ボーパール滞在3日目の朝、マンジェットホテルを午前7時にチェックアウトし、荷物を預けて、昨日同様にバスターミナルに向った。これから南に45キロメートルほど行った東西に延びるヴィンディヤ山脈南縁にあるビンベットカ(ビームベートカー)の岩絵を見に行くことにしている。岩絵とは、インド亜大陸における人類の最初期(1万年以上前の後期旧石器時代)から中世に亘るまでの痕跡が刻まれた「ビンベットカ岩陰遺跡群」のことで、世界文化遺産(2003年)に登録されている。
バスターミナルでは、フーシャンガーバード(ホシャンガバード)方面行きバスを係員に尋ね、指示された車両に乗り込んだ。乗車後は、車掌と乗客に、途中のビームベートカーで下車する旨をアピールしていたところ、午前7時20分に出発した。
ちなみに、今夜は、午後7時45分ボーパール駅発、ムンバイー(カルヤン)行き夜行列車(2A席)(1350ルビー+200ルビー(手数料)=1550ルビー)を予約していることから、時間までに必ず戻らなければならない。
車内で、運賃を徴収しに来た車掌に、30ルピーを支払い、レシートをもらう。バスは停車する毎に乗客が増え、市内を離れる頃には満席となった。午前9時を過ぎたころ、車掌から下りる準備をする様に合図をされた。しばらくするとバスは停車したが、他に下車する人はいなかった。向かい側にビームベートカーと書かれた案内板が見えたことから間違っていなく一安心である。
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道路を横断すると、門型式の案内板に岩陰遺跡が写真入りで掲げられている。そして、インド鉄道の踏切があり、更にその先に、広い直線道が参道の様に続いている。
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事前の情報では、岩陰遺跡の場所は、バス停から3キロメートルほど離れているとのことだが、木々も茂りまだ気温が高くないので、軽快に歩くことができそうだ。
直線道は10分ほどで大きく右に曲がり、その先に遮断桿のある木造の検札所が見えてきた。ここで入場料(100ルビー)を払い坂道を上っていく。バイクのそばにいた男から送っていこうかと誘いを受けるが、後にトラブルになっても面倒なので、丁重に断り歩いていくことにする。
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なだらかな坂道にも関わらず、日差しが強くなり気温が上昇して汗ばんできた。夏を思わせる気候だが、周りの葉を落とした広葉樹の木々(雨緑林)を見ると、やはり乾季の2月であることが頷ける。。
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道路の辺りは、赤土の中に、玄武岩らしき大岩が増え始め、溶岩棚の様に連なっている個所もある。荒野といった雰囲気である。時折、見学に向かう乗用車が後方から現れ、都度避けてやり過ごす。
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その後、道路は蛇行し始め、木々で覆われた小山方面に向かっている。その小山の頂上付近まで来ると左側に赤土が広がる駐車スペースがあり、右側が、岩にスチール製の案内板が掲げられた岩陰遺跡の入口で、その奥(北西方面)に、石畳の通路が延びている。バス停から45分ほどの道程だった。
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石畳の通路の突き当りには、仏塔の様な大きな岩山があり、その下部の洞窟を数人の見学者が覗き込んでいる様子が見える。そして左右には「珪岩の塔」と呼ばれる更に大きな岩山が取り囲んでいる。
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通路沿いにある解説板には、700を超える岩陰遺跡(ロックシェルター)が確認されており、内400ほどが、ビームベートカーを中心とした5つの丘に集中していると書かれ、そのうちの見学可能な15か所の遺跡が案内図(①~⑮)として示されている。
突き当りの大きな岩山は、15メートルほどの高さがあるが、4メートルほどの位置から大きく浸食を繰り返し、庇状になり地下へと続いている。周りの安全柵から洞窟の様になった地下を覗き込むと、古代人家族の生活風景を再現した像が飾られている。横にある解説板には、「ここは、1973年から1976年の間にインドの考古学者V.N.ミスラによって発掘調査が行われ、約4メートル、8層にわたり文化的堆積物の存在が確認された。これによりアシュール文化後期から中石器時代の終わりまでの人類の生活の痕跡(住居跡)があることが証明された。」と書かれている。
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岩絵は、浸食した庇の奥に「象を従える武器を持つ象上の人物」と、その下に「雄牛に矢を放ち狩りをする人」とが描かれている。地中深くの暗闇に描かれていると想像していたので、高く明るい場所に、はっきりと描かれているのは意外だった。
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左隣にある「珪岩の塔」は入口が二か所あり、すぐに合流して北西方面へ続く空洞となっている。その空洞内の壁面は、赤味を帯びた大きな筋肉の塊りが重なりあっている様に見える。入口左側の壁面に向かって、立ち姿で岩絵を描く古代人を再現した像が飾られている。ちなみに、こちらの空洞は、直径約39メートル、幅4メートル、高さ17メートルあり、高いアーチと広い空間を備えた寺院を連想され「講堂」とも呼ばれている。
