カズさんの旅たび

 ~歴史、文化、芸術、美食紀行。。

フランス・ル ピュイ アン ヴレ(その2)

2013-07-20 | フランス(オーヴェルニュ)
ル ピュイ アン ヴレの街を見下ろすコルネイユ山頂上に立つ「聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)」の見学を終え、すぐそばの司教オーギュスト・ド・モルロン像の後ろから南東方面を見渡すと、十字架の立つ岩の向こうに「ル ピュイ アン ヴレ駅」が望める。
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駅前に広がる駐車場も見え、その右側に続く緑に沿って視線を移していくと、幹線道路(N102号線)との丁字路や昨夜宿泊したオレンジ色の外観の「ホテル・イビス(Ibis)」も確認できる。

しばらくル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイと言う)の景観を堪能し、吹き抜ける風に身を預けた後、下山することにした。下るごとに「ル ピュイ大聖堂(ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂)」の鐘楼が近くに迫ってくる。鐘楼は高さ56メートル、7層から成り立ち、4つの鐘(17世紀には12個)が設置されている。ところで鐘楼が宗教的な機能を持つことはもちろんだが、こちらの鐘楼は、中世において塔の上部に監視員を配置し一帯を監視する軍事的な機能もあった。
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下りは早く、あっと言う間に、下りてきた。すぐ左側の古びた外壁には、巡礼者向けの宿泊施設でもあるカトリック教会(グラン・セミネール)の扉口があるが、硬く閉ざされている。右側手前が教区教会で、その先隣がペニタン礼拝堂と、このエリアはル ピュイの中でも古い歴史を持ち、狭い通路が入り組んだ中に小さな教会や歴史的記念物などが数多く建っている。
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階段を下りて北袖廊と後陣との間にある大聖堂の扉口まで戻る。右側が12世紀に制作された扉口で、扉の鉄製装飾に加え、リンテルの「最後の晩餐」、タンパンの「栄光のキリスト」との装飾が見所だが、フランス革命時に顔が破壊され輪郭しか残っていない。
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そこから左折して、左側の獅子像(左右に設置)が護る「聖ヨハネ洗礼堂」(歴史的記念物、1840年指定)の扉口と、右側の大聖堂の鐘楼との間を歩いて行く。そのすぐ前方には、山頂からも見えた鮮やかな色合いの双塔が聳える「サン・ジョルジュ礼拝堂」(歴史的記念物、1949年指定)(現:神学校の礼拝堂)のファサードが現れる。塔の表面には、小さな彩色タイルが組み合わさり、ブルゴーニュ地方などで見られるモザイク屋根に似ている。
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サン・ジョルジュ礼拝堂は11世紀に建てられ1749年に再建されたもの(身廊は1710年再建)で、ファサードには、コリント式の柱で支えられたペディメントを持つポータル(扉口)を中心に、左右中央にニッチ(壁龕)が、更に外側に装飾柱が施されている。こちらの敷地内にも、巡礼者向けの宿泊施設があるが、礼拝堂の扉は固く閉ざされている。

ファサード前から、通りは大きく右に曲がり、突き当りの丁字路正面に建つ礼拝堂前まで、急な下り坂になる。その突き当りに建つクラシック・スタイルの礼拝堂は1862年にアン・マリー・マーテル(修道女)らにより、若い女性に対して宗教的な教育を行う目的で設立されたもので、特に、レース編み、看護、社会奉仕活動などに重点が置かれた。現在は、リセ(日本の高等学校に相当)の一部になっている。


ファサードの壁面には、レースが飾られている。ル ピュイはレースの町としても有名で、特に、繊細なデザインで上質のものが多く、街には多くのレース・ショップがある(向かい側にもショップがある)。


ル ピュイ・レースの特徴は、編み針を使用せず、特別な器具(ボビン)を数多く使用して糸を組み合わせる製法で作られる。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

近年は、機械織りも盛んに行われている。こちらは、ル ピュイ大聖堂前のターブル通り沿いにあるレース・ショップで実演していた機械織りの様子である。


ファサード前の左右(東西)には石畳の細い通りが続いている。こちらはファサード前から西方向のカルディナル・ポリニャック通り(Cardinal de Poligna)を眺めた様子で、緩やかな下り坂が続いている。通りは人の往来もなく静けさが漂っている。ファサード横にも一気に下りることができる勾配の強い坂道があるが、カルディナル・ポリニャック通りをゆるゆると進むことにする。


200メートルほど進んだ左側に下り階段が続いている。階段の左側には、13世紀に建てられた古い「オテル・ショメイル(Hôtel de Chaumeils)」(歴史的記念物、1951年指定)がある。建物全体は四階建てだが、1階のアーチ扉の上部は6階まで続く塔になっている。アーチ扉の前は、階段と小さな踊り場があり、もともと店舗を想定した造りだった。
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階段を下りて行くと、右側にも13世紀に建てられた「メゾン・ロマンス」(ロマネスク様式の家)(歴史的記念物、1987年指定)が建っている。1階には、幅広のアーチ扉のメイン入口と壁龕のあるアーチ扉が2つ並び、その上の長方形の扉には外階段(螺旋階段)が繋がり1階との上り下りができた。最上部のアーチ窓の右隣の2連アーチは、荒い石で塞がれているが、時代に応じて用途が変化した痕跡なのだろうか。
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階段を降り切ると、再び東西に延びる通りが続き、東方面にしばらく進むと、南北に延びる大通り「ラファイエット通り(Général Lafayette)」に到着する。その大通りを横断すると、再び石畳の細い下り坂となり、左右に高い石壁が続いている。右側の壁の先には、個性的な緑のとんがり屋根を備えた入口があり、その奥に朱色屋根の鐘楼が見える。


こちらは、1432年に設立したル ピュイ最初の女子修道院「サン・クレール修道院(Monastere de Sainte Claire)」(歴史的記念物、1925年指定)で、敷地周囲は高い石壁で覆われている。この時間は、扉が開いていたので入ってみる。

敷地内に入り、鐘楼側の建物を入ると礼拝堂に至る。祭壇は、ステンドグラスと装飾扉を背景に、麻布がかけられた白い聖卓が設置された簡素な造りで、身廊には、会衆席が整然と配置されている。天井には、長方形の小さな木製板がアーチ状に並べられている。


左右の側壁には聖母マリア像を飾る柱が埋め込まれ、両脇にステンドグラスが飾られたアーチ窓がある。こちらのステンドグラスには、ロバに乗り人々から祝福を受ける聖母マリアが表現されている。
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修道院入口前の石畳の通りは、左右の壁が迫る狭く勾配の強い下り坂が、修道院の石壁に沿って右側に回り込む様に続いている。そして石壁を半周した通り沿い南側には、2階建ての古い住宅が建っており、玄関口や窓辺に、色鮮やかな花が飾られている。更に通りを進むと、すぐ先から大きく視界が広がり、振り返ると、2階建ての住宅は、段差地を利用して階下にもう一つの玄関口を持つ3階建て住宅であることが分かる。
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先の階段を下り、住宅の玄関前の花壇のある広場に足を踏み入れると、修道院の石壁沿いの通路下には、アーチ型の水場や、ベンチ等が置かれる等、やすらぎを感じる長閑な風景が広がっている。
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次に、再び「ラファイエット通り」を横断し、ラファイエット中学校の正門右側から、校舎の黄色い外壁が続く「サン・フランソワ・レジ通り」を進む。黄色い壁は途中から古びた石積みの壁となり、途切れた先の三叉路で振り返るとロマネスク様式「カレッジ教会(Eglise du College)」(歴史的記念物、1951年指定)のファサードが現れる。
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こちらは、リヨン出身でイエズス会の建築家マルテランジュ(Martellange)(1569~1641)が、ローマのジェズ教会をモデルとして建築したもの。最上部にはイエズス会を示す「IHS」と十字架が刻まれたペディメントがあり、正面のポータル左右には大きなドーリア式円柱がエンタブラチュアとベランダを支える豪華な造りとなっている。

教会内に入ってみる。交差ヴォールトで覆われた大きな身廊と、アーケードの側廊との3廊式バシリカで構成されているが、側廊は、木製の交差ヴォールトで2層に区切られ、1階部分には小さな礼拝堂が並んでいる。


内陣は身廊よりも低い位置に筒型ヴォールトの丸天井で覆われており、主祭壇には、地元ル ピュイの彫刻家フィリップ・ケッペリン(Philippe Kaeppelin)によって1984年に作られた真新しい黄金衝立が飾られている。この時間は、会衆席には2名が座っていた。
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右側のアーケード柱には、雲を思わせる溶岩石を背景に祈りの聖母マリア(無原罪の御宿り)が飾られている。そして、向かって右側には聖ヨハネと思われる礼拝堂があったが詳細は分からなかった。
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カレッジ教会を出て、西に200メートルほど歩くと市役所が建つ「メリー広場」に到着した。この時間、市役所の後方から音楽が聞こえてきたので、向かうと「プロ広場」でミニコンサートが行われていた。現在時刻は午後6時を過ぎたところで、プロ広場にはレストランのテラス席が並び、多くの人で賑わっていた。
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ル ピュイの3日目の朝、昨夜は、ホテル・イビスの幹線道路(N102号線)の向かい側にあるホテル・レジオナル(Regional) に泊まった。時間は既にお昼の12時である。1階に下りてカウンターにいるマダムに、今夜も宿泊が可能か聞くと、笑顔でOKと言っている。そもそもチェックインの際に、名前を聞かれただけで、パスポート確認もされないが問題ないのだろうか。。ちなみに宿泊代は、54ユーロ(26ユーロ×2泊+2ユーロ)である。


その後、旧市街に入り、昨日同様に、ラファエル通りから、ターブル通り(ル ピュイ大聖堂の参道)との交差点まで行き、その先(北側)に延びる「ファルジュ通り」を300メートルほど進むと幹線道路(N102号線)との交差点(変形五差路)に到着する。コルネイユ山の南麓を東西に延びていたホテル前の幹線道路(N102号線)は、途中から南北に方向が変わり、この交差点からは市内を離れ西へ向かっていく。ちなみに、コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路は交差点からD13号線へと変わる。

N102号線とD13号線との間には、ゴシック様式の「サン・ローラン教会(Eglise Saint-Laurent)」(歴史的記念物、1906年指定)が建っている。こちらは1340年に設立(ファサードは15世紀)されたもので、ファサード中央にある三重にせり出す大きな尖頭アーチ(ポインテッドアーチ)のポーチ(扉口)が特徴である。
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その扉口から内部に入ると、この時間は誰もいなかった。教会は5つの身廊アーチ・ベイで構成され、南北の側廊には、尖頭アーチ型のステンドグラスの窓が、5か所ずつある。しかし、小さいことから外光が届きにくく、やや暗い。一方、主祭壇には、縦長の大きなステンドグラスが三連並んでおり、眩しい光が神々しく差し込んでいる。
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主祭壇前に立つと、ステンドグラスは三連ではなく五連だった。祭壇の左右には、アーチ型の壁龕があり、周りの壁には彩色された痕が残っている。
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主祭壇に向かって右側の壁龕には、横臥像が飾られている。彫像は、フランス王軍司令官「ベルトラン・デュ・ゲクラン」(Bertrand du Guesclin、1320~1380)で、百年戦争初期(シャルル5世(在位:1364~1380)時代)に活躍した人物。死後は、内臓、骨、心臓、肉と4つに分割され、サン・ローラン教会には内臓が埋葬された。ちなみに骨は、フランス王家の墓所パリの「サン・ドニ大聖堂」に、心臓は故郷ブルターニュ地方ディナンの「サン・ソヴール教会」に、肉は「コルドリエ・ド・モンフェラン修道院(Cordeliers de Montferrand)」に埋葬された。
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他にも、サン・ローラン教会は、ヨゼフ・メルクリン(1819~1905)によるオルガンが有名である。1875年製作で、高さ8メートル、横幅5メートルの大きさで、1973年に解体されてしまったが、近年修復が終了したとのこと。メルクリンは、ドイツ出身で主にベルギーとフランスの教会で400を超えるオルガンを製作、修復した当時の一人者であった。

ちなみに、交差点からD13号線(コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路)を200メートルほど歩くと、街はル ピュイから「エギル(Aiguilhe)」となり、前方に奇岩上に建つ「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂(Église Saint-Michel d'Aiguilhe)」が見えてくる。
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サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂へは、後日見学することとして、再びサン・ローラン教会に戻り、N102号に沿って200メートルほど南下すると、左側の旧市街へ入るパヌサック通り横に、古びた塔「パヌサック塔(Tour Pannessac)」(歴史的記念物、1897年指定)が建っている。こちらは13世紀から18世紀までル ピュイの街を守る二重市壁の一部だった。
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パヌサックの塔のすぐ南側のN102号の中央には、ロータリーがあり、西へ向かうD589号線との三差路となっている。そのロータリーの中央に「ラファイエット像(Statue de Lafayette)」(歴史的記念物、2005年指定)が南側を向いて立っている。ラファイエット(1757~1834)は、フランスの貴族、軍人、政治家で、アメリカ独立戦争でアメリカ軍を指揮し、フランス革命時には、改革を支持して人権宣言の起草にあたった。その後は、ナポレオンに協力するが、復古王政には協力せず、フランス革命の理念を象徴する人物として存在し続けた。
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彫像は1883年ル ピュイ市により建てられたもので、高く掲げた右手には革命軍指揮官時代に兵士の徽章として採用した「トリコロール(三色)の円形章」を携えている。

後ろに見える赤い軒先のレストランは、東興楼(La Grande Muraille)で、本格的な中華料理店。新鮮な食材を使い丁寧に調理されており、値段も手ごろで、ランチとディナーともに利用させていただいた。

パヌサックの塔の左側から延びるパヌサック通りを歩いてホテルに戻る(午後8時半過ぎの通りの様子)。


途中、左側に特徴的な装飾で飾られた建物(歴史的記念物、1984年指定)が建っている。アーチ扉のキーストーンには個性的なマスク、コリント式柱頭のエンタブラチュアで、階層を隔て、紋章やマスクなどの装飾を配している。17世紀に芸術家集団が地域に広めようと製作したもの。


しばらく歩くと、途中から「クールリ通り」となり、プロ広場に到着する。その後、幹線道路(N102号線)に出て東方面に歩く。正面にクラシックなホテル・レジーナ(Regina)が現れると、その先隣の建物が宿泊ホテル・レジオナルで向かい側がホテル・イビス。その先に見える塔がある建物は、フランスの建築家アキレ・プロイ(Achille Proy、1864~944)により建てられた歴史的な建物(歴史的記念物、1995年指定)で、彼は、ル ピュイの街を変革した建築家として認められている。
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現在そのアキレ・プロイのビルは、フランスのリキュール「ヴェルヴェーヌ・ドゥ・ヴェレ(Verveine du Velay)」が入居している。ヴェルヴェーヌとは、クマツヅラの葉(薬草、香草の一種)のことで、リキュールは、ル ピュイの特産品である。

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時刻は午後4時(写真は午前中のもの)。今日は、クレルモン フェランの観光を終え、ル ピュイに戻ってきた。これから「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂(Église Saint-Michel d'Aiguilhe)」に向かう。「ル ピュイ大聖堂」のファサード前からは、向かって左側の階段沿いに建つ「オテル デ リュミエール」の手前の路地を北方向に歩いて行く。


建物に囲まれた狭い路地を150メートルほど進むと、視界が開き駐車場がある広い車道となる。この辺りは、聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)のあるコルネイユ山頂のすぐ西側中腹で、ポルテ グーテイロン(Porte Gouteyron)と呼ばれ中世には要塞だったが、現在は、県庁(オテル デ デパルトマン)と駐車場になっている。その駐車場の斜面側から奇岩に建つ「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」の姿を正面に眺めることができる。
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駐車場から斜面側にある階段を降りて急勾配の直線道を200メートル下ると「エギル(Aiguilhe)」村になり、小さな八角形の「サンクレア礼拝堂」(1088年設立)が建つ広場に到着する。


そして、サンクレア礼拝堂の左側の狭い住宅路を抜けた所が「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」への入口で登山道(階段)となる。入口で、入山料を払い階段を上ると、すぐ先で右方向になり、奇岩の岩肌沿いに階段が続いている。階段の崖側には転落防御壁が築かれ(途中防護壁が崩落している個所もあるが)、鉄の手すりも備え付けられており、概ね安心して上ることができる。


階段は、奇岩の東壁面から北壁面をジグザグに268段続き、10分程で上ることができる。最後の階段は、ファサード下の踊り場からの急階段で、礼拝堂のポータル(扉口)に向かっている。上りながら後ろ振り返ると、急階段下の踊り場と、その先にエギル(Aiguilhe)の街並みが見える。傾斜角が大きい奇岩上であり、高所恐怖症だと辛いかもしれない。
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そのポータルは、左右にコリント式の柱を備え、飾り迫縁(アーキヴォルト)として、三葉アーチと鮮やかな多色石のモザイクで覆われている。
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ここで、再び、コルネイユ山中腹から眺めた「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」から細部を確認してみる。礼拝堂が建つ奇岩頂部からやや下方に、北西から手前の東南側にかけて長方形の基壇(側面に2つのアーチあり)が設置され、そこから急階段が礼拝堂のポータルに続いているのが見える。
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その奥に方形造の屋根と最後部に大きな鐘楼が建っているが、方形造の屋根はポータルがあるファサードの方角とややズレた角度となっている。これは、10世紀、方形造の小さな礼拝堂が、四方に面して(後陣は東)建てられたが、その後、巡礼者の増加に伴って拡張が必要となり、12世紀に、頂部のやや下に、奇岩の長径方向(北西から東南)に沿って基壇を設置し、ファサード、身廊、鐘楼を建て増ししたためである。

では、ポータル周りの浮彫装飾を観察してみる。左右のコリント式柱頭には、アカンサスの葉の中に鷲と、アイリスを持つ助祭の浮彫が施されている。
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ペディメントには、それぞれ尾の形状が異なる人魚(向かって左側は蛇の鱗の様に見える)の浮彫があり、タンパンには装飾がない。三葉アーチの上下のアーキヴォルトには、「葉の頭」(グリーンマン)の口から伸びる植物や蔓を掴む人物などが表現されている。そして、三葉アーチには天使を配した「神の子羊」のアーチを中心に、左右に聖杯を持ち傅く人々の姿が表現されている。
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左右柱頭(鷲とアイリスを持つ助祭の浮彫)の上には、それぞれ、短い装飾繰形が乗っているだけで、人魚の浮彫のペディメントや飾り迫縁などは、後方の石壁が支えている。また、左右の柱頭の外側にはガルグイユ(ガーゴイル)像がはめ込まれているが、壁との色合いが異なっている。ともに、移設されたものかもしれない。。
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最上部のアーチ壁龕には、中央にキリストが、左右には聖ヨハネと聖母マリア、聖ペテロと大天使ミカエルを配した浮彫が施されている。アーチ壁龕の間には掌(たなごころ)を正面に向けた浮彫がある。そして浮彫の周囲は、多色モザイクで彩られている。どの浮彫彫刻もデフォルメされた人体や動植物の表現などロマネスク様式の特徴を良く示している。
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次に礼拝堂の内部に向かう。階段はポータルの奥にも続き、身廊はかなり高い位置にある。内部は普通の教会堂とは大きく異なり、左右に並ぶ円柱が左壁に沿って右側に曲がりながらアーケードを形成している。狭い空間にも関わらず、円柱は全部で32本建ち並んでいるが、暗くて見づらい。。
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それぞれ柱頭にはアカンサスの葉など唐草文様の浮彫が施され、柱頭が支えるヴォールトには、聖人、鳥など動物、幾何学文様、唐草文様などのフレスコ画が描かれている。しかし大半は剥落して劣化が著しい。こちらは「東方の三博士」が描かれているが、暗いため馬しか確認できない
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こちらは、入口から右側に回り込んで続くアーケードの最後尾一つ手前の壁側の円柱で、左右に北向きのステンドグラス(幾何学文様)の窓があり、明るい光が差し込んでいる。ヴォールトには、杖を持つ聖人像が描かれているが、ヤコブだろうか。。
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アーケードの内側から東側を眺めると、正方形の内陣がある。こちらが10世紀に建設された初期の礼拝堂で、ひと際高い空間には、外光が差し込み壁に描かれたフレスコ画が明るく照らされている。中央には、小さなアプスがあり、手前に燭台が並ぶ聖卓が置かれ、向かって右側には大天使ミカエルのブロンズ像が飾られている。
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フレスコ画は、近年修復されているが、人物の表情など細かい描写は失われている。アプス上部には「天のエルサレム」が表現され、その上には、天使と聖人群が描かれている。
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天井には、栄光のキリストを中心に、熾天使、大天使ミカエル、月や太陽などが描かれ、四隅には、福音者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)に対応する「テトラモルフ」が描かれている。こちらも顔などの表情はないが、外光や蝋燭の明かりが反射する陰影で、見ていて穏やかな気持ちにさせられる。
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こちらの壁龕には聖母マリアのブロンズ像が飾られている。腰を掛け、右腕に幼子を抱え、左手を前に差し出している。白いクロスがかけられただけの台の上に置かれており、観光客が自由に触っている。この時間、見学者が10名ほどだけだが、狭い礼拝堂のため混雑している印象だった。
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30分ほど見学した後、ポータルからの急階段を下り、踊り場のある基壇を周回しながら景色を眺めた。南東側には、コルネイユ岩の上に立つ聖母子像やル ピュイ大聖堂のドームや鐘楼なども確認できた。
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夕食は、すっかりなじみとなった中華料理店の東興楼(La Grande Muraille)で、点心、チンジャオロースなどを頂いた。飲み物は、グリ・ブラン(2012)頼んだ。グルナッシュのロゼ・ワインだが、透明感があり辛口だけどフルーティで、中華料理にもよく合っていた。


夕食後「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」のライトアップを見に行った。こちらは、コルネイユ山の北麓を回り込む周回道路D13号線側(北側)から眺めた様子。礼拝堂はもちろん奇岩全体が鮮やかにライトアップされており見ごたえがあった。防護壁のあるジグザグ階段もはっきりと見える。
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そして、こちらは、コルネイユ山の西側中腹の県庁がある駐車場から「サン・ミッシェル・デギュイユ礼拝堂」を眺めた様子。光り輝く奇岩は黄金の王冠を被っている様にも見え、神々しさを感じる風景である。お世話になったル ピュイの街とは、今夜でお別れである。
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(2013.7.20~21、23~24)
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フランス・ル ピュイ アン ヴレ(その1)

2013-07-19 | フランス(オーヴェルニュ)
今朝、リヨン・パールデュー駅を発ち、約130キロメートル南西に位置する「ル ピュイ アン ヴレ駅」(Le Puy-en-Velay)に到着した。乗車中に降っていた雨はこの時間止んでいる。駅前に降り立ち振り返ると、えんじ色に白のラインで彩られた真新しい2階建ての駅舎が建ち、頂部に飾られた時計は、正確に時刻(午後2時半)を指し示していた。早朝にリヨンを出立したにも関わらず「サン テティエンヌ駅」での乗り換えの待ち時間も長く、半日近くかかったことになる。。


駅前には、バス停やタクシー乗り場がある小さなロータリーがあるが、降車客のほとんどが右側奥にある駐車場に歩いて行った。左方向に向かう車道を歩いて行くと、緩やかに右に曲がった前方は丁字路で、正面に6階建てのオレンジ色の建物が建っている。こちらはアコーホテルズが展開する「ホテル・イビス(Ibis)」で、今夜はここに泊まることとしている。
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ホテルに向かって右側後方には「コルネイユ山」が望め、山頂には大きな聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)が飾られている。もともとコルネイユ山は、隆起した火山の名残りで、ル ピュイ アン ヴレ(以下:ル ピュイと言う)の街(標高630メートル)は、山頂(比高約70メートル)の南中腹に建つ「ル ピュイ大聖堂」から麓にかけて広がっている。そして、そのコルネイユ山の麓を周回する様に幹線道路(N102号線)が北東方面から緩やかに右に曲がりながらホテル・イビス前を通って西方面に延びている。

ホテルにチェックインし、部屋のベッドで横になっていると、疲れからか寝てしまった。1時間後に目を覚まし、ホテル前の幹線道路沿いの歩道を歩いて西方面に向かう。右側には、ファーストフードやカフェ、レストラン、ショーウインドーなどが建ち並ぶ賑やかな通りが続いており、南側(反対車線)には、広い平面駐車場、劇場、裁判所、庭園(アンリ・ヴィネ庭園)などが広がっている。

観光案内所方面の表示を右折して、石畳の北側に向かうなだらかな上り坂「ポルト・エギィエー通り(porte Aiguière)」を進む。左右にアーチ装飾や、オスマン風のバルコニー等、歴史的な建造物が建ち並ぶ旧市街の街並みが続き、前方の緑鮮やかな樹の遠く先に、山頂に立つ聖母子像が望める。
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前方の緑は傾斜地に造られた「メリー広場(Place de la Mairie)」の中心に立つ広葉樹で、その西側(左側)には、広場を見下ろす様に1766年に建築家ジャン・クロード・ポータルにより建てられた「ル ピュイ市役所(Mairie)」が建っている(歴史的記念物、1951年指定)。ちなみに観光案内所は広場の北側高台にある。

市役所の手前を左折し「サン・ジャック通り」を西に進み、右側の「プロ広場」を通り過ぎた先の交差点手前に「コキーユ・サン・ジャック(Coquille Saint-Jacques)」があり、店舗前には、ホタテ貝を表した看板が立っている。こちらは、お肉を中心としたデリ・ショップで、店内のガラスケース内には美味しそうな総菜が並んでいる。


サンジャックとは、キリストの使徒の一人「聖ヤコブ」のことで、ホタテ貝がヤコブのシンボルとなっている。9世紀に、ヤコブの遺体が、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラで発見されたことから巡礼路が整備され、ル ピュイが、巡礼地へ向かう出発地の一つとなっている。

交差点の先向かいには海をイメージしたマリンブルー外観のデリ・ショップ「ジャック・ファルゴー・マレ(Jacques Fargeau Marée)」があり、ガラスケース内にシーフード料理が並んでいる。


共に美味しそうだったので、夕食はホテルの部屋で食べることにし、それぞれのショップで総菜を買い、交差点の右奥にあるスーパーマーケット「カルフール」でワイン、ビール、ミネラルウォーターなどを買ってホテルに戻った。


ところで、もともと、ル ピュイでの滞在は1泊の予定で、翌日に移動する予定だったが、急遽やむを得ない事情が発生し、出発することができなくなった。。こちらのホテルの宿泊を延長するか思案しているところ。。

ホテルの部屋から夕暮れ前の通りを眺めながら飲んでいると、真下のホテルの看板に気が付いたので、明日訪ねてみることにする。テレビを付けるとドラゴンボールが放映されており、悟空を始め全員がフランス語をしゃべっていた。。


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翌朝、ホテル・イビスの向かい側にあるホテル(Le Régional)に行ってみた。1階のバーにいた女性オーナーに尋ねると宿泊は可能とのことで、部屋を見せてもらった。部屋は、オートロック付きの専用ドアから階段を上った2階で、廊下の左右に部屋が並んでいる。シャワーとトイレは共同だが、部屋は、北側の水路側で静かで、洗面所もあり、思ったより清潔だったので泊まることにした。


今日は、これから、コルネイユ山の山頂に建つ聖母子像と、その中腹にある「ル ピュイ大聖堂」の見学を予定している。ホテル・イビスのすぐ西側から旧市街に入り、東西に伸びる石畳のショサード通り(Rue Chaussade)を西方面に歩いて行く。通りは旧市街の目抜き通りといった様相で、衣料品、ドラッグストア、お土産、小物などのショップが数多く並んでいる。

しばらくすると広葉樹の「メリー広場(Place de la Mairie)」になり、後方に市役所のファサードが現れる。通りは、市役所を境に二股道になり西に向かっている。今日は市役所に向かって右側の「クールリ通り(Rue Courrerie)」を進むと、その先で交差路になり、右側にル ピュイ大聖堂への近道「シェヌブトゥリー通り(Rue Chenebouterie)」が延びている。そして左側に多くの買い物客でにぎわう「プロ広場」がある。広場中央には、13世紀(18世紀再建)に建てられた「プロ噴水」(歴史的記念物、1907年指定)が飾られている。
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「クールリ通り」はプロ広場から「パヌサック(Pannessac)通り」と名前を変え、引き続き、西に向け石畳が続いている。こちらは、そのパヌサック通りから東側のプロ広場方面を振り返った様子で、左右にはショーウインドーが並ぶ17世紀頃に建築された色とりどりの住宅が続いている。
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左側(北側)に視線を移すと、細い路地が北方向に延びており、洋服店と宝石店との建物がアーチで繋がっている(18世紀築)(歴史的記念物、1984年指定)。洋服店側の2階角には、聖母像のある龕(タベルナークロ)が見える。


右側の宝石店側の2階側面壁にも、龕か窓があった跡が見える。もともと、大聖堂に向かう通路の名残りで、巡礼や礼拝に向かう人々の安寧を祈って作られたものなのだろうか。通りは右に曲がりながらなだらかに上って行くが、途中で行き止まりになる。


すぐ西隣にも細い路地があるので、入って行くと、右側に幅広いアーチ扉が2つ並ぶ古い住宅が建っている。それぞれ上部に口を開けた男の頭部像が飾られ、「1689」と刻まれた石がはめ込まれていることから17世紀に建設されたことが分かる。当時、この場所には妻の不貞を知っていながら、それを大目に見る明るい夫たちが集っていたとのこと。
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再び「プロ広場」まで戻り、左折(北側)して「シェヌブトゥリー通り」を上って行く。すぐ右側には、リンテルに女性頭部像が飾られた中央扉があり左右に大きなアーチ戸を備えた古い建物がある。現在は女性服のショーウインドーだが、壁面上部の幕板そばに16世紀「メゾン・ドゥ・カジェール(Maison du Cagaire)」と書かれた小さなパネルが設置されている。
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更に、北に向かって200メートルほど坂道を上って行くと、西から東に延びる(参道)「ターブル通り(Rue des Tables)」との交差路に到着する。交差路の右角のレースショップを右折し、「ターブル噴水」(14世紀築)を過ぎ、東方向に急勾配の坂道を上って行くと目的地の「ル ピュイ大聖堂」に至る。こちらは、ターブル通りの途中から「ターブル噴水」方面を振り返った様子である。
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前方に「ル ピュイ大聖堂」が見えてきた。ノートルダム・ド・アノンシアション大聖堂(受胎告知の聖母大聖堂)とも呼ばれ、初代神聖ローマ皇帝シャルルマーニュ(カール大帝)(742~814)時代から、巡礼の中心地であった。建設の大部分は12世紀の前半に遡るが、古くは5世紀から始まり15世紀にかけて繰り返し改築され現在に至っている。また、スペインにある聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼路への「ル ピュイの道」の出発地点にもなっている。
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大聖堂は西側を正面に、中央に大きな半円形アーチと左右に小アーチを備えた5層からなる12世紀建築のロマネスク様式のファサードで、60段ある大階段の上に建っている。
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日中は逆光になるため、美しいファサードを見学するためには、夕方来るのがお勧め。西日がファサードに反射し、明暗の火山石が組み合わさる壁のコントラストや、頂部のペディメントの細かいモザイク装飾などもはっきり確認することができる。
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ファサード前の階段を上って3つのアーチのある中央ポーチの下から振り返ると、ターブル通りの急勾配の坂と、朱色の屋根で統一された街並みを始め遠くの山々まで一望できる。大聖堂は、コルネイユ山の南中腹にあり、ル ピュイの街の建造物としては最高地点になる。
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見上げると、天井は4つのアーチ・ベイと交差ヴォールトで形成されている。1番目と2番目のベイを支える柱頭には、テトラモルフ(福音書記者)の浮彫が施されている。こちらの南側ベイは、人(マタイ)と獅子(マルコ)で、北側ベイには、雄牛(ルカ)と鷲(ヨハネ)が刻まれている。
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次の中央ベイ・アーチの下部には、預言者イザヤと洗礼者ヨハネが描かれたフレスコ画がある。
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フレスコ画は13世紀前半に描かれたもので、左右のタンパン(ティンパヌム)にも残っている。左側は「玉座に座る聖母子」で、両脇に天使を配した聖母マリアと幼子キリストが正面を見据えており、預言者エレミヤとエゼキエルが傅いている。
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右側のタンパンには「キリストの変容」が描かれている。タボル山(ガリラヤ湖南端)に立つ白く輝く姿のキリストが、左右の預言者モーセとエリヤと語り合う奇蹟を、三人の使徒ペトロ、ヤコブ、ヨハネに見せている。その上のアーチには、ヤシの葉を持つ聖ローレンス(聖ラウレンティウス)(225~258)と聖ステファノ(5~36頃)が描かれている。
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左右にはヒマラヤ杉の扉があり、表面には「キリストの生涯」を題材にした12世紀制作の浮彫パネルがある。パネルの周囲にはアラビア文字を模した装飾が施されている。損傷が激しいが、上部は比較的良く残っている。こちらは、北側扉の浮彫でキリストの幼少期が刻まれている。
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アーチベイの先には鉄柵が設置されたアーチ扉があり、この先の階段を60段上りきると身廊内部に到着する。初期の大聖堂は5世紀、ローマ時代にあった岩山の神殿跡地に建てられたが、当時はかなり小さい聖堂だった。その後、増加する巡礼者の受け入れのため、9世紀以降、当時の聖堂に継ぎ足をし斜面からせり出す形で拡張したことから、建物の支えが下がり、階段を内部に取り込む現在の姿になったという。
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階段は、左右に設置された会衆席の最前列付近に到着する。目の前には、照明が照らされ眩く輝く本尊「聖母子像」が祀られた主祭壇が現れる。逆に後ろを振り返ると、遠くの拝廊手前2階の木製のオルガン付近まで、20列ほどの会衆席が続いており、まるで、迫り(せり)で、舞台中央に押し上げられたように感じる特殊な構造である。

聖母子像は、受胎告知の浮彫が施された白の大理石の祭壇の上に、金で装飾された飾り台に備え付けられている。周りには、吊り下げ型の常明燈が数多く飾られている。
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聖母子像は「黒い聖母子」で、王冠と白いベールを被り、オレンジの百合の刺繍があしらわれた白いローブに身を包んだ聖母の胸元から王冠姿の幼子キリストが顔を出している。こちらの像は1856年、教皇ピウス9世の名でル ピュイ司教により戴冠されたもの。実はオリジナルは、フランス国王ルイ9世(在位:1226~1270)によって戴冠された高さ71センチメートルの杉の像だったが、1794年のフランス革命時に燃やされている。
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黒い聖母信仰は、フランスがガリアと呼ばれた時代、土着のガリア人はドルイド教を信仰していたが、ローマの属州になって以降、イシス(黒い肌を持つ)信仰などの地母神とも結びついたとされる。4世紀以降、キリスト教化が始まると、聖母と地母神とが結びつき盛んになったと言われている。ル ピュイでは、毎年8月15日に、黒い聖母子像を御輿の上に乗せ、多くの参加者とともに町を練り歩く「聖母被昇天祭」が開催され、多くの人で賑わう。

祭壇の左側には「熱病の石(la pierre des fievres)」と呼ばれる黒い石版がある。ここは病に苦しむある女性がこの石の上に聖母マリアの姿を目撃したことから病が治癒したという奇跡に始まる。その後も多くの奇跡が報告されたことから、現在もこの石の上で治癒を祈願する人の姿が見られる。


聖堂内は、濃いグレー色を基調にしており控えめな印象を与える。身廊には6本のアーチ・ベイが架けられており、身廊の中心付近から天井を見上げると、外光を浴びほんのり赤味がかった温かみのある色合いの丸天井が見える。アーチ・ベイの四つ角に、小円柱と八角形のアーチで支えられたドーム型天井で、ビザンチン建築の影響を強く受けている。


