カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イタリア・エミリア ロマーニャ

2013-02-15 | 中央イタリア
リミニ(Rimini)は、エミリア ロマーニャ州にあり、その周辺地域を含む人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)である。古くはローマ時代に起源を持つアドリア海沿岸の都市で、夏季は隣接するカットーリカやリッチョーネとともにマリンリゾートで大変賑う。また、近郊のサンマリノ共和国への玄関口でもある。そのリミニ観光前に、旧市街の手前にある「リストランテ ダ マルコ(Ristorante Da Marco a Rimini)」で昼食を頂くことにした。


時刻は午後2時で、他の客は既にランチを終え引き上げたらしく、貸し切り状態だった。店内は開放的な明るい雰囲気で、久しぶりのシーフード料理店に期待しながら料理を注文した。しかし、最初に運ばれてきた「魚介のサラダ」を見て驚いた。皿から溢れんばかりの量が盛られていたのである。


続いて、魚のマリネ、ムール貝、アサリが運ばれてきたが、こちらも凄い量だった。。極めつけは「魚介のリゾット」で、5~6人分はありそうな量で、とても食べ切れず大半を残してしまった。他に客がいれば様子を伺い、少しはセーブして注文できたかもしれない。とはいえ、料理は新鮮で美味しかったので量の多さ以外は満足だった。最後にデザートを頼むとリキュールをサービスしてくれた。。


リストランテの駐車場すぐ南側にはマッキア川(旧:アリミヌス川)が流れ、そこに重量感のあるアーチ橋「ティベリオ橋(Ponte di Tiberio)」が架かっている。紀元14年、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:前27~14)時代に建設が始められ、第2代皇帝ティベリウス(在位:14~37)時代の紀元21年に完成した歴史的な橋である。先の鐘楼は「サンタ マリア デイ セルヴィ教会」(1317年築、1894年改築)である。


橋を渡った先をそのまま直進すると、旧市街のメインストリート「アウグストゥス通り」となるが、ここは橋を渡ってすぐ右折し、外環道を通って旧市街反対側の南側から入場することとした。

こちらが旧市街入口となる南門「アウグストゥスの凱旋門(Arco di Augusto)」で、入場した旧市街側の「アウグストゥス通り」から眺めている。凱旋門の表裏はほぼ同じデザインで、高さ9.92メートル、幅8.45メートルあり、両端に城壁の痕が残っている。古代ローマ時代の凱旋門では、現存する最古のもので、紀元前27年に元老院が皇帝アウグストゥスに贈ったもの。ローマを発するフラミニア街道の終端に位置するこの場所に建てられた。


アウグストゥスの凱旋門から、北(正確には北北西)に向けアウグストゥス通りを歩いていくと華やかなお店やカフェなどが連なるショッピングストリートとなり、300メートルほどで旧市街の中心広場「トレ・マルティーリ広場」に到着する。広場は、古代ローマ時代には幹線道路が十字に交差するフォロ・ロマーノ(ローマ市民の広場)だった。現在は南北(長辺)130メートルほどの長方形の広場で、北へ500メートルほど直進するとティベリオ橋に到着する。


「トレ・マルティーリ広場」前方左側(北西側)には、柵で囲まれた遺構が残されている。こちらは、1944年8月16日、ドイツのナチスに抵抗した3人のパルチザン(マリオカペリ、ルイジニコロ、アデリオパリアラニ)が吊るされ亡くなった絞首台の足場があった場所で、瓦礫がそのまま残されている。現在の広場の名称(マルティーリ(Tre Martiri))は、その3人に共通する文字に因んで1946年に名付けられている。


広場前方右側(広場北側)の建物前には、共和政ローマ末期の政治家、軍人ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、前100~前44年)の銅像が飾られている。ルビコン川を越えたカエサルが、自分が指揮するローマ第13軍団に対して、ポンペイウス及び元老院派との内戦に突入したことを演説した場所を記念して1555年に建てられた。現在の「トレ・マルティーリ広場」は、それまで「ジュリオ・チェーザレ広場」(ユリウス・カエサルのイタリア語読み)と呼ばれていた。


広場から、ここまで歩いてきた方向に振り返った左側(南東側)には、時計塔の建つ戦争記念館があり、三軒向こうには、近年再建された大きな八角形の「サンフランチェスコ ディパオラ教会」がある。その教会前面に建つ小さな八角形の東屋風の礼拝堂は、1518年に建築され、1672年の地震後にバロックで再建された「サンアントニオ神殿」で、パドヴァの聖アントニオ(1195~1231)が聖体拝領を行っていた場所である。ここで、ラバが聖人に近づき、ひれ伏したとされる「ラバの奇跡」が後世に伝わっている。
クリックで別ウインドウ開く

サンアントニオ神殿の手前の建物から左折して、100メートルほど進んだ右側に「テンピオ・マラテスティアーノ(大聖堂)」のファサードがある。ポータルの中央の大きなアーチ内には、三角形のペディメントと幾何学文様の装飾が施されている。9世紀に建設が始まり12世紀にゴシック様式で再建されたが、1447年からは、「リミニの狼」と呼ばれた領主シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ(1417~1468)(在任:1432~1468)の下、聖シジスモンドに捧げられた礼拝堂として、ルネッサンス様式で改修工事が始まっている。


左右の身廊壁は、寓話、物語的な浮き彫り柱で装飾された尖塔アーチと、下部の大理石の欄干で仕切られ、それぞれ礼拝堂となっている。これらの装飾は、イタリアの彫刻家アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(1418~1481頃)による、優雅でやや冷たい印象のネオ・アッテカ技法で施されている。身廊の天井は、梁とタイルを備えた木製のトラスで覆われている。教会内にはリミニ領主シギスモンドとその妻イゾッタの墓などがあり、主祭壇には、ジョット・ディ・ボンドーネ(1267頃~1337)作品とされる「キリスト十字架像」(1309年頃)が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、リミニは、13世紀から15世紀初頭にかけてマラテスタ家に支配されていたが、中でも、シギスモンドは、教皇軍の有能な司令官・将軍で、コンドッティエーレ(傭兵隊長)としても外貨を稼ぐなど、リミニを豊かにした領主として知られている。そのシギスモンドは、こちらの祭壇の壁面に聖シジスモンド(San Sigismondo)の前で祈りを捧げる姿で描かれている。作品は「シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像(1451年)」(フレスコ画)で、ピエロ・デッラ・フランチェスカ(1412~1492)の手によるもの。なお、ルーヴル美術館には、ピエロにより同時期に描かれた領主シジスモンドの横顔胸像の絵画が所蔵されている。


聖シジスモンドはブルグント王国(ブルゴーニュ)の王(在位:516~523)で聖人となった人物。フレスコ画は渦巻きの偽の大理石のレリーフで囲まれた長方形で、中央上部にマラテスタ家の紋章があり、左側の聖シジスモンドが椅子に腰をかけ、中央には聖人を礼拝する領主シジスモンドが描かれている。そして、足元には、忠実の白と警戒の黒を象徴するとされる2匹のグレイハウンド犬が優雅に座っている。右端のトンドには、リミニのシジスモンド城の要塞が描かれており、現在も、旧市街の西端に遺構が残っている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、リミニから北西方向に10キロメートルほど先の「サンマリノ共和国」に向かう。人口約3万人、国土面積は山手線内とほぼ同じ約60平方キロメートル程度の小さな国家で、中心地は、ティターノ山の山頂付近(標高739メートル)にある。1631年にローマ教皇によって独立を承認されて以来、独自の歴史と文化を育んできた、世界最古の共和国国家である。

サンマリノ共和国では、中心部のリベルタ広場やサンマリノ大聖堂(バシリカ ディ サン マリノ)からも近い「ティタノ スイーツ ホテル サンマリノ(Titano Suites Hotel San Marino)」にチェックインした。夕食はそのホテル併設の「ラ テラッツァ」(La Terrazza)を予約しており、案内された窓際席からは、真下に「スタト美術館」が見下ろせ、その先にはパノラマが広がっている。


席に着き料理を注文したものの、昼の影響も残り、お腹が全然減らない上、やや重めの料理でもあったことから、ほとんど食べずに引き上げた。。
少し寝て目が冷めた午前0時頃に、部屋のカーテンを開け、南側に広がる広場と、西側のティターノ山の中腹から続く丘陵地を眺めてみた。広場には人通りもなく、薄明かりの中、静寂の世界が広がっていた。。

*******************************************

翌朝午前6時半、部屋から外を眺めると、真下の広場はまだ薄暗く、昨夜と同様に静けさが広がっている。広場の右隣に建つロッジアのある建物は「サン・フランチェスコ絵画館」で、その先隣りの鐘楼は「サン・フランチェスコ教会」である。
クリックで別ウインドウ開く

そして、右側に視線を移したティターノ山西麓には、朝日の光が差し込み、丘陵地の稜線を美しく見せてくれる。その先が明日以降に訪問するトスカーナ地方になる。これほどの雄大な景色は、サンマリノ共和国に宿泊しないと経験できないと思った。
クリックで別ウインドウ開く

朝食会場で食事をし、歩いて市内観光に出かけた。最初に街から徒歩10分ほどで「グアイタ(第1の砦)」に到着した。石で囲まれた砦内には、大きな塔が聳えており、その塔内の急な木の階段で一番上の部屋まで上ると縦長の小窓がたくさん並ぶ5角形の部屋に到着する。小窓には、蔀(しとみ)の様に、外側に向け跳ね上げられた厚手の木扉があり、窓枠からの金棒で固定されている。小窓からは、周囲を見渡すことができ、特に南側のティターノ山頂の最高点(755メートル)の切り立った岩の上に建つ「チェスタ(第2の砦)」の眺めはまさに絶景の一言である。第2の砦は、13世紀に建築されたが、ローマ時代には既に見張り塔があったと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

第1の砦は、刑務所として1975年まで使用されており、現在も部屋が残されている。次に、尾根沿いの通りを進み、チェスタ(第2の砦)に向かった。第2の砦は、現在では兵器博物館となっており、銃や鎧などが展示されている。こちらの砦からは、先程までいたグアイタ(第1の砦)方面を望むことができる。こちらからの眺めも素晴らしい。。東側の切り立った崖側はリミニの方向で、西側の斜面に旧市街が広がっている。白い立方体に塔が建つ建物が「サンマリノ政庁」で旧市街の中心部にあたる。
クリックで別ウインドウ開く

第1の砦は、11世紀に建設されたが、まさに街を守る位置に建てられているのが分かる。1463年に勃発したリミニ(領主シジスモンド)との間の争いの舞台となったが、結果はリミニに勝利して領土を麓の周囲に拡大することになる。難攻不落の岩山に築かれたサンマリノ共和国の歴史では、それが最後の戦いとなった。なお、北側には、ロッカ・モンターレ(第3の砦)(14世紀築)があるが、やや離れた箇所にあることや、塔には上れないこともあり行くのを諦めた。

砦の見学後は、旧市街の中心にあるリベルタ広場(Piazza della Liberta)にやってきた。その広場に建つのが「サンマリノ政庁」(プッブリコ宮殿) (Palazzo Pubblico)である。1884年から1894年にかけ建設されたネオ・ゴシック様式の宮殿で、観光客も政庁内で開かれる議会を見学することが可能とのこと。手前には、白いカララ大理石の「自由の女神」が建っている。


サンマリノ政庁前で、30分毎に行われる衛兵の交代儀式を見学した。政庁前で常に警備にあたる衛兵は1人だが、儀式には他の3人の衛兵も加わって行われる。衛兵の制服は、内側から白い裾を見せる赤いズボンに、深緑のジャケットを着てベルトで締め、紅白のリボンを付けている。そして頭に赤いポンポンが付いた帽子を被っている。こちらの衛兵の交代式は、5月から9月の夏季期間にのみ行われている。


サンマリノ共和国を発ち、次にラヴェンナに向かっている。アドリア海沿いの道路を通っていると「ルビコーネ川(Rubicone)」を渡る。こちらが、カエサルが越えた「ルビコン川」(イタリア本土と属州ガリア・キサルピナの境界だった)と言われているが、実際にカエサルが渡った川か、他にもいくつか候補の川もあり論争が絶えない。なお、こちらのルビコーネ川は、手前に標識など案内板がないため、予め調べておかないと通り過ぎてしまう


午後1時、ラヴェンナまで北へあと30キロメートルほどの場所にある小さな町ピナレッラ(Pinarella)で昼食をいただくことにした。お店は、リストランテ・ラ クッチーナ(la cucina)で、すぐ東側には、松林のある海岸線が続いている。ピナレッラは、すぐ北側にあるチェルヴィア(人口約4万弱の基礎自治体(コムーネ))から続く人気のリゾートエリアである。


清潔感のある白を基調とした店内は、明るく開放的で、植栽の緑が癒しの空間を演出してくれる。こちらは、ルッコラとパルメザンチーズのエビで、パルミジャーノ・レッジャーノとバルサミコ酢との相性が素晴らしく、新鮮野菜とエビの旨味を一層引き立てる一品。


こちらは、ムール貝とアサリのパスタ。さわやかなオイルの香りと魚介の旨味がパスタに絡まり食欲をそそる一品。大変美味しい。昨夜の料理は、昼の影響もあり、食べることができず残念だったが、こちらの料理を食べてみて、これが昨夜なら、美味しく頂けたような気がした。。


ピナレッラからは、30分ほどで、ラヴェンナ(Ravenna)に到着した。ラヴェンナは、エミリア ロマーニャ州ラヴェンナ県にある県都で、人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)である。古代ローマ時代から中世にかけては、西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府になるなど、大変繁栄した。その繁栄した5世紀初頭から6世紀末にかけて建設された初期キリスト教の聖堂・礼拝堂(8箇所)は、現在、ユネスコの世界遺産「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」として登録されている。

最初に、ラヴェンナ近郊(東南)のクラッセを通る幹線道沿いの広い芝地「ヨハネ・パウロ2世公園」東側に建つ「サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂」(Basilica di Sant'Apollinare in Classe)から見学することにした。イン・クラッセとは、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(在位:前27~14)によって築かれた港クラッシス(現クラッセ)(艦隊の意味)を守るために形成された町だが、現在は堆積物によって海岸が後退し、内陸部の寒村となっている。公園には、アウグストゥス帝を称えるブロンズ像が建っている。


これから向かう聖堂・礼拝堂等は、ラヴェンナの観光案内図を参照。

さて、そのアウグストゥス像の後方に建つのが「サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂」(観光案内図は⑧)で、初期キリスト教建築(ビザンティン建築)のバシリカの一つである。東ゴート王国時代の533年、ラヴェンナの24番目の司教ウルシキヌス(在任:533~536)が、東ローマ帝国の銀行家ユリアヌス・アルゲンタリウスなどに資金を要請し建設が始まり、549年に完成し、聖アポリナリス(ラヴェンナ初代司教)に奉献されている。ちなみに595年以降、765年に至るまで、歴代のラヴェンナ司教はこちらの聖堂に埋葬されている。


北東部には、高さ38メートルの円筒鐘楼があるが、こちらは11世紀に追加されたもの。聖堂内へは、ファサードにある前室に入り左端の扉から入室する。

東ゴート王国(493~555)とは、476年に西ローマ帝国が滅亡しイタリア領主として君臨していたオドアケル(433~493)を倒し建国したテオドリック(454~526)の王国である。テオドリックは、東ゴート族(ゲルマン人の一派)の有力指導者の子として生まれ、東ローマ帝国の軍人から最高官職である執政官の地位にも上り詰めた人物である。東ローマ帝国は、そのテオドリックに王の称号を公認はするものの、領土や住民はこれまでの西ローマ帝国のもので、東ローマ帝国からの命令でイタリアの軍司令官としてラヴェンナに遠征した皇帝臣下の一人に過ぎないと考えていた。

聖堂は、幅約30メートル、奥行き約55メートルの3廊式バシリカ教会堂で、身廊と側廊は左右それぞれ12本の円柱とアーチで仕切られている。その突き当り後陣に、ビザンティン美術で彩られた最盛期のラヴェンナのモザイク画が現存している。アプスには、黄金の十字架を中心としたキリスト教世界が広がり、下の窓に挟まれて主なラヴェンナの4人の司教(ウルシキヌス、オルソ、セヴェロ、エクレシウス)のモザイク画が配されている。
クリックで別ウインドウ開く

アプスの上部は黄金の天空で、頂部にキリストの手があり、左右に預言者モーセと預言者エリヤが配されている。その中心に十字架のある青い球体が浮かんでいる。大地は気持ちが和らぐような緑色で、樹木や草花が広がっている。左右には、ペテロ、ヨハネ、ヤコブを表現する3匹の白い羊が球体の十字架を見上げ、その下には左右12匹の羊に囲まれた聖アポリナリスが、両手を挙げ十字架(キリスト)を讃えている。
クリックで別ウインドウ開く

窓部分の右端のアベル、メルキゼデク、アブラハムが神に犠牲を捧げる部分と、同じく窓左端にある司教レパラトゥスと東ローマ帝国ヘラクレイオス王朝の皇帝コンスタンティノス4世(在位:668~685)の図像は、7世紀に司教レパラトゥス自身により追加制作されたもの。

次に、ラヴェンナ中心部に移動し「サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂(Basilica di Sant'Apollinare Nuovo)」(観光案内図は⑥)を見学する。聖堂は505年、東ゴート王国のテオドリック王により「テオドリコ宮殿」(パラティウム)の宮廷教会として建設された、標準的なバシリカ式教会堂である。当時、テオドリック王はアリウス派に属していたことから、アリウス派聖堂として建設されたと考えられている。


テオドリック王は、ローマのインフラ整備や、諸宮殿の修復も実施するなど、帝都ローマへの敬意も忘れなかったことから、安定的な王国の統治が続いていた。しかし、東方(東ローマ帝国)でユスティニアヌス王朝の第2代皇帝ユスティニアヌス1世(在位:527~565)が就任し、テオドリック王が信仰していたアリウス派への迫害を始めたからことから、テオドリック王は、ローマ教皇をコンスタンティノープルに派遣して解決策を探るが、結果、妥協案が示されるものの根本的解決に至らず、東方との緊張関係の中、亡くなっている。その後、東ゴート王国は、将軍ベリサリウス(505頃~565)率いる東ローマ帝国軍により540年に占領されてしまう。

そして、東ローマ帝国に再編入されて以降は、アリウス派は異端とされ、テオドリコ宮殿の宮廷教会は、聖マルティヌス(トゥールのマルティヌス、316頃~397頃)の聖堂として奉献し直され、856年には、港クラッシス(現クラッセ)から聖アポリナリスの聖遺物がもたらされ、現在の名称となっている。

6世紀の制作当初のまま存在していたモザイク画は、長い年月の間に、たびたび高潮の被害に遭うようになり、16世紀以降に、当初の4段構成から最下段を取り壊し、床面を持ち上げて現在の3段構成となっている。


最上段はキリストの奇跡と受難の26場面があり、その下の高窓部分には旧約聖書の預言者または福音記者と12使徒と推察される16人の聖人像が配置されている。ちなみに、こちらは、北身廊壁側の拝廊近くにあるモザイク画で、左右に、赤い衣の天使(善)と青い衣の天使(悪)を配したキリストが、羊と山羊を2つのグループに分けられ、善と悪の分離を象徴している。


そして、圧倒されるのは、その下部の身廊壁を覆うモザイク画である。こちらの北身廊壁の拝廊近くには、当時アドリア海全体で最大規模とも言われた、ローマ帝国の主要な艦隊本部の一つ「港クラッシス」(現クラッセ)の様子で、一対の高い石の塔の間に3隻の船が停泊している。右隣には、巨大なラヴェンナの城壁が聳え、城内には、円形劇場、ポルチコ、大聖堂、円錐形の屋根で覆われた建築物などが建ち並んでいる。
クリックで別ウインドウ開く

城壁の右隣からは、背の高いヤシの木を背景とした花咲く牧草地に移り、ベールで顔を覆い、王室のローブを着た聖女22人が、神聖な供物のしるしとして、貴重な王冠を持って出立している。
クリックで別ウインドウ開く

聖女の行列の先頭には、マント姿にフリジア帽をかぶった3人のマギ(東方三博士)が捧げものを差し出している。その先には、4人の天使に囲まれた聖母子像が座っており、キリストの顕現を記念する「公現祭」が表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

南身廊壁の拝廊側には、聖堂や建物が建ち並ぶラヴェンナの街を背景に、エントランスの列柱に白と金で装飾されたカーテンが掛けられた宮廷「テオドリコ宮殿(パラティウム)」がある。白い柱には、手が出ている箇所があることから、もともと柱の間にはテオドリックを始めとするアマル王家の人物が表現されていたと推定されている。
クリックで別ウインドウ開く

そして、テオドリコ宮殿の先からは、聖マルティヌスに導かれ、白いトガを身に着け、神聖な供物のしるしとして王冠を持参する、聖なる殉教者の26人の行列が続いている。殉教者は、髪型や色、年齢もまちまちで、王冠の持ち方、立ち姿、足の向き、膝を曲げるなどそれぞれ個性的に表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

聖マルティヌスの先には、宝石が散りばめられ、赤く厚手の柔らかそうなクッションの王座に座るキリストと、左右に4人の天使が配されている。肌の赤味や筋肉表現まで濃淡を使い分け、光と影をも感じさせる精緻なモザイク技法が凄い。。
クリックで別ウインドウ開く

次に「サン・ヴィターレ聖堂」(Basilica di San Vitale)(観光案内図は①)にやってきた。ラヴェンナの23番目の司教エクレシウス(在任:521~532)が、東ローマ帝国の銀行家ユリアヌス・アルゲンタリウスなどに資金要請し532年に建設が始まり、547年大司教マクシミアヌス(在任:546~556)によって完成された、ビザンティン建築・初期キリスト教建築の代表的な聖堂(教会堂)で、八角形の集中式平面という特殊な構造をしている。


サン・ヴィターレ聖堂は、聖ウィタリスの聖遺物を信仰するためのマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)として建てられた。ウィタリスはミラノ出身で3~4世紀頃に殉教し、ラヴェンナに埋葬されたとされているが、著名な殉教者でないことから、何故、聖堂建設に至ったのか、理由は今も解明されていない。。
聖堂建設中の545年は、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世により、ラヴェンナの座が司教から大司教に引き上げられた時期であり、初代大司教には、イストリア半島プーラ出身で東ローマ帝国宮廷側近のマクシミアヌスが選出されている。

内部には、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世と皇帝テオドラを中心とした人物群を描いたモザイク壁画が描かれており、ビザンティン様式美術のもっとも重要な作品となっている。緑と金を基調とし、後陣から天井へ、そして左右身廊壁面に至るまで眩いばかりの美しいモザイク世界が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

ラヴェンナは6世紀以降、東ローマ帝国のイタリア統治の拠点として総督府が置かれ繁栄を謳歌していくが、8世紀初頭には東ローマ帝国から分離し、衰退していく。しかし、このことにより東ローマ帝国での聖像破壊運動(イコノクラスム)の影響を受けることなく、現在も初期ビザンティン美術の美しいモザイク画が残ることとなった。

青い地球儀に座ったキリスト(全能者ハリストス)が、片方の手に7つの封印の巻物を持った2人の大天使の間にあり、もう一方の手に持つ殉教の冠を左端の聖ウィタリスに渡そうとしている。聖ウィタリスは、手を衣で覆って受け取ろうとしている。右側が司教エクレシウスで、聖堂のモデルを持っている。
クリックで別ウインドウ開く

後陣に向かって左側に「ユスティニアヌス1世と随臣」のモザイク画がある。中央の金の器を持つユスティニアヌス帝は3人の高官に囲まれ、その前に十字架を持つ大司教マクシミアヌス、福音書を運ぶ執事、香炉を運ぶ副執事がいる。高官の背後には、警備兵が続いている。ユスティニアヌス帝に向かって左隣の高官は東ローマ帝国の将軍ベリサリウスで、対ペルシア戦争(530年)、首都コンスタンチノープルでニカの乱の鎮圧(532年)、アフリカのバンダル征服(534年)、東ゴート征服(540年)などで活躍し「大スキピオの再来」と言われた。
クリックで別ウインドウ開く

後陣に向かって右側で「ユスティニアヌス1世と随臣」と対になる場所に「皇妃テオドラと侍女たち」のモザイク画がある。テオドラは、紫色のマントで覆われ、裾にはマギが贈り物を持って現れる姿の金の刺繡が施されている。そして、手には、宝石がちりばめられた金の杯をキリストに捧げようと持っている。周囲には市民高官と、女官や法廷の女性のグループが続いている。左側には、洗礼を思わせる象徴の噴水がある。
クリックで別ウインドウ開く

鮮やかに彩られた衣やマントに身を包む上流社会の人物たちが、豪華な宮殿風な装飾を背景に集合写真の様に並ぶ姿は荘厳そのもので、周りの幾重にも連なる幾何学文様の色鮮やかな縁取りも、芸術性を一層引き立てている。まさにモザイク画の頂点ともいえる作品。

後陣に向かって左側のルネットは「アベルとメルキゼデクの犠牲」で、神に羊と穀物を捧げている。ペンダントクロスには、クリペウスを支える2人の空飛ぶ天使と、左右に、モーセと預言者イザヤがいる。モーセは連画で、石の板を受け取るためにシナイ山に登っていき、サンダルを脱いで燃える茂みに近づこうとしている。その上、左には、福音書家聖マタイとシンボルである天使、右には、聖マルコとシンボルであるライオンが表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

後陣に向かって右側のルネットには「イサクの燔祭」のモザイク画がある。アブラハムのもてなしを受ける3人の天使を中心に、アブラハムは刀を振り上げ、息子イサクの首をはねようとしているが、神の手が出て、止めようとしている。

そして、サン・ヴィターレ聖堂に隣接する「ガッラ・プラキディア廟堂」(Mausoleo di Galla Placidia)(観光案内図は②)にやってきた。現在では、サン・ヴィターレ聖堂に付属しているように見えるが、本来は道路向かいのサンタ・クローチェ教会堂(観光案内図は⑩)の付属霊廟(埋葬所)として5世紀に建設されたもの。16世紀に道路が建設されサンタ・クローチェ教会堂とは分断されている。


サンタ・クローチェ教会堂とガッラ・プラキディア廟堂は、ローマ帝国の最後の皇帝テオドシウス1世(在位:379~395)の娘ガッラ・プラキディア(390頃~450)により建設されたことから、ラヴェンナの初期キリスト教建築群の中では最も古い時代(西ローマ帝国の首都時代)のものとなる。

建物の構造は、ギリシャ十字型で、室内のドーム空間の側面に4つのルネットが隣接している。それぞれのルネット下部の分厚いヴォールトは、幾何学文様や草花をモチーフにした高度で繊細なモザイク画で覆われている。
クリックで別ウインドウ開く

中央部の天井には、星がちりばめられた濃紺の天空を中心に黄金十字架が輝き、四隅には福音記者をも表すセラフィムが画かれている。その下の四方のルネットには、それぞれ2人づつの使徒が、その十字架に向かって腕を上げている。そして、半透明のアラバスターが嵌め込まれた小窓と、泉を飲む神の聖霊を象徴する鳩が配されている。
クリックで別ウインドウ開く

入口方向のルネットには、書物と十字架を持ったヒスパニア(スペイン)の殉教者聖ウィンケンティウス(~304頃)と4つの福音書を収蔵した棚、そして聖人が殉教の際に使用された炎の鉄格子が表現されている。そして、入口側を除いた3箇所のルネットの下にはそれぞれ石棺が安置されているが、4世紀と5世紀のものであることから、ガッラ・プラキディアの親族のものと言われている。

小規模な廟堂で、光が入りにくく、やや暗めの色調であることから地味な印象を受けるが、細かい様々な文様を効果的に組み合わせて大胆に表現されており、他をも凌駕するほどの大変高度なモザイク技法が展開されている。

時刻は午後6時になったので、「アリアーニ洗礼堂」(現:聖霊教会)(Battistero degli Ariani)(観光案内図は③)の見学で最後となる。サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂と同時に、5世紀の終わりから6世紀の初めにかけ東ゴート王国のテオドリック王によって建てられたアリウス派の洗礼堂である。洗礼堂は八角形で、上部に小さな後陣とアーチ型の開口部があるが、もともとは大きな複合施設の一部だった。


天井のドームに「キリストの洗礼」のモザイク画がある。中央には髭のないキリストが、ヨルダン川に下半身を浸け、鳩の形をした聖霊から水を吹きかけられている。右側には、まだら模様のヒョウ柄の皮を身に付けた洗礼者ヨハネが洗礼を行い、左側には、緑のマントを腰にまとった白髪の老人が革のバッグをかけて座っている。周りには、宝石で飾られた十字架の王座を中心に、12人の聖殉教者が、捧げものをしている。
クリックで別ウインドウ開く

テオドリック王が深く信仰したアリウス派の名称を冠した礼拝堂で、モザイク画は、ヨルダン川の透き通る表現や、くっきりとした輪郭線、濃淡のある色使いなどが、とても美しく、モザイクとは思われないほどの高度な技が駆使されている。ところで、テオドリックの遺骨は「テオドリックの霊廟」(観光案内図は⑦)に収められたが、ゴート戦争で、取り除かれ、その後キリスト教の礼拝堂となっている。

以上で、ラヴェンナにおけるモザイク画の見学は終了である。8箇所の内、6箇所の見学となり、全部とはいかなかったが、メイン所は何とか訪問できた。どのモザイク画も古い時代に制作されたにも関わらず、損傷がほとんどなく、長年に渡り大切に保存されてきたことに感銘を受けた。

今夜は、ズヴィッツェリ広場に建つ「テアトロ・ダンテ・アリギエーリ」(Teatro Dante Alighieri)(観光案内図は22)で、午後9時開演のバレエ「カルメン」(ジョルジュ・ビゼー作曲、1838~1875)を鑑賞した(後方サイドステージ18ユーロ)。主演、ロレーナ・フェイホー(Lorna Feijóo)、イニャキ・ウルレザガ (Iñaki Urlezaga)。ストーリーは、ジプシーで情熱的で自由な性格のカルメンを中心に、恋人ミカエラがありながら、カルメンに恋する真面目なホセと、やはりカルメンに恋する、ホセと対照的な性格の闘牛士エスカミーリョとが織りなす人生絵巻である。


今夜の公演は毎年5月から7月にかけて行われる「ラヴェンナ フェスティバル」の一環で、もともと1990年に、指揮者リッカルド・ムーティ夫人のクリスティーナ女史が創設した音楽フェスティバルがスタートとなっている。

劇場は、フィレンツェ生まれの詩人ダンテ・アリギエーリ(1265~1321)に因んで建てられたもので、1929年から、現在の5層の25のパルコとガレリアのある美しい劇場となっている。なお、ダンテは、晩年にこの街で「神曲」を書き、亡くなり、サン・フランチェスコ教会そばの霊廟(観光案内図は28)に納められている。

終演は午後11時前となった。今夜のホテルは、ラヴェンナから北西に25キロメートルほど離れたフォルリのホテル(ミケランジェロ)で、お腹も減り、急ぎ向かった。到着後、ホテルの道路を挟んで斜め向かいに、ピッツェリア・スカルピーナ(Scarpina)があり、まだお客がいたので、食事できるか聞いたところ、にこやかに迎え入れてくれ大変嬉しかった。
(2006.7.13~14)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア・ウンブリア(その3)

2013-02-15 | 中央イタリア
こちらは、ペルージャ旧市街への入口となる城壁門「サン ピエトロ門」(東南に位置)のすぐ内側に建つ「サン ピエトロ教会」で、北西側の回廊内から鐘楼を見上げた様子。サン ピエトロ教会は、前の大聖堂の遺構の上に996年頃に建てられ、1398年に改装された。その後、1464年に建築家ベルナルド ロッセリーノ(1409~1464)により、こちらの高さ70メートルの六角形の鐘楼が増築され、更に16世紀にルネサンス様式の教会として修復されている。


鐘楼は教会拝廊のやや南側に隣接して建っている。中庭は北西側と側廊南側の中央と、更に南側と合計3つあり、北側にあるアーチ門を抜けるとすぐに北西側の中庭に到着する。その中庭の南東角にある木製の扉口に向かって右側に古い大聖堂のファサードの遺構が今も残っており、左側には15世紀と16世紀のフレスコ画で構成された柱廊玄関がある。フレスコ画は、左上にキリスト、その下は聖ペテロとパウロ、右上は受胎告知、その下はドラゴンを退治する聖ジョルジョ、右側のアーチには王座に腰掛ける3つの顔を持つ女性が描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

教会内部の天井は、美しく装飾された平型の木製格子で、1556年にモンテプルチャーノのベネデット ディ ジョバンニによって作られた。灰色の18本の大理石の柱で区切られたアーチ壁を持つ三廊式のバシリカで構成され、左右の身廊壁の上部には、5枚づつ、新約聖書と新約聖書の場面を描いた絵画と、拝廊側にも大きな絵画が飾られている。これらは、パオロ・ヴェロネーゼ(1528~1588)の弟子アントニオ・ヴァッシラッキ(Antonio Vassilacchi、1556~1629)による作品で、1591年から1611年にかけてヴェネツィアで制作されたもの。しかし、この時間(午前8時半)、朝日が直接教会内に差し込み逆光となることから、あまり見学にはなじまない。。
クリックで別ウインドウ開く

祭壇は、1592年制作の多色の大理石で装飾され、ミニチュアの寺院(1627年)が飾られている。また、祭壇には、教会の創設者である修道院長ピーターの遺骨が収められている。周囲には、木製の象眼細工による繊細な浮き彫りが施された豪華な聖歌隊席があり、1525年から10年をかけ、複数の職人により制作された。

祭壇の左右の窓の中央には、ベネデット・バンディエラ(1557頃~1634)による「聖ベネディクトゥスの死」の絵画が飾られている。そして側面には「聖ペテロへの天国の鍵の授与」「パウロの回心」などのフレスコ画がある。
クリックで別ウインドウ開く

側廊には、アートギャラリーで多くの絵画が展示されている。エウセビオ・ダ・サン・ジョルジョ(1470~1550)の「聖母の即位と聖人」(16世紀)、オラツィオ アルファニ(1510~1583)による「聖母被昇天」(16世紀)、チェザーレ・セルメイによる「サン・マウロの奇跡」(1648)、ベンチュラ・サリンベニの「3つの罰」(1602)、フランソワペリエの「サムソン」(17世紀)、ベネデットボンフィグルの「ピエタ」(15世紀)などの作品が飾られている。また、聖具室には、ペルージャの聖人が描かれた古い教会の多翼祭壇画の一部が展示されている。ゆっくりしたいところだが、この後の行程も詰まっており、サラサラっと見学して教会を後にした。

次にペルージャ旧市街の中心部に向かう。最初にバスの発着ターミナルや、市営の大型駐車場がある「パルテジャーニ広場」に移動し、そこから「ロッカ・パオリーナ(Rocca Paolina)」と呼ばれる要塞跡の地下通路に設置されたエスカレーターを乗り継ぎ、旧市街を上って行く。教皇パウルス3世(在位:1534~1549)が1540年から1543年にかけて、建築家アントニオ・ダ・サンガッロに建設させた堅牢な石造りの要塞跡で、現在では誰もが、気軽に利用できる歩行者専用の地下通路である。


当時、ペルージャは、何世紀にもわたって貴族バリオーニ家によって統治されていた(シニョリーア体制)が、バリオーニ家が教会権力に異議を唱え反乱を起こしたことから、教皇パウルス3世は、バリオーニ家の持つ自治権と貿易権を奪い、ペルージャの南斜面の大部分を占めていたバリオーニ家の屋敷の後に教皇の権力の象徴すべく建設したもの。


地上出口は「イタリア広場」になる。そのイタリア広場の東通りからは、ペルージャの街の東南方向が一望できる。前方の塔が「サン ドメニコ教会」で、その先右側に、先ほどまでいた「サン ピエトロ教会」の尖塔が見える。そして、手前側の大通りが、サン ピエトロ教会から続く「ローマ通り」で、隣にサンタンナ駅、その隣の駐車場の更に右側に「パルテジャーニ広場」がある。
クリックで別ウインドウ開く

イタリア広場の西隣から北に延びるペルージャの目抜き通り「ヴァンヌッチ通り」を500メートルほど歩くと、左側に鐘楼のある「プリオーリ宮」(現:政庁舎)が見えてくる。そして、その先の突き当たりが「ペルージャ大聖堂(ドゥオーモ)」(サン・ロレンツォ大聖堂)の身廊壁でその前庭が「11月4日広場」になる。
クリックで別ウインドウ開く

11月4日広場は、1918年11月4日の第一次世界大戦の戦勝を記念して名づけられた。「グランデ広場」とも呼ばれ、古代ローマ以前のエトルリア時代から町の中心だった場所で、現在もペルージャの中心広場である。中央には大きな噴水「マッジョーレ噴水」が飾られており、左端には、15世紀建築のコッレージョ・デル・カンビオ(Collegio del Cambio)が建っている。
クリックで別ウインドウ開く

広場中央の「マッジョーレ噴水」は、1277年、ペルージャの父と呼ばれたマルケ州チンゴリの建築家フラ・ベヴィニャーテにより設計されたもの。その後、彫刻家親子、ニコラ・ピサーノとジョヴァンニ・ピサーノが彫像群を手掛け1278年に完成した。下段には、1年を月毎の生活の営み、寓話、哲学、リベラル アーツなどが2組1セットとして周囲25枚のレリーフが飾られている。ちなみにやや左側から右側へ、街のシンボルの獅子とグリフィン、文法と弁証法、修辞と算術をテーマにした浮彫が続いている。そして、上部には、神話、新約聖書と旧約聖書の聖人及び聖書の登場人物から24体の彫像が配置されている。
クリックで別ウインドウ開く

広場とヴァンヌッチ通りの角にあるプリオーリ宮は、優雅な3連窓が特徴のゴシック建築の政庁舎で1293から1443年にかけて建設された。大噴水側にある扇状の階段を上ると尖塔アーチの北側ポータルとなる。上部には獅子とグリフォンの像が飾られている。こちらから直接サラ・デイ・ノータリ(公証人の間)に行ける。
クリックで別ウインドウ開く

サラ・デイ・ノータリ(公証人の間)(Sala deo Notari)は、もともとは、民衆議会のホールで、カピターノ・デル・ポポロ(13世紀のコムーネでポポロという市民の自衛組織の首領)裁判所の席だったが、公証人の強力な企業の本拠地であったため、1582年から現在の名前となった。8つのかまぼこ状のアーチで支えられた大きなホールで、マエストロ デ ファルネト(Maestro del Farneto、13~14世紀)による鮮やかなフレスコ画で覆われている。アッシジの聖フランチェスコ、イソップの寓話、伝説、聖書物語などが描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

再び「11月4日広場」(グランデ広場)に戻る。大聖堂前の石段上にある彫像は1555年、ヴィンチェンツォ・ダンティ(1530~ 1576)による「教皇ユリウス3世」のブロンズ像で、右手を差し出し広場を見守る様に建てられている。教皇ユリウス3世(第221代:在位:1550~1555)は、ペルージャを教会の支配下に置いた前教皇パウルス3世に対して、教会の権威を市民に返還したことから英雄とされ、彼の慈悲を祝い設置されたものである。


ポータルの右側には、幾何学文様のモザイクで装飾された、15世紀制作の「聖ベルナルディーノの説教壇」がある。1425年と1427年の2度にわたりフランチェスコ会シエナの聖ベルナルディーノ(1380~1444)が説教したことから名付けられた。


聖ベルナルディーノは、トスカーナ州マッサの裕福な家庭に生まれるが、幼くして両親を亡くし、信仰深い伯母に引き取られ育てられる。22歳でフランチェスコ会に入り全国を歩きながら説教師として活躍した。彼の説教はわかりやすく、多くの人々を感動させた。生涯、説教師としての任務を続け、フランチェスコ会の発展に尽くした。1450年に教皇ニコラウス5世により、彼の死からわずか6年後に列聖されている。

では、大聖堂に入ってみる。内部は、三廊式で大変広く身廊の長さは68メートルある。後陣には3つのステンドグラスがあり、周囲に15世紀制作の象嵌細工の木製の合唱団席がある。向かって右側には石造の「教皇ユリウス3世」像が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

拝廊に向かって右側の15世紀の手すりで囲まれたサンタネッロ礼拝堂には、聖母マリアの結婚指輪が納められており、盛期ルネサンスのイタリアの巨匠ピエトロ・ペルジーノが1504年に制作した絵画「聖母の結婚」があったが、聖母の聖遺物である結婚指輪が納められた「聖指輪礼拝堂」の祭壇画として制作されたが、1798年、ナポレオンによって持ちさられ、フランス、カルヴァドス県カンのカン美術館に所蔵されている。

そして左側には、サンタネッロ礼拝堂と同じく手すりで囲まれた「聖ベルナルディーノ礼拝堂」がある。その祭壇には、現在、大聖堂で最も重要な芸術作品とされる、マルケ州ウルビーノ出身のルネサンス後期の画家フェデリコ・バロッチ(1535頃~1612)による「十字架降下」が収められている。
クリックで別ウインドウ開く

お昼は、聖ベルナルディーノ礼拝堂があった「ペルージャ大聖堂」の拝廊を眺める場所に建つ建物1階にあるピッツェリア(Mediterranea)(地中海の意)でピッツァを頂いた。こちらは、ペルージャで本格的なナポリピッツァを食べさせる店として知られ、いつも混雑する大人気店。薪窯で焼いたピッツァは香ばしくモチモチで大変美味しい。


食後は、再びイタリア広場まで戻ってきた。この時間(午後3時を過ぎ)広場ではステージが作られコンサートが催されていた。これからグッビオ(Gubbio)を経由して、今夜の宿泊予定のホテルがあるウルビーノ(Urbino)に向かうこととしている。


グッビオ(Gubbio)には、午後5時過ぎに到着した。ウンブリア州ペルージャ県にある人口3万人ほどの都市(コムーネ)で、インジーノ山の麓近くの傾斜地に中世の建物が広がる城壁都市である。日の入り(午後8時52分)までにウルビーノに到着する必要もあるのであまり時間がないが、取り急ぎ、グッビオの中心広場「グランデ広場」へ向かうべく、麓から北東方向へレプッブリカ通りを300メートルほど上って行く。

突き当りの丁字路から左側を眺めると、細い路地の右側の大きなアーチ壁の上にグランデ広場に面した「執政官宮殿」の鐘楼が見えるので、もうすぐである。


丁字路のすぐ右側にある回り階段を上った踊り場からレプッブリカ通りを振り返って見る。やや急な坂道で、この場所から見るとかなりの高低差を感じる。


踊り場から市庁舎(プレトリオ宮)の裏側を回り込む様に続く階段を上り詰め、振り返ると、斜面沿い続く旧市街から麓にかけて眺望が開けている。
クリックで別ウインドウ開く

正面側に回り込むと、東西80メートル×南北40メートルほどの「グランデ広場」(シニョーリア広場)が広がり、広場の向かい側の西面に「執政官宮殿」が建っている。1330年代にゴシック様式で建てられたもので、現在は市立絵画館と博物館になっている。西側に建っているため、この時間は、完全に逆光となってしまった。


グランデ広場から、もう一筋山側の通りに「グッビオ大聖堂」(ドゥオーモ)がある。13世紀、建築家ピエトロ・ガブリエリ(1326~1345)によりゴシック様式で建てられたもので、ファサード上の大きなバラ窓と周囲を飾る小さな福音書記者と神の子羊の浅浮き彫りが見所である。ガブリエリは死後ファサード内側のニッチに埋葬されている。
クリックで別ウインドウ開く

グッビオ大聖堂のファサードと向かい合う様に、狭い通路に建つアーチ門の建物は、ウルビーノ公国ドゥカーレ宮殿の「夏の離宮」で、1470年、グッビオを支配したウルビーノ公国(1443~1631)の君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422~1482)の命により、シエナの建築家フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(1439~1501)により建てられた。門をくぐると風通しの良い中庭で繋がっている。もともと山側と谷側にあった既存の2つの建物を改装して建てられたもので、現在1階はミュージアムとなっている。


ミュージアムを見学した後、グッビオのウンブリア州に別れを告げて、60キロメートルほど北に位置する、マルケ州ウルビーノ(Urbin)に向かった。

ウルビーノは、マルケ州の北西部に位置し(州都は、アドリア海沿岸にあるアンコーナ)、周辺地域を含む人口約1万5000人の基礎自治体(コムーネ)である。中世にはウルビーノ公国の首府で、特に15世紀のルネサンス期における君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの時代には、学者や芸術家達が集まり文化都市として最盛期を迎えている。街は山間部にある丘上にあり、周囲を城壁に囲まれている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、翌日に「ウルビーノのテラス」と呼ばれる旧市街の西側にある「レジステンツァ公園」(アルボルノス要塞址)から眺めた様子で、中央に「ウルビーノ大聖堂」の大きな鐘楼とドームが聳え、右側に「ドゥカーレ宮殿」の2本の尖塔が望める。なお旧市街の中心部はウルビーノ大聖堂の左側(北側)になる。

そのウルビーノ旧市街への入場は、中心部が近い「北城壁門」が便利で城門をくぐり300メートルほどの距離である。


しかし今夜の宿泊ホテル(Hotel Bonconte)は、旧市街の北東側の「ラヴァジーネ門」から入場しすぐ左側の坂を上った城壁沿いの通りにある。旧試合の中心部へは200メートルほどの距離で、北城壁門より近いが、勾配のある上り坂になる。


ホテルでチェックインした後、夕食は、ラヴァジーネ門から続くチェザーレ・バッティスティ通りを200メートルほど上った旧市街の中心地「レプッブリカ広場」(共和国広場)近くのトラットリアを予約している。広場には噴水があり、東西に目抜き通りのラファエッロ通りと複数の通りが交差し、周囲にはカフェ、リストランテ、トラットリア、ショップなどが建ち並んでいる。


予約しているトラットリアは地元ウルビーノ料理を提供する人気店「ルカリーニ・マウロ氏のレオーネ」(La Trattoria del Leone' di Lucarini Mauro)で、歩いてきたチェザーレ・バッティスティ通り沿いにある。広場から振り返って気が付いたが、通り沿いの建物は「サン・フランチェスコ教会」(13世紀築、17世紀改築)の南側廊壁で、その壁面にトラットリアの入口がある。隣にもアーチ扉が並んでおり別の店舗が入居している。


トラットリアの入口のすぐ横に窓があったので、店内の様子を窺ったが、今夜は空いているのか、先客は確認できなかった。窓には、メニューが掲げられ、上にはレオーネ(獅子)が向き合う姿がデザインされている。それにしても午後9時を過ぎており、到着が遅くなってしまった。


お店のスタッフはフレンドリーで親切。注文はお勧めでお願いした。こちらは「パッサテッリ」と名付けられたマルケ州を含め北イタリアで食べられる伝統パスタで、パン粉、卵、おろしたパルミジャーノ・レッジャーノをこねてポテトマッシャーの様な器具で押し出して作られている。マカロニかペンネの様にも見えるが、食感はパスタではなくニョッキに近いし、ミニトマトが入りサラダのようでもある。


他に「カショッタ」と言われるウルビーノのチーズをスライスしてキノコ、グリーンサラダに乗せた一品や、イタリアントマトのオーブン焼き、そして「ポルケッタ」と言われるウサギのローストに野菜を詰めオリーブを添えたものを頼んだ。ウサギ肉は、外側カリッと中も柔らかく、下ごしらえや火入れも丁寧にされている印象。オリーブや野菜との相性も良く美味しく頂ける。他にもひき肉を固めて焼き、ラクレットチーズを垂らしたような料理を頂いたが、何の肉か忘れてしまった。


ワインは、ウルビーノのすぐ郊外のワイナリー(Tenuta Ca’Sciampagne)のサンジョヴェーゼ種を使ったオーガニックワイン「グイドバルド(Vino Rosso Guidobaldo)を頂いた。ところでグイドバルドとは、ウルビーノ公国の君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと、妻バッティスタ・スフォルツァの息子で、ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(1472~1508)に因んでいる。


食後、デザートとして、「マチェドニア」(フルーツポンチ)を頼むと、リキュール(d'Ulivi)をサービスしてくれた。


時刻は午後11時を過ぎ、人通りも少なくなったチェザーレ・バッティスティ通りを下って行く。こちらは振り返った様子。これまでの城壁都市の旧市街と同じ様に、日中の明るく美しい街並みの表情とは大きく異なり、街灯も少なく暗く寂しい雰囲気となる。


正面にラヴァジーネ門が現れたので、手前を右折して坂を上り城壁沿いの通りを進み、ホテル(Hotel Bonconte)に到着した。


**************************************

翌朝、「ドゥカーレ宮殿」や「ウルビーノ大聖堂」(ドゥオーモ)の見学をすべく「レプッブリカ広場」(共和国広場)から南の通りに入った。すぐに左側に鐘楼が聳え、通り沿いに円形の後陣が確認できるものの、入口がないことから間違えて一本西隣の道を入ってしまった様だ。


左側に続く大聖堂の後陣を見上げながら、隣接する大きな壁面を通り過ぎた先から、左側に回り込んで振り向くと「ドゥカーレ宮殿」のファサードが目の前に現れる。1444年にウルビーノ公国の君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ(1422~1482)によって建てられた宮殿で、現在は「国立マルケ美術館」として一般公開されている。入口は、東側の「ドゥーカ・フェデリコ広場」にある。


先にあるアーチ門をくぐり道なりに東側に出ると、北側に続く「リナシメント広場」になる。南側には「ウルビーノ・カルロ・ボー大学」の校門がある。

広場の北側に向けて、左側には「ドゥカーレ宮殿」の長い外壁が続いている。外壁の終点となる「リナシメント広場」の中央には、18世紀にローマから運ばれた「オベリスク」が建っている。もともとは、エジプトで作られたもので象形文字ヒエログリフの浮彫がされている。そして、そのオベリスクの東側には「サン・ドメニコ教会」が建っている。


サン・ドメニコ教会は、1365年に建てられ、内部は1732年に後期バロックの建築家フィリッポ・バリジョーニ(1690~1753)によって改装された。現在のファサードは1452年に建てられたもので、ティンパヌムには、フィレンツェ出身の彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア(1400~1481)による釉薬を塗られたテラコッタ「聖母子と聖人たち」(1451年)が飾られている。現在のものはレプリカで、オリジナルは向かい側のドゥカーレ宮殿内の「国立マルケ美術館」に展示されている。
クリックで別ウインドウ開く

リナシメント広場の先が、パスコリ広場で、西側に「ウルビーノの大聖堂」(ドゥオーモ)のファサードが面している。ファサードはウルビーノ近郊のフルロ(フラミニア街道沿い)から切り出された石で造られ、神学的美徳(信仰、希望、慈善)を表す5つの彫像が飾られている。最初の大聖堂は1021年に建てられたが、1789年の地震の後、ローマの建築家ジュゼッペ・ヴァラディエにより、それまでのルネサンス様式から新古典主義様式で再建された。長さ64.5メートル×幅36.8メートルの敷地に、高さ50メートルのドームが聳えている。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂の南側廊には、大聖堂地下にある小礼拝堂「ドゥオーモの洞窟」に通じるポルチコが「ドゥーカ・フェデリコ広場」に面している。そして、向かい側から西側には「ドゥカーレ宮殿」の外壁が面している。


その南壁にある扉口をくぐると、回廊がある中庭となり、その回廊の右角に「国立マルケ美術館」へのチケットショップがある。展示会場は階段を上った2階になるが、当時は、ウルビーノ公の書斎や寝室、公妃の部屋や客間などがあった部屋で、現在は6つのセクションに分けられ合計28の展示室から構成されている。


展示室は、第1室のルカ・デッラ・ロッビアの「聖母子と聖人たち」(1451年)、アゴスティーノ・ディ・ドゥッチョ(1418~1481)や、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ(1439~1501)などの彫刻作品からスタートする。

国立マルケ美術館の最大の見所は第16室(謁見の間)にあるピエロ・デッラ・フランチェスカの2作品である。最初に「キリストの鞭打ち」(1468~1470年頃)(58.3センチ×81.5センチ)で、初期ルネサンス絵画が到達した遠近法的空間表現の完成形態と言われる有名な作品。キリストがローマ総督ピラトの前で鞭打ちの刑を受けており、手前には3人の人物が描かれているが、これらの関係性など主題は謎とされ解明されていない。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

もう一つが「セニガッリアの聖母」(1474年頃)(61センチ×53.5センチ)で、1822年、セニガッリア(マルケ州アンコーナ県)の「サンタ マリア デッレ グラツィエ教会」で発見されたことに因んで名付けられた。本作品は、そのセニガッリアの領主でもあったウルビーノ公国の君主フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナと結婚することとなったジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレ(後のセニガッリアの領主)からの依頼によるものと言われている。他にも、かつてピエロ・デッラ・フランチェスカの作品とされていたが、現在は作者不明の「理想都市」が展示されている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

もう一つの美術館を代表する作品の一つは、第25室に展示される地元ウルビーノ出身で盛期ルネサンスの巨匠ラファエッロ・サンティ(1483~1520)による「貴婦人の肖像」(無口な女)(1507年頃)である。ラファエロの肖像画の中でも、有名で質の高い作品の一つとされる。モデルの女性について特定されていないが、一説ではフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナを描いているとされている。ラファエッロの作品では他にも同室に「聖カタリナ」(1500年頃)が展示されている。また、ラファエッロの父親ジョバンニ・サンティの作品もいくつか展示されている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

第22室には、ラファエロの作品「アンドレア・ナヴァゲロとアゴスティーノ・ベアザーノの肖像画」(1516年)(76センチ×107センチ)が展示されていた。こちらは、ローマのドーリア・パンフィーリ美術館所蔵のため特別展示である。
>
クリックで別ウインドウ開く

第17室(フェデリーコの書斎)には、スペイン人画家ペドロ・ベルゲーテの「大公フェデリーコと息子グイドバルドの肖像」(1476年)や、壁面に、美しく精巧な寄木細工で埋め尽くされている。ボッティチェリ、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニ、ドナート・ブラマンテらによる下絵を寄木細工でデザインされた場面もある。隠し扉になっている場所もあり、スタッフが開けてくれたので、出て見るとバルコニーに通じている。またもう一方にある扉を開けると、塔内に設置された螺旋階段を見学できる。スタッフは、写真を撮る様にと勧めていた。


他にも館内には、パオロ・ウッチェロによる祭壇画のプレデッラ(1467~1468)、ドメニコ・ロッセッリによる「天使の間」(1476年)、ルカ・シニョレッリの手による「聖霊の降臨と十字架刑」(1494年)、ヴェネツィア派の画家ティッツイアーノ・ヴェチエッリオ「最後の晩餐」(1542~1544)と「キリストの復活」など、数多くのルネッサンス時代の傑作が展示されている。3階には、イタリアのルネサンス後期の画家フェデリコ・バロッチなど17世紀前半に活躍した画家の作品群や、陶器の町として栄えた当時のウルビーノのマヨリカ焼きのコレクションが展示されている。

旧市街の中心地「レプッブリカ広場」から、サン・フランチェスコ教会の拝廊側のポルチコを右側に見ながら、ラファエッロ通りの勾配の急な坂道を上って行くと、左側に、画家ラファエッロの生家がある。こちらの建物は14世紀に建てられたが、商人だったラファエッロの祖父が1460年に購入し、ラファエッロの父ジョバンニ・サンティと共に、自宅兼工房(板絵と金箔装飾)としたことが始まりである。


その後、ジョバンニ・サンティは、専門的に絵画と詩を学び、その才能が認められフェデリーコ公の宮廷作家となる。そして、近隣の娘マージアと結婚して生まれたのがラファエッロである。現在こちらの生家は、ラファエッロ・アカデミーによって運営され、ラファエッロゆかりの品を展示する美術館となっている。

この後、ウルビーノからアドリア海に面したペーザロ方面に進み、市内の手前から、欧州自動車道E55号線で、エミリア ロマーニャ州リミニに向かった。
(2006.7.11~12)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア・ウンブリア(その2)

2013-02-14 | 中央イタリア
こちらは、モンテファルコ(Montefalco)で、ウンブリア州ペルージャ県にある人口5~6千人の小さな基礎自治体(コムーネ)、スポレートからは20キロメートルほど北にある。街は東西の長辺が300メートルほどの長方形の城壁で覆われており、西側に建つ時計のある楼城門(正面)から旧市街に入場できる。


モンテファルコは、標高500メートル前後の丘陵地帯の峰と峰とを結んだ高い場所に位置することから「ウンブリアの手すり」と呼ばれ、歴史的建造物の建つ中世の街並みを残す「イタリアの最も美しい村」にも登録されている。そのモンテファルコを世界的に有名にしているのは、タンニン成分を多く含んだサグランティーノ種から作られる赤ワインで、生産者が少なく大量生産が難しいことから希少価値の高さが一層評価を高くしている。

なお、ワインとは関係がないが、途中に、満開に咲き誇こる大量のひまわり畑が続く美しい景色があり、映画「ひまわり」(1970年)のシーンを思いだし感銘を受けた。

楼城門にあるアーチの向こうには、街のメインストリートで石畳のまっすぐな上り坂が続いている。ちょうど車が上って行ったが、ぎりぎり離合できる道路幅はありそうだ。左右には土産店、洋服店、カフェなどが並んでいるが人通りは少なく閑散としている。


午後2時を過ぎて、すっかりお腹も空いていたので、上り坂の途中から右側に入った通り裏側にあるリストランテ「Ristorante Il Coccorone」で昼食にする。古びた石壁にはランチメニューが貼られており、手ごろな値段で美味しそうだったので、特に予約もなしに入った。入口はくぐり戸から階段を上った先にある。


店内は、既に昼時を過ぎていたこともあるのか、他に来店客はいなかった。少し不安になったが、清潔な白壁に木材の天井と煉瓦のアーチが温かみを感じる造りで、親切な女性シェフの応対に、案内されるがまま着席した。


最初に、頼んだ青菜の炒めものは、どこにでもありそうなシンプルなものだったが、食べてみると新鮮で味に深みもあり美味しい。次に、お勧めされたパッパルデッレ アルサ グランティーノは、自家製パスタで、キアニーナ牛のラグーに、きのこ、トリュフが合わさっており、絶妙な麺の食感と豊かな香りが最高の一品だった。なお、ウンブリア州は黒トリュフの一大産地としても有名である。


飲み物は、アントネッリ モンテファルコ サグランティーノを頼んだ。アントネッリは、西に4キロほど離れた丘陵地にワイナリーがあり、エレガントで力強い豊富なタンニンと、甘い果実の香りとのバランスが絶妙なワイン。


メインは、お肉がお勧めとのことで、炭火で焼いたスペアリブを頂いたが、こちらも、見た目はいたってシンプルだが、肉の旨味と焼き具合が絶妙で大変美味しかった。すっかり満足してしまい、このお店だけで、モンテファルコに来た目的は達成したと思えるほどだった。また機会があれば再訪したい。


再びメインストリートに戻り、東側への坂道を上り詰め、右側のポルチコを過ぎると前方に視界が広がった。こちらが、モンテファルコの中心地「コムーネ広場」で、広場中央から振り返ると、ポルチコを備えた小ぶりで気品のある「モンテファルコ市庁舎」が広場を飾っている。13世紀に建設されたもので、上部に時計、後部に塔を配している。


市庁舎を正面にみて、後方右側から北東方面の路地を進んだ右側に「サン・フランチェスコ美術館」がある。1338年、フランチェスコ会の修道士によって建てられた教会で、1861年にイタリア王国の宣言により修道院の所有物が没収され、その後市民病院となり1990年以降に現在の美術館となった。旧教会と新たな付属施設との複合体の美術館で、館内には15世紀から17世紀のルネサンス美術作品が展示されている。


木製のトラス天井の身廊奥には、左右に小礼拝堂を備えた礼拝堂があり、内部にある木製の聖歌隊席の上の5つの壁を飾るのが、フィレンツェ出身のイタリア・ルネサンスの画家ベノッツォ・ゴッツォリ(1421頃~1497)により描かれた連作「聖フランチェスコの生涯」(1452年)である。ゴッツォリの画家人生は、フラ・アンジェリコの弟子兼助手から始まったが、こちらのフレスコ画は、ゴッツォリが、アンジェリコから離れ、独立してウンブリアに活動の拠点を移し活躍し始めた若かりし頃の連作である。


ちなみに、彼の代表作の一つは、フィレンツェに戻った30代後半から手掛けたメディチ・リカルディ宮マギ礼拝堂(フィレンツェ)のフレスコ画「東方三博士の行列」(1459~1460)で、国際ゴシックの影響を受け、明るい色彩の中に多くの人物や動物たちが、華やかに、生き生きと描かれた魅力的な作品で知られている。

木製の聖歌隊の上の後陣の5つの壁面に、3層12のシーンが描かれ、左下から右方向にエピソードが進んでいる。最初の場面は、厩舎で誕生したフランチェスコが産湯で清められており、隣で巡礼者であるキリストが、フランチェスコの家を訪ねている。フランチェスコがキリストの再来であることを示している。その隣の画面には、貧しい兵士に衣服を与えるフランチェスコが描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、フランチェスコは、1181~1182年頃、ウンブリア州ペルージャ県アッシジの裕福な毛織物商人の家に生まれている。青春時代は、自由奔放に過ごし、騎士に憧れ戦場に赴むくものの捕虜となり大病を患う。そんな中、夢でキリストに出会い、回心して神の道に生きることを決意し、事物への執着を断って奉仕と托鉢の生活を始める。そんな生きざまに共鳴した若者たちが集い、1209年には「小さき兄弟会」(後のフランチェスコ会)を創立、その後も教えを説きながら各地を巡り、1226年10月3日アッシジで帰天している。

右下では、稼業の売り上げをアッシジ司教に寄進するフランチェスコと、それに反対する父親とが対立するが、フランチェスコは「全てをお返しします」と衣服を脱いで父に差し出している。フランチェスコにとっての父は「天の父」だけだとして親子の縁を切ってしまう。
クリックで別ウインドウ開く

教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)は、夢の中で、傾いたローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂をたった一人で支えるみすぼらしい修道士の姿を見る。その男はフランチェスコであった。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、ひざまつくフランチェスコとシルヴェストロ修道士が、アレッツォの街の外から悪魔を追い払い、平和を取り戻すことを祈っている。アレッツォの美しい街並みや、躍動感のある個性的な悪魔の姿も素晴らしいが、作品は、悪魔退散を祈るフランチェスコの表情に焦点を当てた構成となっている。
クリックで別ウインドウ開く

作品全体は、フラ・アンジェリコの作風は残りつつも、ジョットの影響も見られるとの評価を受けている。どの作品も細かいディティールや多くの人物が、色彩豊かに丁寧に描き込まれている印象的な連作である。

右側には、ペルジーノ(Perugino)(1448頃~1523)のフレスコ画「キリスト降誕」(1503年)がある。こちらは、エディクラ(厨子)に描かれた作品で、上部には「受胎告知」が、アプスにあたる個所には、楕円形の身光に包まれた父なる神「永遠の栄光」が描かれている


そして、その下に緑の丘陵地が広がり地平線上に青い水辺が広がる中、装飾柱に支えられた東屋風の開放的な厩舎に、幼子を囲み傅くヨセフとマリアたちの姿の「キリスト降誕」が描かれている。ペルジーノは、ペルージャ近郊出身のルネサンス期のウンブリア派を代表する画家で、システィーナ礼拝堂の壁画装飾の責任者(1481年頃)や、若きラファエロの師(1500年頃)としても知られている。
クリックで別ウインドウ開く

身廊の右側のアーチ壁の奥は、サン ジロラモ礼拝堂で、ゴッツォーリは聖ヒエロニムスの生涯の物語を描いているが、大半は失われ天井部分のみが残っている。他にも、美術館には、司祭の法衣や、儀式で使用する法具や荘厳、木造の彫像、絵画などが展示されていた。

最後に、メインストリートを街の入口方向へ下り、楼城門の手前から右折して城壁沿いを200メートルほど歩いて行くと城壁は腰ほどの高さになり、街の北側が見渡せる。次に、前方に見えるスバシオ山(標高約1,300メートル)の斜面に位置するフランチェスコの故郷、アッシジ(Assisi)に向かう。


アッシジは、モンテファルコからは北に30キロメートルほどのウンブリア州ペルージャ県にある人口2万人強の城郭都市(旧市街)で、スバジオ山の斜面に広がっている。こちらは、そのアッシジ旧市街の西側斜面に建つ「ホテル ジオット アッシジ」(Hotel Giotto Assisi)の部屋からの眺めで、南側の麓近くに建つ「聖ペテロ修道院」(ベネディクト会のカシネーゼ会)が見渡せる。先ほどまで滞在したモンテファルコは、遠くの山並みの左方向になる。
クリックで別ウインドウ開く

アッシジは、先住民族ウンブリ人がスバジオ山の斜面に作った歴史ある都で、ローマ帝国時代には、直径2キロメートルほどの細長い城郭都市となった。そして中世時代には都市国家になり皇帝派を選択するが、教皇派となった近隣のペルージャとの間で抗争が激化する。その後教皇派となった後は城壁外に市街が拡大し、とりわけルネサンス期に街は発展した。現在では、フランチェスコの出身地として、世界遺産「アッシジ、フランチェスコ聖堂と関連修道施設群」として、多くの巡礼者や観光客が訪れている。

時刻は現在午後7時、これからホテルの北側を東西に延びるポルティカ通りを東方向に上って、旧市街の中心付近にあるリストランテに夕食を食べに向かう。


ポルティカ通りの坂を上り詰めると旧市街の中心地「コムーネ広場」に到着する。広場には市役所やインフォーメーションセンター、カフェ、レストランが集まった賑やかな広場となっている。広場の北面には「ミネルヴァ神殿」が建っている。ペディメントを6本のコリント式円柱が支える紀元前1世紀の古代ローマ時代の古い建造物で、今もなお美しい姿を見せている。隣接する時計塔は「人々の塔」と呼ばれ47メートルの高さがある。


目的のリストランテは、そのコムーネ広場の北東側から延びる細い上り坂の「サン・ルフィーノ通り」の途中にあるが、予約時間まで少し早いので、その先の「サン・ルフィーノ広場」まで足を延ばした。複数からの路地が交差する広場の向かい側には赤く染まるロマネスク様式の「サン・ルフィーノ大聖堂」が建っている。1228年に、古い教会の上に建てられた大聖堂で、現在も、床のガラス下に古い教会の遺構を見ることができる。ファサードには左右に小バラ窓を備えた、福音伝道者の4つの小さな浮彫を配した大バラ窓があり、その下には小さな浮彫アーチが優雅に装飾されている。塔は、現ファサードより100年前の古い教会時代からのものである。
クリックで別ウインドウ開く

その後、再び、サン・ルフィーノ通りに戻り「リストランテ・ラ・ランテルナ(La Lanterna Ristorante Pizzeria)」で食事をした。狭い通り沿いに屋外テラス席が並び、後方の路地に入口がある。建物の外壁と同じく、歴史を感じる古い石壁とアーチのある店内で、木製の家具や植物が飾られている。


ワインは、アッシジ近郊のトルジャーノ・ロッソ アンティニャーノを頼んだ。昼に少し贅沢したのでややお得なワインだが、味わいは、やや渋みがある印象。


こちらでは、ウンブリア料理と、ピッツァが種類も多くお勧めとのことだが、昼の満腹感が多少残っていることもあり、軽めにと思いラビオリを頼んだ。


他にトマトが入った生野菜、きのことじゃがいものベーコンソテーや豚肉のソテーなどを頂いた。料理は味付けもしっかりしており、大変美味しかったが、モンテファルコのリストランテが良すぎただけに比較すると普通となってしまう。。


食後は、コムーネ広場に面するミネルヴァ神殿まで戻ってきた。この時間ポルチコ内は美しくライトアップされている。内側に十字架が飾られた「サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会」の入口がある。


1539年、教皇パウルス3世の願いに従って造られ、その後17世紀にバロック様式で改修されている。教会名のソプラとは最高声部のソプラノのことで、ミネルヴァの”上(ソプラノ)”に造られた教会を意味している。教会内には、17世紀に作られたバロック様式の祭壇があり中央に漆喰で飾られた聖母マリア像が飾られている。


そして、右側には、アントン・マリア・ガルビ(1718~1797)の「アヴェッリーノの聖アンドリューの死」の祭壇画と、左側には、マーティン・ノラー(1725~1804)の「聖ヨセフの死」の祭壇画がある。

東に歩いて行くと「聖キアーラ聖堂 」に到着する。キアラ(クレア)(1194~1253)は、フランチェスコに帰依した最初の女性とされている。こちらの聖堂は、キアラが亡くなった1253年から建設が始まり1257年に完成した。スバジオ山から掘り出される白とバラ色の石灰岩を縞模様に積み重ね、中央にバラ窓と入り口を一つずつ配したシンプルで美しい教会で、教会前の広場の中央には噴水があり、左側のテラスからは眼下を一望できる。


旧市街の中心部を散策して、ホテル ジオット アッシジに午後10時半に戻ってきた。ホテルに向かって左側に後方からの下りの坂道(ポルティカ通り)が通っており、その後方が旧市街の中心方面になる。ホテルは広場兼駐車場に面して東側に建っており、眺めの良いテラスは、右側の南側になる。


部屋の窓からは、真下に建つ聖ペテロ修道院がライトアップされていた。その先にアッシジ新市街の街並みが広がり、明かりが見渡せるが、今夜は明るい満月(luna piena、ルーナ ピエーナ)の輝きの方が印象に残った。


**************************************

翌朝、朝7時半に朝食を頂きにホテル内の朝食会場にやってきた。カウンターには、たくさん食べ物があると思いきや、パン、コーンフレーク、ヨーグルト、牛乳、ジュースだけで、あとはパンに付けるジャム、マーガリン、バターがやたら置かれていた。。カプチーノは、スタッフに直接注文する。イタリアのホテルでの朝食は概ねこんな感じである。


こちらが、ホテル前の駐車場からの眺めで、街の南麓からウンブリア州の緑の丘陵地帯が一望できる。左側の塔は、部屋から見えた聖ペテロ修道院の塔である。今朝も青空が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

最初に「アッシジのサン・フランチェスコ聖堂」に向かう。ホテルからはポルティカ通りを西側へ下り、アッシジへの入口となる「フランチェスコ門(西門)」手前から、今度は上り坂を西に向け進んで行く。ホテルからは200メートルほどで「サン・フランチェスコ聖堂の下の広場」に到着する。広場は、左右手前にアーケードがある細長い”コの字”の回廊で、聖堂まで100メートルほどを進むと前方に多くの人が列を作る入口が見えてくる。

サン・フランチェスコ聖堂は、街の北西側の斜面の上に建ち、その斜面を有効に利用するため、上堂部分(ゴシック様式)と下堂部分(ロマネスク様式)と二堂に分かれている。広場は、その下堂部分のファサード前に到着する。


ポータルは2つの柱で支えられた大きなアーチがあるポーチで覆われ、上部にはフリーズと左右に聖人像の浮彫が施されている。内側側面には、モザイクで飾られたペディメント(フランチェスコの祝福)があり、正面はバラ窓のある尖塔アーチで、2連の多葉形の両開きの扉がある。ゴシックポータルは1271年以前に完成したもの。

下堂入口横にある階段を上ると、上堂のテラスとなりサン・フランチェスコ聖堂全体を眺めることができる。聖堂は、アッシジに生まれ、死後に聖人に列せられたフランチェスコの功績をたたえるために、1228年に教皇グレゴリウス9世(在位:1227~1241)によって建築が始まったもので、1253年に一応の完成をみたとされている。その後、何度か改修を経て、現在の姿となった。
クリックで別ウインドウ開く

聖堂にはチマブーエ(1240頃~1302頃)、ジョット・ディ・ボンドーネ(ジョット)(1267頃~1337)、シモーネ・マルティーニ(1284頃~1344)などの画家の手になるフレスコが多数描かれ、下堂はチマブーエの「玉座の聖母と4人の天使と聖フランチェスコ」が見所で、上堂にはジョットによるフレスコ画「聖人フランチェスコの生涯」が一番の見所である。フレスコ画は、1997年9月26日に発生したウンブリア・マルケ地震で聖堂の建物は大きく損傷したが、ボランティアによる修復工事などにより、2000年にはほぼ元の形に戻って公開されている。
クリックで別ウインドウ開く

フランチェスコの生涯を描いた有名なジョットの連作壁画は、身廊の下部を取り巻く様に、後陣側から拝廊方向へかけての北壁面に13枚、東の拝廊左右に2枚、拝廊側から後陣方向へかけての南壁面に13枚の計28枚が続いている。どの壁画も、見上げた位置にあることから、間近で鑑賞できる。有名な「小鳥に説教する聖フランチェスコ」は、バラ窓の拝廊に向かって右下にある。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

サン・フランチェスコ聖堂の見学後は、昨夜、外観見学のみだった「サン・ルフィーノ大聖堂」を見学し、「聖キアーラ聖堂」と広場のテラスから眺望を眺め(右側は聖クイーリコ修道院)、そして、午後12時開催の小さな教会のミニコンサートを鑑賞して「コムーネ広場」に到着した。今日は、肌を刺すような暑さもあり疲れたので、噴水そばにあるリストランテ(市役所の向かい側)のテラス席で少し休憩した。


休憩後は旧市街の高台に建つ「ロッカ マッジョーレ(大城塞)」に向かうことにした。何度も通ったコムーネ広場の北東側から延びる、上り坂(サン・ルフィーノ通り)先のサン・ルフィーノ広場前から左折して、ポルタ・ペルリチ通りに入り、少し先の左側、石造りの民家の間の階段を上って行く。階段の先は、西に延びるやや急な上り坂「ロッカ通り」となり、上りながら後ろを振り返ると、旧市街に建つサン・ルフィーノ大聖堂や聖キアーラ聖堂が望める。
クリックで別ウインドウ開く

ロッカ通りと並行する様に、斜面の上には尾根を蛇行する様に城壁が続き、突き当りに幕壁に囲まれた「ロッカ マッジョーレ」がある。幕壁の内側に建つ城は中庭のある正方形で、南東寄りにひと際大きな塔が聳えている。更に、手前の幕壁の小さな側塔を囲む様に、外側に突出した円形の側防塔(1538年に追加)が設置されている。


ロッカ マッジョーレ(大城塞)への入場は、右上に幕壁を見上げながら進み、大きく右に回り込み、円形の側防塔に沿って進んだ先の城壁門から入る。そして右側にあるチケットショップを通り、幕壁北東角の側塔門が入場口となる。内部は、剣、槍、弓などの武器や、甲冑、市民の洋服、映画「ブラザー・サン シスター・ムーン」(1972年、フランコ・ゼフィレッリ監督)の写真パネルなどが展示されている。

ロッカマッジョーレの最初の建設時期ははっきりしないが、アッシジを統治していた、皇帝を後ろ盾とするスポレート公国ウルスリンゲンのコンラート(アッシジ伯1177~1198)の城塞だった。赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝、在位:1155~1190)や、シチリア王で神聖ローマ皇帝のフェデリーコ2世(フリードリヒ2世)(1194~1250)も少年期に住んだと言われている。しかし、1198年の市民蜂起により破壊されてしまう。その後、アッシジは教皇領に組み込まれ、1356年にアヴィニョンの教皇インノケンティウス6世からの委託を受けたアルボルノス枢機卿(1310~1367)によって現在の要塞が再建されている。


城を取り巻く幕壁の北西角に建つ側塔からは、西に向けて幅に厚みがある城壁が繋がっている。城壁の終点には、1458年、教皇ピウス2世(在位:1458~1464)により増築された多角形の塔が建っており、内部にある通路で行き来することができる。こちらは、その多角形の塔から城を眺めているが、城壁の北側(左側)は、東側のなだらかなスバシオ山の斜面と異なり、断崖となっている。
クリックで別ウインドウ開く

西側には、旧市街の終点に建つ「サン・フランチェスコ聖堂」の威容が望め、北側は森の斜面となっている。大聖堂の後方からは、広大なウンブリアの大地のパノラマが展開している。
クリックで別ウインドウ開く

次に「カルチェリの庵」にやってきた。かつてフランチェスコとその兄弟たちが瞑想した場所で、アッシジ中心部からは、東に4キロメートルほど行ったスバジオ山の深い森の斜面にある。山間部のS字カーブ沿いの広場にある小さな瓦屋根の門をくぐり、細い小道を少し歩くと、森で覆われた斜面に二階建ての石造りの小さな教会が見えてくる。現在建つ教会や僧院は、1400年、フランチェスコ会シエナの聖ベルナルディーノ(1380~1444)が、フランチェスコを偲び建てたもので、石畳で敷き詰められた中庭には、フランチェスコの祈りによって水が湧き出たと言われる井戸が残されている。


そして教会の先から谷底に架かるアーチ橋を渡ると登山道といった様相になり、少年に語り掛けるフランチェスコのブロンズ像や、森の中に、全身全霊を傾けて祈りを捧げる個性的な姿の修道士たちのブロンズ像が飾られている。


大きな岩に囲まれた山道が続き、修道士たちが隠遁と瞑想の場として使ったと伝わる洞窟なども点在している。こちらの小道の斜面側には、階段状に石が積まれ十字架が掲げられている。手前には、周囲の石を組み合わせて造ったとみられる粗末な祭壇が設置されているが、フランチェスコが祈りを捧げていた神聖な場所とされる。時折差し込む木漏れ日と鳥のさえずりが気持ち良く、心までも清められる様な風景である。まさに聖域である。


他にも、敷地内には、2~3人ほどしか入れない粗末な煉瓦造りの「ファレナミの小礼拝堂」もあり、内部には、聖母子のイコンや磔刑像などが祀られている。


再び聖キアーラ聖堂近くまで戻り、次に、南に1キロメートルほど下った場所にあるフランチェスコの人生の起点となった「サン・ダミアーノ修道院」に向かった。

最寄りの駐車場から、右側に麓の景色を見ながら、東に100メートルほど行った先に、赤い石畳の矩形の敷地の奥にコの字で建物が建っている。正面に瓦屋根の張り出しポルチコが設置され、その奥が礼拝堂入口となっている。放蕩生活を送っていたフランチェスコが、1206年サン・ダミアーノ教会の磔のキリスト像から「早く私の壊れかけた教会を建て直しなさい」という神の声を聞き、一人で石を積みながら修復したのがこの礼拝堂といわれている。


内部は、筒形ヴォールト型の身廊で、低い位置にある後陣のアーチにフランチェスコに呼びかけたとされる2メートルほどの木製の十字架像が飾られている(オリジナルは聖キアーラ聖堂に保管)。十字架のキリストは苦しみの姿というより、感情を表さず、立ち上がり、両手を広げてメッセージを伝えている様に見える。祭壇には、バロック様式の木製の聖歌隊席があり、アプスには、14世紀に描かれた、アッシジの最初の司教ルフィーノ(~238頃)とダミアーノ(~303頃)を従えた聖母子像のフレスコ画がある。
クリックで別ウインドウ開く

礼拝堂の南側には、広い緑の芝生の中庭があり、駆け抜ける修道士(フランチェスコ?)のブロンズ像が飾られている。そして礼拝堂の北隣がサン・ダミアーノ修道院で、周囲を建物で囲まれた小さな回廊が2つあり、更に北隣に中庭がある。修道院の敷地を示す壁は低い石壁が並ぶだけで、周囲に他に建物はなく、糸杉やオリーブの木が立ち並ぶ風景が広がっており、沈黙と瞑想の場所といった趣がある。


サン・ダミアーノ修道院は、フランチェスコの説教に心動かされたキアラ(クレア)が、家を飛び出し、フランチェスコの指導の下、清貧、貞節、従順の誓いを受け入れ、髪を短く切り、粗末なチュニックを着て1212年に修道生活に入ったのが始まりで、その後、妹のアグネスとともに「清貧の女性修道会」を創立し、生涯を送った場所でもある。キアラ(クレア)は1255年に列聖され、清貧の女性修道会は、1263年に教皇ウルバヌス4世により「聖キアラ会(クララ会)」となった。

アッシジの旧市街から、南西に3キロメートルほど行った新市街の中心部、アッシジ駅の南西側に「サンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会」がある。こちらは、フランチェスコが布教の拠点としてフランチェスコ会を結成した場所と言われている。

大規模なラテン十字型の教会で、長さ126メートル×幅65メートル、中央交差部には高さ75メートルの大きなドーム(クーポラ)が設置されており、また、教会の顔となるファサード前からは、広場のような広い並木道が200メートル先まで続いている。教皇ピウス5世(在位:1566~1572)の要請を受け、ペルージャ出身の大建築家ガレアッツォ・アレッシ(1512~1572)により、1569年から1679年にかけ、フランチェスコ会の貧困の理想に一致する厳格な構造を持つ教会として建設された。


しかし、1832年にウンブリア州を襲った地震で、身廊、側通路の一部崩壊、ドームの広い亀裂など深刻な被害がもたらされたことから、その後、建築家ルイジ ポレッティにより再建が行われ、新たにファサードをローマ バロック建築に改築したが、1939年、バロック以前のスタイルに戻されている。頂部に1930年制作の金の像「天使のマドンナ」が飾られている。

これで、アッシジとはお別れになる。次に、ペルージャ方面に移動した。宿泊は、ペルージャ中心部から、南東に5キロメートル離れた、ポンテ サン ジョヴァンニ駅近くのホテル テヴェレ ペルージャに泊まり、駅東側にある中華レストラン(バンブー リストランテ チャイニーズ)で中華料理を頂いた。
(2006.7.10~11)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

イタリア・ウンブリア(その1)

2013-02-13 | 中央イタリア
こちらの東西に延びる外壁は、ローマから東に30キロメートルほど行ったラツィオ州ティヴォリ(チボリ)(Tivoli)にある遺跡「ティヴォリのハドリアヌス別荘(1999年世界遺産登録)」(ヴィッラ・アドリアーナ)の「ポイキレ」で、ギリシャ・アテナイにあった彩色回廊(ストア・ポイキレ)(紀元前5世紀)にインスパイアされ建てられた。駐車場のある入口ゲートからは500メートルほど南にあり、中央のアーチ門(写真は左側)に通じている。


ティヴォリ(チボリ)には、昨夜、午後6時過ぎにローマに到着(成田空港発、仁川経由の大韓航空)し、環状高速道路(グランデ・ラッコルド・アヌラーレ)の東側、プラエネスティーナ街道沿いのホテル(ユーロスターズ ローマ コングレス)に宿泊してやってきた。現在午前10時になり、日差しが強くなってきた。

ヴィッラ・アドリアーナは、古代ローマ帝国の第14代皇帝ハドリアヌス帝(在位:117~138)の指示により建設された1.2平方キロメートルの敷地に30を超える建物群を持つヴィラ(別荘)で、西暦118年に工事が開始され、一時中断後に、皇帝の巡察旅行で魅了された建造物や景観を取り入れて133年に完成している。ハドリアヌス帝は、ローマのパラティーノの丘にある宮殿を嫌い、リトリートを求めていたことから隠れ家として建設されたと言われている(ヴィッラ・アドリアーナ遺跡の概略図)

こちらは、南東側からポイキレの敷地内を眺めた様子で、中央には池があり、東西に延びる北外壁の糸杉で隠れた先が中央アーチ門の場所になる。対して、南外壁は完全に失われているが、大きく土地が下がり下部に2層に分かれた空間「百の小房」が連続して築かれている。ヴィラの施設管理のための職人や警備兵などの寝所だったと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

ポイキレの東隣にある教会のアプスを思わせる「哲学者の間」の側面門を抜けると、ヴィッラ・アドリアーナ最大の見所の一つ「島のヴィラ」(別名、海の劇場)がある。直径40メートルの大きな円形外壁の内側に、2重のイオニア式円形回廊があり、間には水を湛えた堀がある。堀は北側(左側)にある石橋で行き来きができ、内側の回廊には東屋があった。
クリックで別ウインドウ開く

島のヴィラには、付属施設として、ラウンジ、図書室、温水風呂、床暖房付きのスイート、洗面台、ギャラリー、噴水などの設備があった。こちらのヴィラは、地中海を取り囲むローマ帝国をイメージして建設されたと言われている。なお、背後(北東側)の高台に見える3層構造の建物は「ギリシャ語図書館」である。それにしても自然と遺跡との調和が素晴らしく全てが絵になる美しさがある。

そのギリシャ語図書館に東隣には「ラテン語図書館」が続いており、突き当りが「皇帝の食堂」になる。そして向かい側(右側)の広場は「図書館の中庭」だった。ちなみに、皇帝の食堂の先(東方向)に見える山の斜面には、ティヴォリの街並み(新市街)が広がっている。
クリックで別ウインドウ開く

島のヴィラから南に向かうと長方形の「養魚池」がある。所々に列柱の跡が残されており、周囲に回廊が形成されていたことが伺える。


養魚池から更に南に向かうと、右側(西側)には「大浴場」があり、ドームと内部にイオニア柱が2本残されている。古代ローマ人、特に裕福なローマ人にとって入浴は非常に重要で、一日のうち数時間、乃至は一日を浴場(テルマエ)で過ごしていた。ハドリアヌス帝は、治世後半、こちらのヴィラから帝国を統治したとの記録が残っており、風呂好きでも知られることから頻繁にテルマエで過ごしていたのかもしれない。今では、こちらの大浴場を背景にコンサートなども開催されている。左側(南側)のアーケードのある建物は「大倉庫」と言われており、右端は3層構造になっている。


大倉庫と大浴場との間を抜けると、ヴィッラ・アドリアーナの見所の一つ「カノプス」で、透けるような青空の下、池に遺跡のシルエットが反射する美しい光景が広がっている。南東側に向けて続く細長い長方形の池(120メートル×20メートル)で、エジプトの2つの都市アレクサンドリアとカノープスを結ぶ古代の運河を象徴したもの。ハドリアヌス帝が、ナイル川で溺死した寵愛する美青年アンティノウスへの想いを具現化し造られたと言われている。
クリックで別ウインドウ開く

大倉庫(右上が大倉庫)からすぐ池の手前(北東側)は丸みを帯び、部分的に列柱が再建され、交互に配された水平とアーチ型のアーキトレーブで繋がれている。柱の間には、アレス(火星)、ヘルメス(水星)、アテナ(ミネルヴァ)の彫像が飾られ、すぐそばには鰐の彫像もある。そして、カノプスの向かい側(南東側)には、エジプトの「セラーピス神殿」を模した半円形のドームがある

池沿いを歩き、南東側のセラーピス神殿前から振り返って見る。池の周囲に形成されていた回廊の列柱の一部(4名の女人像と両脇の男性像)が再建されている。女人像はアテネのエレクティオン神殿、エフェソスのアルテミス神殿の模刻との説がある。その女人像のオリジナルは、他の彫像と共に、隣接する博物館に展示されている。


他に「黄金広場」、「皇帝の宮殿」に残るドーリス式柱、管理事務所そば(遺跡入口の近く)の「ヴィーナスの小神殿」などを見学した。遺跡内を実際に歩いてみると、ヴィラと言うより小さな都市遺跡の様に感じた。現在見学が可能なエリアは全体の3分の1ほどで、一層その規模の大きさに驚かされる。これほどのヴィラにも関わらず、ハドリアヌス帝が亡くなった後の記録はなく、3世紀以降には、ローマ帝国を襲った大規模な動乱などから石切り場と化し廃墟となり歴史から姿を消してしまう。その後、発掘されたのは15世紀になってからである。

次にヴィッラ・アドリアーナから、北東4キロメートルほど行ったティヴォリ(チボリ)中心部にある「ティヴォリのエステ家別荘」に向かった。

そのティヴォリ(チボリ)中心部は、旧市街と南側から南西部にかけて広がる新市街に分かれている。こちらは、その境目に建つ城壁を南側の新市街から眺めた様子である。右前方の円形の塔は、教皇ピウス2世(在位:1458~1464)により建設された小さな正方形の城「ロッカピア」(1461年築)の塔で、城から東側と北西側に向け城壁が築かれていたが、現在は北西側の100メートルだけが残っている。城壁のすぐ向こう側(北側)に「ブレソの円形劇場」(184年築、1948年発掘)の遺構があり、塔と城壁と円形劇場を中心にして周りを一方通行の環状道路が通っている。


北西側の城壁の先の環状道路を横断すると「ガリバルディ広場」(80メートル×40メートル)となり、その先のサンタ・マリア・マッジョーレ教会(16世紀再建)が建つ小さな「トレント広場」の西側に「ティヴォリのエステ家別荘」への入口がある。

1550年、エステ家の枢機卿イッポーリト2世・デステ(アルフォンソ1世・デステとルクレツィア・ボルジアの子)(1509~1572)がローマ教皇の座を巡る争いに敗れて、この地に隠匿して造った後期ルネッサンス様式の庭園で、イタリア一美しい噴水庭園として称えられ、現在に伝わっている(2001年世界遺産登録)。入口に建つ別荘は、ベネディクト派修道院を改装したもので、内部は、16世紀ローマ派のフレスコ画やモザイクで豪華に装飾されている。その別荘を抜けるとテラスがあり、真下から北西方向に庭園が広がっている(4.5ヘクタールの矩形の敷地で、東京ドーム約0.96個分)。

テラスからは庭園に向け、左右に折り返し階段が続いている。右階段を下りながら北側を見ると、ティヴォリの大聖堂(サンロレンツォ・マルティーレ)(1641年にバロック建築様式で再建)のロマネスクの鐘楼が聳えている。ティヴォリの旧市街はその大聖堂の少し先までで、その先はティブルティーナ山が聳え、ティヴォリの南東側から街を包み込む様に流れてきたアニエーネ川(テヴェレ川の支流)が西に向けて流れて行く渓谷となっている。
クリックで別ウインドウ開く

折り返し階段は、テラスの一段下の踊り場に到着する。すぐ下の「百噴水」から噴き出す噴水の飛沫や、更にその前方の「ドラゴンの噴水」から勢いよく垂直に噴き出す姿が涼しさを与えてくれる。この様に庭園内には、ギリシャ・ローマ時代をモチーフにした噴水が500ほど築かれている。
クリックで別ウインドウ開く

この庭園を設計したのは、ヴィッラ・アドリアーナ遺跡を発掘した建築家ピーロ・リゴーリオ(1510頃~1583)で、1563年から2年がかりで斜面をならし、アニエーネ川から地下水道を別荘内に引き込む工事を行った後に、本格的な建築物の工事を始めたが、かなりの難工事で、所有者で依頼主のイッポーリト2世・デステが生存中には完成できなかったとのこと。

折り返し階段は、庭園の東角に到着する。すぐ先には、庭園で最初に作られた噴水の一つで、1570年に完成した「楕円の噴水」がある。上部から流れてきた水が楕円形の噴水台に注ぎ込み、更に噴水台から滝となりプールに注ぎこんでいる。背後には、扇状に水を噴き出す花瓶が壁龕内に置かれ、上部の半円形テラスの手摺りの花瓶からは水が注ぎ出している。まるで、水が織り成すアート作品といった印象で見ていて癒される。


楕円の噴水の先から南西方向に100メートルほどのまっすぐの道が続き、左側には1577年に完成した「百噴水」と名付けられた階段状の噴水設備が続いている(別荘のテラスは噴水後方の上になる)。テヴェレ川の古代の3つの支流(アルブネオ川、アニエーネ川、エルコラネオ川)を噴水に見立て、上下3か所から噴き出しそれぞれの水路を形成している。中段にはエステ家の紋章ワシの彫刻やユリなどのオブジェが交互に配置されているが、多くはシダやコケで覆われている。オブジェの背後は扇状を含んだ打ち上げ噴水で、手前は下方の水路へ吹き出している。
クリックで別ウインドウ開く

最下層の吹き出し口は動物の顔から人間の顔まで、様々なモチーフで造られ、それぞれの口から水路へ吹き出している。しかし、中には蛇口だけが残り、噴き出していない個所もある。「百噴水」の景観は、ウィリアム・ワイラー監督「ベン・ハー(1959年)」の宴会シーンなど、多くの映画に登場している。


「百噴水」の中央付近にある右側階段を下りると、左右の回り階段に囲まれた「ドラゴンの噴水」(1572年築)がある。教皇グレゴリウス13世(在位:1572~1585)の訪問を記念して建てられたもので、円形に配置された4体の互いに背を向けたドラゴンが飾られ、中央から水が噴流する仕掛けとなっている。


庭園中心部には、北東から南西にかけて3つの長方形の池が並んでいる。そしてその北東側の斜面には1930年代に建築家アッティリオ・ロッシ(1875~1966)によって整備された「ネプチューンの噴水」がある。更に上部には1566年に建設に着手し、1571年から水圧を利用しパイプオルガンが自動演奏する「オルガン噴水」があり、鷲の彫刻や4体の女性像が並ぶバロック様式のファサードで飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

ハンガリーの作曲家フランツ・リストは、エステ荘の噴水に因んで曲を作曲しているが、特に、1877年に作曲された「エステ荘の噴水」は、壮麗に吹き上げる噴水が見事に表現された傑作と言われ、その後の音楽会や美術界に多大な影響を与えた。

この豪華な庭園別荘は、イッポーリト2世・デステ亡き後、甥にあたるルイージ・デステに引き継がれるが、その後、1605年に、アレッサンドロ・デステの所有となり大規模な改修が行われ、1641年以降はモデナ公爵家のもとで続けられた。18世紀以降は放棄され荒れ放題となるが、20世紀に入り修復運動が行こり、維持管理が続けられている。

それでは、南北に延びる高速道路に乗り、ウンブリア州に向かう。今回は、ウンブリア州から、エミリア ロマーニャ州、トスカーナ州など中央イタリアを周遊する予定にしている。最初の目的地オルヴィエート(Orvieto)は、ティヴォリから、約120キロメートル北にあるウンブリア州テルニ県にある人口約2万人の小さな基礎自治体(コムーネ)で、丘の上にあることから「天空の街」と呼ばれている。古くはエトルリア人が住んでいたが、紀元前280年頃にはローマ人に攻め落とされている。13世紀から14世紀にかけて最盛期を迎え、15世紀半ばに、教皇領として併合されている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

オルヴィエートの東側には、高速道路と並んで鉄道が走っており、そのオルヴィエート駅の周囲に数か所の駐車場が設置されている。街へは許可のない車の乗り入れはできないため、フニコラーレ(ケーブルカー)に乗ってオルヴィエートに向かう。停留所からは、東西に延びる「カヴール通り」を300メートルほど歩いた右側の丁字路角にある3つ星ホテル「ホテル・コルソ」が今夜の宿泊ホテルになる。ホテルは3階建てで、中央のみ2階建てで屋上テラスがある。


チェックインをした後、やや上り坂の「カヴール通り」を西に向け散策に向かう。ホテルのすぐ西側からは、カフェ、リストランテ、ショップなどが並ぶ賑やかな通りとなる。このカヴール通りが、メインストリートでオルヴィエートの東西を貫いて通っている。


ホテルから500メートルほど賑やかな通りを進むと、前方に「市民の塔(モーロの塔)」(1310年築、高さ47メートル)が見えてくる。この市民の塔が建つエリアがオルヴィエートの中心になる。
クリックで別ウインドウ開く

「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点を鋭角に左折して南に進むと、土産物屋やテラス席で食事をする人々で益々賑わってくる。すぐに視界が開け、大きな広場の中央にゴシック様式の巨大な大聖堂「オルヴィエートの大聖堂」(ドゥオーモ)が現れる。側廊壁は特徴のあるモノトーンの縞模様で、先頭には壮麗で圧倒的な威容を誇るファサードが聳えている。


大聖堂の建設は、教皇ウルバヌス4世(在位:1261~1264)がこの地で「ボルセーナの奇蹟の聖餐布」(ボルセーナでの教会ミサにおいて、パンから滴るキリストの血で聖餐布が染まった。)を奉献し始まったが、完成は4世紀を隔てた17世紀初頭であった。その間、多くの建設家が携わったが、1300年、シエナの建築家・彫刻家ロレンツォ・マイターニが築いた3枚続きの絵画に3つの尖塔を備えたファサードは、イタリア・ゴシック建築を代表する建造物と言われている。
クリックで別ウインドウ開く

アーキヴォルトが織りなす扉口間の4つの柱に施された豊かな浅浮彫刻も見所である。こちらには、旧約聖書の創成期から新約聖書の「最後の審判」までを茎とアカンサスの葉を織りなし表現されている。
クリックで別ウインドウ開く

大聖堂の右袖廊にある「サン・ブリツィオ礼拝堂」(有料)には、ルネサンス期の画家ルカ・シニョレッリ(1450頃~1523)が描いた「罪されし者を地獄へ追いやる天使」、「蘇る死者」(1500~1504頃)などのフレスコ画があり、その内の2か所のパネルに、1447年、フラ・アンジェリコ(1395頃~1455)が、弟子のベノッツォ・ゴッツォリと共に「キリストの裁き」と「預言者」を描いている。

「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点に戻り、北側に行くと「ポポロ広場」に到着する。広場北面には12世紀に建てられたロマネスク・ゴシック建築の「ポポロ宮」が建っている。オルヴィエートが自治都市だった時代には「隊長の館」と呼ばれており、現在は会議場となっている。下層からはエトルリア時代の神殿遺跡が発見されている。


再び「市民の塔(モーロの塔)」が建つ交差点に戻り、次に西に200メートルほど行った南隣りに「レプッブリカ広場」(共和国広場)があり、広場南面には大きな7つのアーチ門(中央は通り抜け可)のある「市庁舎」(15世紀改築)が建ち、東面には小さな二連アーチが並ぶ十二角数の塔を持つ「聖アンドレア教会」(12世紀築)が建っている。


夕食は、ホテルと「市民の塔(モーロの塔)」の中ほど「カヴール通り」沿い南側のサンタンジェロ広場にあるリストランテ「イ・セッテ・コンソリ」(I Sette Consoli)を予約している。広場には聖マリア教会のファサードが面し、教会に隣接して左側に建つ3階建ての建物の1階がリストランテの入口になる。


テーブルは聖マリア教会の鐘楼が望める中庭のテラスに案内された。飲み物は、ウンブリア州のモンテファルコ・サグランティーノ コレッピアーノ アルナド・カプライを頼んだ。


料理はお勧めの、本日のサジェッション・メニュー(40ユーロ)を頼んだ。内容は、アミューズブーシュがあり、前菜は、「オムレツ」(シルバースキンオニオン、アロマティックハーブ、ウンブリア産ラードとバルサミコドレッシングを添えたもの)。次に「タリオリーニ」(アサリ、ブロッサムズッキーニ、ローストチリトマト、カラスミを添えマジョラムの香りで味付けしたもの)。
クリックで別ウインドウ開く

そして、「チンタ セネーゼ ポークのトルテリーニ」(ヴァレンターノ産のひよこ豆のソース、ハムのみじん切り入りを添えたもの)。メインには、「ポークフィレ」(湯通ししたポークフィレに、粗塩、豆のソース、ボルロッティ豆、ローズマリーオイルを添えたもの)。更に「チーズの盛り合わせ」があり、最後に「桃のデザート」(ピーチパフェ、ピンクペッパーをかけたピーチ、そしてアマレットリキュールをかけたアイスクリームと一緒に)だった。ポーション自体は小さめだったが、さすが有名店であり、どの品も、味付け、食感、香りなどがバランスよく繊細に絡み合い、見事に仕上げられている。ワインとの相性も良く大変満足できた。

**************************************

翌朝ホテルで朝食を食べ、9時過ぎに、オルヴィエート大聖堂の右袖廊向かい側にある「オペラ デル ドゥオーモ博物館」の見学に向かった。シモーネ・マルティーニのサンドメニコの多翼祭壇画、フランチェスコ・モーキ(1580~1654)の「受胎告知の聖母」と「受胎告知の天使」(博物館展示パネル)を始め、ルネサンス期のルカ・シニョレッリの絵画、ルカ・デッラ・ロッビアのテラコッタ、サン・サヴィーノの頭蓋骨の遺物、羊皮紙に書かれた大聖堂の設計草案、金細工職人のオブジェなど13世紀以降の様々な時代の彫刻や作品が収められている。

次に、リストランテ・イ・セッテ・コンソリと「市民の塔(モーロの塔)」との間、カヴール通り沿いの南側にある「マンチネッリ劇場」(劇場案内パネル)の見学にやってきた。1862年、イタリア建築家ヴィルジニオ ヴェスピニャーニ(1808~1882)などにより、新古典主義様式で建設されたもので、入口の7つのアーチからなるポルチコが特徴である。地元オルヴィエート生まれの音楽家ルイージ・マンチネッリ(1848~1921)の功績遺徳を顕彰して名付けられた。


マンチネッリは、ボローニャ音楽院院長として、ペルージャ、ローマ、ボローニャ等で指揮を執り、海外においてはマドリッド、ロンドン、ブエノスアイレス、ニューヨークなどで精力的に活動した。ニューヨークではメトロポリタン歌劇場の指揮者となり世界中に知られている。国内では、ジュゼッペ・ヴェルディやジャコモ・プッチーニのオペラなどワグネリズムを積極的に紹介した。

入口を入ったホワイエはルネサンス様式で装飾されたヴォールト天井で、ロゼット装飾、コリント式の柱頭、手すりなどクラシックスタイルを用い、エレガントで居心地の良い空間が演出されている。そして劇場は馬蹄形で、観客席は1階と、周囲に4層のボックス席が配され、古典的なイタリア劇場の様式となっている。舞台のメインカーテンは、チェザーレ・フラカッシーニ(1838~1868)の歴史画で、535年、東ローマ帝国の将軍ベリサリウス(500頃~565)が、ゴート族の包囲からオルヴィエートを解放する様子が描かれている


天井も、同じくフラカッシーニによる作品で、メダリオンには12の寓話を女性像で表し、外側には古典メダルに、作曲家のロッシーニ、ベリーニ、ドニゼッティ、ヴェルディなどや、詩人のメタスタージオ、アルフィエーリ、カルロゴルドーニなどの肖像画で飾られている。そして中央には、豪華な16世紀の古典様式のシャンデリアが吊り下げられている。フラカッシーニの自然主義的なスタイルは、ローマ教皇領と州で高く評価されていたが、腸チフスでわずか30歳で亡くなっている。ローマ市は、ローマフラミニオ地区に胸像を建立し彼を称えている。
クリックで別ウインドウ開く

オルヴィエートは、中世から続く歴史的な街並みがコンパクトに凝縮しており、小粋なカフェやリストランテ、お洒落なショップが美しく調和するなど散策するのが楽しかった。

次に、約30キロメートル東にあるトーディ(Todi)に向かった。ウンブリア州ペルージャ県にある人口約1万7000人の基礎自治体(コムーネ)で、オルヴィエート同様に、丘の上に街が建設され、過去、エトルリア、ローマ帝国、教皇領と様々な支配を経験している。中世には都市国家的な自治政治も行われており歴史的な建物も残っている。

午後1時半頃、トーディの中心地「ポポロ広場」のすぐ南東側にある「ガリバルディ広場」に到着した。広場のテラスからはパノラマが広がり、南東側にはブドウ畑が広がる丘の斜面から麓の新市街一帯が一望できる。
クリックで別ウインドウ開く

昼食は、ガリバルディ広場近くのピッツェリア「カヴール(Cavour)」で頂いた。ガリバルディ広場から麓に延びるトーディの目抜き通り(ローマ通り)からすぐ東側の路地に入った所にある。魚介のマリネやピッツァなどを注文したが美味しかった。流石に本場イタリアで食べるピッツァは美味しい。


ワインは、トーディで生産されるカンティーナ テュデルナム サンジョベーゼ コッリ マルターニを頼んだ。ラズベリーの香りで果実味がある。


食後は、ガリバルディ広場の北西側に隣接するトーディの中心広場「ポポロ広場」に足を延ばした。北側正面の大きな階段の上に建つゴシック様式の建物が「トーディ大聖堂」(ドゥオーモ)で、古代ローマ時代にアポロ神殿があった場所に建てられている。


現在の建物の原型は、焼失した前身の教会を受け1190年に再建されたが、正方形のファサードはビリオッティ司教の下、1517年から1523年の間に完成したもので、大きなバラ窓やポータルの木製ドアの繊細な浮き彫り装飾が見所となっている。入り口を入ったファサード内側には、ファエンツァ出身の画家フェッラウ・フェンツォーニ(1562~ 1645)が、システィーナ礼拝堂のミケランジェロの天井画に触発され描いた「最後の審判」のフレスコ画がある。

トーディ大聖堂の階段上からポポロ広場を振り返ると、「プリオーリ宮」(隊長の館)が大聖堂と向かい合う様に建っている。そして、プリオーリ宮の左側にあり、ポポロ広場に大きく張り出した階段のある建物は、1214年に建てられたイタリア最古の市庁舎の一つ「ポポロ宮殿」で、南側はガリバルディ広場に面している。その手前の旗が掲揚されている建物が1293年頃に建てられた「カピターノ宮殿」で、現在は、司法ホールや裁判官の事務所などが入居している。最上階は、ポポロ宮殿の最上階と繋がる「市立美術館」で、エトルリア時代から中世、近世までの遺物、彫刻、絵画作品などが展示されている。


次にルネサンス期の画家マソリーノ(1383~1440頃)のフレスコ画を見に行った。場所はプリオーリ宮に向かって右側にある通りから南に下り、道なりに大きく右側に曲がった左側に現れる大階段と芝生の先の「サン フォルトゥナート教会(Chiesa di San Fortunato)」内にある。教会は、1198年、教皇インノケンティウス3世(在位:1198~1216)による創建で、1292年にロマネスクからゴシック様式への改修工事が始まったが、ファサードは一部未完成のまま1436年に終了している。なお、南側の後陣の先からはパノラマが広がっている。

教会内には、フレスコ画や彫像で飾られた13の礼拝堂があり、後陣に向かい右側4番目の礼拝堂の右壁面に、マソリーノの「聖母子と二人の天使(1432年)」がある。繊細な描線と温和な色彩が醸し出す静かで叙情的なマソリーノらしい作品である。
クリックで別ウインドウ開く

トーディでは、最後に、南西側の街外れの斜面の芝生内にポツンと佇む「サンタ・マリア・デッラ・コンソラツィオーネ教会」に寄った。中央部の正四角柱に大ドームを頂き(高さ約50メートル)、四方に同じ形の半ドームの後陣が囲むルネサンス的美学を反映した「集中式、ギリシア十字形プラン」(ファサードを持たない)で、1508年から100年の歳月を費やし建設されている。


扉口は、東側の後陣下部に向けて幹線道路から芝生内に直線の石畳歩道が設けられている。教会内部にはバロック様式の大きな衝立祭壇があり、他の二つの後陣には扉口左右に彫像群が並び、もう一つの後陣にはパイプオルガンが設置されている。ちなみに、お昼のピッツェリア「カヴール」に、草原の中に立つ教会が描かれた絵が飾られていた。

次に、トーディから直線距離で20キロメートルほど東にあるスポレートに向かう。道路自体は中央の山脈を南に迂回して通っているため1時間以上かかる。そのスポレートは、周囲を広大な山に囲まれた高い標高にあり、古代のフラミニア街道(ローマ=リミニ間)の東の分線に位置し、長く戦略的・地理的な要所とされてきた。中世には一帯を支配したスポレート公国(570~1198)の都として栄えた。現在は、ウンブリア州ペルージャ県にある人口約3万8000人の基礎自治体(コムーネ)である。

スポレートでのホテルは、旧市街の中心部の「リベルタ広場」北側に面した3階建ての「ホテル・オーロラ」で、1階に複数並ぶアーチ扉の一つをくぐった中庭の奥にフロントがある。この日は、FIFAワールドカップのイタリアとフランスとの決勝戦と言うことで夜遅くまで町中大変な賑わいだった。


**************************************

翌朝、街の散策に出かけるため、ホテル・オーロラへの入口と別のアーチ扉をくぐると、古い建物が密接する石畳の細い下り坂の小道(サンターガタ通り)が続いている。振り返ると上部に小さなアーチ橋が架かり、路地裏には中世時代と変わらぬ風景が今も残されている。そんな路地裏に旧サンターガタ教会、ローマ時代の円形競技場、考古学博物館などの複合施設への入口があるが、まだ開いていない。


敷地内へ入ることはできないが、リベルタ広場の西側に設けられた壁面アーチ扉から、ローマ時代の円形競技場(1世紀)の観客席や旧サンターガタ教会(12世紀)の後陣を見渡すことができる。円形競技場は中世以前の地震崩壊後、石切場になったが、近年修復されショー、コンサート、祭事などで利用されている。

リベルタ広場から、路地を東方向に進むと旧市街の外れとなり右側に眺望が広がり始める。前方の緑の大きなモンテルーコ山が迫る深さ80メートル渓谷(テヴェレ川の支流テッシーノ川が流れる)に、全長200メートルの息を飲むような巨大な「トーリ橋(塔の橋)」が架かっている。古代ローマ人により3世紀に建設された巨大な水道橋で、その後14世紀に改修された。モンテルーコ山側には、監視塔が設けられている
クリックで別ウインドウ開く

水道橋には、高い防護壁と低い手摺りに挟まれた幅2メートルほどの通路があり、歩行による横断が可能となっている。渓谷を見下す中央付近から旧市街側を振り返ると「サンテリオ丘」頂上に「アルボルノツィアーナ要塞」が望める。スペイン出身のアルボルノス枢機卿(1310~1367)の指示の下、グッビオの建築家マッテオ・ガッタポーネにより1359年から1370年にかけて建設されたもので、当時、アヴィニョン捕囚(1309~1377)下にあったローマ教皇の権威を軍事的に強化する目的があった。
クリックで別ウインドウ開く

要塞は、堅固で堂々としただけでなく快適な住居としても工夫されており、教皇ニコラウス5世(在位:1447~1455)を始め多くの教皇や、スポレートを治めたルクレツィア・ボルジア(1480~1519)などが滞在したという。しかし、16世紀以降は要塞の重要性が大幅に失われ、1764年以降は知事の住居として、1817年から1982年までは刑務所として利用された。

アルボルノツィアーナ要塞のあるサンテリオ丘の向こう側(北側斜面)に「スポレート大聖堂」(ドゥオーモ)(サンタ・マリア・アッスンタ聖堂)が建っている。旧市街中心部からは東に200メートルほどの丘の中腹に位置し、専用スロープを下った広場に面して建っている。現在の大聖堂の建設は、ローマ神殿の後に建てられた教会が前身となり、1155年、赤髭王(バルバロッサ)フリードリヒ1世(神聖ローマ皇帝、在位:1155~1190)により街を破壊された後に始まった。


当時「スポレート公国」は、自治権を持っていたが、神聖ローマ帝国の一部でもあった。「カノッサの屈辱(1077年)」以降の激化する神聖ローマ皇帝とローマ教皇との対立の中、スポレートは、教皇派から教皇領として譲渡されてしまい、双方の支配から自治を取り戻すべく戦いを開始した中での破壊であった。現在の教会と鐘楼は、街の再生と共に始まり13世紀にロマネスク様式で一応の完成をみるが、1491年にアントニオバロッシと彼の工房により、ファサードにルネサンス様式のポルチコが追加された。その後、17世紀から18世紀にかけて、大聖堂の内部はバロック様式で大規模な改修が行われている。

ファサードには、マエストロ ソルスターノによる黄金をバックにしたモザイク画「祝福を授けるキリスト」(1207年)と直径4メートルの大きなバラ窓を中心に、周囲に合計8つのバラ窓で飾られている。


大聖堂の最大の見所が、ルネサンス様式の主祭壇に描かれたフィレンツェ派を代表する画家フィリッポ・リッピ(1406~1469)によるフレスコ画「聖母の生涯」である。こちらのフレスコ画は、リッピが、フィレンツェ近郊のプラート大聖堂の大作「聖ステファンと洗礼者ヨハネの物語」を完成させて間もない頃に依頼を受け1467年から制作を始めたもの。
クリックで別ウインドウ開く

フレスコ画は、繊細な装飾が施された柱とエンタブラチュアの凱旋門からの視点で、聖母のエピソードが構成されている。最初に左側面に、白い建物内で神のお告げを受け入れるマリアが描かれた「受胎告知」があり、右側面に、家畜小屋の前で誕生したキリストにマリアが手を合わせる「キリストの降誕」がある。そして中央に描かれているのが「生神女就寝」で、最後に上部のエクセドラ(アプス)の「聖母マリアの戴冠式」へと続いている。どのエピソードも色彩豊かに繊細かつ流麗な線描で描かれている。
クリックで別ウインドウ開く

「生神女就寝」には、作者のフィリッポ・リッピ自身や息子、弟子たちが描かれ、聖母マリアは、リッピの妻ルクレツィアをモデルにしているとも言われている。

しかし、フィリッポ・リッピは、制作中の1469年に過労により転落して突然亡くなってしまう。最終的に彼のワークショップにより完成するものの、57歳での突然の死は、過去、修道女だった妻ルクレツィアと駆け落ちし修道士から還俗させられたことから、奔放な人生が招いた女性問題などが原因で毒殺された説もある。

聖堂の主祭壇手前の南(右)袖廊にある祭壇の左側に、フィリッポ・リッピが眠る墓があり、壁にはフィレンツェのロレンツォ・デ・メディチ(1449~1492)の依頼により、息子のフィリッピーノ・リッピによって設計された墓碑(1490年)が掲げられている。なお、リッピの墓と向き合う様に右側には、ローマの貴族でウンブリア州に影響力を持っていたジョヴァン・フランチェスコ・オルシーニの墓もある。

そして、聖堂の主祭壇右側の通路の先には「サンティッシマ・イコーネ礼拝堂」があり、中央には聖母が描かれた11~12世紀のビザンチンのイコンが祀られている。1185年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王バルバロッサ)から、長年の教皇との対立に一応の決着が付いた和解の印としてスポレートに寄贈されたもの。ちなみに、スポレートは1201年から教皇領となり1213年からは教皇庁により直接統治を受けることとなった。
クリックで別ウインドウ開く

スポレート大聖堂のもう一つの見所は、聖堂内部に入った最初の右側廊奥にある「エロリ司教の礼拝堂」である。1497年に司教コスタンティーノ・エロリ(在任:1474~1500)により建てられたもので、ルネサンス期の画家ピントゥリッキオ(ベルナルディーノ・ディ・ベット)(1454~1513)のフレスコ画「聖母子と諸聖人」で覆われている。 上部のアプスには、祝福を受ける父なる神が天使と共に描かれ、下部の説教壇には敬虔なキリストが描かれており、プレデッラが張り出している様に見える。


中央には、殉教の象徴とされるヤシの木と菩提樹が立つ丘の上に、ローブに身を包み、頬の赤味が印象的な聖母が、優しい眼差しで幼子を抱きかかえて座っている。聖母の左右には、洗礼者ヨハネとヒエロニムス(レオナルド)が控え、背景の港町には、聖ドミニコの説教を聞くため、多くの人が集まっているのが見える。
クリックで別ウインドウ開く

最後に、スポレート大聖堂の西側にある旧市街の中心部の「メルカート広場」にやってきた。古くはローマ時代のフォロ(広場)だった場所で、広場北側の噴水が見所となっている。モンテルーコ山からトーリ橋を経由して供給されており、現在のバロック様式の噴水は1748年に制作されたもの。中央の吹き出し口からすぐ下のボウルを経由して、地上のプールに滝となって流れ出る仕組みとなっている。プールの左右にもサイドマスクがあり吹き出し口が設けられている。
クリックで別ウインドウ開く

大きく色合いが異なるファサードの上部のペディメント部分は、1626年、フィレンツェ貴族バルベリーニ家が制作したもので、1608年から1617年までスポレート司教を務めた教皇ウルバヌス8世(在位:1623~1644)を称える碑文が書かれ、彼を始め、彼の弟や甥を含めた4人のバルベリーニ家の”蜜蜂をモチーフとした紋章”が飾られている。

広場周囲にはカフェ、リストランテ、食料品店などのお店があり、この日は、噴水前でミニコンサートが開かれていたが、昼前の午前11時にも関わらず、観客や人通りが少なく、やや寂しい印象だった。
(2006.7.8~10)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

チェコ・プラハ

2013-02-12 | チェコ
夕方、カルロヴィ・ヴァリからプラハに戻ってきた。今夜は、ヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)右岸の旧市街にある歴史的な劇場建築の一つ「エステート劇場(The Estates Theatre)」(スタヴォフスケー劇場)で、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を鑑賞した。フィガロの結婚は、1786年にモーツァルトにより作曲され、ウィーンで初演され早々に打切られるが、こちらエステート劇場では大成功を収めた記念すべきオペラである。
クリックで別ウインドウ開く

エステート劇場では、フィガロの結婚の成功により、新たに新作を依頼し、翌年にはモーツァルト自身の指揮で「ドン・ジョヴァンニ」の初演を果たしており、これらの縁により、エステート劇場では、現在もモーツァルトのオペラを中心に上演している。

そのフィガロの結婚は、セビリアにあるアルマヴィーヴァ伯爵の屋敷が舞台で、結婚式を目前に控えた、伯爵の召使いフィガロと伯爵夫人の侍女スザンナに対して、浮気心を起こしてスザンナをものにしようと企む伯爵と、何とか懲らしめようとする伯爵夫人たちが巻き起こすドタバタ喜劇である。

エステート劇場が建設されたのは1783年のことで、チェコの貴族ノスティツ伯爵(1725~1794)により、国家と芸術を司る神ミューズを称える目的で建てられた。古典様式のスタイルが採用され、今もその当時の美しい姿のまま残されている。観客席は1階席と周囲のボックスシート(1~3階)と桟敷席(4~5階)を含め650席ほどと、ややこじんまりしており、この日は1階後方席から鑑賞したが舞台全体やオーケストラピットも近く感じられた。

周囲は、青色を基調に金色の装飾が施され、天井には、赤を基調にミューズを題材とした美しい装飾が施されている。ミロス・フォアマン監督の1984年の映画「アマデウス」のオペラシーンでもそのまま使われており、まさに歴史の舞台に立った様でもあり感慨ひとしおである。
クリックで別ウインドウ開く

劇場の敷地は、東西80メートル×南北20メートルほどの長方形で、外観にはピラスター装飾に鮮やかなミントグリーンの色彩が施されているが、 午後10時過ぎの薄暗い街灯の光の中では落ち着いて見える。西側のファサードは、曲線の美しさが強調された突出した造りで、前面にペディメントとエンタブラチュアを支える古典様式の円柱で飾られている。エンタブラチュアには、祖国と芸術に捧げると言った意味の、パトリアエと音楽(Patriae et musis)と碑文が刻まれている。
クリックで別ウインドウ開く

オペラ鑑賞後は、近くにある「カフェ・ミュシャ Cafe Mucha 」で食事をした。チェコ料理中心のレストランで、ペチェナー・カフナ(ローストダック)と、魚のフライ、茹で野菜やクネドリーキ(練って茹でたパン)を頂いた。レストランの創業者はチェコ出身の画家アルフォンス・ムハ(ミュシャ)(1860~1939)とゆかりのある人物とのことで、壁にはミュシャの作品が至る所に飾られている。
クリックで別ウインドウ開く

プラハでの宿泊ホテルは、ヴルタヴァ川に架かるシュテファーニクフ橋の旧市街側にある「クラリオン ホテル」で、レヴォルチュニ通りの西側にある。レストランからは北東方面に約1キロメートルと歩けない距離ではないので、午後11時半頃までゆっくり過ごした。

*******************************************

プラハはチェコ共和国の首都で、人口約120万人を持つ同国最大の都市である。プラハ市街中心部を流れるヴルタヴァ川(ドイツ語名:モルダウ川)沿いには、様々な時代の歴史ある建物が数多く現存しており、1992年には「プラハ歴史地区」として世界遺産に登録されている。

今日は「プラハ城(Pražský hrad)」の見学に出かけることにしている。プラハ城は、かつてのボヘミア国王や神聖ローマ皇帝の居城で、世界で最も大きい城の一つと言われている。東西430メートル、南北70~140メートルの細長い敷地を持ち、プラハの街を見下ろす様に「フラッチャ二の丘」の頂に聳えている。こちらは、ヴルタヴァ川右岸(東側)のスメタナ博物館南側から「カレル橋」と「プラハ城」を眺めた様子である。
クリックで別ウインドウ開く

ヴルタヴァ川右岸の旧市街側からプラハ城へ向かうには、「カレル橋」を渡り、マラーストラナ地区(城下町)から「ネルドヴァ通り」のゆるやかな坂道を上った「フラッチャ二広場」側のプラハ城「正門」(西門)から入場するのが一般的なルートだが、この日は、ホテルから15番トラムで下流にある「シュテファーニクフ橋」を横断し、そのままヴルタヴァ川左岸沿いを進んで、マラーストラナ停留所で下車して、少し急な古城階段を上り、プラハ城の東側に建つ黒塔側の「東門」から入場した。

到着時間は概ね午前10時頃で、こちらはプラハ城内から東門の「黒塔」を振り返った様子。黒塔は、12世紀頃、要塞建設と同時に城壁門として建てられたロマネスク様式の四角形の塔で、高さ26メートルある。


黒塔に向かって右側の建物は、ボヘミア貴族ロブコヴィツ家の収集した美術館「ロブコヴィツ宮殿」 で、左側には、おもちゃ博物館や、「黄金小路」と名付けられた100メートルほどの狭い路地がある。プラハ城の敷地内には無料で入場できるが、城内の各施設へは別途チケットが必要となる。

その黄金小道へは、予め購入しておいたプラハカードでチケットを取得して入場した。敷地内には、色とりどりの古いアパートが並び、中世の鎧や、槍、衣装などが展示され、お土産や、書籍なども販売されている。入口に22とかかれた青い家は、チェコの作家フランツ・カフカ(1883~1924)が仕事場として1年ほど使用しており、一番の観光名所となっている。すぐそばに、フランツ・カフカのカフェもある。


プラハ城内の東西を横断する中央通りを西に向け歩いて行くと、大きな広場に到着する。前方西側には「聖ヴィート大聖堂」の後陣が望め、振り返った東側には「聖イジー教会」が建っている。聖イジーとは、古代ローマ末期の聖人で、ドラゴン退治の伝説でも有名な聖ゲオルギオスのチェコ語表記である。上部ペディメントには、騎馬姿の聖イジーがドラゴンを退治する浮彫装飾が飾られている。


プラハ城が最初に建設されたのは9世紀(870年頃)とされるが、はっきりしない。聖イジー教会の赤いファサードは17世紀後半にバロック様式で造られたが、もともとは、920年にプシェミスル朝(ボヘミア公)ヴラチスラフ1世(905/15~921)により木造建築で建てられたプラハ城内では最も古い教会で、973年にはベネディクト会系女子修道院が併設されている。ちなみに、ヴラチスラフ1世の長男が、ヴァーツラフ1世(在位:921~935)で、チェコの守護聖人聖ヴァーツラフとしても知られ、真のキリスト者にして国と民族を守った英雄として今も語り継がれている。

教会内は、身廊壁に小さな三連アーチの窓、木製の平天井、40メートルの高さの大きなアプスなど、ロマネスク様式で建てられている。これは、1142年のプラハ城火災後に、石造りで改修されたことによる。そのアプスには「聖母戴冠」が、手前には「天のエルサレム」が描かれたフレスコ画があるが、剥落して大半が失われている。
クリックで別ウインドウ開く

そしてそのアプスの南隣りには、リュドミラ(ルドミラ)の生涯が描かれた天井画「聖リュドミラ礼拝堂」がある。リュドミラ(860~921)とは、少年ヴァーツラフ1世を、信仰篤いキリスト教徒として育てた祖母であり、摂政を務めた人物。当時のボヘミアは、まだキリスト教を受け入れ始めた時期で、リュドミラは、非キリスト教徒のヴァーツラフ1世の母ドラホミーラとの対立を深め、最後は自身のベールで絞殺され聖人となった。その後も、ボヘミアの守護聖人として崇敬されている。

主祭壇は、3つのアーチ窓を背景に、鉢が飾られた木製の祭壇と左右の椅子だけが置かれた簡素なものとなっている。また、祭壇の表面には、聖イジーの浮彫で装飾されているが、馬上姿ではなく聖イジーがドラゴンの上に跨る姿勢で槍を指し退治している。


祭壇の左右バロック階段の下には、地下に下りる階段があり、ボヘミア公・ボヘミア王家プシェミスル朝の歴代公王の遺骨が埋葬された礼拝室(クリプト)がある。そして、左右バロック階段下の南身廊側に置かれた切妻造の木棺はヴラチスラフ1世の墓で、その南側廊には聖リュドミラの彫像墓石が置かれている。彫像は、胸元で手を合わせ祈り、ベールをひも状にして首に巻きつけられた姿で横たわっている。。

聖イジー教会の南西角には、フレスコ画が描かれたドーム天井がある細長い立方体の小礼拝堂が隣接している。その礼拝堂東面に1722年に建設されたバロック様式の渦巻き形状の柱を持つ「聖ヤン・ネポムツキ―」(ネポムクの聖ヨハネ)の祭壇が飾られている。なお、右側には、聖母子像が描かれたやや小ぶりの木製祭壇がある。


聖ヤン・ネポムツキ―(1340頃~1393)の彫像は、チェスキークルムロフの旧市街でも飾られていたが、ボヘミアの守護聖人として大変有名な人物。14世紀ボヘミアの司祭、ローマ・カトリック教会の聖人で、ボヘミア王ヴァーツラフ4世(在位:1378~1419)とカトリック教会との対立で、拷問を受けて亡くなり、カレル橋から投げ捨てられたが、その後発見され埋葬された。1729年に列聖され、墓碑は向かい側の「聖ヴィート大聖堂」に納められている。

次に、プラハ城での大きな見所の一つ「衛兵の交代式」が行われる午後12時が近づいていることから、急ぎ「聖ヴィート大聖堂」と南側の大統領府との間の「第三の中庭」(プラハ城中心部)を通過してプラハ城の正門(西門)に向かった。
クリックで別ウインドウ開く

衛兵の交代式自体は、プラハ城の正門(西門)で、毎時ジャストに行われるが、午後12時の交代式が音楽隊のファンファーレなど最も盛大な中で行われ人気が高い。時間ギリギリに、プラハ城内の「第一の中庭」にやってきたが大混雑していた。この時間は、正門からの入退場も封鎖され、正門外のフラッチャ二広場側も同様に大混雑している。背伸びして僅かに見られたほどだった。
クリックで別ウインドウ開く

ところで、フラッチャ二広場の右側にある白い建物は「大司教宮殿」で、広場を挟んで左側の建物が「ナショナルギャラリー」で、チェコスロバキア共和国の初代大統領トマーシュ・マサリク(在任:1918~1935)の銅像がこちら(プラハ城)に向いて建っている。

正門の角柱の上には、フラッチャ二広場側に向いて「闘う巨人像」と呼ばれる二体の像が飾られている。1771年、彫刻家イグナーツ・ブラツェルにより制作されたもので、左右にはハプスブルク家の象徴である「鷲の像」や、ボヘミア王家の象徴である「ライオンの像」、「キューピット像」なども飾られているが、現在は全て複製に置き換えられている。
クリックで別ウインドウ開く

衛兵の交代式が終わって、再び、正門側(西門)からプラハ城中心部に戻ることにした。「第一の中庭」から、17世紀に造られた初期バロック様式の「マティアスの門」(※夕方の大司教宮殿前側からの画像)(神聖ローマ皇帝マティアス(在位:1612~1619)に因む)をくぐり、バロック様式の噴水のある「第二の中庭」(1687年築)を経由して、プラハ城の中心部「第三の中庭」に到着する。

プラハ城の中心部となる「第三の中庭」には敷地の大半を占める「聖ヴィート大聖堂」が聳えている。その大聖堂の南側廊が広場で、向い側に大統領府、旧王宮と政治の中枢となる建物が続いている。

大統領府(大聖堂南塔の展望台からの様子)は、チェコスロバキア共和国の設立に伴い、初代大統領トマーシュ・マサリクの後援の下、スロヴェニアの建築家ヨジェ・プレチニック(1872~1957)によって設計された。その後チェコ共和国になった現在も利用されている。ちなみに大統領が在館の時はポールにチェコ国旗が立つことになっているので、今日はいらっしゃるらしい。


その大統領府を守る様に、中庭にはドラゴンを退治する「聖イジーの騎馬像」が飾られている。ただし、こちらは複製で、14世紀に造られたオリジナルの騎馬像は王宮内部に保存されている。


「第三の中庭」では、大統領府の東隣りにある「旧王宮」を見学した。王宮の建設は10世紀頃で、その後16世紀まで歴代のボヘミア王の宮殿だった。こちらは旧王宮内にある後期ゴシック様式のアーチ型のホール「ヴラディスラフ・ホール」で、東西62メートル×南北16メートル、高さ13メートルと、当時世界最大級と言われた。ドイツ人の建築家ベネディクトリード(1454~1536)の指導の下、1502年頃に建設され、現在も当初の形で保存されている。


美しい形をした花弁文様のリブ・ヴォールトが特徴で、この大きなホール空間を支えている建築技術の高さにも驚かされる。戴冠式などの国家的行事で使用され、現在も大統領選挙などで使用されている。こちらはホールの東側から西側を眺めた様子である。

ヴラディスラフ・ホールの東端の北隣には、ボヘミア王ウラースロー2世(在位:1471~1516年)治世に建設された「議会の間」がある。こちらは1861年まで議会会場として使用されたが、その後は近くのトゥーン宮殿に移管されている。左側には白いルネサンス様式のポータルが設置され、左側の黒い扉は、土地台帳などのある保管庫に通じ、右側の白い扉は、外に通じる乗馬階段(傾斜が緩やかな階段)となり、馬に乗ったまま駆け上りポータルまで来ることができた。また、ホールへの非常口や運搬ルートとしても活用された。


手前の壁にはオーストリア女大公(ボヘミア女王)マリア・テレジア(1717~1780)、息子のヨーゼフ2世(1741~1790)、レオポルド2世(1747~1792)などの肖像画が飾られている。

ヴラディスラフ・ホールの東壁に設置された高さ1メートルほどの階段を上り、ボヘミアの紋章が飾られたアーチ門をくぐると、目前に「オールセインツ教会」の内陣が現れる。12世紀に創設され、1386年に現在の姿となり、その後数度の改修がなされている。ルネサンス様式の単一身廊と、ゴシック様式の聖歌隊席で構成されている。


最後に「聖ヴィート大聖堂」を見学する。聖ヴィート大聖堂は、925年、ヴァーツラフ1世(聖ヴァーツラフ)(在位:921~935)が、東フランク王ハインリヒ1世から聖遺物(ルカニアの聖ヴィトゥス)を与えられ、現在の聖ヴィート大聖堂の南塔付近に小さなロトンダを建築したことに始まる。11世紀に同場所に大きなバジリカが建設されたが、現在のゴシック様式の大聖堂の建設は、1344年にフランス人建築家マティアの設計で始まった。

その後、ドイツ人建築家ペトル・パルレーシュ(1333頃~1399)が継承するものの、カレル橋や他の多くの教会建設が重なるなど遅々として工事は進まず、15世紀前半には「フス戦争」で工事が停止し、聖像破壊運動で被害を被った。15世紀後半にようやく南塔(高さ99メートル)が完成するが、財政逼迫で工事は打ち切られる。1873年、ファサードにゴシック様式の2つの塔(高さ82メートル)の建設が始まり、全ての工事が終了したのは、建設開始から約600年の歳月が費やされた聖ヴァーツラフの没後1000年となる1929年のことであった。
クリックで別ウインドウ開く

南側の広場から、全体をカメラで収めようと試みるが巨大な姿に圧倒される。中でもトレサリーや立ち並ぶ尖塔などゴシック建築の精緻な装飾は目を見張るものがある。正面の南塔の頂部は、ルネサンスとバロックの要素が取り入れられている。上部の尖塔アーチに時計があり、更に下のコーニスの間にも、もう1台設置されているが、上の時計が時間を、下の時計が分を表している。

南塔の右隣の南袖廊の下には3つの尖塔アーチ「黄金の門」があり、上部壁面に1370年頃に制作された「最後の審判」の3つのモザイク画がある。中央のキリストは、苦しみの道具を運ぶ天使に囲まれた裁判官で、その下に聖プロコピウス(Prokop、~1053)、聖ジギスムント(Zikmund、~524)、聖ヴィート(聖ヴィトゥス)、聖ヴァーツラフ、聖リュドミラ(ルドミラ)、聖アダルベルト(Vojtěch、956~997)の6人の聖人が仲裁者として表現されている。
クリックで別ウインドウ開く
碑文の下には、神聖ローマ皇帝で、ボヘミア王のカール4世(1316~1378)と、彼の4番目の妻エリーザベトが傅いている。両脇は、聖母マリアと洗礼者ヨハネで、背後に使徒が6人ずつ配され、左下では、死者が蘇り天使が迎え、右下では、大天使ミカエルと、地獄に落ちた罪人の姿が表現されている。

大聖堂の内部は、高さ34メートル、幅60メートル、奥行き124メートルの大空間となっている。大聖堂を設計、建築した建築家ペトル・パルレーシュは、天井を初期ゴシック様式の交差ヴォールトの様に1本ではなく2本とし、いわゆるパルレーシュのヴォールトと呼ばれる編み目を構成するネット・ヴォールトを開発し採用している。


聖ヴィート大聖堂で最大の見どころの一つが「アルフォンス・ムハ(ミュシャ)」が制作したチェコ芸術の最高傑作と言われる、ステンドグラス「聖キュリロスと聖メトディウス」で、大聖堂の入口側から3番目の身廊北側に飾られている。
クリックで別ウインドウ開く
キュリロスとメトディウスは、9世紀にモラヴィア王国(現在のチェコの東部)を始めスラブ地方でキリスト教の布教を行った神学者の兄弟で、キリル文字の元を作ったことでも知られている。周囲の青を基調とした場面が、キュリロスとメトディウスの生涯で、中央に赤を基調に、少年のヴァーツラフ1世と祖母リュドミラ(ルドミラ)が配置され、ボヘミアがキリスト教を受け入れていった歴史が表されている。

内陣には周歩廊があり5つの礼拝室に分かれている。その南東側の礼拝室の向かい側に「ネポムクの聖ヨハネ(聖ヤン・ネポムツキ―)の墓碑」が置かれている。1736年にフィッシャー・フォン・エルラッハ(1658~1705)により、約2トンの純銀を使って制作されたもので、周囲を、天使や騎士が護る姿で彫刻された大変豪華なものである。
クリックで別ウインドウ開く

聖ヴィート大聖堂の中で最も重要とされるのが、神聖ローマ皇帝カール4世が12世紀に建てさせた「聖ヴァーツラフ礼拝堂」で、衝立には、チェコの守護聖人となったヴァーツラフ1世の生涯とキリストの受難が描かれ、紫水晶、瑪瑙など宝石と金箔で覆われている。南の壁の右側にある扉の先にある部屋には、カール4世が自身の戴冠式の為に1347年に制作させた、聖ヴァーツラフへと捧げられた「聖ヴァーツラフの王冠」が、他の戴冠用宝飾と共に保管されている。王冠は、1836年に行われたフェルディナント1世の戴冠式に用いられたのが最後で、現在は非公開。扉には7つの錠で閉じられ、大統領、市長、大司教などの7人により鍵が保管されるなど、厳重に管理されている。
クリックで別ウインドウ開く

次に、聖ヴィート大聖堂の南塔の展望台に上ってみた。展望台は、プラハカード対象外となるため、別途チケットの購入が必要となる。入口は南塔の真下にあり、展望台は287段を上った56メートル地点となる。その展望台からは、ヴルタヴァ川に架かる両側に大きな黒い塔の建つ「カレル橋」やその先の「旧市街」など、プラハ市内の美しいパノラマを一望できる。手前のマラーストラナ地区には、左側の細い尖塔とドームの「聖トマーシュ教会」や、右側の大きなドーム(直径20メートル)の「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)などが望める。
クリックで別ウインドウ開く

東側には、聖ヴィート大聖堂と向かい合う様に赤いファサードの「聖イジー教会」が建っている。聖イジー教会の2本の白い尖塔は、サイズが異なり、向かって左側の幅の狭い尖塔が”イヴ”で、右側の聖ヤン・ネポムツキ―小礼拝堂の後方の幅の広い尖塔が”アダム”と呼ばれている。手前の右下のコの字型の建物は「旧王宮」である。
クリックで別ウインドウ開く

「聖イジー教会」の後方に、プラハ城東門に建つ「黒塔」が見える。この場所から見るプラハ城内の建物群は、まるで、巨大な軍艦の船首側の様であり、艦橋から眺めている気分になる。

視線を上げると、プラハ市内を南から流れてきたヴルタヴァ川が、大きく東に曲がって流れる様子が確認できる。右側の大きな橋は、カレル橋の隣に架かる「マーネス橋」で、そのマーネス橋を渡った先に建つゴシック様式の尖塔が「プラハ旧市街広場」になる。そして、マーネス橋の左側(下流)に架かる橋は、レトナー公園とユダヤ人街区からプラハ旧市街広場への通りを結ぶ「チェフーフ橋」で、その次が今朝トラムで横断した「シュテファーニクフ橋」となる。
クリックで別ウインドウ開く

そして、こちらが北側の様子。目の前の塔は、中央交差部に建つ小塔で、北袖廊のすぐ先の緑がプラハ城の北の堀(鹿の堀)で、その堀を挟んで「クラーロヴスカー庭園(カレル庭園)」が広がり、先にプラハ市北西(プラハ6)ブベネチュ地区の街並みへと続いている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは、西側のファサードに南北に建つ2本の尖塔で、その南側の尖塔の左下方が、建物で囲まれた「第二の中庭」となる。第二の中庭には、聖十字架礼拝堂の尖塔や、尖塔の下にある「第一の中庭」側の「マティアスの門」に通じるアーチ門も確認できる。
クリックで別ウインドウ開く

その先には「フラッチャ二広場」から続く通りが西に延びている。次に、その通りを行った前方右奥に見える横長の建物「チェルニン宮殿」の先にあるレストランで昼食を食べ、その後は、近くの「ロレッタ教会」や、すぐ南の「ぺトシーンの丘」の南麓(ストラホフ地区)にある「ストラホフ修道院」などの見学に向かう予定にしている。

プラハ城の正門(西門)から、西に10分ほど歩き、南北に延びるケプレロヴァ通り沿いにある「ホテル・サヴォイ」のレストラン・フラッチャ二・サヴォイ(Restaurant Hradčany Savoy)に到着した。時刻は午後1時50分を過ぎていた。


こちらのお店は、チェコ料理が美味しく、雰囲気、サービスともに良いとの評判を聞いてやってきた。前菜は、サラダと、豚肉の燻製ハムのスライスで、メインの魚料理は、中はふっくら、外はしっかりソテーされるなど焼き具合も良く、付け合わせのホワイトとグリーンのアスパラガスも食感が異なり、フレンチ感覚もあり中々素晴らしい。


肉料理はかなりのボリュームがあり、ソースと付け合わせの焼きネギや香草系の野菜との相性も上々。ポテトサラダ状に練って固め焦げ目を付けたジャガイモも手が込んでいる。料理は、見た目も味もワンランク上といった感じで、やはりチェコビールとの相性が良い。注文したビールは、プルゼニで見学したプルゼニュスキー プラズドロイ醸造所のピルスナー・ウルケルだった。


午後3時過ぎに、レストランを出て、ケプレロヴァ通りを南に向かい、突き当りの「ストラホフ修道院醸造所」を大きく西側から回り込む様にして南側にある「ストラホフ修道院」(Strahovské nádvoří)のバロック門に到着した。

バロック門をくぐり、公園内に続く緩やかな石畳の道を東に向け歩いて行くと、ストラホフ修道院の「聖母被昇天大聖堂」のファサード前に到着する。1143年、プラハのヨハネ司教ジンドリック・ズディクとボヘミア公で初代ボヘミア王のヴラチスラフ2世(1035頃~1092)によりプレモントレ修道会(厳格な観想修道生活と托鉢修道会との間に生まれた)の修道院として創設された。もともとはロマネスク様式だったが、後にバロック様式で再建されている。


拝廊側に鍵がかかった鉄格子があり、身廊内に立ち入ることはできなかった。主祭壇は、外枠の円柱と内枠の捻(ねじ)り柱のバロック様式の大理石祭壇で、中央に金の浮彫レリーフで「聖母の被昇天」が表現され、手前にはキリストの磔刑像が飾られている。天井もバロック様式で装飾され、左右の身廊壁アーチには、合計10基の側祭壇が設置されている。


ストラホフ修道院の最大の見所は、聖母被昇天大聖堂の南側の建物内にある「世界で最も美しい図書館」である。図書館は、東西に隣接した2つの中庭を持つ建物の2階にあり、西翼北側の1階が入口となる。2階に上がると、白漆喰のヴォールト天井の廊下があり、廊下沿いに木製家具や展示ケースが並び、装飾写本や蔵書が展示されている。他に、中国の玉、瑪瑙、珊瑚などの置物、仙人像や仏像、日本の伊万里茶碗や天狗面なども展示されており多少違和感があった。


世界で最も美しい図書館は、廊下の突き当り右側にある「神学の間(Teologickýsál)」で、精緻な装飾が施された豪華なバロック天井で覆われている。1679年に修道院長(哲学者、神学者)のジェロニーム・ヒルンハイムが建設したもので、その後も、歴代の修道院長により、修理、再建がなされている。1950年以降は国の施設となるが、ビロード革命以後は、修道院とともに、プレモントレ修道会に返還されている。現在も図書館には図書、写本、版画など約20万点が所蔵されている。
クリックで別ウインドウ開く

こちらは廊下の手前にある「哲学の間(Filosofický sál)」で、1779年、修道院長のヴァルカフ・マヤールにより、モラヴィア地方にあった廃止修道院からの図書を移設するために新たに建てられた。天井のフレスコ画はオーストリアの画家フランツ・アントン・モールベルチュ(1724~1796)によるもので、人類の精神的な発展がテーマとなっている。
クリックで別ウインドウ開く

図書館の見学を終え、ストラホフ修道院の「聖母被昇天大聖堂」北側外壁に沿って白壁と赤い屋根を見上げながら、東側に歩いて行く。


東側に聳えるバロック様式の2本の尖塔を通り過ぎた先にある小さな公園からは「ラウル・ワレンバーグ・プロムナード」と呼ばれる緑の中の散策道が続いているのが見える。眺望の良い場所で、左側のスイス大使館、プラハ城の聖ヴィート大聖堂などが建つ「フラッチャ二の丘」から麓にかけて広がるプラハの街並みが一望できる。この時間雲一つない快晴となり、赤い屋根と青い空とのコントラストが素晴らしい。
クリックで別ウインドウ開く

散策道を進み、スイス大使館から左右に回り込む様にして、北へと通りを進むと、大きな時計塔をファサード上部に備えた「ロレッタ教会」が右側に見えてくる。1626年にイタリアの建築家ジョバンニオルシにより作られた教会で、内側に大きな中庭を持っている。
クリックで別ウインドウ開く

その中庭には、聖母マリアがイスラエルで受胎告知を受けたとされる家「サンタカーサ」のレプリカが設置されている。教会名のロレッタとは、イスラエルにあったサンタカーサが、天使たちによってイタリアのロレッタ村に運ばれた伝説に因んでいる。サンタカーサの外壁には、イザヤ、預言者モーセ、預言者エレミヤ、ダビデ王などの彫像と浮彫レリーフが飾られている。浮彫レリーフは、聖母マリアの生涯を題材としたもので、手前の西側には、受胎告知とエリザベト訪問が刻まれている。
クリックで別ウインドウ開く

サンタカーサの内部の壁面や礼拝堂も、ロレッタ村にあるオリジナルに従って忠実に再現されている。礼拝堂には、杉の木で造られたマリアの巡礼像が銀のレリーフに納められている。


プラハ城「西門」(正門)前に戻ってきた。フラッチャニ広場は昼間の混雑が嘘の様に静まりかえっている。これからフラッチャニ広場越しに僅かに見えるドームの教会「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)に向かう。
クリックで別ウインドウ開く

フラッチャニ広場からトフノブスカ通りの階段を下って行くと、すぐにマラーストラナ広場に到着する。その東隣に「聖ニコラス教会」(聖ミクラーシュ教会)が建っている。もともとは13世紀のゴシック教区教会で、ミラのニコラオスに捧げられていたが、1775年にはイエズス会により再建され、現在ではプラハを代表するバロック教会と言われている。西側ファサードは起伏がある特徴的な外観で、聖ペトロと聖パウロ、イエズス会のイグナティウスとフランシスコ・ザビエルの彫像が飾られている。


午後6時からコンサートが開催されるとのことで、少し前から着席していたが、すぐに観客で一杯になった。金と大理石の彫像群で飾られた美しい主祭壇を背景に奏でられる歌と演奏は、天井から差し込む光と相まって一層荘厳な雰囲気につつまれる。主祭壇の上部には黄金の聖ニコラス像が飾られ、49メートルの高さにあるドーム天井には、バロック画家ヨハン・ルーカス・クラッカー(1717~1779)によるフレスコ画「聖ミクラーシュの生涯」が描かれている。なお、モーツァルトは、プラハに滞在していた際、こちらの教会でオルガン演奏している。
クリックで別ウインドウ開く

1時間ほど鑑賞した後、次に、午後8時からのスメタナとドボルジャークのコンサートを聴きに旧市街にある「プラハ市民会館」に向かう。

カレル橋を渡り、旧市街広場からツェレトナー通りを東に進むと、プラハのランドマーク「火薬塔(The Powder Tower)」が見えてくる。1475年に建てられた旧市街を護っていた城門の塔門の一つで、18世紀からは銃の火薬庫としても使われたが、老朽化から1886年に、カレル橋の橋塔をモデルに疑似ゴシック様式で現在の姿に建て替えられた。65メートルの高さで展望台が設置されている。火薬塔の下部が接続する左側の建物が目的の「プラハ市民会館」で、門をくぐり、左に回り込むと到着する。


1正面口の上部には、豪華な飾り迫縁やスタッコ彫像で飾られたアプスを思わせる大きな半ドームがあり、寓話的要素を盛り込んだモザイク画が施されている。もともと、この場所には、14世紀から15世紀にかけてボヘミア王が住む宮廷があったが、1912年にアールヌーボー様式で「市庁舎」が建設された。現在は「プラハ市民会館」となっており、クラシック コンサート、オペラ、バレエが上演されるほか、ファッション ショーなどのイベントも行われている。


コンサートは1,200名収容可能な大ホール「スメタナホール」で行われた。チェコを代表する作曲家スメタナに因んで名付けられ、プラハ交響楽団のメインコンサートホールでもある。鋼鉄リベットで支えられたアールヌーボー様式の幅の広いアーチ天井で、天井の中央に円形窓と前後対象に帯状の小窓が設置された開放的な造りである。中央のパイプオルガンは、4,000を超えるパイプがある世界でも最大級のもので、中央にスメタナの横顔レリーフが飾られている。左右両側には、スメタナの「わが祖国」とドヴォルザークの「スラヴ舞曲」を象徴するスタッコ彫刻が飾られている。
クリックで別ウインドウ開く
コンサートは、スメタナの「わが祖国~モルダウ~」やドヴォルザークの「新世界より」など日本でも大変馴染みのある曲で凝縮された1時間だった。

プラハ市民会館には、他にもホール、サロンやカフェなどがあり、ほぼ毎日数回実施されるガイドツアーで見学することができる。ちなみに、こちらはガイドツアー最大の見所の一つ「市民の間」(プライマーホール)で、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)がスラブ民族を題材とした装飾を手がけている。天井の円形フレスコは「スラブの団結」で、中央にスラブの人々を守る鷲が描かれ、側面には、天井を支える様に、スラブの歴史を支えてきた歴史上重要な人物が配されている。


コンサート終了後は、西に500メートル行った、プラハの心臓部と言われる「プラハ旧市街広場」を散策した後、レストラン・オレンジムーンに向かった。プラハ3のオルシャニ墓地の西側にある老舗の本格的なタイ料理レストランで、トムヤンクン、春巻き、タイカレーなどを頂いた。評判通り大変美味しかった。

*******************************************

今朝は、午前9時過ぎにプラハの最も有名な観光地の一つ「カレル橋」にやってきた。最初に、旧市街側の袂に建つ橋塔「オールドタウン・ブリッジタワー」をくぐる。この塔は14世紀後半の建築で、プラハの聖ヴィート大聖堂の建設に携わった建築家ペトル・パルレーシュ(1333頃~1399)と彼の工房によるもので、ゴシック建築の最高傑作とされている。


30年戦争の際にはスウェーデン軍によって大きな被害を受けたが、その後修復され、1874年から1878年には、チェコの建築家ヨーゼフモッカーの指導の下で大規模な再建が行われた。かつて橋の通行税の徴収場所としての機能や、侵攻してくる敵からプラハの街を守るための見張り台の役割も果たした。そのオールドタウン・ブリッジタワーをくぐると「カレル橋」になる。カレル橋はその名前の由来となった神聖ローマ皇帝カール4世(カレル4世)の命のもと、橋塔の建設と同じ、建築家ペトル・パルレーシュによって設計され、1357年に建築が開始、約45年の月日をかけ1402年に完成した。
クリックで別ウインドウ開く

カレル橋の左右欄干には、それぞれ15体ずつ合計30体の聖人像が飾られている。中でも、5番目の左側にある彫像は、日本人にもお馴染みのフランシスコ・ザビエル(1506~1552)像で、数人の大男が抱える台座の上に飾られている。ザビエルは、イエズス会創設者の一人で、当時ポルトガル領だったインドや日本などアジアを中心に宣教活動を行った。こちらの像は、ザビエルがインド人首長に洗礼(バプテスマ)を行う姿を表現したもの。1711年、フェルディナンド・ブロコフにより制作されたが、1890年のヴルタヴァ川洪水の際に破壊され1913年にコピーとして制作された。


12番目の左側にある彫像は「聖ルトガルディスの夢」と題されたブラウン(1684~1738)のバロック彫刻の傑作で、オリジナルは、国立博物館に収蔵され、こちらには1995年制作のコピーが飾られている。ルトガルディス(1182~1246)とは、フランドル地方のシトー会修道女で、キリストの受難を瞑想する際、宙に浮き、頭から血を流したとされ、スティグマータ(聖痕を受けた者)として捉えられている。彫像は、幻視(ヴィジョン)として現れたキリストが、彼女のために身をかがめて語り掛ける姿を表現している。


中央付近の右側手摺りには、聖ヤン・ネポムツキー(ネポムクの聖ヨハネ)の遺体を投げ捨てたとされる場所を十字架で表している。この場所から少し先の8番目の像が、聖ヤン・ネポムツキー像で、30体の聖人像の中で、唯一銅製の彫像となっている。頭の上には金色の5つ星が輝き、手には金色の棕櫚の葉を持っているのですぐに分かる。


その聖ヤン・ネポムツキー像の台座レリーフの2枚の銅板に触れると一生の幸運に恵まれるという言い伝えがあることから、多くの観光客が列を作って順番を待っている。レリーフは、毎日触れられていることから光り輝いている。


13番目の左側にある像はプラハの聖アダルベルトで、11世紀にプラハ司教を務め、ボヘミア、ポーランド、ハンガリー、プロイセンの守護聖人となった聖人。他にも10番目左側に聖ウィンケンティウスと聖プロコプ、12番目に聖カイエタヌス、15番目右側に3世紀末の小アジアで活動した双子の医者、聖コスマスと聖ダミアヌスの像などが飾られている。カレル橋の終点には、旧ユディット橋の小さな橋塔と、旧市街側の橋塔(オールドタウン ブリッジタワー)と併せて建設された大きな橋塔(レッサータウン・ブリッジタワー)の2つの橋塔が建っている


この後、ホテル最寄りの「シュテファーニクフ橋」にトラムで移動し、ヴルタヴァ川を渡った北岸のホレショビツェ地区にある「ナショナルギャラリー」で絵画鑑賞して過ごした。館内には、ピカソ、モネ、ゴッホ、ロダン、ゴーギャン、セザンヌ、ルノワール、シーレ、ムンク、ミロ、クリムトなどの近代美術絵画を始め、アルフォンスミュシャ、オットーグットフロイント、フランティセッククプカなどのチェコの絵画や彫刻などが展示されている。2時間ほど鑑賞して、旧市街に戻った。

昨夜コンサートで訪れた「プラハ市民会館」のガイドツアーに参加して館内を見学した後、昨夜に引き続き「プラハ旧市街広場」にやってきた。広場の位置関係は、概ねカレル橋とプラハ市民会館との中間地点にある。11世紀頃から教会や商人たちの住居が建てられ、それに伴い広場が形成されてきた。プラハ歴史地区の中心地であり、周囲には、プラハの歴史を見続けてきた様々な時代の様式の建物が建ち並んでいる。

広場の中央、やや北寄りには、ヤン・フス(1369頃~1415)の銅像が広場南側を向いて建っている。コンスタンツ公会議で、自らにおける信念を通して有罪になり火あぶりの刑に処せられたチェコ出身の宗教思想家で、1915年に死後500周年を記念して建立された。
クリックで別ウインドウ開く

東側後方のロココ様式の建物は、プロイセンゴルツ家のゴルツ伯爵(~1765)の「ゴルツ・キンスキー宮殿」で、現在は、17世紀から20世紀までのチェコ風景画コレクションを展示する国立美術館となっている。そして、右側には、14世紀半ばから16世紀前半にかけてゴシック様式で建てられた「ティーンの前の聖母教会」が聳えている。ティーンとは税関を意味しており、税関がそばにあったことから名付けられた。西側ファサードは中ほどから前面の建物に直結して建っている。

左側に視線を移していくと、旧市街広場の西隣にある緑の公園に面して北側に「聖ミクラーシュ教会」が建っている。1737年にドイツ出身のチェコの建築家キリアン イグナツ ディーンツェンホファー(1689~1751)によりバロック様式で再建(創建は1273年)された。身廊中央部の大きなドームが特徴で、南側のファサードの両側に2本の塔が聳えている。なお、マラーストラナ広場に建つ聖ミクラーシュ教会と同じ名前だが、関係はなくそれぞれ別の教会である。
クリックで別ウインドウ開く

教会内部は白とピンク色の大理石を基調に金の装飾が施されている。皇帝の王冠をデザインした巨大なシャンデリアは、1880年にロシア皇帝アレクサンドル2世(在位:1855~1881)によって地元の正教会に寄贈されたもの。重さ1,400キログラムある。


天井のフレスコ画は、1736年にバイエルンの画家コスマ ダミアン アサム(1686~1739)によって制作されたもので、ミラのニコラオス(270頃~345頃)の生涯が描かれている。


緑の公園を挟んで南側には、大きな時計塔が聳えた初期ゴシック様式の旧:市庁舎(13~14世紀築)が建っている。その時計塔の南面には、プラハを代表する観光名所「プラハの天文時計」(プラハのオルロイ)がある。1410年に文字盤、1490年頃に暦表盤と装飾が追加され、その後は修復が繰り返されたが、17世紀後半に彫像群が追加され現在に至っている。
クリックで別ウインドウ開く

天文時計の上下2つの円盤の内、上が空の太陽や月の位置などの天文図を示すための文字盤で、その下が月々を表す浮き彫りの暦版である。文字盤左右には2体ずつ計4体の彫像が配置され、一定の時間になると動き出し死神が鐘を鳴らす。その鐘の音に合わせて上部の2つ窓から12使徒の像が現れる(使徒の行進)細工となっている。ちなみに、時計塔にはエレベーターが設置され、展望台からはプラハ市内を一望できる。

その後「旧市街広場」から300メートルほど北西側にある「国立マリオネット劇場」で「ドン・ジョヴァンニ」の人形劇を鑑賞した。プラハで初演されたモーツァルトのゆかりのある演目で、ほぼ毎夜、午後8時から上演しており、子供向けだけでなく大人も楽しめる大衆娯楽として人気がある。特に人形のコミカルな動きが会場の笑いを誘っていた。


終演後、近くのチェコ料理レストランで食事をしてホテルに戻った。日程が限られた中、見所が大変多かったこともあり、駆け足の観光になってしまったが、これでチェコ旅行は終わりである。翌朝、午前9時過ぎの飛行機に乗り、モスクワを経由して日本(成田空港)に帰国した。
(2005.6.27~29)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする