーを浴びて、サーンチー行きのバスが発着するバスターミナルの下見に向かった。東西に延びるハミディアロードの走行車線側を西に歩き、最初の大きな交差点を右折したすぐ右側にバスターミナルがある。近くにいた男にサーンチー行きのバスを聞くと、振り向いた先のバスを指差したので、明朝に乗る旨を伝えてその場を後にした。

周りには、レストランも見当たらないので、ホテルで夕食を食べようと、途中のワインショップでキングフィッシャー・ストロング・ビール(大瓶110ルピー)を1本買い、つまみとして、屋台でヒヨコ豆(10ルビー)、ゆで卵2個(12ルビー)を、朝食としてバナナ(4ピース10ルビー)を買って午後8時前にホテルに戻った。フロントでホテルのレストランの場所を聞くと、何を食べたいか聞かれたので、ヌードル(120ルビー)と言うと、しばらくして少年が焼きそばを部屋まで運んできた。

*************************************

翌朝、まだ薄暗いハミディアロードを歩いて、午前6時50分頃にバスターミナルに到着した。
クリックで別ウインドウ開く

そばにいた男にサーンチー行きのバスを聞くと横のバスを指差したので乗り込むと、6人ほど乗客がいた。念のため客の一人にサーンチーに行くかを聞いたところ頷いたので間違いないようだ。10分ほどすると、バスは出発した。前方の乗車口前に座っていたが、ドアを開けたまま走るので、寒くなり途中で運転手の後ろ側の席に移動した。


しばらくすると運転席の横に座っていた車掌が運賃の集金にやってきた。サーンチーまでの35ルピーを払うとレシートを渡された。路線バスなので、途中で乗客の乗り降りがあった。出発してから1時間半たった頃、後方席の男から肩を叩かれサーンチーに着くと教えられる。降車したのは地元民らしき3人を含め4人だけだった。降車した場所は交差点になっており、前方(南側)に仏陀の絵が書かれた大きな案内ゲートがある。なお、逆に北側に行くとサーンチー駅がある。
クリックで別ウインドウ開く

早朝のためか周辺にはオートリキシャも停まっていない。案内ゲートに従い通りを進んで行くと、左手に美術館があり、サーンチーのチケットショップがあった。実はショップに気付かずかなり通り過ぎてしまい慌てて戻った。


チケットを購入(250ルビー)して坂道を10分ほど登った先にサーンチー遺跡公園の入口がある。交差点から遺跡公園入口までは坂道が続き1キロメートルほどあるので結構遠く感じる。航空写真を使った案内図を見ると、遺跡公園は円形の小山にあり、中ほどやや上に見える交差点から山麓に沿って東側に行き、大きく回り込むように北側の入口に到着したことがわかる。入口で係員にチケットを見せて入場し、やや上り坂の通路を歩いて行くと正面にお椀型の2つのストゥーパ(仏塔)が見えてくる。
クリックで別ウインドウ開く

通路は、右側のサーンチーを代表する第1ストゥーパ(卒塔婆)(仏塔)の正面に続いている。サーンチーの仏塔はインドで最も古い石造建築物の一つで、インド建築史上の重要な記念碑としてシュンガ朝時代(前180頃~前68頃)に建てられたもの。1989年には「サーンチーの仏教建築物群」として世界遺産に登録されている。
クリックで別ウインドウ開く

仏塔(卒塔婆)とは、仏陀の舎利(遺骨)を納めた場所に建てられた仏教建築で、入滅した仏陀の遺骨は、8つに分けられ、8つの部族が支配する地に安置されるために建てられたのが始まりである。その後、マウリヤ朝(前322頃~前185頃)の最盛期を築いた第3代アショーカ王(前268頃~前232頃)が、仏教の発展に大きく寄与することを目的に、各地に納められていた遺骨を8万4千に分け、安置する仏塔の建立を奨めたのである。

サーンチーの仏塔建築は、アショーカ王自身が取り組んだもので、王の妻デヴィが近隣のヴィディシャーの銀行家の娘で、サーンチーが生家であったこと、結婚式の場所でもあったためとされている。当初の姿は、レンガで覆われ、現在の仏塔の約半分の大きさだった。そして南側に碑文入りのアショーカ王柱が一本建っていた。

