カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

イングランド・コッツウォルズ(その4)

2015-07-24 | イギリス
チェッドワース・ローマン・ヴィラから北上し、東西に伸びるA436を西に向かいクリックリー・ヒル(Crickley Hill)に到着した。駐車場から伸びるあぜ道は、尾根に沿って続いており、すぐ左側(西)を眺めると、起伏に富んだ丘陵地が広がっている。今朝から雨は強く降り続いているが、かえって靄がかかりにくいのか思った以上に眺望が良い。晴れた日のピクニックは最高だろう。斜面に見える小さな黒い点は、望遠で確認してみると牛の放牧だった
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さて、レックハンプトン・ヒル通りを北上し、丘陵地を越えると6キロメートルほどで、チェルトナム(Cheltenham)に到着する。チェルトナムはコッツウォルズ中部を巡る際の西の起点となる都市で、中世の頃はコッツウォルズの他の町・村同様に羊毛産業で栄えたが、1716年に鉱泉が発見され、町は保養地として発展していく。

そのチェルトナム中心部からA435を1キロメートルほど北上した右側にパンプ・ルーム(Pittville Pump Room)と呼ばれる建物がある。かなり大きなギリシア・ローマ風の建造物だ。建物に沿って南側に回り込む。
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このパンプ・ルームには、1788年、ジョージ3世(在位:1760~1800)が約5週間滞在して鉱泉飲用による治療を行った。当時はアメリカ独立戦争、フランス革命、ナポレオン戦争など外交上の難題が山積しており王の気苦労も多かっただろう。一方、経済面では産業革命が進行しており「世界の工場」に躍進しつつある時期でもあった。更に1816年には、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破ったアーサー・ウェルズリー(ウェリントン公爵)が肝臓病治療のためにこの地を訪れている。

チェルトナムは、王族や貴族などの治療滞在を契機にして温泉保養地(スパ・タウン)として多くの観光客が訪れるようになり、ギリシア・ローマ風の建物や並木通り、劇場などが次々造られ、今では人口11万5千人を有する大都市となった。この日は結婚式(披露宴)が行われていたため、パンプ・ルーム内には入ることができなかった(建物内には400人収容の大ホールがあり、今も飲用のための蛇口が付いた装置がある)。南側が庭園になっており、音楽祭なども行われるそうだ。
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更にA435を1.5キロメートルほど北上し、右折して突き当たりのサウザン(Southam)を左折してB4632をウィンチカム(Winchcombe)方面に向かう。B4632はすぐにコッツウォルズ丘陵地の斜面をぐんぐん上って行き眺望が広がった。

右側には、レストラン・ライジング・サン(The Rising Sun)があり、横の路地を上って行くとフットパスの表示がある。ここからコッツウォルズで最も標高のあるクリーヴ・ヒル(Cleeve Hill)に続いているようだ。しかし雨が降り続いているため、諦めてB4632沿いの斜面から眺めるだけにしたが、ここからでも素晴らしい眺めだ。
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B4632を更に北東方面に8キロメートルほど進み目的地のウィンチカムに到着した。時刻は午後2時、雨は相変わらず降り続いている。
ここウィンチカムは、7世紀中頃から9世紀初頭にかけて強い勢力をもったアングロ・サクソン系のマーシア王国(七王国の一つ)の中核都市があったところ。オファ王(在位:757~796)は、この地にウィンチカム大修道院(ベネディクト修道士会)を建築した。その修道院については、マームズベリ修道院のウィリアム(1095~1143)による記録が残っており、それによると聖ケネルム祭に多くの巡礼者が訪れたという。

しかし1539年、ウィンチカム大修道院はヘンリー8世の修道院解散令により破壊されてしまう。その後ウィンチカムは羊毛産業を支える物流拠点やタバコ葉の集積地として栄えたが、現在では人口4千人ほどの小さな町である。町の中心部からやや南西側に、聖ピーターズ教会(St Peter's Church)(羊毛教会)がある。
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この教会は、1454年から1468年にかけてイングランド・ゴシック(垂直式)で建てられ1873年に改築された。塔の高さは約27メートルで塔上には金の風見鶏がある。もともとはブリストル(Bristol)の聖メアリー・レッドクリフ教会(St.Mary Redcliffe)に飾られていたという。
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それでは聖ピーターズ教会に入ってみよう。天井は、木製の平型天井で枝付き燭台が吊り下げられている。これはフランダース地方の職人によって作られ、1753年に教区委員ジョン・メリーマンによって寄贈されたもの。祭壇のステンドグラスは、1885年に取り付けられたもので、聖ペテロが水の上を歩こうとし、キリストが嵐を鎮めた説話が描かれている。
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洗礼台は、1634年2名の教区委員から奉納されたもので、台座には16と34の浮彫が施されている。なお上部の鳩の付いた青と金色のカバーは1764年製とのこと。そして後ろには、アングロ・サクソンの聖者、聖ケネルム(Saint Kenelm)のお棺が祀られており、こちらは閉鎖されたウィンチカム大修道院から運ばれてきたもの。

聖ケネルムとは、マーシア王国(527~918)コエンウルフ王(Coenwulf、在位:796~821)の王子ケネルム(Kenelm or Cynehelm、在位:821~823)とされている。彼は前王の死去に伴い7才で王となるが、それを快く思わない姉とその夫により、狩りの最中に殺されてしまう。幼王を埋めたウスターシャーの茂みからは、光の柱が立ち上り、泉が湧き流れ出しその水を飲んだ人々は誰でも病が治癒したという。中世時代の聖ケネルム祭はこの伝説にちなんでいる。
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壁面には、オークの木のドアと床のタイルが飾られている。こちらも閉鎖されたウィンチカム大修道院から運ばれてきたもの。
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古い義援金箱がある。これは1547年にエドワード6世(在位:1547~1553)の命令で3つの鍵が付けられたもので、教区牧師と2人の教区委員だけが開けることができたという。

そして、こちらは1872年まで供物台の上で使われていた祭壇のタペストリーで、23人の聖人たちが描かれている。緑の一部分はヘンリー8世の最初の王后キャサリン・オブ・アラゴンの手によるもの。
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ところで、王后キャサリンとヘンリー8世との間の子供は、女児メアリー(後のメアリー1世)を除いていずれも早世したことから、ヘンリー8世は男子の後継者を得たいと離婚を願い出る。このことが、ローマ教皇庁と対立しイングランドの宗教改革の発端となった。その後、ヘンリー8世は2番目の王后アン・ブーリンとの間にエリザベス王女(後のエリザベス1世)を、3番目の王后ジェーン・シーモアとの間にはエドワード王子(後のエドワード6世)を儲ける。

ヘンリー8世の死後は、エドワード王子が王位につくが、若くしてなくなったため、メアリーがイングランド史上最初の女王となるが、何とも皮肉な結果である。。

教会内を20分ほど見学した後、外に出て教会の周りを散策してみる。この教会の必ず見るべきポイントは、外壁に施された40個のガーゴイルの彫刻である。見上げるとあちらこちらに怪物の彫像が見え、上部には人間の顔も見えるこちらも帽子を被った人間の顔だが体には小さな羽らしきものが見える。ガーゴイルとは、雨樋の機能をもつ彫刻のことだが、雨樋自体は彫像の横に金属の樋があり、彫像には吹き出し口らしき跡は見えない。
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こちらには王(貴族)を思わせる風貌の彫刻が見える。
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次に、ヘイルズ・アビーの見学を予定しているのだが、聖ピーターズ教会のすぐ東側の三叉路にシュードリー城(Sudeley Castle)の案内があったため近くまで行ってみる。三叉路のバインヤード・ストリートを1キロメートルほど南東に進むと、シュードリー城の案内版に到着する。そのまま進むと門が現れた。
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シュードリー城は、スティーブン王(在位:1135~1154)時代に建てられ、その後はテューダー朝の所有となった。1547年、ヘンリー8世亡き後はエドワード6世の所有となるが、彼は、叔父にあたるシュードリー男爵トマス・シーモア(1508~1549)(Edward Seymour)にその城を与えた。ここには、ヘンリー8世の6番目の王后で、王の死後にトマス男爵の妻となったキャサリン・パー(1512~1548)のお墓が納められた礼拝堂がある。
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キャサリン・パーは2度の結婚歴(いずれの夫も病死)の後、トマス男爵と交際していたが、ヘンリー8世に見初められ結婚する。彼女は、もともと読書家で深い教養と知性を身に着けておりヘンリー8世から全幅の信頼を得ることができた。また、メアリー王女、エリザベス王女を庶子の身分から王女の身分に戻し、下位だったエドワード王子の王位継承権を復活させるなど、王や王の子供たちに献身的に尽くした。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ(Wikimedia Commons)

結婚後4年余りでヘンリー8世が崩御(1547年)したため、キャサリンは、王后の格式のまま接遇する遺言にも関わらず、全てを捨て、かつての恋人トマス男爵と結婚して、ここシュードリー城に住んだ。翌年には、彼女にとって初めての女児が誕生するものの産褥熱にかかり亡くなった。36歳の生涯だったという。

城内には8つの庭園があり、中でも噴水を中心に800種類以上のバラやラベンダーなどが植えられているクイーンズ・ガーデンが有名とのこと。残念ながら時間の関係で、敷地の外から覗き込むだけで次に向かう。
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ウインチカムからB4632を3キロメートルほど北上したヘイルズ(Hailes)に、シトー修道士会の修道院(ヘイルズ・アビー)跡が残っている。1246年にコーンウォール伯リチャード(1209~1272)により建設された。

リチャードとはジョン王(在位:1199~1216)の次男でヘンリー3世(在位:1216~1272)を兄に持つ。リチャードは王位を狙ってその兄に反抗するが失敗する。その後、大空位時代には、神聖ローマ皇帝(ドイツ皇帝)の継承紛争に介入し、皇帝候補者として名のりをあげるが、1263年バロン戦争後の内乱で敗れ皇帝即位は幻に終わる。1271年には息子ヘンリーが暗殺され翌年不遇と失意のうちに亡くなった。
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1270年には、そのリチャードの別の息子エドマンド(1249~1300)が、ドイツから聖遺物(キリストの血の入った小瓶)をこの地に持ち帰ったことから、ヘイルズ・アビーは巡礼地として大いに栄えたという。しかし1539年修道院解散令時に聖遺物を鑑定した結果、偽物(蜂蜜)であることが判明する。その後、修道院の石材は近隣の住宅建設に用いられ荒廃していく。

広大な敷地の中に四角形状の基壇があり所々に石柱アーチが残る回廊跡がある。遺跡は雨ざらしの状態なので石の間から雑草が伸び放題になっている。敷地の芝生は綺麗に刈りこまれていることから、離れて遺跡を眺めるとアート作品にも見えてくる。
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アーチの横には、彫刻の跡が見えるが、摩耗していて判別ができなくなっている。現在はナショナル・トラストにより管理されているが、この状態のまま維持していくのは難しいのではないか。。
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次にスノーズヒル(Snowshill)に向かう。ヘイルズ・アビーからは、直線距離で6キロメートルほど北東になるが、このあたりは丘陵地のため迂回して進む。B4632をブロードウェイまで北上し、鋭角に右折してスノーズヒル・ロードを南下し20分ほどでスノーズヒル・マナーに到着した。木々に覆われた一本道を歩いて行くと、丘陵地が広がり斜面には牛や羊が放牧されている。
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前方の斜面上部に屋敷らしき建物が見えてきた。
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正面に見える建物がマナーハウスの玄関にあたる。ここは821年から修道院解散令の1539年までウィンチカム大修道院の所有だったが、ヘンリー8世に没収され、王后キャサリン・パーの所有となった。その後、所有者が入れ替わり、19~20世紀、建築家・アーティスト・詩人のチャールズ・パジェット・ウェード(Charles Paget Wade)の所有となる。彼は、古びた建物を改修し2万2千点ものコレクションを残した。そして1951年からは、ナショナル・トラストが管理している。
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マナーハウスの玄関に向かって左側は緑に覆われており、その奥に屋敷の建物が続いている。外壁に見える像は、竜を退治する聖ゲオルギオスだろうか。。
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かなり古びた印象の建物がある。
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建物内には、ウェードのバスルームや収集した調度品などで飾られた寝室など当時の暮らしぶりがうかがえる部屋が残されている。
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こちらのオブジェは、ウィンチカム大修道院にあったものという。
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少し右に寄って眺めると、斜面を取り込んだ庭園の造りが良く分かる。周りに果樹園を配し、西側には広大な丘陵地の田園を遠景に取り入れつくられている。自然に溶け込んだ建物と庭園の景観の中にターコイズブルーのベンチや時計が目立つ。このターコイズブルーはウェードのお気に入りの色だったらしい。
時計の奥に見える切妻屋根の建物はハト小屋のようだ。
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階段を降りてターコイズブルーの時計の前に行ってみる。時計は天文時計で、十二宮が描かれ、文字はラテン語で書かれている。反対側の建物(キッチン・ガーデン)にもターコイズブルーのマリアの祠やベンチが置かれている。建物内には、古びた馬車などが展示されていた。
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マナーハウスの見学が終わり、600メートルほど南に行ったところがスノーズヒル村の中心部になる。そこから1キロメートルほど東に坂道を上って行くとラベンダー畑が広がっている。
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約90エーカーの敷地に約50万本のラベンダーが見事な花を咲かしている。ちょうど見どころの時期だが、この天気で他に観光客はいない。。
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再び坂道を下ってスノーズヒル村の中心部に行ってみる。人口160人ほどのこじんまりとした村で、右側(西側)には村唯一のパブ(The Snowshill Arms)があり、左奥には聖バルナバ教会が建っている。この村は2001年公開の映画「ブリジット・ジョーンズの日記」でブリジットの故郷として撮影された。教会の敷地は三角形状で周りを道路が取り囲んでいる。北から時計回りで一周してみよう。
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小端積みのコッツウォルズ・ストーンの石垣で囲まれた教会の敷地には墓を示す石版がまばらに立っており、敷地の南東角からは西側遠景に丘陵地を望むことができる。人通りがなく、しとしとと降る雨も合わさり物寂しい雰囲気を醸し出している。。
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教会の東側から敷地の向こうにパブが望める。周囲は200メートルほどだろうか、あっと言う間に一周できた。
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次に4キロメートルほど北上し、ブロードウェイ・タワーに向かった。塔は1799年完成で、17メートルの高さを誇る城塞風の建造物である。塔上部からの景観がお勧めらしく、今日の天候では行ってもしかたがなかったが、場所が近いので道路沿いから塔を眺めてみるが、霞の中に僅かに見えるだけであった。。さらに風雨が強くなったため、すぐ諦めてブロックリー(Blockley)に向かった。

ブロックリーは、19世紀半ばまで絹織物工業で栄え500人以上の職人が暮らしていた。周りは森で囲まれており坂道のある傾斜地に村の中心がある。正面のショップ&カフェの左側の小道を進むと、
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小さい村には不釣り合いなほどの大きな教会(聖ペトロ&聖パウロ教会)が建っている。教会は、1180年ノルマン様式で建てられた(塔部分は1725年)。なおこの教会は、2013年からBBCで始まったG・K・チェスタトン(推理小説作家)原作のTVドラマ「ブラウン神父」の教会(聖メアリー・ローマン・カトリック教会)として登場している。
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再び通り沿いのショップ&カフェに戻った手前の左側には、ノースウィック・パーク(Northwick Park)がある。この時間、白いレインコートを着た年配の人たちがクロッケーの試合を行っていた。ブロックリーには現在2千人ほどが暮らしている。
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ブロックリーから田園地帯の細い一本道を3キロメートルほど北上した所に茅葺き屋根の家が現れた。レイコック村に近いサンディ・レーン(Sandy Lane)村で何軒か見かけて以来だ。

ここは、ブロード・カムデン(Broad Campden)という70戸ほどの小さな集落だが、茅葺屋根の家があることで知られている。屋根裏部屋にある窓を包み込むような茅は、羊の滑らかな毛並の様にも見える。そして、すぐ先にも茅葺屋根の家が続いているが、家毎に微妙に色合いが異なっていることには驚いた。どの茅葺屋根も綺麗に手入れが成されており、まさにファンタジー映画かおとぎ話を連想させてくれる家だ。
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集落を過ぎると、再び田園風景となるが、すぐに町並みが現れた。コッツウォルズ地方最北端に位置するチッピング・カムデン(Chipping Campden)である。チッピングとは市場の意味で、中世は裕福な商人の支援を受け羊毛取引の中心地として大いに栄えた。ハイ・ストリート沿いには蜂蜜色のコッツウォルズ・ストーンの建物が並んでいる。今日は雨が降り続いたためか、蜂蜜色の色合いはより深みが増しているように感じられた。
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この辺りが中心部となりホテルやレストラン、ショップなどが並んでいる。
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通りの向かい側(北側)には、チッピング・カムデンのシンボルとも言えるマーケット・ホールが建っている。こちらは乳製品の取引所として1627年に建てられた。連続する小さな切妻屋根を半円形のアーチが支える印象的な建造物である。中に入ってみると、柱は黒ずんで、足元の石畳は不揃いで波打っており、古タイヤが転がっていた。。歴史的建造物の維持管理に少し不安を覚えた。天井は、見事な二連の舟形天井で造られている。
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マーケット・ホールの公園を挟んで西側には1897年に建てられたタウン・ホールが建っている。
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そして、マーケット・ホールの先を右折し進むと、町の東側に聖ジェームス教会(St James'church)が建っている。裕福な羊毛商人たちの支援を受けて建てられた豪華な羊毛教会だ。時刻はまもなく午後7時半なので、これで今日の行程は終了。そして以上でコッツウォルズの観光は終了である。多少慌ただしかったが予定していた訪問地は概ね見学することができた。
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今夜は、ストラト・フォード・アポン・エイヴォン(Stratford-upon-Avon)にあるレストラン・タイ・キングダム(Thai Kingdom)で食事する。場所はエイヴォン川の市内側に南北に走るワーウイック・ロード沿いにある。時刻は午後8時を過ぎたところ。
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料理はセットメニューで頼んだ。最初に、串や春巻きなどの盛り合わせが出て、次に中華総菜が4品いずれも、卓上コンロが並べられ、アツアツを頂けたイエローカリーが出てデザートアイスで終了。この日は他に2組のお客がいた。値段は、ロゼ16.95、ビール3.5、セットメニュー23.95で、味はタイと言うより中華料理でややイメージとは違ったが、食べやすく美味しくいただけた。
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(2015.7.24)

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