カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イングランド南東部(バトル~ストーンヘンジ)

2015-07-20 | イギリス
ヘイスティングス(Hastings)と言えば、1066年、イングランド王ハロルド2世とノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世)との天下分け目の決戦(ヘイスティングズの戦い)で知られているが、現在のヘイスティングス(港町)には、戦後ウィリアム1世がイングランドで最初に築いた城の遺構が僅かに残るだけである。戦いが行われた場所は、海岸線から内陸(北西)に約10キロメートル行ったイースト・サセックス州バトル(Battle)の丘である。

ということで、ドーバーからヘイスティングスを素通りして、ここバトル・アビー(Battle Abbey)にやってきた。ドーバーから距離にして約90キロメートルの道程である。古戦場には、左側のロータリー南側にあるゲート・ハウス(Gate House)からの入場となる。なお、ロータリーから北側にはバトルの町並みが続いている。
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それでは、ゲート・ハウスから古戦場に入場する。ちなみにこの巨大な建造物は14世紀頃のもので、当時は修道院の職員や訪問者用の宿泊施設として使用された。バトル・アビーの入場料は11ポンド(一人当たり)だが、ドーバー城と同様にヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスがあればフリーパスで入場することができる上、日本語オーディオガイドの貸し出しがあり有難い。しかし今日は天気が悪く小雨が降り続いているので見学には困ったものだ。
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改札を通り右側に進むと資料館(Exhibition)の建物が現れる。館内にはヘイスティングズの戦いに関する展示を中心にして、それを遡るアルフレッド大王(在位:871~899)時代からの展示もされていた。

アルフレッド大王は、デーン人(ヴァイキング)の侵攻が繰り返されていた頃、ウェセックス(イングランド七王国の一つ)エゼルレッド王の後継者として王位を継いだ。886年にはデーン人からロンドンを奪回、復興事業に従事し、法典(アルフレッド法典)を含め統治機構の整備に尽力した。更に宮廷学校を設立など学問や教育分野にも力を注いだことから、イギリス歴史上唯一、大王(グレート)の異名で知られている。
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展示は体験が出来るようになっている。こちらはイングランド軍が使用した円形の盾と槍で、直接手触れることができる。盾は上下に動かすことが出来るが、かなり重いため相当な力が必要なことがわかる。
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そして、こちらはノルマン軍で使用したカイト・シールドと名付けられた盾と槍である。三角を伸ばしたような形の盾は身体の広い範囲を防御できたため、ノルマン騎兵にとっては最適な防具であった。下部分は騎乗の際、邪魔にならないように細くなっており、更に盾の裏側の革ひもに左腕を通して手綱を握ることが出来たため機動力に優れていた。
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こちらは、バイユーのタペストリー(ノルマン・コンクエスト物語の刺繍画で、ノルマンディー地方のバイユー大聖堂に長く保管されていた。)からのカットで、イングランド王(アングロ・サクソン系)ハロルド2世(在位:1066年)が紹介されている。彼は、大貴族の一人ウェセックス伯ゴドウィン家の次男で、ウェセックス朝(サクソン系)のエドワード懺悔王(在位:1042~1066)の妃エディスの兄にあたる。
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そして、こちらが、ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世、後のイングランド王(在位:1066~1087))で、エドワード懺悔王の母エマ(ノルマンディー王女)の甥にあたる。彼はエドワード懺悔王が継嗣のないまま亡くなったことから王位継承権を主張し約6000の兵力を持って海峡を越えヘイスティングズに上陸した(ノルマン・コンクエスト)。
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当時、ヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道が続いていた。

ハロルド2世は、イングランドを手中に収めんとしていたハーラル3世(ノルウェー軍)を北部ヨーク近郊で討ち(スタンフォード・ブリッジの戦い)、返す刀で7000の兵力と共に南下し、ヘイスティングズ岬の付け根に当たる「バトルの丘」で陣立てを整えギヨーム2世と対峙しようとした。これを知ったギヨーム2世はバトルの丘に急行して丘の麓に布陣した。

両軍の配置図を見てみよう。ハロルド2世は、馬を棄て、長大な戦斧を装備した重装歩兵で丘に密集陣形を築いた。対するギヨーム2世の本陣は、中央に自らが指揮するノルマン騎兵で固め、背後に短弓やクロスボウを装備した弓兵を配置した。そして、左翼には、ブルターニュ地方の部隊を、右翼にはフランス騎士団と外人傭兵の混成部隊を配置した。
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それでは、オーディオ・ガイドに従い、古戦場に設けられた小道を進んでみよう。バトルの丘を中心に北側から丘を中心にして内回りで進んでいく。
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辺りには、たくさんの羊が放牧されているため、あちらこちらに糞が落ちている。。他に見学者がいないためか、やたらと羊から注目され少し怖い。。
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天下分け目の決戦は1066年10月14日の朝に始まった。ギヨーム2世のノルマン軍は弓兵に援護させながら騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍の重装歩兵の陣形を打ち崩すことは難しく戦闘は膠着状態に陥った。
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その時、イングランド軍からの矢を受けてギヨーム2世が落馬したため、ノルマン兵士達はギヨーム2世が戦死したと思い一斉に総退却を始めた。しかし、ギヨーム2世は、再び馬に跳び乗り鉄兜を脱ぎ捨て、素顔を軍団に見せながら大声で軍を叱咤激励した。
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見学コースには、この様に所々に案内板が立てられている。立ち止まりオーディオ・ガイドを聞きながら、当時の合戦の様子に思いを馳せる。

さて、ギヨーム2世の叱咤により、再びノルマン軍に活気が溢れたがイングランド軍の重装歩兵による密集陣形を崩すことは容易ではなかったようだ。午前中は、イングランド軍が優勢だった。その後、ギヨーム2世は、騎兵を中心とした攻撃から、弓兵によるイングランド軍の後方への攻撃に切り替えた。この天空からの矢の攻撃にイングランド軍の密集陣形に綻びが現れ始めた。
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ノルマン軍はこの気を逃さず、すかさず騎兵による攻撃をかけたため、イングランド軍の陣形が混乱状態になった。特に、右翼(イングランド軍から見て)の丘に大きな隙間ができたようだ。ハロルド2世は右翼に移動して前線に出たため、そこにノルマン軍の弓兵による攻撃が集中した。バイユーのタペストリーによると、ハロルド2世はノルマン軍の弓兵の放った一矢により、目を射抜かれて落命したとされる。
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古戦場を一周すると丘の上にバトル・アビーの遺跡が現れた。こちらは、1070年、ローマ教皇アレクサンデル2世(在位:1061~1073)が、ウィリアム1世に対して、ハロルド2世をはじめ、両軍の戦死者の霊を弔うよう指示して建設された教会の跡である。

教会は、ウィリアム1世の息子ルーファス(ウィリアム2世)(在位:1087~1100)治世の1094年に完成した。その後、13世紀後半に改築されたが、ヘンリー8世(在位:1509~1547)治世の1538年、政治家トマス・クロムウェル(1485~1540)による修道院解散令により荒廃してしまう。現在は、Dormitory rangeと名付けられた遺跡が残っている。
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1階(Ground floor)にはThe Novice's Chamber(初心の間)と名付けられた修道士のための修業場所やThe Common Room(控室)と名付けられた連続するアーチが見事な空間が残されている

反対側から見ると2階(First floor)には、雨ざらしの床部分だけが残されている。ここには修道僧たちのDomitory(宿泊所)があったが、修道院解散令後は、馬小屋や納屋として利用された。
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イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)のバトル・アビーの詳細図によると、初期の教会はDormitory rangeの北側に隣接しているが、現在は、広い敷地に主祭壇の址だけが残されており、11世紀当時の教会の様子が書かれた案内板だけが寂しく立っている。

遺跡の西側には、1912 年に設立されたバトル・アビー・スクール(Battle Abbey School)がある。かつて修道院の図書館と大広間や食堂があった。
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合計1時間半ほど見学して午後6時頃にバトルを後にした。

途中、ルイス近郊のグラインドボーン音楽祭(Glyndebourne Festival Opera)の会場(カントリー・ハウス)に寄った。ここでは、1934年、資産家ジョン・クリスティによって創設以来、毎年オペラ音楽祭が開かれている。特にモーツァルト・オペラが人気で、ロンドン市民の夏の風物詩となっている。幕間が長いこともあり、芝生でのピクニックやレストランでのランチ、更にはディナーもゆっくり楽しめるそうだ。
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さて、これからセブン・シスターズに行く予定だが、午前中ドーバーに出かけた(昨日渋滞で行けなかった)ため、時間が押せ押せになった。現在、時刻は午後7時で雨も降り続いているが、悩みながらも17キロメートル先のセブン・シスターズに向かった。

セブン・シスターズの見学は、多くのガイドブックではカックミア川(Cuckmere)東側のビーチーヘッド(Beachy Head)のバーリング・ギャップ(Birling Gap)からの眺めが紹介されているが、カックミア川の西側のカックミア・ヘヴン(Cuckmere Haven)から眺めたいと考えていた。理由は、観光客が殆ど訪れないため、落ち着いて見られる上、カックミア川河口から大きく迫り上がるチョークの景観がすばらしいこと、ジョー・ライト監督の映画「つぐない(Atonement)(2007年)」で美しく取り上げられたことなどによる。

しかしその場所は、公共交通機関もなく案内表示もないため、行くには困難なようだ。個人で行くには、まず、シーフォード(Seaford)市内から住宅地を抜け、牧草地に伸びる小道を終点まで1キロメートルほど進む。終点には、進入禁止のゲートがあり、そこからは、歩いてゲートを乗り越え800メートルほどのあぜ道を歩いて行く。すると視界が広がるはずだった。。
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時刻は午後8時になり、日の入りも近い上、再び雨も降って霧も出て良く見えない。昨日からどうも予定通りにいかない。。

シーサイド・リゾートで知られるブライトン(Brighton)(イースト・サセックス州西端)に到着した。まず海岸線のキングスロード(King's Road)を西に3キロメートル行ったベスト・ウエスタン・プリンス・マリーン(Best Western Princes Marine)にチェックインし、再び3キロメートルをUターンしてレストランに向かった。今夜のレストランは、1930年創業のシーフードが有名な「リージェンシー・レストラン(The Regency Restaurant)」である。時刻は午後9時、スムーズに到着したものだ。
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店内は明るくカジュアルな雰囲気。注文はムール貝(Mouls Appetizer 6.50)シーフード・フライ(Deep Fried Seafood Platter with salad 8.95)そしてシーフード・リゾット(Seafood risotto 8.95)を、飲み物はロゼ・ワイン(Pinot Rose 16.50)とビール(Pint Lager 3.95)を頼んだ。料理は新鮮で美味いし値段も手ごろで満足であった。食後、海岸通りに出てキングスロード(King's Road)を歩くと、まだ道路は濡れていた。
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明日の天候の回復を願いつつ、ホテルに戻った

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ブライトンのホテル(ベスト・ウエスタン・プリンス・マリーン)宿泊の翌朝。時刻は午前8時過ぎ。これから西に向け出発の予定だったが、天気は回復したため、約30キロメートル東に戻ることになるが、昨日の敵討ちのため再度セブン・シスターズに向かうことにした。
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急ぎ出発しなければならないがブライトン中心部を通って行く。ブライトンドーム(Brighton Dome)(劇場)の前を通って公園を周回し、ロイヤル・パビリオン(Royal Pavilion)(ジョージ4世(1762年~1830年)が摂政皇太子時代に海辺の別荘として建てた離宮の前を通り、海岸線を東に向かう。

9時過ぎに再び、セブン・シスターズの見えるカックミア・ヘヴンに到着した。2度目なので慣れたものだ。今朝は天気が良く羊も放牧されており長閑な雰囲気だ。
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映画「つぐない(Atonement)」(2007年)は、1935年のイングランドが舞台。官僚の娘セシーリア(キーラ・ナイトレイ)と使用人の息子ロビー(ジェームズ・マカヴォイ)は、身分の壁を越えて愛し合うが、セシーリアの妹ブライオニーの誤解と嘘によって2人は引き裂かれ、戦争で離れ離れになるといったストーリー。カックミア・ヘヴンからのセブン・シスターズの景観は、愛し合う二人の拠り所として使用されている。
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煙突のあるコテージの向こうに見える景観は、まさに映画のシーンそのままだが、残念ながら(当たり前だが)午前中は逆光になる。。
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どうも絶景感に納得できないので、結局セブン・シスターズの東側ビーチーヘッドから眺めようと思いカックミア川を越えて東に向かう。カックミア川を渡ってすぐ右側にあるビジター・センターからは海岸まで川沿いに1キロメートルほど歩いて行くことになるのでパスして更に東に向かう。
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東に3キロメートルほど進みフリストン(Friston)から右折して、南に2キロメートル進んだバーリング・ギャップの大型駐車場に到着した。海岸へは駐車場から徒歩2~3分先の岸壁に設置された鉄階段を下りることになる。その階段上から西側にセブン・シスターズの白いチョークが鮮やかに輝いているのが見えた。
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少し遠いのでズームアップしてみる。前方のチョーク切れ目の先がカックミア川の河口になり、すぐ左奥に見える建物が先ほどまでいたカックミア・ヘヴンにあったコテージだ。
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階段を下りて、白が鮮やかな場所まで歩いて行く。白色は泥質の石灰岩の一種で、以前はチョーク(白墨)の原材料に使用されていたそうだ。近年、この白亜の壁は、波が崖の根元を侵食することにより、上部が崩れ、毎年30~40センチメートルづつ後退していると言う。触って見ると、やわらかく崩れやすいのがわかる。
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セブン・シスターズの見学には苦労したが概ね満足できたので次に向かうことにした。それにしても現在11時。今日は、これから160キロメートル先のソールズベリーを見学し、その後16キロメートル先のストーンヘンジを見学した後、更に40キロメートル先のレイコック村(Lacock Village)に向かう予定だ。ソールズベリー手前のポーツマス(Portsmouth)にも寄ろうと考えていたがほぼ無理であろう。。

さてさて、ようやくウィルトシャーの州都、ソールズベリー(Salisbury)に到着した。時刻は午後2時なので約3時間かかった計算だ。南北に伸びる繁華街のハイ・ストリート(High Street)を南に向かう。
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正面に見える門はハイ・ストリート・ゲート(hight st.gate)で、午後11時から午前6時までは閉じられるそうだ。
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そのハイ・ストリート・ゲートを抜けると、左側の建物の奥に大聖堂の尖塔が見える。すぐ先の三叉路を右折した右側にモンペッソンハウス(Mompesson House)がある。この屋敷は、アン女王(Anne Stuart、 1665年~1714年)時代の建物で、大聖堂の司祭長や参次会により1952年まで数々の世代を通して所有されていた。アン・リー監督による1995年英・米合作映画「いつか晴れた日に(Sense and Sensibility)」では、ロンドンにある屋敷の舞台として撮影に使われた。
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さらさらっと室内を見学する。こちらはダイニングルーム。中央に置かれたテーブルと椅子はヘプルホワイト社製(1770年)、食器はセブレー社製(1750年代)。サイドテーブル上のコーヒーセット一式は、アンゴリーム工場製(1780年代)である。奥のガラス棚には、ダービー社とボウ製の人形が飾られている。奥の飾り戸棚には、18世紀の飲用グラスが並んでいる。グラスのデザインは1700年代初期まで彫刻が施されて厚い造りだったが、1745年に重さに応じた課税制度が導入されたため、その後は薄く軽い飲用グラスが生産されたという。
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こちらは、接待用に使用された大客間(The Lrge Drawing Room)。中央のシタン材製のソファテーブル上にはヴィクトリア調の銀製ティーセットが置かれている。天井のカットグラスのシャンデリアや、壁の金メッキ彫刻(チャイニーズ・チッペンデール調)の鏡は共に18世紀中頃のもの。飾り戸棚には、19世紀の英国磁器ベッセマー・ライト・コレクションの一部が納められている。マネキンに着せられている服は、映画「いつか晴れた日に」でヒュー・グラントが身に着けていた衣裳である。
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2階にあるベッドルームには、主演のエマ・トンプソンが身に着けていた衣裳が飾られていた。他にも映画で使用された小物、スチール写真の展示や、ビデオなども流されていた

モンペッソンハウスの正面から南側を眺めるとソールズベリー大聖堂(Salisbury Cathedral)の威容が見える。
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少し歩くとすぐに大聖堂前に到着した。中央の塔の高さは123メートルありイギリスで最高の高さを誇っている。大聖堂は1220年に建造が始まり1258年に完成したが、短期間で完成したこともあり、イングランド初期ゴシック様式で統一されている。
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園内の通路は、聖堂の側廊に設けられた北門(North Porch)に向かっているが、扉は閉じられているため側廊に沿って歩く。西側に回り込むと70体を超える多くの聖人像が並ぶファサードになり、そのファサードを過ぎた回廊の外壁にエントランスがある。
※7.5ポンド(推奨寄付額)
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聖堂内に入り回廊を左に進むと、すぐにファサードの内側の拝廊に到着する。内陣側を眺めてみると、尖頭アーチが整然と連なっており典型的なゴシック様式であることがわかる。
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拝廊に近い北側郎には、ガラスケースに入った大聖堂建造中の模型が置かれている。模型は、労働者たちが、石を砕いてアーチ状に並べている姿や滑車や荷車で石を運搬する姿など実際の作業風景を表しており、非常にわかりやすい。
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そして、模型の隣には、1386年から稼働している世界で最も古い現役時計が置かれている。なおこの時計は鐘を打つためだけのため、文字盤はない。
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身廊を内陣に向かって少し進むと水をなみなみと満たした洗礼盤(Font)がある。この洗礼盤は、大聖堂完成750周年を記念して2008年にカンタベリー大司教によって奉納されたもの。手前から洗礼盤を見ると、滑らかな水面には鏡の様に写りこんで見える。
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内陣手前の身廊左右に聖歌隊席(Quire)がある。全部で106席あり、最も古い部分は1236年からのものと言う。
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内陣に向かって聖歌隊席のすぐ左先には、1524年に司教エドマンド・オードリー(Edmund Audley)が造ったオードリー礼拝堂(Audley Chapel)がある。天井には細かい彫刻が施されており、当時の色彩も良く残っている。
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主祭壇トリニティ・チャペルのステンドグラスは、良心の囚人(Prisoners of Conscience Window)と名付けられた1980年の作品
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聖堂の南翼廊に向かう手前の身廊と側廊を隔てる柱の間には、ソールズベリー伯ウィリアム・ロンゲペー(ウィリアム・ロングソード)(William Longespee)(1226年没)の墓がある。彼はヘンリー2世の庶子で、リチャード獅子心王やジョン欠地王の異母弟であり、ソールズベリー大聖堂最初の埋葬者となった。
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そして、南翼廊に入ったすぐ左側には、マーガレット・オブ・スコットランド(Saint Margaret of Scotland)(1045~1093)の礼拝堂がある。彼女の祖父はエドマンド剛勇王(在位:1016年)で、父エドワード・アシリングは王位継承者だったが、ハロルド2世に王位を奪われた。ウィリアム1世によるノルマン・コンクエストの際には、母弟と共に船で逃亡するが遭難し、スコットランド東海岸に打ち上げられ、その後スコットランド王マルカム3世(在位:1058~1093)の王妃となった。
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その南翼廊に沿って右に回り込むと回廊に出る。回廊の東側にある入口を進むと、
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広い空間に出る。こちらはチャプター・ハウス(Chapter House)といい聖堂と独立したステンドグラスに覆われた八角形のドームで非常に明るい空間となっている。中央には、フードで覆われた場所があり、中にマグナ・カルタ(Magna Carta)の現存する4つの写本の内の1つが納められている。
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ハイ・ストリートを北に歩き、すぐ先のバーガーキングでテイクアウトしてソールズベリーを後にした。
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ソールズベリーからキャッスル・ストリート(A345)を通り北に約3キロメートル行ったウィルトシャー(Wiltshire)州オールド・サラム(Old Sarum)に到着した。A345からは案内に従って西に(左折)200メートルほど路地を上ると駐車場がある。その100メートルほど先の木橋を渡った所の改札から有料になるが、ヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスを提示するとフリーで入場できる。
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ここオールド・サラムには、ソールズベリーの前身で12世紀まで栄えた都市があった。当時は直径約400メートルの二重の堀を持つ円型の城壁都市で、中心には、城壁に囲まれたSearesbyrig(Seresberi)と呼ばれた城が聳えていた。現在の木橋がある堀は、城に入場するための橋があったところだ。城壁跡を歩いて中心部を眺めると、現在では、廃墟となった城郭の基壇部分を望むことができる。
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所々石材が転がる城壁跡を歩いて外側を眺めると、円型に平地が広がっているのが見える。ここに城壁と外壁に囲まれた町があった。前方に見える遺跡群は、現在のソールズベリー大聖堂の前身となった聖堂があった場所で石材は全て新たな聖堂建築のために再利用されたという。
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ソールズベリー大聖堂内にあるオールド・サラムの再現模型を見ると、当時の様子がよくわかる。画像は西側から見た様子で、西門を入ったすぐ左奥に教会が建っているのが見える。
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この地で、1075年に司教座が置かれ、1086年に、ウィリアム1世がイングランドの領主を集めて王への忠誠を誓わせた(ソールズベリーの誓い)。イングランド封建制度の始まりである。こちらは12世紀の城内の賑やかな様子。

その後、町は、手狭になったこともあり、1219年には司教リチャード・プーアが中心となり、現在のソールズベリーのある水の潤沢なエイヴォン川畔(River Avon)地域に大聖堂を建てることを決めた。町はニューサラム(New Sarum)として格子状にレイアウトされ、1220年に大聖堂建設が始まると、町の機能も住民も移って行き、オールド・サラムは徐々に衰退して行った。南を望むと、ニューサラム(現:ソールズベリー)大聖堂の見事な尖塔が聳えている。
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次に、A345を更に10キロメートル北上し、左折してA303を7キロメートル走行し「ストーンヘンジ(Stonehenge)」に向かった。途中右側に巨石群を望むことができるが、通過して北西に回り込んだ先にあるビジターセンターまで行く必要がある。そこは、2013年イギリス政府が、毎年百万人規模で訪れる観光客への対応として新たに設置したもので、周囲の風景になじむよう木々に見立てた211本の細い鉄柱が屋根を支えたデザインが採用されている。そこからシャトル(バス)に乗り南東へ2.5キロメートルほど進む。
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バスを降りて200メートル歩くとようやく巨石群に到着する。巨石は、馬蹄形に配置された高さ7メートルほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100メートルの円陣状に並んだ高さ4~5メートルの30個の直立巨石(メンヒル)が配置されている。考古学者はこの直立巨石が前2500年から前2000年で、それを囲む土塁と堀は前3100年頃まで遡ると考えている。しかし、この先史時代の遺跡の使用目的は未だ解決されておらず、現在では儀式などの目的で使われていた説が有力である。
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見学は、巨石から遠く離れた位置から周遊するため、巨石の配列など距離感が掴みにくい。歴史的建築物の保存管理と観光促進とのバランスはどこも難しい課題である。配置図を見ながら石の位置を確認してみると、No.27とNo.28の後方(北側)から眺めていることが分かる。No.30の後方には、ヒール・ストーンと呼ばれる高さ6メートルの玄武岩がぽつんと立っており、夏至の夜明けには、その影がストーンヘンジ中心を指すそうだ。

こちらは、配置図のNo.16とNo.19の後方(南西)から眺めている。
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ストーンヘンジから、北東約3.2キロメートルに、ウッドヘンジ(Woodhenge)がある。これらは、ストーンヘンジの地域に位置する新石器時代のクラス2ヘンジ (Class II henge) と木柱サークル(環状木柱列、timber circle)の遺跡である。
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ウッドヘンジはストーンサークルの構築とほぼ同時代の前2470年から前2000年にかけての年代か、或いは僅かに後であるとされる。柱穴の位置は現在、その場所を表示するため、コンクリートの柱で示されており、間近で見学でき、上ることもできる。。
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ウッドヘンジの北70メートル先のダーリントン・ウォールズ(Durrington Walls)には「スーパーヘンジ」と呼ばれる約4500年前の土塁があるが、近年、ストーンヘンジ建設に携ったと思われる人々の集落の跡が発見された。さて、そろそろ午後7時である。これから出発すると日暮れまでには今日の最終目的地、レイコック村に到着するだろう。何とか無事予定のスケジュールをこなせたようだ。
(2015.7.20~21)
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イングランド南東部(ライ~ドーバー)

2015-07-19 | イギリス
ロンドン・ガトウィック空港に午後12時半に到着した。これから車でM25モーターウェイ(環状高速道路)を経由し、M20モーターウェイ終点のドーバー(Dover)城を見学した後、宿泊先のライ(Rye)に向かう予定だ。ところが、交通事故の影響を受け道路が渋滞し大幅に遅れてしまったため、ドーバー手前のアシュフォード(Ashford)から直接ライに向かうことにした。
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アシュフォードからA2070号線を走行しA259号線に入ると、サザン鉄道の踏切が現れる。その先のロザー川(River Rother)を渡ると、まもなくライに到着だ。視線をやや左前方に移すとライの町並みが見え始めた。
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ライは、ロンドンから約85キロメートル南東にあるイースト・サセックス州に属する人口約9,000人の小さな町である。三方を川で囲まれた小高い丘の上にあり、西側のストランド・キーが中心部への入口となる。東からA259号を通って来た場合は、北東側から一旦、丘の南側に沿って町を迂回し、西側まで進むことになる。

ストランド・キーから更に車で中心部へ向かうのは進入禁止になるため、やや面倒だが時計回りに町を迂回して北東側から入場しなければならない。それではストランド・キーから北側にあるライ駅の前を通って東方面に向かう。
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次に左側にあるポリス・ステーションを過ぎ、その先の左側にあるフィッシュ・カフェ(人気のシーフード・レストラン)から道路は上り坂になり、
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坂を上りきった右側にランド・ゲート(Land Gate)が現れる。ここが、中心部への北東側入口になる。道は鋭角な三叉路になっており大きく右に曲がり込み、ランド・ゲートをくぐる。
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この門は、1329年、イングランド王エドワード3世(在位:1327年~1377年)により、ライの防衛を強化させる目的で造られた。当時はライに合計4つの門が造られたが、この門が唯一現存する門となった。門には落とし格子や跳ね橋が設置されていたという。
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すぐ左側のガードレールの向こうは、断崖になっている。真下には、先ほど通ったA259号線が南に向けて丘を取り巻くように走っているのが見える。
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ランド・ゲートをくぐって100メートルほどで通りは大きく右に曲がり、町の東西を横断するハイ・ストリート(High St.)となる。左側のライ・アート・ギャラリー(Rye Art Gallery)は、1960年初頭にオープンした美術館で550以上の作品を所蔵している。
なお、20世紀前半のイギリスを代表する具象画家ポール・ナッシュ(Paul Nash, 1889-1946)は、ここライに住んでいたという。ギャラリーには彼の作品も所蔵されている。
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通りは、ゆるやかな下り坂となり、100メートルほど進んだ右側には1636年に建設されたグラマー・スクール(grammar school)があり、
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左側には細い路地(ライオン・ストリート)がある。覗き込むと、突き当たりにライのシンボルと言われるセント・メアリー教会(Saint Mary's Church)が見える。
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この辺りがライの中心部で、周りには雑貨店・インテリアショップなどが軒を連ねている。目的のホテルへは、右側に見えるライ・デリ(Rye Deli)先の路地を左折(写真は、進行方向と逆に撮影)する。そして、石畳の道を80メートルほど進み、その先を大きく左(※)・右へと曲がり、
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曲がり角の右側にある赤レンガの古い建物は、小説家ヘンリー・ジェームス(Henry James、1843-1916)が晩年暮らしたラム・ハウス(Lamb House)。

先の丁字路を右折すると、町の南端を走るウォッチベル・ストリートになり、100メートルほど下った先で大きく右に曲がり広場となる。角地にあり広場に面して建つ建物が目的地のザ・ホープ・アンカー・ホテル(The Hope Anchor Hotel)である。
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現在、午後6時だがこの時期はまだ明るくホテルに当たる西日が眩い。

ホテルで無事チェックインを済ませて町を散策する。最初に広場の西端から北側に伸びる小道を歩いて行く。
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左側の手摺の向こうには、ライの西側を流れるティリンガム川(Tillingharm)が見える。川にはヨットも停泊しており港が近いと感じさせてくれる。
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小道は下りながら大きく右に曲がり、すぐにライの町への西側入口、ストランド・キーそばのマーメード・ストリートに合流する。
マーメード・ストリートは、町のメイン通り(ハイ・ストリート)に並行する一本南側の石畳の路地だが、中世時代はメイン通りであった。左側には、1420年に建てられたライを代表するパブ兼ホテル、マーメード・イン(The Mermaid Inn)がある。漆喰壁の黒い木枠を配した(チューダー様式)造りが歴史を感じさせてくれる。この宿にはイギリス王室一家や、各界のセレブたちも訪れているが、かつては密輸業者たちの溜まり場でもあったと言う。鉄製の看板にはマーメードの姿がデザインされている。
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マーメード・ストリートからハイ・ストリートに出て、先ほど通り過ぎたセント・メアリー教会への通り(ライオン・ストリート)を歩いていく。教会は、1561年に建造されたが、最も古い部分は1150年頃のものと言う。正面上部に見える時計は、イングランドの教会では最古の機械で動いているらしい。そして教会に向かって右側にある建物はシェークスピアとの共著で知られるジョン・フレッチャー(John Fletcher(1579–1625))の生家で現在はカフェとなっている。
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教会内の見学時間は既に終了しているため、取りあえず周りを歩いてみる。東側のフライング・バットレスの下をくぐり、
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教会の南側に出る。
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教会の南側にはフランス軍の侵攻に備えて、1249年に建てられたイプラ・タワー(Ypres Tower)(要塞跡)がある。一時期、住居や牢獄として利用されたこともあるが、現在はライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)になっている。しかしこの時間、博物館内の見学は既に終了している。なお、イプラはこの要塞を買い取った人物の名前にちなんでいるとのこと。
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イプラ・タワーの前から階段を降りると周りは広場になっており、多くの大砲が置かれている。
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広場からは見晴の良い景観を楽しむことができる。左側(東)にはロザー川(River Rother)が挑め、正面の建物のすぐ向こう側には、ブリード川(Brede)が流れており、ヨットのマストが何本か見える。現在のライの町は、木造やレンガ造りの可愛らしい建物や石畳の路地など、イギリスで最も美しい町の一つに挙げられ多くの観光客が訪れるが、中世のころは、丘のすぐ近くまで海岸線があったことから、戦いのために装備された港町であった。
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ライは、かつてイギリス東南部の海防を目的に11世紀に作られた五港同盟に参加したことから、かなり栄えた港町だったのだろう。大砲越しに丘の向こうを眺めていると、タイムスリップして辺りが本当に海に見えてくるようだ。
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この辺りは、チャーチスクエア(Church Sq.)と呼ばれ、歴史を感じさせる遺構が多い。教会の北東側の角には16世紀から続くレンガ造りの古い給水塔(Ancient Water Supply)などもある。ライオン・ストリートに並行する一本東側を通るイースト・ストリートを進み、左側のイプラ・タワーの分館、ライ・キャッスル博物館(Rye Castle Museum)を過ぎると、再びハイ・ストリートにぶつかる。右折したところが、ライ・アート・ギャラリーで、そのままハイ・ストリートを遡りランド・ゲートをくぐって駅前まで行き、午後8時前にホテルに戻ってきた。
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今夜の夕食はホテルのレストランでいただいた。最初に、シーフード・アンティパストを注文する。燻製や酢漬けなどバラエティに富んでおり、デリ・マヨネーズに付けても、そのまま食べても美味しい。
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こちらは、エビ、アンコウ、ホタテの入ったホープアンカー・シーフード・メロディ

ワインはイタリア産のピノ・グリ(Pinot Grio)を頼んだ。メインはボリュームたっぷりの本日の魚。付け合せの野菜もボリュームたっぷりであった
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こちらは、ドーバー・シタヒラメのグリル。ちなみに料理はツー・コースで19.95ポンドとコスパが高かった。なおスリーコースだと24.95ポンドであった。

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さて翌朝。白を基調とした部屋は清潔感もあり気持ち良かったが、作りが多少変わっていて面白い。ベッドのある部屋と洗面所との間は段差がある廊下となっており、その廊下の途中に鏡台スペースがあり、上に斜めの出窓がある。そして廊下の奥が、ユニット式の洗面所なのだが、左壁が斜めになっている。おそらく部屋に洗面所がなかったため、廊下を作り屋根裏を拡張して設置したのだろう。
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部屋を出て階段を降りて行くと、壁にはイングランド王室伝統の「スリー・ライオンズ」の紋章などが並んでいる。
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レストランでは、たまごにベーコン、ソーセージなどを頂いたが、丁寧に調理されており美味しかった。窓から外を眺めると雨が降っているのか、霧で良く見えない。今日は昨日行けなかったドーバー城に行くつもりだが、この天気なのでどうするか。。
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やはりドーバー城に行くことにして急ぎ出発した。ライのホテルからは概ね1時間の距離である。ドーバー城は、ドーバー市内から東に約1.2キロメートル行ったキャッスルヒルの上にある。市内を抜けA258(キャッスルヒル・ロード)を上っていくと、すぐにDover Castleと書かれた案内板が現れる。右折し城門をくぐり、19世紀に建設された兵舎兼軍事務所の南側を通って東側から裏側に回り込んだ高台にチケット・センターはある。
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入場料は17ポンド(一人当たり)とかなり高いが、イングリッシュ・ヘリテージ・オーバーシーズ・ビジター・パスがあれば30ポンド(一人当たり)で、イングランドの歴史的建造物の100か所以上(9日間有効)にフリーで入場できる。ただし、事前に、Eメールバウチャーをネットで取得しておき、当日、最初のチケット・センターでビジター・パスと交換することになるので事前に準備が必要だ。

無事入場もでき辺りを散策する。城内の地図(北は右側)を見ると、キャッスルヒルは、断崖絶壁のある海岸から北西に行くほど徐々に標高が高くなって行き、城郭のあるところで頂点に達しているのがわかる。とは言え、雨は止んだが霧がかかっていて周りは良く見えない。。
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取りあえず、ドーバー城の城郭に行くのは後ほどにして、11時20分スタートの「戦争博物館」防空壕ツアー(所要時間は約50分)に参加することにし、集合場所の防空壕入口に向かう。ツアー参加者は30人ほどであった。右側に案内板があり、この防空壕内に、第二次世界大戦時、連合軍の大規模撤退作戦(ダイナモ作戦)の海軍指揮所があったと書かれている。
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ガイドについて、防空壕内に入って行く。防空壕の壁面には、内部の見取り図が掛けられている。
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しばらくすると、広い部屋が現れた。ここが、ダイナモ作戦が実施された海軍指揮所のようだ。1940年5月、英仏連合軍は、ドイツの戦車・航空機など火力・機動力を中心とした新戦法によりドーバー海岸に面したフランス北部の港ダンケルクに追い詰められていた。当時この指揮所を任されたイギリス海軍中将バートラム・ラムゼイ銅像の解説)は、このダイナモ・ルームにおいて、イギリスへの撤退作戦を計画した。
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バートラム・ラムゼイより作戦概要を聞いたチャーチル首相は、英仏軍あわせた約35万人を直ちに救出するように命じ、1940年5月26日から6月4日にかけてイギリス国内の海軍を始め民間の漁船やヨットに至るまであらゆる船舶を総動員し開始された。その結果、860隻の船舶に331,226名(英軍192,226名、仏軍139,000名)の兵士をダンケルクから救出することができた。
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ダンケルクの脱出を描いた映画に、アンリ・ヴェルヌイユ監督の「ダンケルク(1964)」がある。映画は、戦争による悲劇を仏軍のマイヤ曹長(ジャン・ポール・ベルモンド)の目を通して描かれていた。ダンケルクからの撤退作戦が実行され、イギリス船に乗って次々と脱出して行く兵士たち。主人公のマイヤも、ダンケルクを脱出しようとするが、イギリス兵が優先され、なかなか順番がまわってこない。ある日、兵士からレイプされそうになっていた若い女性ジャンヌ(カトリーヌ・スパーク)を助けたことから、2人は惹かれあう。しかし悲劇的な結果に終わる、といったストーリー。ベルモンドは、悲劇的な状況にも関わらず、脱出を待つ砂浜で酒を飲んで仲間と騒いだりしながらキャンプ生活をおくる姿は、どこかとぼけた雰囲気もあった。
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この広い空間は、リピーター・ステーション(Repeater stations)といい、国際電話回路の重要な中継基地となった。特に一つのケーブルで同時に最高12のメッセージを送ることができたため、1944年には、何千もの偽の電話メッセージを流すことにより、Dーデイ(ノルマンディー上陸作戦)の位置についてドイツ軍を欺き、連合軍を勝利に導いた。
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トンネルは、全長約6キロメートルもあり、当時は600人近くの軍人や労働者が常時この防空壕を利用していたと言われている。歴史的にも非常に興味深い場所である。見学を終えて防空壕を出ると、断崖を削って作られた見晴の良い広場に出た。奥には資料館がある。
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防空壕を見学している内に一面を覆っていた霧が晴れ、海が見渡せるようになった。西側の海岸線を眺めて、視線を左に移し東側を眺めるとドーバー港が見える。ドーバー港は、トラック用のフェリーと一般乗用車、旅行客用の高速船、ホバークラフトのターミナルとの2つのブロックに分かれている。ドーバー港とフランス・カレー港との距離は約34キロメートルで、定期フェリーは、ドーバー港とカレー港及びダンケルク港との間を、年間約180万人の乗客を乗せて行き交っている。
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ドーバー港は、フランスに渡る主要な港だが、近年、英仏海峡トンネル(1994年に開通)やヨーロッパ格安航空会社の旅行業界参入(1995年)など交通手段の進化・多様化の影響もあり、利用者が減少しているらしい。
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こちらには、高射砲が置かれている。ドーバー城の守りの要は、時代に応じて変化している。中世においては、海側の南東側の切り立った崖は、天然の要害であったため、低地からの攻撃を防ぐため北西側が強化された。しかし近代戦においては、海からの爆撃機や長距離兵器への対応が課題となった。
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第二次世界大戦当時、ドイツは、イギリス本土に対する爆撃機による戦果が思うように上がらなかったため、V-1(ミサイル兵器)を開発しフランスのカレー地方から発射しロンドンに決定的打撃を与えようとした。現在の巡航ミサイルの始祖とも言える兵器であるが、到達率はかなり低かったようだ。イギリスは対抗措置として、ドーバーからイーストボーンまでの海岸線に高射砲を配置し防空能力の向上に寄与した。

タイミング良く12時20分からの地下病院ツアーにも参加できそうだ。急ぎ集合場所に向かう。
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防空壕ツアーと同様に、ガイドについて地下に入る。地下には手術室、病室、キッチン、食堂寝室などが当時のままの状態で保存されている。見学時間は、20分ほどであった。

それでは、いよいよ城郭に向かうこととし、前方に見えるコルトン門(Colton's Gate)をくぐる。
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ドーバーは、古くから「イングランドの鍵」と呼ばれ、大陸からの玄関口であった。古くは紀元1世紀、ローマの軍港として栄え、灯台を丘に築いた。その後、サクソン時代には木の柵の砦が作られたが、イングランド王(アングロ・サクソン系)ハロルド2世(在位:1066年)は、これを石造りの要害堅固な城に変えた。ノルマンディー公ギヨーム2世(ウィリアム1世、後のイングランド王(在位:1066~1087))が、ノルマンディーから最短距離のドーバー上陸を回避して、ヘイスティングズに上陸したのは、難攻不落のドーバー城があったからと言われている。

コルトン門を過ぎると、前方に巨大なドーバー城が聳えている。ドーバー城の城郭は、二重、三重に取り囲まれた城壁内にあり、全体で約35エーカー(東京ドーム3個分)の広さを誇り、規模もイングランド最大を誇っている。現在残る城郭と主な城壁は、ヘンリー2世(在位:1133~1189)が改築・建築したものである。
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次に城壁のパラス門(Palace Gate)をくぐると、
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正面には、グレート・タワー(Great Tower)と名付けられた四角柱の高さ約30メートルのドーバー城が現れる。タワーへのエントランスは、正面からではなく右側になる。
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グレート・タワーに向かって右側の城壁沿いには、アーサー・ホール(Arthur's Hall)があり、グレート・タワーの紹介とヘンリー2世と彼の一家に関する資料館となっている。その隣は軍事博物館でチャールズ2世(在位:1660~1685)以降のイギリスの戦争史を紹介している。
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さらさらっと資料館を見学してグレート・タワーに入る。最初に現れるグランドフロアー(Ground Floor)には、周りには壺などが並べられ、調理台の上にはパンや干し肉が吊るされるなど、ヘンリー2世時代のキッチンが再現されている。
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2階には、会議や宴、式典などに使われた宴会場王の寝室や大広間など、こちらもヘンリー2世時代を再現する装飾がなされていた。概ね中世の城内は暗くて無機質な空間になりがちなので、カラフルなデザインの装飾の品を配置することで、明るさを演出しているのかもしれない。
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こちらはトマス・ベケット礼拝堂(Chapel of Thomas Beckett)で、カンタベリー大聖堂で殺された大司教トマス・ベケット(在任:1162~1170)にちなんで名付けられた。トマス・ベケットはヘンリー2世と激しく対立したため、王の意を受けた4人の騎士に教会の敷地内で殺害されたと言われている。その後、殉教として崇拝され聖人となった。礼拝堂内は、ステンドグラスから差し込む光で明るく照らされていた。なお、中世の頃は、戦時中に礼拝のために教会に出向くことができなくなるため、このように城内に礼拝堂があるのは一般的であった。
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それでは階段を上り、屋上に上がってみよう。
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まず、南東側のドーバー海峡を見ると、天候はかなり回復し、遠くまで見渡せるようになった。右端手前の塔が先ほどくぐったコルトン門で、その左側(中央)に見えるかなり古びた石造りの塔が、紀元1世紀に建てられたローマ時代の灯台(Roman Pharos)である。
そして左隣の赤い屋根の建物は、聖メアリー教会(Charch of St Mary-in-Castro)で、11世紀サクソン時代に建てられ、19世紀後半ヴィクトリア朝時代に軍事用の施設として利用できるように改築された。
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手前の広場では、中世の衣装を身にまといパフォーマンスを披露する人たちと彼らを取り囲む見物人が見える。青い列車風の乗り物は、城内を巡回する無料のシャトルトラムだ。

視線を少し左に移し東側を見てみる。真下の赤い屋根の建物が城壁内に入り最初に見学したアーサー・ホールと軍事博物館で、その先は、丘に沿って海岸まで城壁(外壁)が伸びているのが見える。これらの外壁はヘンリー3世(在位:1207~1272)時代のものだが、その後、歴代の王も多額の費用をかけてドーバー城を強化し続けたという。隣接する広大な丘陵地帯の先にはドーバー港が見える。ドーバー港側から見る断崖はチョーク(白亜)で構成されていることからホワイト・クリフと呼ばれている。
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そして、こちらは北西側の城壁付近の様子。真下に見える城壁の建物はゲートハウス(Gatehouse)と呼ばれ、屋上は見張り台や攻撃用の砦としての役割があった。建物の中央には、王の門(Kings Gate)があり、外壁手前には投石器が置かれている。
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こちらの城壁はルイ王子(後のルイ8世)の攻城戦の舞台になった(第一次バロン戦争)。1216年、フランスのルイ王子は王位継承を要求し、ジョン王(在位:1199~1216)のイングランドに攻め込んだ。王子は、ジョンの統治に不満を持つ貴族たちの協力も得て瞬く間にロンドン入城を果たし、造反諸侯や市民達からの歓迎を受けた。その後、ウィンチェスターを攻略、その勢いで、ドーバー城を二度に亘り攻めるものの落城は叶わなかったようだ。

こちらは、その第一回目の攻城戦図である。この図によると、外壁の向こうに突き出した緑の段壁には楼門があり、フランス軍は、その楼門を通り、外壁右側の門塔を崩し城壁の下まで迫ったが、ドーバー城内の兵士は材木などを駆使しながらフランス軍を撃退した。なお、戦後この弱点となった門は封鎖され地下道が造らた。

そして、こちらは南西側の城壁付近の様子。1815年当時の西の高台(Western Heights)図を見ると、外壁の先に見える空き地には土塁の砲台が築かれていたようだ。当時、ナポレオン戦争が勃発したことから、フランス軍の進入危機を踏まえて要塞化された跡とのこと。
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最後に、視線を上げてドーバー市内を眺めてみる。中央手前から直線に伸びる通りがキャッスル・ストリートで、200メートルほど先でカノンストリートと交差する。そのあたりがドーバー市内中心地になり、ドーバー博物館やローマ時代の宿泊所(ローマン・ペインテッド・ハウス)などの観光スポットがあり、ショッピングエリアもこの辺りにある。海岸沿いに伸びる大通りはA20号で12キロメートル先でM20モーターウェイに合流する。
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霧も晴れ、周りの景色も眺めることができたのでドーバーに来てよかった。現在、午後2時を過ぎたところ。そろそろ出発し、次はヘイスティングズの戦い(1066年)の舞台となったバトル(Battle)の丘に向かう。
(2015.7.19~20)
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