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空洞は、突き当りで広めの踊り場になり、左に曲がって出口となる。その踊り場では、数か所の隙間から明かりが差し込んでおり、その手前左側のややピンクかかった壁面に「角のある動物」の岩絵が、赤紫色で左上に3頭、右側に5頭ほど描かれている。
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通路は、出口のすぐ先で右折して、左右の岩の間を通って、再び北西方面に石畳の通路が続いている。周りは雑木林が広がるなど、うっそうとした雰囲気である。所々にある巨石の間を通り抜け100メートルほど進み、2階建て戸建住宅ほどの大きさの巨石に沿って左側から回り込むと、浸食により大きくえぐり取られた壁面が目の前に現れ、その庇部分に岩絵「動物たちの群れ」が描かれている。こちらが第4窟(ロックシェルター4)で、多くの動物岩絵が描かれていることから「ズー・ロック」とも呼ばれている。
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「ズー・ロック」には、灰色の壁面に白色塗料でゾウ、バラシンガジカ、バイソン、シカなどおびただしい数の動物が駆け抜ける姿が描かれている。1万年前から5000年前にかけて描かれたもので、ビームベートカーを代表する岩絵とされている。
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「ズー・ロック」から石畳の通路は北向きになり、数十メートル先に、高さ3メートルほどの巨石が折り重なるビューポイント(展望台)がある。なだらかな箇所から岩の上に上ると、岩の先に平原が広がっており、緑の中に玄武岩の赤茶色の地層ラインが織りなす様子も良く見える。ちなみに、手前の岩の上に海亀の様な形をした岩が乗っているが浸食した結果なのか、人為的なものなのだろうか。。
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石畳の通路は、展望台の手前から右折して階段状に下っている。その途中の左側に二つの石が積み重なった様な巨石があり足元に第8窟(ロックシェルター8)の表示があるので左折する。通路は巨石の下部をくぐり、隘路の様に先に繋がっている。
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通路に覆いかぶさる様な岩の大きく浸食した内側に約2500年前に描かれた「馬に乗り狩りに向かう集団」や、白色塗料で描かれた人物などの岩絵がある。ここまで見てきた岩絵もそうだが、雨風の影響を受けにくい場所に描かれた岩絵ははっきりと残っている。
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案内図(①~⑮)に従い、第8窟の谷間から洞窟を抜け、すぐ先の三差路を過ぎ北方面に向かう。その折り重なる様に連なる左側の巨石の浸食して庇の様になった第9窟には、「象や馬など」の岩絵が描かれている。更にその左先には、安全柵が設置された第10窟があり、覗き込むと、浸食した壁面には白色塗料で描かれた人物像が描かれている。
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折り重なる巨石の先に現れる三差路から右側して第11窟(ロックシェルター11)方面に向かう。前方には、通路を押しつぶそうとする様な空洞のある巨石が現れる。
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第11窟は、その巨石の内側に、やや滲んだ様な白色塗料で「槍、弓を持つ人々や馬上の狩人など」が描かれている。
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再び、三差路に戻り、もう一方に続く石畳の通路に向かう。すぐに下り坂になり、下り終えた踊り場から上部に聳え立つ巨石(第12窟)がある。
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こちらは、その第12窟に描かれた「狩猟風景」で、特に、二頭を引き連れる大きなシカは立派な角と堂々とした体躯で描かれており、かなり古いものだがよく残っている。周りのやや太い線で描かれた狩りをする人々は、シカとはタッチが大きく異なり、後期のものであることが分かる。
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少し先に、巨大なコブラが鎌首をもたげた様な巨石が聳えている。こちらの「コブラ岩」と名付けられた第15窟(ロックシェルター15)が最終窟で、この先から「No Entry」と書かれた立て札がある。
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岩絵は「コブラ岩」の中央部に「巨大なバッファローに追われる人々」が描かれている。バッファローは、人物と比較して大変大きく迫力を持って描かれているが、手足の短さや、極端に大きな頭部のデフォルメなど愛嬌さも見事に表現されている。浸食した庇の内壁に描かれた岩絵と比べ、風雨にさらされやすい高い側面壁に描かれているにも関わらず色彩が良く残っている。。
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Uターンして第8窟(ロックシェルター8)手前の三差路から、往路と異なる左側の通路を通り、右側に回り込んだ先にある三差路を左折して南方向に向かう。そして前方の左右を岩で囲まれた狭い通りの右側が、第7窟(ロックシェルター7)で「馬に乗り狩りをする人々」が描かれている。
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第7窟を過ぎると通路は大きく右に曲がり上り階段になっている。上り詰めた右側に大きく浸食した第6窟(ロックシェルター6)がある。
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第6窟には、白色塗料で「手を繋ぐ人々」が描かれており、その左側に彩色が薄くなった「動物の群れ」が描かれている。動物の群れは、躍動する様子が、第4窟(ズー・ロック)の岩絵に似ており、劣化の状況からもかなり古いものと思われるが、幾何学的に描かれた手を繋ぐ人々は後年のものと思われる。
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これで、岩陰遺跡の見学は終わりである。使用されている顔料は植物系のものだが、近年は、劣化が進み化学薬品やワックスを使用して保存に務めているとのこと。正直、岩絵なのか浸食染みなのか分からないものも多々あったが、貴重な遺跡を見学することができて満足だった。。時刻は、まもなく午前11時半、日差しも照り付ける時間となったが、帰りは下りなので何とかなるだろう。往路同様に歩いて下山した。
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麓にある検札所の係員からチャイを飲まないか勧められるが断った。また、踏切を渡った左側にある「Madhya Pradesh Tourism」にホテルとレストランとの表示があり、ビールを飲みたくなったが、何時にバスが来るか分からないため、諦めて幹線道路沿いで待機することにした。持参した水を飲み、バナナなどを食べていると、10分ほどでバスが到着した。車掌にボーパール行きかを尋ねたところ、頷いたので乗車した。待ち時間が少なくラッキーだった。
バスに乗るとすぐに寝てしまった。乗車後1時間ほど過ぎた午後1時半頃にバスターミナルに到着した。ターミナルは、正方形の待機場で、三方向に真新しい屋根付きのガレージが30(10×3)ほどあり、それぞれに各方面毎の乗降口がある。配送センターにも似ており、朝とはあまりに異なる風景だった。引き続き乗車していると車掌から終点なので降りるように促された。
ガレージに入り建物内を抜けると、バスターミナルの西隣には、車寄せの広いスペースを持つ近代的なターミナルビルがあり「Inter State Bus Terminals(ISBT)」(州間バスターミナル)と表示されていた。こちらは、幹線道路側から眺めたターミナルビルの全景である。
近くにオートリキシャが停車していないため、広い幹線道路を横断し、左車線側の歩道をボーパール方面の標識に沿って歩いたが、前方から現れた通行人に鉄道駅を尋ねると、反対方向を指さしたのでUターンすることにした。
歩道沿いには、覆い茂った木々が連なり、郊外を走るバイパス道路といった印象である。しばらく歩くと右側に路地があり、その奥に複数の線路が見えたので、そちらに向かった。そして左先の線路を横断する高架歩道橋を渡って振り返ると「ハビブ・ガンジー駅」と書かれていた。ボーパール駅の隣駅(約6キロメートル南)だった。
駅前に並ぶ建物はどれも新しく、道路も広く新市街といった雰囲気である。市内バスを探していると、オートリキシャが近づいてきたので、ボーパール駅に行きたいと伝えると100ルビーと言う。市内バスに乗りたかったこともあり断るが、50ルビーで良いと言うので乗ることとした。。
ハミディアロードまでは、結構距離があり時間もかかったため100ルピーを払って下車した。しかし、まだ午後3時前で、列車の出発時間まで時間があった。ボーパールは、ガイドブックにこれといった見どころがないと書かれていたが、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)近くにいたオートリキシャに3時間ほど観光したい旨を伝えると、①Taj Ul Masajid、②Jain Temple、③Lake view、④Manjeet Hotelと手書きの用紙をくれたので、250ルビー支払うことで合意し、オートリキシャに乗り、ハミディアロードを西に向け出発した。
1.5キロメートルほど先からハミディアロードは大きく左に曲がり南に向かう。前方右側に見えてきた大きなモスク「タージ・ウル・マスジット寺院」が最初の目的地とのこと。そのモスクは東門(正門)、北門、南門が正方形(一辺約100メートル)の回廊で結ばれた敷地内の西側にあり、ピンク色のファサードに、大きな3つの白亜のドーム、左右両側に高いミナレット(18階建て)を備えている。ボーパール市内でこれほど大きなモスクがあるのには驚かされた。規模や形状などは、オールド・デリーのジャーマー・マスジド(1656年竣工)と大変よく似ている。
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礼拝堂内には多くの信者が集まっていた。後で知ったが、このモスクは、ムガル帝国の第17代(最後の)君主バハードゥル・シャー2世(在位:1837~1858)治世に工事が始まったが、財政難から中止され、実際に工事が再開したのは1971年で1985年に完成したとのこと。