現在の拡張された石の仏塔と欄楯が設置されたのは、紀元前2世紀、マウリヤ朝を滅ぼしたシュンガ朝、初代プシャミトラ・シュンガ(在位:前180頃~前144頃)の息子で第2代王アグニミトラ(在位:前149~前141)によると考えられている。

そして、仏塔の四方向(東西南北)に建つ塔門(トラナ門)は、サータヴァーハナ朝(前3世紀~3世紀初頭)の王シャータカルニ2世によるもので、紀元前1世紀頃から南門、北門、東門、西門の順で建てられた。南側にアショーカ王柱が建っていたことも踏まえ、当初は南門をメインゲートとしていたが、現在では、北門が、遺跡公園入口から最初にたどり着く場所であり、最も保存状態が良いことからメインゲートとみなされている。


塔門(トラナ門)は、2本の方柱と上部3本の横梁が組み合わさった高さ10メートルほどの高さで、隅々まで繊細な浮き彫りが施されている。こちらの北門は、後ろの欄楯(玉垣)と直結して建っている。欄楯は高さが3メートルほどあり、中央の仏塔の周囲を取り囲み内側に繞道がある。そして、中壇にも繞道と欄楯が取り囲んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

北門の右手前に王柱の跡があるが、こちらはグプタ朝時代(320~550頃)に建てられたもの。柱自体は無くなっているが、柱頭の切り株と基礎が無傷でどちらも比較的よく残っている。
クリックで別ウインドウ開く

その北門を見上げると、左右方柱の頂部には、インド古代から縁起が良いとされた円形シンボルが装飾され、向かって左側の方柱に「摩耶夫人の託胎霊夢」と「王子誕生」の場面が、そして、右側の方柱には、法輪がある「成道」と「初転法輪」の場面が表されている。
クリックで別ウインドウ開く

上部2本の横梁には仏陀を象徴する仏塔と菩提樹(聖樹)が並んでいる。一番下の横梁には、ヴェッサンタラ王が、妻と子供2人と一緒に4頭の馬車に乗って宮殿を出発しバラモンへの布施に向かう「ヴェッサンタラ・ジャータカ(本生図)」の場面が表現されている。横梁の左右両端には、獅子とヤクシニー(豊饒神)が飾られている。

横梁の下の角柱の柱頭部分には、四方向に向けてヤクシャ(或いはヤクシニー)が乗った象が立ち、そしてその両端には、聖樹を背にしたヤクシニー像が一対ずつこちらを向いて立っている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、柱頭の下の角柱パネルを下に向けて順に見てみよう。まず、向かって左側正面の一番上が「シュラーヴァスティーの大奇跡」で、次が、「祇園精舎物語」、その次が、「仏陀の空中歩行(神足通)」で、「仏陀に会うために王宮を出発するコーサラ国プラセーナジット王」「快楽と情熱のインドラ神(帝釈天)の楽園」と続いている。そして、右側正面は上から「とう利天からの三道宝階降下」、「カピラ城からの偉大な出発」「カピラ城での法力」と続いている。
クリックで別ウインドウ開く

左側最上部のパネルの「シュラーヴァスティーの大奇跡」は、仏陀がシュラーヴァスティー(祇園精舎)の地で、異教徒を仏教に改宗させるために千仏化現や双神変などの奇跡を見せたとされる場面だが、このパネルでは、実際の奇跡の瞬間は表現されず、聖樹で表された仏陀に向かって深く帰依して合掌する人々の姿が表現されている。人々は大きな耳飾りとターバンで髪の毛を団子状にし、少しふっくらとした顔立ちをしている。
クリックで別ウインドウ開く

右側最上部のパネルの「とう利天(三十三天)からの三道宝階降下」は、とう利天に転生した摩耶夫人(仏陀の母)のために3ヶ月間、説法に出かけた仏陀が、その後、三道宝階に依ってサンカーシャの地に降下したとされる場面で、パネルでは、天の仏陀と地の仏陀を、降下の連続性を同一画面で表している。地の聖樹には、迎える人々の歓喜に応えるかのように、たわわに実りを付けている。左右と上部の人物群は天部を表しており、右側には払子を手にしたブラフマン(梵天)がいるが、傘をかざすインドラ神(帝釈天)はいないようだ。また地上で仏陀を迎える人々は天部より小さいサイズで表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

柱は側面にも隙間なく細かい彫刻が施されている。左側の外側には、仏教のシンボルと複雑に絡み合う植物がデザインされている。
クリックで別ウインドウ開く

右側柱の内側には、上から「楽器を演奏する外国人」そして、猿王がヴァイシャーリーに訪れた仏陀に蜜を捧げる「猿王奉蜜」と続く。右端の両手を挙げる猿は、左側の猿が仏陀に蜜を受け取ってもらえた後の喜ぶ姿で、一匹の猿の行為を同一画面に表現している。
クリックで別ウインドウ開く

その下には、「カピラバストゥの奇跡」のパネルがあり、仏陀の父シュッドーダナ(浄飯王)王の前で空中歩行(経行石で表される)する仏陀を表現している。そして最下部には「守護神ドゥワラパラ像」が立っている。

左側の柱の内側の一番上のパネルから「仏陀の窟(王舎城近隣)へのインドラ神(帝釈天)訪問」で、次が「王舎城を出発し霊鷲山へ向かうビンビサーラ王」。その下は、「竹林精舎の仏陀を訪問するビンビサーラ王」で、最下部には守護神ドゥワラパラ像が右側の像と向かい合って立っている。
クリックで別ウインドウ開く

あまりにも精緻な浮彫ばかりで驚かされる。全てオリジナルであり、風雨にさらされる場所に、置か続けていることで、劣化を加速させないか心配になった。

次に、豪華な北門をくぐって内側から見上げると、横梁の下部や内側にも隙間なく装飾がされている。特に、内側の中央横梁の「マーラ(悪魔)の誘惑(※中壇欄楯から見た様子)」は、サーンチー彫刻の中でも有名な作品の一つとされる。

長年の苦行に専念するも悟りを得られなかったシッダールタ(後の仏陀)は、今までの修行法をすて、尼連禅河で村娘スジャータから乳粥の供養を受け、対岸のブッダ・ガヤーのピッパラ樹の下で降魔成道を果たす。横梁の全体を大小の様々なポーズをとる悪魔が占め、聖樹(シッダールタ)とスジャータが左端に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして欄循内に入った正面に仏塔を背にした仏陀坐像が祀られその前に繞道が取り巻いている。右回りで繞道を歩いて行くと東側出入り口に仏塔を背に仏陀坐像が設置されている。坐像は東西南北に配置されているが、こちら東側の坐像は、破損が少なく顔が残っている
クリックで別ウインドウ開く

仏塔は積み上げられた石の上を銀白色と金色の漆喰で覆っていたが、経年劣化により多くは剥落している。頂部には権威の象徴として、三重の傘蓋が備え付けられている。日本ではお馴染みの五重塔や三重塔は、この部分が巨大化したものである。なお、アショーカ王時代に造られた初期の仏塔にも同様に飾られていたという。
クリックで別ウインドウ開く

東門にも、北門同様に枡形の出入り口がある。一旦外に出て、東門正面から仏塔全体を眺めてみる。東門は北門の次に造られた。


門の形状や柱頭に象の彫像があるのは、北門と同じだが、横梁の間や頂部にある彫像の多くは失われており、シンプルな印象を受ける。


しかし、間近に寄って東門を見上げてみると、柱や横梁には、北門と変わらない繊細な装飾がされていることが分かる。


東門中央の横梁は「偉大なる出発」を表している。シッダールタは妻、子供が眠る中、愛馬カンタカに乗り、左端のカピラ城(カピラヴァストゥ)を出発する。馬には王子が乗ることを示す傘が掲げられ、馬は右に向けて進んでいく。右端で剃髪し傘と法輪が刻まれた足裏は出家を示しており、その後、傘のない馬が城に引き返すといった一連の動きが同一画面に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

内側の横梁には、最上段に過去七仏が菩提樹で表され、中段には、仏陀(菩提樹)に近寄る動物たちが、そして下段の梁には、仏塔に蓮華をささげる象たちが表されている。

東門に向かって右側の柱頭の仏旗を掲げる象の横には、サーンチー彫刻の中でも、とりわけ有名な、横梁の「聖樹にぶらさがるヤクシー像」(豊饒神)が表現されている。ただし、左端のヤクシー像は失われている。
クリックで別ウインドウ開く

向かって左側の角柱の正面一番上のパネルは「シュラーヴァスティーの奇跡」で仏陀の空中歩行を表している。ちなみに仏陀は人々の視線の先にあり、場面には表現されていない。その下のパネルは「菩提樹のあるブッダ・ガヤーの寺院」で、寺院には仏陀が悟りを開いた最も聖なる場所を示す「金剛宝座」が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

更にその下のパネルは「仏陀の尼連禅河の歩行」で、仏陀が洪水に見舞われた尼連禅河の川面を歩いて渡ったとされる場面になる。川面の経行石(仏陀)を船から心配そうに見つめるカーシャパ兄弟(三迦葉)と、無事渡り終えた聖樹(仏陀)に合掌するカーシャパ兄弟(三迦葉)の2場面が表現されている。そして、最下部のパネルには、「王舎城から仏陀を訪問するビンビサーラ王」が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

左側の内側のパネルは、一番上から「インドラ神(帝釈天)とブラフマン(梵天)の仏陀訪問」で、次がカーシャパ兄弟(三迦葉)の回心物語として、「ナーガを飼いならす仏陀」、「火と木の奇跡」と、最後に北門同様に「守護神ドゥワラパラ像」へと続いている。

向かって右側の角柱正面には、六欲天(欲界の最高位の他化自在天、化楽天須弥山の頂上の兜率天、夜摩天、帝釈天のいるとう利天、四天王がいる四大王衆天)が表現されている。

そして、右側角柱内側には「仏陀の父シュッドーダナ(浄飯王)王の仏へのオマージュ」が、次に「カピラバストゥのシュッドーダナ王の行列」、最後左右の柱どうし向かい合う様に「守護神ドゥワラパラ像」が立っている。

仏塔の四方向(東西南北)に建つ塔門(トラナ門)の最後は南門になる。こちらは、やや左側から南門と仏塔全体を眺めた様子で、中壇の欄楯へ続く左右階段があることがわかる。古代インドでは、敬意の対象を中央に、周囲を時計回りに巡る(常に右肩を中央に向ける)事を特徴としていた。参拝作法についても、向かって右側の階段から上り、仏塔周りの繞道を右繞して左側の階段から降りることから、当初から南門からの参拝導線が設定されていたことが分かる。


そして、こちらの南門が、サータヴァーハナ朝時代の紀元前1世紀に最初に造られた塔門で、その後30~40年以内に北門、東門、西門の順に建てられた。南門は、破損している箇所も多く、3本の横梁の内、上下2本は過去の修復の際に、裏表を間違って取り付けたと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

では、中央の横梁の彫刻を見てみよう。場面は「アショーカ王のラマグラマ訪問」で、天女により荘厳された仏塔を中心に、向かって右側には、従者や象を引き連れて戦車に乗るアショーカ王が、そして左側には、仏塔を管理・保護するナーガ族が名前に因んで蛇のフードをかぶって表現されている。
この場面は、アショーカ王が、仏教の信仰を広めるため8か所に奉納されていた仏舎利を発掘して全国の8万余の寺院に再配布しようと、その内の一つ、現在のネパールにある「ラマグラマ仏塔」を訪れた際の様子である。ちなみに、この発掘交渉は、物別れに終わり、現在も唯一手つかずの仏塔とされている。
クリックで別ウインドウ開く

横梁を支える柱頭彫刻は、サールナート博物館にあるアショーカ王柱の「4頭の獅子像」によく似ている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、方柱装飾では、向かって右側は失われており、左側の上部のみが残っている。
クリックで別ウインドウ開く

一番上の正面パネルは「2人の女王を伴ったアショーカ王の鹿野苑への巡礼」で、初転法輪の地(現在のサールナート)を巡礼している様子が表されている。中央の柱と上部の法輪(ダルマチャクラ)を中心した四か所のグループは、王一行が順に四方向に移動して礼拝する様子を一画面で表現している。その下のパネルは「アショーカ王の戦車での行列」で、最後のパネルは「マーラ(悪魔)の行列」とされるが詳細は不明。
クリックで別ウインドウ開く

次に、内側のパネルの一番上は、アショーカ王により建てられた「ブッダ・ガヤーの寺院」で、聖樹の頂部には傘と花輪が飾られている。当時の寺院には、屋根はなく玉座には三宝(仏・法・僧)のシンボルが祀られていた。その下のパネルは「悲しみを抱くアショーカ王を支える2人の女王」で、寵姫ティシヤラクシターとの確執で悲しむ王が、成道の地ブッダ・ガヤーに寺院建造を誓う姿とされる。最後のパネルは「とう利天での神々の仏陀への崇拝」で、天部によって「とう利天」に運ばれた、仏陀の衣服(出家の際に自ら投げ捨てた)、髪(自ら切り落とした)とターバンを神々が崇拝している場面である。

そして、南門に向かってすぐ右側には、アショーカ王柱の下部が残されている。この王柱がサーンチーの仏教建築物群において、最も初期のマウリヤ朝時代に建てられたもので、当時は、レンガの仏塔と共に、空高く聳えていた。


アショーカ王柱前の南側には、多くの遺構が発掘されている。これらは、宗教施設等の多くが、本堂の周囲に、塔、経蔵、鐘楼などを配置するのと同じように仏塔を中心とした伽藍配置の名残りである。こちらは、南門の前から東方向を眺めた様子で、右端の屋根のある建物は「寺院17」で、基壇のみが残る寺院や仏塔が広がっている。左側には、折れたアショーカ王柱の続きとなる支柱が残されている。


折れたアショーカ王柱の支柱は、簡易な日よけ屋根付きの小屋の下に2本並べて展示されている。表面は良く磨かれ、今も光沢があり、文字らしき刻印が残っている。
クリックで別ウインドウ開く

南門に近い「寺院17」は、ポルチコがある入口を北側に向け、奥に部屋がある長方形の建物で、グプタ朝時代の初期(5世紀)に遡る初期の仏教寺院である。後方部は装飾されていないが、柱廊と庇との間に設けられたアバカス(平板)に、獅子に護られた仏陀(菩提樹)の浮彫装飾がある。
クリックで別ウインドウ開く

そして、寺院17の隣で、南門の向かい側に建つのが、「寺院18」で、列柱と横梁が残されている。マウリヤ朝時代の基礎が確認されているが、現在の遺構はヴァルダナ朝のハルシャ・ヴァルダナ(在位:606~647)治世で再建されたもの。ハルシャ王は仏教教団へ惜しみない援助を与えた王で知られ、首都カナウジの繁栄ぶりは玄奘三蔵の「大唐西域記」にも記されている。ちなみに、この時代は仏教総合大学ナーランダ大僧院に各地から数千人の学僧が集まるなど仏教研究が最も栄えていた。

では、南門から枡形状に仏塔内に入場し、正面の仏陀坐像に一揖して、欄楯内の繞道右側にある階段を上り中壇の欄楯内に上ってみる。これほど歴史的価値のある宗教施設に対して、自由に出入りできることは大変貴重な経験であるものの、少し躊躇してしまう。
クリックで別ウインドウ開く

中壇の欄楯内から、南門越しに「寺院18」を見てみると円形状の後陣(アプス)を持つ寺院で、その寺院からは直接南門へと通路が続いていることが分かる。南門から最も近く直線の導線で結ばれ、建物の規模も大きいことから、「寺院18」は重要な宗教施設だったことが推察される。
クリックで別ウインドウ開く

では、当初外側に向いていたであろう、南門の一番上の横梁の彫刻には「過去七仏」が仏塔と聖樹の姿で表現されている。仏陀が悟りを開き仏教を後世に伝えたのは、過去においてすでに成道し成仏した前世六仏の功徳が累積した結果であるという考え方に基づいている。その六仏とは毘婆尸仏(びばしぶつ)、尸棄仏(しきぶつ)、毘舎浮仏(びしゃふぶつ)、倶留孫仏(くるそんぶつ)、倶那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)、迦葉仏(くなごんむにぶつ)とされている。ちなみに仏陀は向かって右端の聖樹と特定されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、やはり当初外側に向いていたであろう一番下の横梁には「仏舎利をめぐるクシナーガル城の戦い」が表現されている。中央には、仏陀の遺物を全て自国のものにしようとするマッラ(末羅)国のクシナーガル城に対して、7人の部族長が攻撃を仕掛けて戦う様子が、その左右には、勝利した部族長たちが象の頭に遺物を乗せ各々帰国する様子が表現されている。

中壇の繞道を右繞しながら、次に西門の内側を眺めてみる。


西門の横梁には、最上部の横梁中央の獅子像のみで他の彫像は残っていない。柱頭彫刻は左右ともに4体のヤクシャ(豊饒神)(または財宝神クラーベ)で梁を支えている。ところで、この先に見える正面の階段を下りて500メートルほど進んだ西側斜面に第2ストゥーパがある。
クリックで別ウインドウ開く

西門の一番上の横梁は「仏陀の遺物をクシナーガルに持ち込むマッラ国の王」で、仏陀の遺物を全て自国のものにしようと、象に仏陀の舎利を乗せ、クシナーガル城に向かっている様子が表現されている。城の手前には、仏陀が涅槃に入ったことを示す沙羅双樹がみえる。
クリックで別ウインドウ開く

次の真ん中の横梁は「7人の王によるクシナーガラ城の包囲」で、南門にあった「仏舎利をめぐるクシナーガル城の戦い」のもう一つのバージョンになる。ここでは、7つの王室の傘で区別される7人の王が、まだ包囲が開始されていないクシナーガラに軍隊とともに前進して行く様子が表現されている。左端の建物がマッラ国の城を表している。

一番下の横梁は「仏陀の誘惑に断念して立ち去るマーラ(悪魔)の軍隊」で、中央にアショーカ王により建てられたブッダ・ガヤーの寺院があり、右側にマーラの軍隊が仏から逃げる様子が、そして左側には、悪魔(邪悪な者)に対する仏の勝利を祝い栄光ある業績を称賛している様子が表現されている。ちなみに、仏伝における降魔は成道時のエピソードのため、既に寺院が設立しているのは時代錯誤である。

このまま繞道を周回して、南門先の階段を下りて、最後に、西門を下側から見てみる。


西門の左右の柱頭に刻まれたヤクシャ像は、他の門の柱頭彫刻と異なり、それぞれのヤクシャがお互い協力しながら上部の梁を必死に支えている姿に見えて何とも微笑ましい。


右の柱の一番上の正面パネルは「マハカピ・ジャータカ」(尊い猿)で、マンゴー園を所有しようとした王が、そこに住む猿の集団を殺戮しようとするものの、ボス猿が自分の体で小川に橋を架け、部族全員を逃がすといった説話である。その下のパネルは「兜率天で法を説く仏陀」で、左右は、獅子に乗ったインドラ神(帝釈天)とブラフマン(梵天)で、周りには、雲に乗る神々が合掌している。
クリックで別ウインドウ開く

更に、その下が「ラージャヤータナ樹の下で解脱の楽しみを味わう仏陀へのインドラ神(帝釈天)の訪問」で、最後が3頭並ぶ「獅子の紋章」となっている。

こちらは、西門を正面とした全景になる。右側の柱の内側の一番上のパネルは「マーラの誘惑を振り切った仏陀」で、その下は、「ニグローダ樹の下に坐する仏陀に衆生に法を説くよう強く請うブラフマン(梵天)と神々(梵天勧請)」で、最後は、「守護神ドゥワラパラ像」が立っている。
クリックで別ウインドウ開く
(2013.2.23)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする