カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

カリフォルニア(その1)

2013-02-17 | アメリカ(カリフォルニア)
昨日、午後4時5分、成田空港発ユナイテッド航空(UA838便)で、今朝午前9時18分(時差-16時間)サンフランシスコ国際空港に到着した。空港からは「バート、BART」(ベイエリア高速鉄道)に乗り換えて、先程2ndストリート沿いにあるマリオットホテルにチェックインをしたところ。これからケーブルカーに乗りポーク・ストリートに昼食を食べに行くことにしており、まずは2ndストリートを北西方面に向かう(サンフランシスコ概略図参照)。

  
正面に建つ高層ビル手前の、左右に延びるマーケット・ストリートを左折して南西方面に向かう。こちらは、バス、トロリーバス、路面電車、バートなどの公共交通機関が充実する市内で最も華やかなメインストリートで、通り両側には、街路樹の並ぶ広い歩道が続き多くの人が往来している。


マーケット・ストリートをしばらく歩くと、バートのパウエル駅となり、通り向かいから北方向にパウエル・ストリートが延びている。ここに、ケーブルカーの始発駅「パウエル停留所」(パウエル・ブールバード & マーケット・ストリート停留所、Powell Street & Market St)があり、周囲には多くの人が集まっていた。周囲が混雑していたことから、北側から停留所を眺めると、車両全体を望むことができる。因みに、マーケット・ストリート南側の大型の建物は、ウェストフィールド サンフランシスコセンター(ショッピングモール)である。
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サンフランシスコのケーブルカーは、1873年に開業し1890年までの間に23路線が存在したが、現在は3路線のみの運行となっている。その内の2路線は、こちらのパウエル停留所を起点とし、中華街(チャイナ タウン)付近まで線路を共有した後「メイソン線」(Powell-Mason)(ピア39埠頭にほど近いベイ・ストリートとテイラー・ストリートの交差点手前を終点)、と「ハイド線」(Powell-Hyde)(サンフランシスコ海事国立史跡公園を終点)に分岐して運行している。


そして、もう一つの路線は、カリフォルニア・ストリート(北へ約800メートル行った東西に延びる通り)を「カリフォルニア・ストリート線」(California Street)として運行している。

「メイソン線」と「ハイド線」は合計28両の車両を所有している。車両は、構造上、一方向にしか走行できないため、起点と終点で車両の方向を変える必要がある。具体的には、板張りの円形の転車台(ターンテーブル)中央まで車両を移動し、背板の付いたポールを人力で押して車両の向きを変える「ターンアラウンド方式」である。車両自体重いことから、もう1人が、直接車両を押して補佐する。作業自体は、乗務員2名(運転手と車掌)により行われており、常に、この様子を見学するために、多くの人が集まってくる。


一通りターンアラウンド方式を見学した後、「ハイド線」に乗車して出発した。スピードは遅いが、坂道になっても変わらず、力強く上っていく。後部席に座ると、左右に車輪を乗せるための二本の軌道と、中央の溝が確認できる。


この溝の下には、ケーブルが時速9.5マイル(15.2キロメートル)で移動しており、運転士がそのケーブルをグリップで掴むことにより車両を走行させている。逆に、停止する場合はグリップをケーブルから離し、ブレーキをかけている。運転手はグリップレバーを巧みに操作することからグリップマンと呼ばれているが、走行、停止、徐行などを行うグリップレバーの操作はかなり経験を積まないと難しい職業とされている。

15分ほど乗車して、南北に延びるハイド・ストリートと東西に延びるユニオン・ストリートとの交差点で下車する。こちらは、ケーブルカーを下車し、ユニオン・ストリートを西に200メートルほど下って振り返った様子だが、かなり勾配がきつい。。歩く距離が短いと思っても、地図だけでは判断できないのが、サンフランシスコの町。目的のレストランは、次のポーク・ストリートとの交差点を左折した右側にある。


こちらが、そのポーク・ストリート沿いにある目的地「ベトナム料理レストラン(Aux Delices)」。このエリアは、あまり治安が良くないと言われていることから、夜の訪問は避け、この時間にしたのである。


店内は、昼時を過ぎた午後2時前でもあり空いていた。料理は、生春巻き、春巻き、大根餅、お粥、フォースープなどを注文したが、本格的なベトナム料理を頂ける老舗店との評判は納得でき、大変美味しく頂いた。


食後は「サンフランシスコ・アジア美術館」(Asian Art Museum)に向かった。最寄り駅は、マーケット・ストリート沿い、バート(ベイエリア高速鉄道)のパウエル駅の次駅、シヴィック・センター駅が最寄り駅になる。レストラン(Aux Delices)からは、ポーク・ストリートを南に2キロメートル行ったシビック・センター・プラザの東隣に位置している。

アジア美術館は、建設会社を営み、国際オリンピック委員会(IOC)の第5代会長などを務めたアベリー・ブランデージ(1887~1975)が収集したアジア美術品のコレクションをベースに、1966年よりアジア美術館(前身:アジア美術協会)として開館している。


ブランデージが、アジア美術に傾倒したきっかけは、1927年に日本の根付を購入したのが始まりと言われている。その後、絵画、陶器、彫刻に至る様々なアジア全域のコレクションを作り上げ、個人では負えない規模となった1950年代以降、サンフランシスコ市へ寄贈を続けてきた。現在、美術館には、アジアからの伝統的な約18,000点の芸術作品と工芸品が所蔵されており、古いものは、6,000年前のものがある。ギャラリー(展示室)は、南アジア、イラン、中央アジア、東南アジア、ヒマラヤ、中国、日本、韓国がある。通常、ギャラリーには2,000点以上の作品が展示されている。

第1展示室(南インド~600)には、「リンガ」(400~450)」(砂岩、高さ147.3センチ、出土:インド、マディヤプラデーシュ州)が展示されている。リンガは、シヴァ神の象徴で、シヴァを祀る寺院の聖所に置かれ祀られる。多くは円筒が垂直にそそり立つ形で表されるが、こちらは、その円筒に更にシヴァの顔が模られている。丸顔に大きな目を見開き正面を凝視しており、額には特徴の第3の目が刻まれ、髪の毛は頭の上に巻き、耳飾りを付けている。


第2展示室(東インド600~1600)には、「仏陀の生涯の場面の一つ」(降魔印)(インド、ビハール州、1000~1200、パイロフィライト、高さ16.5センチ)が展示されている。作品は、北東インド(ベンガル地方とビハール地方を中心とした地域)を支配したパーラ朝(750~?1162)時代のもの。パーラ朝時代の仏教は、密教としての仏教(タントラ仏教)が盛んであったため、チベット仏教もその影響を強く受けている。


第9展示室(東南アジア600~1300)には、カンボジア・クメール(アンコール)王朝時代の「ヒンドゥ教の神シヴァ」(975~1025)(111.8センチ)と、シヴァの妻「神パールヴァティー」(975~1025)(104.1センチ)が展示されている。やや損傷があるものの、クメール美術の頂点を極めた時代の貴重な作品である。


インドネシア中部ジャワで制作された「太陽神スーリヤ」(800年~900年頃、ブロンズ像、高さ40センチ)。スーリヤとは、インド神話(ヒンドゥー教の神話)における太陽の神で、三眼に四臂姿、七頭の馬が曳く戦車に乗り天を駆けるとされている。こちらの作品は、七頭の馬が支える台座の上に立像として表現されている。脇侍としてダンダ、ピンガラ、女神などが配されている。


第10展示室(東南アジア1300~1800)には、アクリルケースにタイの仏頭が2つ展示されている。正面を向く仏頭(1350~1400、ブロンズ45.7センチ)は、アユタヤ王朝のもので、左側を向く仏頭(1350~1450、ラッカーと金メッキされた鉛青銅、48.3センチ)は、スコータイ王朝のものになる。


仏頭は、同時代のものだが、王朝としては、「スコータイ王朝」(1240頃~1438)がタイ族最初の王朝(13世紀頃までアンコール王朝の支配下にあった)で、次に中部アユタヤを中心とした「アユタヤ王朝」(1351~1767)がスコータイ王朝を吸収している。仏頭は、共に、小さなヘアカールや優しく微笑んだ表情などスコータイ様式で制作されている。体躯が失われているが、スコータイ様式では、降魔像と遊行像が多く制作されており、左側の大きめの螺髪相は、遊行像と思われる。

第11展示室(東南アジア1800~)には、インドネシアのジャワ島で生まれた「ワヤン ゴレ」が展示されている。人形は、高さ70センチほどのサイズで、舞台下から、体から頭まで伸びる木製の棒と、手に接続された棒とを巧みに操作することで演じられる。演目は、ヒンドゥー教の叙事詩ラーマーヤナやマハーバーラタなど伝統的のエピソードを中心に、地元独自で伝えられる神話など多岐にわたる。


展示されている人形は、インドの叙事詩「マハーバーラタ」に登場するラークシャサ(羅刹天)、カウラヴァ(100人の王子)、パーンダヴァ兄弟(ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナ、ナクラ、サハデーヴァ)などで、1960年代前後にチャンペア(西ジャワ)で制作されたもの。

第15展示室(中国BC.221~960)には、埋葬品「天王俑唐代彩釉陶」(618~907、唐王朝、陝西省または河南省)(高さ約120センチ)が展示されている。天王俑とは、魔よけと墓室の安全保護のため、墓の入口に配置され、埋葬者の鎮魂を目的とした。甲胄を身に付け、躍動感ある立ち振る舞いで邪鬼を踏みつける姿は、四天王(持国天、増長天、広目天、多聞天)を思わせる。なお、天王俑には、鎮墓獣が配置されることもある。


第16展示室(中国、仏像彫刻)には、338年(中国五胡十六国の後趙(319~351)時代)に制作された「釈迦禅定坐像」(河北省、金メッキブロンズ像、高さ40センチ)が展示されている。この時代、後趙皇帝の石勒(在:319~351)は、西域出身の僧侶、仏図澄(ぶっとちょう)を保護し、都の洛陽では仏教が大いに栄えていた。中国で制作された仏像では、最古のものとされている。


美術館では睡魔がピークとなり、1時間半ほど見学して退館した。。昨夜、飛行機内ではあまり寝られなかったので、ホテルで少し休んだが、睡眠不足の解消にはいたらない。美術館内のシートでも座りながらウトウトしてしまった。海外便は、東周りの方が時差ボケが激しいと言うが、そうかもしれない。

アジア美術館の隣のシビック・センター・プラザを挟んで西隣には、ワシントンの議会議事堂によく似た白い荘厳なドームの「サンフランシスコ市庁舎」(San Francisco City Hall)が建っている。1915年にアメリカ・ルネッサンス・ボザール様式で建てられたもので、同様式には、ニューヨーク中央駅、ボストン美術館などが挙げられる。白いドームまでの高さは94メートル(ワシントンの議会議事堂より35センチメートル高い)あり、ドームでは、世界で5番目の高さがある。市庁舎では、日に3回の無料見学ツアーが開催されており、また、結婚式場としても人気が高く、毎日数十組の式が執り行われるとのこと。


時刻は午後5時半、ゴールデン・ゲート・ブリッジを渡ったダウンタウン・ソーサリトにあるスコマズ(Scoma’s Sausalito)に夕食を食べにやってきた。サンフランシスコ中心部から少し離れているが、混雑していないことからのんびり過ごすことができる。ちなみに周辺にはいくつもシーフード・レストランがあるが、海の浅瀬に杭を打ち込み、通りから海にせり出して建てられた、こちらの「スコマズ」が景観も味も評判が良い。
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テーブル席からは、抜けるような青空と広がる海面の先に、サンフランシスコ・ベイエリア、ロシアン・ヒル、アルカトラズ島を始め、オークランド・ベイブリッジまで一望できるベストポジション。素晴らしい眺めが、一段とテンションを盛り上げてくれる。

料理は、シュリンプカクテルを始め、クラムチャウダー(お勧め)、ダンジネスクラブ(アメリカチョウ蟹)のパスタ(お勧め)※写真食べかけ。。海老、蟹、魚フライの盛り合わせプレート※写真食べかけ。。など頼み、ケンウッド・ヴィンヤーズの白(カリフォルニア・ソノマ)と共に頂いた。景色の素晴らしさに加え、値段もリーズナブルで美味しく堪能できた。時折、セグロカモメが、飛来するのもスコマズならではかも。


メインを食べ終わるころ、時刻は日没時間の午後7時になった。ちょうどこの時間、ベイエリアに建つ、サンフランシスコのランドマーク「トランスアメリカ・ピラミッド」の右側の高層ビル「バンク・オブ・アメリカ」を、日没直前の最後の夕日が赤く照らしていた。
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翌朝、これから、サンフランシスコ最大の見どころの一つ「アルカトラズ島」(Alcatraz Island)の見学を予定しており、フィッシャーマンズ・ワーフ近くの「ピア33埠頭」に向かった。

フェリー船の運航間隔は、概ね30分に1便ほどである。乗船チケットは、予めインターネットで予約・購入(午前9時半発)しておき、出航20分ほど前に「ピア33埠頭」に到着した。港に到着すると、周囲は、多くの観光客でごった返していた。


予約便は、出発10分ほど前から乗船が始まり、観光客が続々と乗船していった。アルカトラズ島までは直線距離にして約2.4キロメートル、約15分の乗船時間である。この時間、空にはやや暗雲が立ち込めてきたが、今朝の天気予報では、晴れのち曇りだったので、雨は大丈夫と思うが、どうだろうか。。

フェリーは、3階建てで、最上階は屋外席だった。見晴らしが良いため屋外席が人気が高いが、この時間は、風が強く、乗船時間も短いので、一階席に座ることにした。しかし、途中で、手持ち無沙汰になり、最上階に上って前方を眺めると、ごつごつとした小さな岩の塊の様なアルカトラズ島が、徐々に迫ってくる様子を見ることができた。洋上は、かなりの強風で、船首旗がちぎれんばかりにはためいている。


予定どおり、船着場に到着し、フェリーを降りると、最初に、観光客はドックと呼ばれる旧陸軍兵舎の前に集合させられ、スタッフから見学に関する説明(英語のみ)があった。刑務所棟内では、配布されるパンフレットと貸与されるオーディオガイド(日本語あり)を聞きながら、自由に見学することができ、入館料とオーディオガイド料金は予めフェリー料金に含まれている。なお、見学は、ガイドに従って行うことも可能である。


アルカトラズ刑務所内で、一番の見どころは「セルハウス」と呼ばれる牢獄で、1909年から1912年の間に囚人によって作られたが、これらは、囚人たち自身が建設したもので、作った本人たちが牢獄に入れられていた。建設当時は、世界最大の鉄筋コンクリート製の建物だったと言われている。刑務所内には、当時のまま独房が並んでおり、他に食堂や図書館や看守のオフィスもあった。


アルカトラズ刑務所の他にも「シンシン刑務所」や「サン・クエンティン州立刑務所」等の連邦刑務所があるが、周囲を寒流が渦巻き、人喰いザメもいる等の過酷な環境を併せ持つ監獄島(アルカトラズ刑務所)は、囚人者たちに大変恐れられた。しかし、刑務所としての歴史は意外なほど短く、1934年から1963年までの29年間で閉鎖されている。


アルカトラズ刑務所に収監された囚人の最も有名な人物として、禁酒法時代のシカゴで、犯罪組織を運営したアル・カポネ(1899~1947)がいる。また、1909年に投獄され、その後アルカトラズ刑務所に移送された「アルカトラズの鳥男」の異名で知られるロバート・フランクリン・ストラウド(1890~1963)も、1961年の映画「終身犯」で取り上げられたこともあり、広く知られている。

「セルハウス」は、頑丈な鉄格子で区切られ、牢獄内には囚人たちのベッドや洗面台などがある。アルカトラズ刑務所を題材にした最も有名な映画は、1979年に公開されたアメリカ映画「アルカトラズからの脱出」であろう。主演のクリント・イーストウッド演じるフランク・モリスが、2人の囚人とともにアルカトラズ島から抜け出した事件(1962年6月のアルカトラズ脱獄事件)を映画化していた。


映画では、フランク・モリスなど囚人たちが、独房の通気孔を手製のナイフで広げ、ベッドに作り物の頭部を置いて、壁の後ろのパイプなどを伝って脱出していたが、こちらの独房の様子は、細かい箇所まで、映画のシーンとそっくりで、大変興味深かった。

一通り刑務所内の見学を終え、外に出ると、晴れ間がのぞき始めた。強風は少し収まったが、波は荒立っている。「アルカトラズからの脱出」のラストで、囚人たちは手製のいかだで海に出るが、その後は生存も死亡も確認されておらず、消息は不明で終わっている。実際、記録上も脱走に成功した囚人はいないとされている。
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帰りのフェリーは予約指定がないので、ゆっくり見学し、12時発に乗船した。2階席の船首展望デッキに陣取り、サンフランシスコのウォーターフロント方面を眺めながら「ピア33埠頭」に戻った。
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お昼時になったので、これから食事に向かう。場所は、ケーブルカー(カリフォルニア・ストリート線)の終着駅ヴァンネス・アベニュー停留所近くを予定している。最初に、ピア33埠頭の倉庫兼店舗のある建物を抜け、大通りを横断した停留所から、路面電車に乗車する。ちなみに、倉庫兼店舗のある建物の大きなアーチ門には、それぞれ埠頭番号が書かれている。ピア33埠頭に向かって右側の建物には、ピア31埠頭と表示がある。


こちらの路面電車は「Fライン」と呼ばれ、各国など他都市で利用されていたクラシックな車両が日替わりで運行される特別な路線になる。この日は、英国ブラックプールのオープンカートラムが走行していた。ちなみに、サンフランシスコ市内を走行する他の路面電車は、ミュニメトロと呼ばれ6路線(K、L、M、J、N、T)が運行している。


英国ブラックプールのオープンカートラムは、船のような流線型の外観が特徴で「ボート カー」の愛称がある。1933年から5年間、英国エレクトリック社により12台(225号~236号)が製造され、英国北西部のブラックプールで走行していた。その後、多くが廃車となるが、1980年代に入り、カリフォルニア州が、226号車と228号車を博物館展示用としてリースし、後にサンフ​​ランシスコ市営鉄道(ムニ)が購入し観光用として不定期で運行している。ボート カー(Fライン)は、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ近くのフェリービルディング停留所に到着した。


次に、マーケット&ドラム・ストリート(Market St & Drumm St)停留所からカリフォルニア・ストリートを東西に走るケーブルカー(カリフォルニア・ストリート線、California Street)に乗車する。カリフォルニア・ストリート線の車両は、パウエル両線と違い、両方向に走行でき、現在、12両の両運転台車両が運行されている。後部に陣取っていると、なだらかに通りを上るにつれ、サンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジの姿が徐々に見えてくる。

カリフォルニア・ストリートのなだらかな上りは、中華街から延びる目抜き通りのグランド・アベニューとの交差点を過ぎると、突然、体を大きく前後に引っ張られ、勢いよく急勾配を上っていく。上りきるとノブ・ヒルの丘の上となる。
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ノブ・ヒルの丘の上をしばらく走行すると、目的のレストラン(スワン オイスター、Swan Oyster Depot)はもうすぐ。最寄り駅は、終着停留所となるヴァンネス・アベニュー(Van Ness Avenue)の一つ前のポーク・ストリート停留所となる。

レストランは、カリフォルニア・ストリートに面していることからすぐに分かった。入口には、食材を並べたショーケースがあり、調理前の魚や蟹の他に、トレイには切り身の魚や、ホタテ、はまぐり、ムール貝、車海老などが並べられている。
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店内は、座席数が少ないこともあり混雑していた。テーブル席は難しそうなので、狭いカウンター席に何とか座り、生牡蠣や生クラム、クラムチャウダー、魚介のカクテルなどを注文した。クラムチャウダーは、お勧めの自家製で蟹の身も入っており絶品。白ワインともよくあっている。ところで、どのシーフード店でも、ケチャップのソースが必ず出てくるが、素材の鮮度を楽しむならレモンを絞るだけの方が美味しい。
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こちらが、お勧めの「生クラム」。日本では、ハマグリやアサリは生で食べないので、少し緊張して食べた。身はやや甘みがありシャキシャキして美味しい。どの料理も新鮮で味は最高だし、カウンター越しのマスター(アヒルのおもちゃを背景に忙しそうに動く。)はフレンドリーで親切なのだが、客席誘導をしないので、店内には、座れないお客が、席が空くのを待っている状態。ゆっくりできないのが残念だが、混雑する一方なので、食べ終わると早々に退散した。
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カリフォルニア・ストリートを東に700メートルほど戻ったエリアが、丘の上の高級住宅地ノブ・ヒル(Nob Hill)になる。南北に延びるメイソン・ストリートとの交差点には、茶系外観の建物「ジェームズ・C・フロード・マンション(James C. Flood Mansion)」(1886年築)が建ち、西隣のハンティントン パークを挟んで「グレース大聖堂」(Grace Cathedral)のファサードが望める。
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グレース大聖堂は、カリフォルニア・ゴールドラッシュ時の1849年に小さな礼拝堂「グレース教会」として建設された。その後、数度の増改築を経て大聖堂となったが、1906年のサンフランシスコ大地震で崩壊(火災による)したことから、銀行家のクロッカー一族が寄進した現在のノブ・ヒルの地に、1927年から建築が始まり、1964年に完成している。鉄筋コンクリート造のゴシック・リヴァイヴァル建築で、パリのノートルダム大聖堂を模した外観をしている。


ジェームズ・C・フロード・マンション東側には、南北に走るメイソン・ストリートを挟んで、1907年開業の老舗ホテル「フェアモント サンフランシスコ」(Fairmont San Francisco)が建っている。豪華な大理石や繊細な装飾など古さを感じさせない風格と、丘の頂上に位置する立地条件の良さが大変魅力的な高級ホテルである。


そのフェアモント サンフランシスコ前から、メイソン・ストリートをほんの数メートル北に歩くと、勾配の急な下り坂になり、サンフランシスコ湾が見渡せる。島は「エンジェル アイランド 州立公園」(Angel Island State Park)で、右端に隠れてしまったが、アルカトラズ島がある。この場所から眺めていると、海から吹き上げてくる強い風で押し戻されそうになった。
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カリフォルニア・ストリートを挟んで南側に建つ「インター コンチネンタル ホテル」前が、ノブ・ヒルの丘の上にいることを一番実感できる。正面入口だけが平地にあり、左(東)のカリフォルニア・ストリートと、右(南)のメイソン・ストリートが大きく下がり斜面にホテルが建っているのが分かる。
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インター コンチネンタル ホテルを左に見ながら、斜面に駐車する車からメイソン・ストリートを南方向に眺めるとこんな様子。北側と同じようにかなりの勾配がある。右側には、高級マンションらしい外観が続いている。
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次の目的地「ユニオンスクエア」(Union Square)までは、下りなので歩いて向かった。最初にカリフォルニア・ストリートを東に150メートル下り、パウエル・ストリートとの交差点を右折し、ケーブルカーの軌道に沿って400メートルほど南に下ると「ユニオンスクエア」に到着する。広さ約1万平方メートルの長方形の広場で、周囲には椰子の木が植えられ、中心には、米西戦争のマニラ湾海戦で英雄となったジョージ・デューイ提督(Admiral George Dewey)をたたえる高さ約30メートルの記念碑が建っている。


広場の周囲は、ティファニー、ルイヴィトン、ディオール、ブルガリなど高級ショッピングの中心地でもあり、買い物客や観光客で常に賑わっている。

次にサンフランシスコを代表する観光名所「フィッシャーマンズ・ワーフ」(Fisherman's Wharf)の「ピア39埠頭」にやってきた。今朝、アルカトラズ島に向かった「ピア33埠頭」からは、400メートルほど西の海岸線に位置している。野性のアシカがたくさんいることでも知られており、入り江沿いに設けられた花壇傍にはアシカの彫像が飾られている。またこちらの桟橋からは、まるで戦艦を思わせる様な形状の「アルカトラズ島」も一望できる。


海に細長く伸びる「ピア39埠頭」の桟橋には、木造二階建ての建物が立ち並び、ショッピングモール、レストラン、ギフトショップなど個性的でおしゃれな100軒以上のお店が軒を連ねるなど、フィッシャーマンズ・ワーフで最も賑やかなエリアとなっている。また、子供に人気のメリーゴーランドなどのアトラクション施設や、ストリート・パフォーマーの登場など、テーマパークを思わせる演出も盛りだくさん。
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そして、「ピア39埠頭」前のジェファーソン・ストリートを500メートルほど西に向かったウォーターフロント北部に位置する埠頭が「ピア45埠頭」で、その埠頭入口には、カニがデザインされたフィッシャーマンズ・ワーフのシンボルマークが飾られている。フィッシャーマンズ・ワーフは、「漁師の波止場」を表しており、古く19世紀後半のゴールドラッシュでサンフランシスコが発展したのを機に最初に栄えた港町だった。


「ピア45埠頭」前を南北に延びるテーラー・ストリートの西沿いには、老舗のシーフードレストランが並んでいる。左側の青色に白字のパラペット看板の店舗は、1927年創業の「サベーラ・アンド・ラ トーレ」(Sabella and La Torre)」で、その右隣の紫色に白字のパラペット看板は、創業1934年創業の「ニックズ・ライトハウス(Nick’s Lighthouse)」。共に、レストラン入口沿いに屋台があり、名物のダンジェネス クラブ(渡り蟹の一種)を始め、フライド シュリンプ、カラマリ、エビ サンド、クラブ サンド、クラブ カクテル、エビ カクテルなどをテイクアウトできる。この時間(午後6時50分)は、行列ができるほどの人で賑わっていた

そして、その隣のレンガ色の3階建ての店舗は、魚の絵にAlioto'sと表示されたシンボルマークで有名な、シーフードレストラン「アリオト」(Alioto's)である。1925年にシチリア人移民ヌンツィオ・アリオトが、カニとエビ カクテルをフィッシュスタンドで販売し人気を博したことに始まる歴史あるシーフードレストラン。「アリオト」の経営は、代々アリオト家が事業を引き継いでいる。


「アリオト」の1階入口両側は、オープンテラスのテーブル席となっており、この時間多くの来店客で賑わっていた。ちなみに「アリオト」には、1995年、ノルウェー国王のハーラル5世とソニア王妃が来店し食事したことでも話題になった。そして「アリオト」の右隣りに、創業1935年の「グロット」(Grotto)が続いている。

これら老舗のシーフードレストランの西側(後ろ側)は、船溜まりとなっており、桟橋には多くの漁船が停泊している。中央の細い桟橋を歩いて「アリオト」を振り返ると、「アリオト」と、隣の「タランティーノ」(Tarantino's)のテーブル席に多くの客が座っていた。

今夜は、人込みで疲れたこともあり、観光客ご用達の老舗シーフードレストランの味は普通評価が多いこともあり、近隣の建物内の一角にある小さなレストラン「Pesce Seafood Bar」で夕食を頂くこととした。Pesceとはイタリア語で「魚」を意味する。


飲み物は、地元サンフランシスコのクラフトビール(アンカースチーム)と、白のハウスワインを頼んだ。アンカースチームとは、1896年にアンカー・ブルーイング社が、カリフォルニアで最初に生産した歴史あるビールで、キレとコクが特徴のラガービールでありながら、エール製法で発酵された風味豊かな味わいが特徴の一品である。


料理は、シンプルなシーフードではなく、イカ墨のリゾット、ブイヤベース、カニ味噌を使ったやや手の込んだ料理を注文した。料理は美味しく、店内も落ち着いた雰囲気がありゆっくり食事ができた。

(2007.9.14~15)

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