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礼拝堂内は連続する花弁アーチや、アカンサスの葉などの唐草文様の装飾が施された柱、精緻な浮彫装飾などで溢れており、外観、礼拝堂ともに伝統的なムガル建築で建てられている。
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再びオートリキシャに乗りハミディアロードから、東西に延びるメイン・ロード(スルタニア・ロード)へ合流して西に向かう。中央分離帯があり高速道路を思わせる様な大通りを進むと、前方に小山が見えてきた。運転手はその小山方面を指さし、これから小山に向かうと言っているようだ。
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目的地の小山は、「タージ・ウル・マスジット寺院」から、西に4キロメートルほどの距離になる。オートリキシャは、メイン・ロードの北側の路地裏に停車し、向かい側にあるロープーウェイ駅を指さした。ここで待っているから行ってこいと言うことらしい。
駅は鉄骨と屋根だけある簡易なもので直ぐに乗車口がある。ロープーウェイが近づいて来ているのが見える。係員に運賃50ルビーを支払いロープーウェイに乗り込むが、他に乗客は来なかった。乗車後、麓側を眺めていると、大きな湖(アッパー湖)が見え始めた。
山頂は標高600メートルだが、麓駅との高低差は80メートルほどであることから、直ぐに山頂駅に到着した。山頂駅の湖側には足元が悪いゴツゴツした岩が続いているが、見渡す限り広がる湖の眺めは圧巻で、大変気持ちが良い。「アッパー湖」は、東西幅約14キロメートル、31.5平方キロメートルの大きさがあり、この大絶景は、ハミディアロードやボーパール駅前の薄汚れた喧騒な街のイメージを一変させてくれた。
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湖は、多様な動植物が生息する重要な湿地として、ラムサール条約にも指定されるなど、綺麗な水質を持ち、ボーパール市民の主要な飲料水源として利用されている。もともと、現在のマディヤ・プラデーシュ州南西端一帯(マールワー地方)を支配したパラマーラ朝(ヒンドゥ王朝)のボージャ王(在位:1010~1055頃)により整備された歴史的な開拓湖とのこと。ちなみにボーパールは、そのボージャ王の名前に由来している。
索条をくぐった場所から麓を覗き込むと、真下にヒンドゥ教寺院の尖塔や、その先にここまで来たメインロードが見える。更にその向こうの木々に覆われた中にはインド鉄道が通っている。
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ロープーウェイ山頂駅には、ショップが併設されているが、閑散期なのか半分シャッターが下りている。辺り一帯はプロムナードが設置されている。
所々にベンチや遊具などが設置されており公園になっているが、プロムナードはコンクリートにペンキを塗っただけで、地面も赤土に岩が転がり、芝生などの緑もなく、ゆっくり散策する雰囲気にない。。
北東側を眺めると、赤茶色の土壌のなだらかな斜面が続き、その先の平地に住宅地が広がっている。湖側もそうだったが白い建物が多い。熱を反射して吸収しないための工夫なのだろう。
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北西側に見える岩山の上に建つジャイナ教寺院(マヌアバンキテクリ(Manuabhan Tekri))が、2番目の目的地と言うことなのだろう。屋根部分は、特徴的な砲弾状の高塔(シカラ)や、ピラミッド状のドラビダ型など、ヒンドゥ教やジャイナ教寺院の伝統的な建築様式で建てられている。下に見える駐車場を過ぎて近くまで行ったが、階段の手前で封鎖されており、残念ながら近づくことはできなかった。。なお、ロープーウェイを利用しなくても車でこの場所まで上ることが出来るようだ。。
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10分ほど公園を散策したが、アッパー湖の見晴らし以外に特に見るべきものがないので、再びロープーウェイに乗って下山すると、オートリキシャが待っていた。最後にアッパー湖沿いを走って、ハミディアロードに戻った。
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まだ午後4時半だったので、約束のマンジェットホテルには戻らず、ハミディアロード沿いで降ろしてもらい、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)でキングフィッシャー・ストロング(110ルビー)を買い、隣でスナック(チャージ込24ルビー)を買って、奥にあるテーブル席で飲んだ。ビールは美味しかったが、もう少し雰囲気の良い場所で飲みたかった。。
昨夜は気が付かなかったが、ハミディアロード沿い(南側)に「Manohar」の表示の綺麗な外観のレストランがあったので入ってみる。店内も清潔感があり、お弁当や、ハンバーガー、ピザなどがテイクアウト用として売られており、安心して、ピザ(105ルビー)を買った。
マンジェットホテルに預けていた荷物を取りに行き、ハミディアロードを横断して駅前通りから駅に向かったが、日が暮れて、人通りが一層多くなってきた。
まだ午後7時前なので、駅前に並ぶ屋台の食材を少し物色したが、安心して食べられそうなものはなかった。
ホームのウエイティングルームで、日本から持参した赤ワイン(キャンティ ベリーニ)を飲みながらピザを食べた。日本で食べるクリスピータイプと変わらない味だったが、値段の割にサイズが小さく、やや物足りなかった。。列車は予定より30分ほど遅れた午後8時20分に到着し乗り込んだ。ボーパール滞在中は大きなトラブルもなく、無事行程を終えることができた。
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(2013.2.25)
バスターミナルでは、フーシャンガーバード(ホシャンガバード)方面行きバスを係員に尋ね、指示された車両に乗り込んだ。乗車後は、車掌と乗客に、途中のビームベートカーで下車する旨をアピールしていたところ、午前7時20分に出発した。
ちなみに、今夜は、午後7時45分ボーパール駅発、ムンバイー(カルヤン)行き夜行列車(2A席)(1350ルビー+200ルビー(手数料)=1550ルビー)を予約していることから、時間までに必ず戻らなければならない。
車内で、運賃を徴収しに来た車掌に、30ルピーを支払い、レシートをもらう。バスは停車する毎に乗客が増え、市内を離れる頃には満席となった。午前9時を過ぎたころ、車掌から下りる準備をする様に合図をされた。しばらくするとバスは停車したが、他に下車する人はいなかった。向かい側にビームベートカーと書かれた案内板が見えたことから間違っていなく一安心である。
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道路を横断すると、門型式の案内板に岩陰遺跡が写真入りで掲げられている。そして、インド鉄道の踏切があり、更にその先に、広い直線道が参道の様に続いている。
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事前の情報では、岩陰遺跡の場所は、バス停から3キロメートルほど離れているとのことだが、木々も茂りまだ気温が高くないので、軽快に歩くことができそうだ。
直線道は10分ほどで大きく右に曲がり、その先に遮断桿のある木造の検札所が見えてきた。ここで入場料(100ルビー)を払い坂道を上っていく。バイクのそばにいた男から送っていこうかと誘いを受けるが、後にトラブルになっても面倒なので、丁重に断り歩いていくことにする。
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なだらかな坂道にも関わらず、日差しが強くなり気温が上昇して汗ばんできた。夏を思わせる気候だが、周りの葉を落とした広葉樹の木々(雨緑林)を見ると、やはり乾季の2月であることが頷ける。。
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道路の辺りは、赤土の中に、玄武岩らしき大岩が増え始め、溶岩棚の様に連なっている個所もある。荒野といった雰囲気である。時折、見学に向かう乗用車が後方から現れ、都度避けてやり過ごす。
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その後、道路は蛇行し始め、木々で覆われた小山方面に向かっている。その小山の頂上付近まで来ると左側に赤土が広がる駐車スペースがあり、右側が、岩にスチール製の案内板が掲げられた岩陰遺跡の入口で、その奥(北西方面)に、石畳の通路が延びている。バス停から45分ほどの道程だった。
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石畳の通路の突き当りには、仏塔の様な大きな岩山があり、その下部の洞窟を数人の見学者が覗き込んでいる様子が見える。そして左右には「珪岩の塔」と呼ばれる更に大きな岩山が取り囲んでいる。
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通路沿いにある解説板には、700を超える岩陰遺跡(ロックシェルター)が確認されており、内400ほどが、ビームベートカーを中心とした5つの丘に集中していると書かれ、そのうちの見学可能な15か所の遺跡が案内図(①~⑮)として示されている。
突き当りの大きな岩山は、15メートルほどの高さがあるが、4メートルほどの位置から大きく浸食を繰り返し、庇状になり地下へと続いている。周りの安全柵から洞窟の様になった地下を覗き込むと、古代人家族の生活風景を再現した像が飾られている。横にある解説板には、「ここは、1973年から1976年の間にインドの考古学者V.N.ミスラによって発掘調査が行われ、約4メートル、8層にわたり文化的堆積物の存在が確認された。これによりアシュール文化後期から中石器時代の終わりまでの人類の生活の痕跡(住居跡)があることが証明された。」と書かれている。
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岩絵は、浸食した庇の奥に「象を従える武器を持つ象上の人物」と、その下に「雄牛に矢を放ち狩りをする人」とが描かれている。地中深くの暗闇に描かれていると想像していたので、高く明るい場所に、はっきりと描かれているのは意外だった。
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左隣にある「珪岩の塔」は入口が二か所あり、すぐに合流して北西方面へ続く空洞となっている。その空洞内の壁面は、赤味を帯びた大きな筋肉の塊りが重なりあっている様に見える。入口左側の壁面に向かって、立ち姿で岩絵を描く古代人を再現した像が飾られている。ちなみに、こちらの空洞は、直径約39メートル、幅4メートル、高さ17メートルあり、高いアーチと広い空間を備えた寺院を連想され「講堂」とも呼ばれている。
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空洞は、突き当りで広めの踊り場になり、左に曲がって出口となる。その踊り場では、数か所の隙間から明かりが差し込んでおり、その手前左側のややピンクかかった壁面に「角のある動物」の岩絵が、赤紫色で左上に3頭、右側に5頭ほど描かれている。
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通路は、出口のすぐ先で右折して、左右の岩の間を通って、再び北西方面に石畳の通路が続いている。周りは雑木林が広がるなど、うっそうとした雰囲気である。所々にある巨石の間を通り抜け100メートルほど進み、2階建て戸建住宅ほどの大きさの巨石に沿って左側から回り込むと、浸食により大きくえぐり取られた壁面が目の前に現れ、その庇部分に岩絵「動物たちの群れ」が描かれている。こちらが第4窟(ロックシェルター4)で、多くの動物岩絵が描かれていることから「ズー・ロック」とも呼ばれている。
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「ズー・ロック」には、灰色の壁面に白色塗料でゾウ、バラシンガジカ、バイソン、シカなどおびただしい数の動物が駆け抜ける姿が描かれている。1万年前から5000年前にかけて描かれたもので、ビームベートカーを代表する岩絵とされている。
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「ズー・ロック」から石畳の通路は北向きになり、数十メートル先に、高さ3メートルほどの巨石が折り重なるビューポイント(展望台)がある。なだらかな箇所から岩の上に上ると、岩の先に平原が広がっており、緑の中に玄武岩の赤茶色の地層ラインが織りなす様子も良く見える。ちなみに、手前の岩の上に海亀の様な形をした岩が乗っているが浸食した結果なのか、人為的なものなのだろうか。。
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石畳の通路は、展望台の手前から右折して階段状に下っている。その途中の左側に二つの石が積み重なった様な巨石があり足元に第8窟(ロックシェルター8)の表示があるので左折する。通路は巨石の下部をくぐり、隘路の様に先に繋がっている。
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通路に覆いかぶさる様な岩の大きく浸食した内側に約2500年前に描かれた「馬に乗り狩りに向かう集団」や、白色塗料で描かれた人物などの岩絵がある。ここまで見てきた岩絵もそうだが、雨風の影響を受けにくい場所に描かれた岩絵ははっきりと残っている。
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案内図(①~⑮)に従い、第8窟の谷間から洞窟を抜け、すぐ先の三差路を過ぎ北方面に向かう。その折り重なる様に連なる左側の巨石の浸食して庇の様になった第9窟には、「象や馬など」の岩絵が描かれている。更にその左先には、安全柵が設置された第10窟があり、覗き込むと、浸食した壁面には白色塗料で描かれた人物像が描かれている。
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折り重なる巨石の先に現れる三差路から右側して第11窟(ロックシェルター11)方面に向かう。前方には、通路を押しつぶそうとする様な空洞のある巨石が現れる。
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こちらは、その第12窟に描かれた「狩猟風景」で、特に、二頭を引き連れる大きなシカは立派な角と堂々とした体躯で描かれており、かなり古いものだがよく残っている。周りのやや太い線で描かれた狩りをする人々は、シカとはタッチが大きく異なり、後期のものであることが分かる。
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少し先に、巨大なコブラが鎌首をもたげた様な巨石が聳えている。こちらの「コブラ岩」と名付けられた第15窟(ロックシェルター15)が最終窟で、この先から「No Entry」と書かれた立て札がある。
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岩絵は「コブラ岩」の中央部に「巨大なバッファローに追われる人々」が描かれている。バッファローは、人物と比較して大変大きく迫力を持って描かれているが、手足の短さや、極端に大きな頭部のデフォルメなど愛嬌さも見事に表現されている。浸食した庇の内壁に描かれた岩絵と比べ、風雨にさらされやすい高い側面壁に描かれているにも関わらず色彩が良く残っている。。
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Uターンして第8窟(ロックシェルター8)手前の三差路から、往路と異なる左側の通路を通り、右側に回り込んだ先にある三差路を左折して南方向に向かう。そして前方の左右を岩で囲まれた狭い通りの右側が、第7窟(ロックシェルター7)で「馬に乗り狩りをする人々」が描かれている。
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第7窟を過ぎると通路は大きく右に曲がり上り階段になっている。上り詰めた右側に大きく浸食した第6窟(ロックシェルター6)がある。
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第6窟には、白色塗料で「手を繋ぐ人々」が描かれており、その左側に彩色が薄くなった「動物の群れ」が描かれている。動物の群れは、躍動する様子が、第4窟(ズー・ロック)の岩絵に似ており、劣化の状況からもかなり古いものと思われるが、幾何学的に描かれた手を繋ぐ人々は後年のものと思われる。
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これで、岩陰遺跡の見学は終わりである。使用されている顔料は植物系のものだが、近年は、劣化が進み化学薬品やワックスを使用して保存に務めているとのこと。正直、岩絵なのか浸食染みなのか分からないものも多々あったが、貴重な遺跡を見学することができて満足だった。。時刻は、まもなく午前11時半、日差しも照り付ける時間となったが、帰りは下りなので何とかなるだろう。往路同様に歩いて下山した。
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麓にある検札所の係員からチャイを飲まないか勧められるが断った。また、踏切を渡った左側にある「Madhya Pradesh Tourism」にホテルとレストランとの表示があり、ビールを飲みたくなったが、何時にバスが来るか分からないため、諦めて幹線道路沿いで待機することにした。持参した水を飲み、バナナなどを食べていると、10分ほどでバスが到着した。車掌にボーパール行きかを尋ねたところ、頷いたので乗車した。待ち時間が少なくラッキーだった。
バスに乗るとすぐに寝てしまった。乗車後1時間ほど過ぎた午後1時半頃にバスターミナルに到着した。ターミナルは、正方形の待機場で、三方向に真新しい屋根付きのガレージが30(10×3)ほどあり、それぞれに各方面毎の乗降口がある。配送センターにも似ており、朝とはあまりに異なる風景だった。引き続き乗車していると車掌から終点なので降りるように促された。
ガレージに入り建物内を抜けると、バスターミナルの西隣には、車寄せの広いスペースを持つ近代的なターミナルビルがあり「Inter State Bus Terminals(ISBT)」(州間バスターミナル)と表示されていた。こちらは、幹線道路側から眺めたターミナルビルの全景である。
近くにオートリキシャが停車していないため、広い幹線道路を横断し、左車線側の歩道をボーパール方面の標識に沿って歩いたが、前方から現れた通行人に鉄道駅を尋ねると、反対方向を指さしたのでUターンすることにした。
歩道沿いには、覆い茂った木々が連なり、郊外を走るバイパス道路といった印象である。しばらく歩くと右側に路地があり、その奥に複数の線路が見えたので、そちらに向かった。そして左先の線路を横断する高架歩道橋を渡って振り返ると「ハビブ・ガンジー駅」と書かれていた。ボーパール駅の隣駅(約6キロメートル南)だった。
駅前に並ぶ建物はどれも新しく、道路も広く新市街といった雰囲気である。市内バスを探していると、オートリキシャが近づいてきたので、ボーパール駅に行きたいと伝えると100ルビーと言う。市内バスに乗りたかったこともあり断るが、50ルビーで良いと言うので乗ることとした。。
ハミディアロードまでは、結構距離があり時間もかかったため100ルピーを払って下車した。しかし、まだ午後3時前で、列車の出発時間まで時間があった。ボーパールは、ガイドブックにこれといった見どころがないと書かれていたが、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)近くにいたオートリキシャに3時間ほど観光したい旨を伝えると、①Taj Ul Masajid、②Jain Temple、③Lake view、④Manjeet Hotelと手書きの用紙をくれたので、250ルビー支払うことで合意し、オートリキシャに乗り、ハミディアロードを西に向け出発した。
1.5キロメートルほど先からハミディアロードは大きく左に曲がり南に向かう。前方右側に見えてきた大きなモスク「タージ・ウル・マスジット寺院」が最初の目的地とのこと。そのモスクは東門(正門)、北門、南門が正方形(一辺約100メートル)の回廊で結ばれた敷地内の西側にあり、ピンク色のファサードに、大きな3つの白亜のドーム、左右両側に高いミナレット(18階建て)を備えている。ボーパール市内でこれほど大きなモスクがあるのには驚かされた。規模や形状などは、オールド・デリーのジャーマー・マスジド(1656年竣工)と大変よく似ている。
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礼拝堂内には多くの信者が集まっていた。後で知ったが、このモスクは、ムガル帝国の第17代(最後の)君主バハードゥル・シャー2世(在位:1837~1858)治世に工事が始まったが、財政難から中止され、実際に工事が再開したのは1971年で1985年に完成したとのこと。
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礼拝堂内は連続する花弁アーチや、アカンサスの葉などの唐草文様の装飾が施された柱、精緻な浮彫装飾などで溢れており、外観、礼拝堂ともに伝統的なムガル建築で建てられている。
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再びオートリキシャに乗りハミディアロードから、東西に延びるメイン・ロード(スルタニア・ロード)へ合流して西に向かう。中央分離帯があり高速道路を思わせる様な大通りを進むと、前方に小山が見えてきた。運転手はその小山方面を指さし、これから小山に向かうと言っているようだ。
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目的地の小山は、「タージ・ウル・マスジット寺院」から、西に4キロメートルほどの距離になる。オートリキシャは、メイン・ロードの北側の路地裏に停車し、向かい側にあるロープーウェイ駅を指さした。ここで待っているから行ってこいと言うことらしい。
駅は鉄骨と屋根だけある簡易なもので直ぐに乗車口がある。ロープーウェイが近づいて来ているのが見える。係員に運賃50ルビーを支払いロープーウェイに乗り込むが、他に乗客は来なかった。乗車後、麓側を眺めていると、大きな湖(アッパー湖)が見え始めた。
山頂は標高600メートルだが、麓駅との高低差は80メートルほどであることから、直ぐに山頂駅に到着した。山頂駅の湖側には足元が悪いゴツゴツした岩が続いているが、見渡す限り広がる湖の眺めは圧巻で、大変気持ちが良い。「アッパー湖」は、東西幅約14キロメートル、31.5平方キロメートルの大きさがあり、この大絶景は、ハミディアロードやボーパール駅前の薄汚れた喧騒な街のイメージを一変させてくれた。
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湖は、多様な動植物が生息する重要な湿地として、ラムサール条約にも指定されるなど、綺麗な水質を持ち、ボーパール市民の主要な飲料水源として利用されている。もともと、現在のマディヤ・プラデーシュ州南西端一帯(マールワー地方)を支配したパラマーラ朝(ヒンドゥ王朝)のボージャ王(在位:1010~1055頃)により整備された歴史的な開拓湖とのこと。ちなみにボーパールは、そのボージャ王の名前に由来している。
索条をくぐった場所から麓を覗き込むと、真下にヒンドゥ教寺院の尖塔や、その先にここまで来たメインロードが見える。更にその向こうの木々に覆われた中にはインド鉄道が通っている。
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ロープーウェイ山頂駅には、ショップが併設されているが、閑散期なのか半分シャッターが下りている。辺り一帯はプロムナードが設置されている。
所々にベンチや遊具などが設置されており公園になっているが、プロムナードはコンクリートにペンキを塗っただけで、地面も赤土に岩が転がり、芝生などの緑もなく、ゆっくり散策する雰囲気にない。。
北東側を眺めると、赤茶色の土壌のなだらかな斜面が続き、その先の平地に住宅地が広がっている。湖側もそうだったが白い建物が多い。熱を反射して吸収しないための工夫なのだろう。
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北西側に見える岩山の上に建つジャイナ教寺院(マヌアバンキテクリ(Manuabhan Tekri))が、2番目の目的地と言うことなのだろう。屋根部分は、特徴的な砲弾状の高塔(シカラ)や、ピラミッド状のドラビダ型など、ヒンドゥ教やジャイナ教寺院の伝統的な建築様式で建てられている。下に見える駐車場を過ぎて近くまで行ったが、階段の手前で封鎖されており、残念ながら近づくことはできなかった。。なお、ロープーウェイを利用しなくても車でこの場所まで上ることが出来るようだ。。
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10分ほど公園を散策したが、アッパー湖の見晴らし以外に特に見るべきものがないので、再びロープーウェイに乗って下山すると、オートリキシャが待っていた。最後にアッパー湖沿いを走って、ハミディアロードに戻った。
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まだ午後4時半だったので、約束のマンジェットホテルには戻らず、ハミディアロード沿いで降ろしてもらい、馴染みの酒屋(ワイン・ショップ)でキングフィッシャー・ストロング(110ルビー)を買い、隣でスナック(チャージ込24ルビー)を買って、奥にあるテーブル席で飲んだ。ビールは美味しかったが、もう少し雰囲気の良い場所で飲みたかった。。
昨夜は気が付かなかったが、ハミディアロード沿い(南側)に「Manohar」の表示の綺麗な外観のレストランがあったので入ってみる。店内も清潔感があり、お弁当や、ハンバーガー、ピザなどがテイクアウト用として売られており、安心して、ピザ(105ルビー)を買った。
マンジェットホテルに預けていた荷物を取りに行き、ハミディアロードを横断して駅前通りから駅に向かったが、日が暮れて、人通りが一層多くなってきた。
まだ午後7時前なので、駅前に並ぶ屋台の食材を少し物色したが、安心して食べられそうなものはなかった。
ホームのウエイティングルームで、日本から持参した赤ワイン(キャンティ ベリーニ)を飲みながらピザを食べた。日本で食べるクリスピータイプと変わらない味だったが、値段の割にサイズが小さく、やや物足りなかった。。列車は予定より30分ほど遅れた午後8時20分に到着し乗り込んだ。ボーパール滞在中は大きなトラブルもなく、無事行程を終えることができた。
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(2013.2.25)