左側には身廊の柱を背景に、モンペリエ出身の木工師ピエール・ヴァノー(Pierre Vaneau、1653~1694)の代表作の一つ、説教壇が設置されている。中央には受胎告知の場面が浮彫で飾られ、頂部には、彫刻家フィリップ・カフィエリ(Philippe Caffieri、1714~1774)作のブロンズ像が飾られている。他にも、ピエール・ヴァノーの作品では、オルガンや拝廊に掲げられた彫刻と金色のパネル(聖アンドレの殉教)などがある。
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説教壇のすぐ左側後方に礼拝堂「聖遺物のチャペル」があり、この時間はちょうどミサが行われていた。右側の壁面に15世紀制作のフレスコ画「自由な芸術(L'arts Liberaux)」がある(作者不明)。リベラル・アーツ(人が持つ必要がある実践的な知識・学問の基本で、自由七科と言う)が主題で、向かって左から、文法、論理、修辞法、音楽を表す4人の女性が座り、そばにこれらの要素を象徴する人物として、左から、プリスキアヌス、アリストテレス、キケロ、トゥバルカインが描かれている。長年壁に覆われていたが、1850年に発見されたことから、まだ美しい色彩が残っている。
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ミサが終わり祭壇に近づいてみる。こちらにも黒い聖母子像が祀られている。近年のものだが、衣の柄といい、丸みを感じさせるつくりに、ふと日本のこけしを思い出した。
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大聖堂の北側廊に隣接し、聖母子像が望めるコルネイユ山の中腹に、煉瓦屋根が囲む長方形(約31メートル×約19メートル)の回廊が広がっている。大聖堂の建設と同時期の12世紀にロマネスク様式で建てられたものだが、現在の姿は1850年から1857年にかけて、建築家マレー(オーヴェルニュの歴史的建造物の修復で知られる)と、建築家ヴィオレ・ル・デュク(パリのノートル・ダム大聖堂等の修復で知られる)により修復されたもの。
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南北回廊に5つのアーチがあり、東西回廊には10のアーチがある。その南回廊を眺めると、背後に、大聖堂の側廊壁と身廊壁が階段状に続いて見て取れる。共に途中で建て増しした様なズレがあり、時代ごとに改築されたことが分かる。
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回廊のアーチは3重アーチで、支える柱は、中心に角柱、左右側面と中庭側に3本の円柱がそれぞれアーチを支え、さらに、回廊内側のヴォールト天井を支える円柱との合計4本の「複合柱」となっている。こちらは西側回廊から中庭方向を眺めた様子で、上部に大聖堂の北袖廊と鐘楼を一望でき、位置関係も理解しやすい。
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円柱の柱頭には、アカンサスの葉の浮彫が施され、その上のアーチは半円環にモザイク状に石材を積み重ねたスペイン・イスラム建築の影響が見られる。そして、アーチのキーストーン(要石)や、軒下に設置されたコーニス(庇)にも聖人、人物、動物、怪獣などの個性的な浮彫が施されている。ちなみに雨除けの役割があるコーニスは、劣化が激しく何度か取り替えられており、現在のものは19世紀に制作されたもの。
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南西角から3番目にある側面アーチは単柱でなく双円柱が支えている。そして柱頭にはアカンサスの葉の間から、互いに辺りを見渡すようなユニークな表情の人物が見て取れる。柱頭彫刻はキリスト教の説話図像の舞台となっている。
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こちらの回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭には、天使が乳児を抱えている様子が表現され、左右を怪しい人物が取り囲んでいる。ある聖人の説話を示しているのだろうか。
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そして、こちらも回廊内のヴォールトを支える円柱の柱頭で、司教杖を取り合う2人の聖職者の様子がロマネスク様式らしいデフォルメされた姿で刻まれている。
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こちらの柱頭では、雄ケンタウロスが伴侶の雌ケンタウロスを追いかけ、尻尾を掴んでいる。。
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北側回廊には聖人や聖職者の像が中庭先の大聖堂を見守る様に3体飾られている。そして回廊内を直線に眺めると、天井に当たる光の陰陽が作り出す美しいヴォールトラインと掃き清められた廊下とが静謐を湛えている。
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回廊の東側にある波打つ浮彫を施した角柱に幾何学模様で飾られたアーチ門を入ると、南側には、壁一面にキリスト磔刑像のフレスコ画が描かれ、周りに石の祭壇や石版等が置かれている。この部屋はもともと聖職者や教会関係者の葬儀や墓所として利用された礼拝堂で「死者のチャペル(Chapelle des Morts)」と呼ばれていた。


フレスコ画は、12世紀から13世紀にかけて描かれたもので、太陽、月、天使に囲まれ、痩せこけ苦痛にゆがんだ磔刑姿のキリストを中心に、左右に悲しみにうちひしがれる聖母マリアと聖ヨハネが描かれている。そして四隅には、キリストの受難について書かれた巻物を持つイザヤ、エレミヤなど預言者たちが描かれている。古い絵にも関わらず剥落が少ないのは、19世紀まで、モルタルに覆われていたためである。
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他にも大聖堂内には、宝物室があり、司教服、ミトラ(冠)、聖遺物箱などが展示されている。
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大聖堂の後陣は、11世紀に建築されたが、この場所には、建設当時の貴重な遺構が残されている。中央の動物は、古代の狩猟シーンを表している。ラテン語の碑文は、12世紀のもので、その上の螺旋状のフリーズはメロヴィング朝を起源としている。手前の呼水槽は、癒しの水として地下からくみ上げていた井戸の址である。大聖堂は19世紀に大幅に復元改修されたが、こちらの古いモチーフなどを参考にしたとされる。
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鐘楼の基部には、お棺が残されている。石棺の蓋には、衣装を着て横たわる女性の彫刻が刻まれ、側面には、ロマネスク様式で表した聖母子の浮彫がある。
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聖堂を出て、コルネイユ山頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)に向かう。階段の先に見える鉄格子が入口になる。


岩山の周りに造られた道を上って行くと、聖母子像から見下ろされている場所に来た。早く上っておいでと言われているようだ。
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岩山頂上から「ル ピュイ大聖堂」を眺めると、右側(西側)のファサード、中央のドーム、左側(東側)の鐘楼や、手前に隣接している回廊も良く見える。街全体の屋根は、大聖堂と同じ朱色で統一されている。聖堂の南側には、幹線道路(N102号線)の南側にあった広い平面駐車場や、劇場、裁判所、「アンリ・ヴィネ庭園」などが広がっている様子も確認できる。
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ちなみに、こちらは西側から見たル ピュイの街の景観で、大聖堂ファサードを正面から捉えている。岩山上の聖母子像との位置関係も良く分かる。左端にも小さな岩山(奇岩)があり、山頂に「サン・ミシェル・デギュイユ礼拝堂」が建っている。

画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

コルネイユ岩頂上に立つ聖母子像(ノートルダム・ド・フランス像)は、頭に12の星の冠を戴き、丸い月の上に乗った「無原罪の御宿り」を題材として制作されている。ちなみに足元を見ると蛇を踏みつけている。像は、設計から完成まで5年の歳月をかけ、1860年9月に完成した。全長16メートル(台座含め22.7メートル)、重さは110トンある。
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聖母子像に向かって祈りを捧げるブロンズ像は、聖母子像設立に貢献したル ピュイ大聖堂の司教オーギュスト・ド・モルロン(Auguste de Morlhon、1847~1862)である。完成当日行われた式典には、聖職者を始め関係者を含めて12万人の人々が集まった。聖母子像を覆うヴェールが滑り落ちると、それまでの天候不順の空が急に晴れ始め、一筋の光が聖母子像を照らして全身を金色に染め上げたという。

当時、これだけの規模の像に必要な金属の調達が大きな課題だったが、ナポレオン3世に協力要請をしたところ、クリミア戦争時、セヴァストーポリ攻撃に使用されたロシア軍の大砲から鋳造することとなり、鉄150トン分に相当する213台の大砲が使用された。今も周囲には、実際に使われた大砲が置かれている。


聖母子像内は、空洞になっており、螺旋階段で上ることができる。実は、セキュリティの関係から長い間公開されていなかったが、昨年改修を終え、半年前から入場が許可されたとのこと。


内部はこのようになっており、上って行くと、ところどころに小窓があり、ガラス越しに景色を眺められる。しかし内部は狭くやや圧迫感もあり景色も見づらい(上れて有難いが。)ので、正直、岩山からの眺めの方が良いと思う。。
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(2013.7.19~20)
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フランス・リヨン

2013-07-18 | フランス(オーヴェルニュ)
成田空港から午後3時半発の中国南方航空386便に乗り、中国・広州で乗り換え(午後7時半着→午前0時20分発 AF4403便)、パリ・シャルル・ド・ゴール空港に、午前7時20分に到着した。これから午前9時58分発マルセイユ・サン・シャルル行き、フランス国鉄(SNCF)高速鉄道(TGV、71ユーロ)に乗り、フランスの南東部の街リヨン(路線距離389.31キロメートル)に向かう。その乗り換えホームは、空港第2ターミナルからエスカレーターで直結しており、天井はホーム全体を覆うトレイン・シェッドが採用されている。


空港第2ターミナル駅を定刻通り出発したTGVは、午後12時に「リヨン・パールデュー駅(Lyon Part Dieu)」に到着した。リヨンは、160万人(市内50万人を含む)の人口を誇るフランス第二の都市圏で、その規模に相応しい駅(6ホーム11線の高架駅)として、1983年にリヨン市街地再開発工事に合わせて市の東部に開業したもの。ホームからスロープを下った階段下の1階には、東西を直線に繋ぐ広いコンコースが設置され、左右に観光案内所、待合室、売店、カフェなどが並んでいる。


そのコンコースを過ぎ、リヨン市街地方面への西口を出てリヨン・パールデュー駅を振り返ると、ガラス張りの近代的な美しい駅舎の姿を望むことができる。中でも、上部の飛び出す様に鉄骨でデザインされた赤黒2針式のアナログ時計はモダンで印象深い。


実は、リヨンには9年前に訪れて以来の訪問となる。その当時は、パリをスタートし、パリ南部近郊のフォンテーヌブロー、モレ・シュル・ロワン、マンシー(ヴォー=ル=ヴィコント城)、シャブリ、レ・リセ(シャンパーニュ)、フランス東部のブルゴーニュ地方のオセール、アレシア(ウェルキンゲトリクス)スミュール=アン=ノーソワディジョンヴォーヌ=ロマネ(ロマネ・コンティ)、シャニー(メゾン・ラムロワーズ)、ムルソー、ボジョレー、ボーヌなどを巡り、このリヨンで旅を終え「リヨン・ペラーシュ駅(Lyon Perrache)」からTGVに乗りパリ・シャルル・ド・ゴール空港に戻った。

そして、今回は、リヨンを起点として、フランス中南部のオーヴェルニュ地方を周遊することとしている。今日はリヨンの旧市街に一泊する予定だが、駅に乗り入れているメトロB線では、旧市街に直接運行していなく、途中でA線かD線に乗り換える必要がある。また、トラム(路面電車)も直接路線がないため、路線バスに乗るか考えたが、直線距離としては遠くないことから歩いて向かうことにした。

セルヴィアン通り(Rue Servient)を西に20分程歩くとローヌ川(Rhône)に架かるウィルソン橋(Pont Wilson)が現れる。リヨン市は、東から南に流れ込んだローヌ川と、更に500メートル先を北から南に流れ込むソーヌ川(Saône)とが南で合流するまでの中洲エリアを中心に形成されている。
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こちらのウィルソン橋は、左前方に見えるドーム「オテルデュー・リヨン(Hôtel-Dieu de Lyon)」(1454年~2010年まで医療施設)に向かう橋として、1839年に「オテルデュー橋」(吊り橋)として最初に開通したが、現在の橋は、1948年に鉄筋コンクリートに石積みされたもの。ちなみに、この場所からのサンセットは美しい。らしい。。

ウィルソン橋を渡ると、セルヴィアン通りはチルデベルト通り(Rue Childebert)になり、200メートルほどで、右側に正方形の敷地を持つ「レピュブリック広場(Place de la République)」に到着する。広場中央には左右にウォータージェットの噴水口が設置された縦長の長方形のプールがあり、水が勢いよく吹き出している。向かい側のメリーゴーランドの北側の建物を境にして、右側がプレジデント・カルノー通り(フランス共和国、第5代大統領に因む)で、左側にレピュブリック通りがそれぞれ延びている。
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そのレピュブリック通りは、レピュブリック広場を挟んだ南側にも続いている。特にこの南側がリヨンで一番賑やかなショッピングストリートとして知られ、高級ブティック、ブランド(Fnac、JD sport、Printemps、etc)、レストラン、カフェ(スターバックスetc)、ファーストフード(プレタ・マンジェetc)などが軒を連ねている。通りは「rue de la Ré」の愛称で知られ、昼夜を問わずリヨンで最も賑やかな通りだが、この時間(木曜日の午後1時過ぎ)は空いている。
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引き続きチルデベルト通りを直進すると、前方に「ジャコバン広場(Place des Jacobins)」(1556年築で1871年から現在の名称)が現れる。広場は正方形の敷地で、周りに12もの通りが延びる2区(リヨンは9つの行政区)中心地で交通量の多いエリア。 ジャコバンとは、パリのジャコバン修道院を拠点にできたフランス革命を主導した急進的な政治党派の1つ(ジャコバン・クラブ)で、国民公会(一院制立法府)において左側の席に座ったことから左翼の語源ともなった。


中央の噴水彫刻は1885年に建築家ガスパール・アンドレ(Gaspard André)により建てられたもので、正面には、16世紀から18世紀のフランスの建築家、作家、彫刻家などのアーチスト像が四方にそれぞれ飾られている。南向きは、リヨン出身でフランス・ルネサンス建築の巨匠フィリベール・デロルム(Philibert de l'Orme、1514~1570)の像で、彼はフランス王アンリ2世(在位:1547~1559)の王立建築家も務めた。
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リヨンはフランス王国時代、絹織物の交易の一大中心地として発展したが、フランス革命時代、反革命派がパリの革命政府に対し反乱を起こしたことから、革命政府は、徹底的に弾圧し、4ヶ月に渡って弾圧を続けた。その結果、犠牲者は2千人以上、リヨンの街は徹底的に破壊されたという悲しい歴史がある。

ジャコバン広場を過ぎると150メートルほどでソーヌ川が現れる。ソーヌ川に架かる「パレ・ド・ジャスティス歩道橋(Palais-de-Justice)」は1983年に開通したもの(最初の橋は1638年)で、幅4メートル、長さ136メートルあり、川岸手前に赤く塗られた逆Y字型の鉄骨頂部から伸びる計8本のワイヤーで橋を吊り上げ固定している。その歩道橋を渡った先からリヨン歴史地区(ユネスコ世界遺産)になり、正面には、24本の柱が並ぶ(ポルチコ)古典的な建造物「コート・オブ・ザ・ロード・リヨン」(リヨン裁判所)が建っている。こちらでは、スコットランドで認可されたすべての紋章の一覧簿や、系図の記録を保有・管理している。
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左隣には、屋根に小さな煙突付いた6階建てのアパルトマン風の建物(通路側1階は郵便局)が建ち、その西隣に「サン・ジャン大聖堂」の左右の塔が見える。更に丘(フルヴィエールの丘)の上に建つのがリヨンを代表する教会「フルヴィエール大聖堂」(ノートルダム・ド・フルヴィエール・バジリカ聖堂)である。

パレ・ド・ジャスティス歩道橋を渡って、リヨン裁判所と郵便局の間の過ぎると、すぐ先から歴史地区に相応しい狭い石畳の道となる。100メートルほど先の右側にアーケード型の3層ロッジアのオレンジ色の建物など、暖色系の建物に囲まれた矩形の広場が現れる。最上層のロッジア内の壁面には「Musée Des Miniatures et Décors De Cinéma」と書かれており美術館であることが分かる。広場の手前には、凛々しい姿のライオンの彫像が飾られている。リヨン市の紋章にもライオンが使われているが、これは、リヨン(Lyon)がライオン(Lion)と発音が似ているのが理由とのこと。
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石畳の狭い通りは広場を過ぎると左に大きくカーブして坂道になる。その坂道を上って行くと、すぐ左側にバラ窓が印象的な「サン・ジャン大聖堂」のファサードが正面に見える。大聖堂は1480年に完成したものだが、工事が始まったのは1175年のことで、完成まで3世紀もの期間が費やされた。これだけ長い年月を要したのは、このエリアが川沿いの堆積層で土壌が弱かったことも理由の一つとのこと。当初ロマネスク様式で計画されていたが、途中からゴシック様式の技術を取り入れ完成された。
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大聖堂は、完成後も苦難の歴史が続き、宗教戦争(1562年)、フランス革命(1789年)、リヨンの反乱(1793年)などで甚大な被害を受ける。近年では1944年9月のドイツ軍の撤退時に、ステンドグラスの窓の大半が破壊されるなどの被害を受けたが、その都度修復され、現在では美しい姿を見せてくれる。

この坂道の左斜面側に建つのが今夜の宿で、入口は、建物を通り過ぎ振り返った場所にある。ホテルではなく、ホステリング・インターナショナル(世界的な非営利ユースホステル協会のネットワーク)が経営するホステルで、バックパッカー向けの宿である。リヨンはホテル代が高いし、翌朝直ぐに移動するので寝られれば良いと思い予約した。しかし、こちらのユースホステルは人気が高く、中々予約が取れない。


敷地からの眺望は素晴らしく「サン・ジャン大聖堂」の側廊側のフライング・バットレスや南翼廊など、旧市街の景観を見渡すことができる。遠方に見える高層ビルは「リヨン・パールデュー駅」前に建つパールデュー・タワー(愛称:クレヨン)(低層部はオフィス、高層部はホテル)である。
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チェックインを無事終え、旧市街(ヴュー・リヨンと呼ばれる)を散策することにする。坂を下りてライオン像の飾られた広場まで戻り、その先の交差点を右折すると、前方に見える「サン・ジャン大聖堂」に至る。その交差点角に建つ建物は、1498年に建てられ、16世紀にゴシック・ルネサンス様式で再建された歴史的建造物「メゾン・ド・シャマリエ(Maison du Chamarier)」(建物内に中庭がある)で、窓枠には、ゴシック様式の教会の尖塔に似た浮彫が施されている。
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右折しないで左折すると、すぐ左側に赤い二連アーチのある古い建物が建っている。こちらは、ライオン彫像が飾られた広場奥の3層ロッジアのある建物「メゾン・ド・アボカ(Maison des avocats)」の玄関口で、やはり歴史的建造物。2005年からは改装され美術館「リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館」として営業している。この様に旧市街には、15世紀から17世紀頃に建てられた歴史的な建築物が立ち並んでいる。そして、この通り先からは、レストランやビストロ(ブション)などが軒を連ねる旧市街で最も賑やかなエリアとなる。
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リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館の入口にはスターウォーズの人気キャラクターのドロイド(C-3PO)が飾られており、興味をひかれ入館することにした。
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入場料7ユーロを払い(1階はフリー)館内に入ると、最初に「パフューム ある人殺しの物語」(2006年製作の独・仏・西)で使用されたセットが展示されている。パリの香水調合師バルディーニ(ダスティン・ホフマン)の自宅階下の仕事場のセットで、弟子で超人的な嗅覚を持つ主人公グルヌイユ(ベン・ウィショー)が多くの瓶から香りを調合する様子を再現している。隣のひょうたん型の大きなタンクは、バルディーニ考案の蒸留装置で、薔薇の花びらを大量に入れ、煮だして精油を抽出する場面として使われた。
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こちらには「三銃士/王妃の首飾りとダヴィンチの飛行船」(2011年)の飛行船が展示されている。映画は、三銃士に仲間入りした青年ダルタニアン(ローガン・ラーマン)が、英仏間に紛争を起こして王位を奪おうとたくらむリシュリュー枢機卿(クリストフ・ヴァルツ)と悪女ミレディ(ミラ・ジョヴォヴィッチ)の陰謀を知り、祖国を守るために立ち上がる。といったストーリー。クライマックスの飛行船との空中戦は大変迫力があった。
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そして、スーパーマンIV(1987年)、インデペンデンス・デイ(1996年)、ヒューゴの不思議な発明(2011年)で登場した、自由の女神、アメリカ合衆国議会議事堂のドーム、暴走する汽車などが展示されており、モニター画面で映画のシーンも紹介されている。
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こちらには、人間になることを夢見るロボットの姿を描いた「アンドリューNDR114(1999年)」のマスクや、スター・ウォーズ/ファントム・メナス(1999年)で、惑星タトゥイーンのポッド・レースに参加したパイロットダッド・ボルトなど、様々なSF映画に登場したエイリアンや宇宙船など特殊効果で使用されたコレクションが所狭しと展示されている。
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映画以外では、フルーツ、スイーツや、芸術家のアトリエの風景(1/12サイズ)などのミニチュア・アートも展示されている。特に印象的だったのは、リヨンの大衆ビストロ「ブション」を再現したもの。温かみのある木目調の店内には様々なオブジェや絵画などが飾られており、仕事帰りの常連客が、ギター演奏の中、気さくな店主の馴染みの郷土料理(クネルや内臓系料理)を頂く。。そんなリヨン・ブションのイメージが凝縮されている。
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40分ほど見学した後「サン・ジャン大聖堂」にやってきた。ファサードを下から見上げると、上へと突き抜けるような鋭角なトレサリーのデザインのせいか、やや威圧感を感じる造りである。バラ窓の装飾も、炎が燃えさかるような複雑な形の文様をしており、ロマネスク様式の中にフランボワイアン(火炎)・ゴシック様式が取り入れられている。
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聖堂内には、理想のキリスト教王と評価されたルイ9世(聖ルイ)が埋葬されているとも言われている。彼は、2回の十字軍を行ったが、失敗に終わっている。また、1600年には、フランス王アンリ4世がメディチ家のマリー・ド・メディシスと結婚式を挙げたとされている。内陣は、ロマネスク様式、身廊はゴシック様式と二つの様式から構成されている。この日は、改修中なのか主祭壇には覆いが掛けられていた。覆いにはバラ窓のステンド・グラスが映りこんでいる。
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こちらが、ファサードにある、1392年に完成したといわれるバラ窓の鮮やかなステンド・グラスである。
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画像出典:ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)

聖堂前は広場になっており、中央に洗礼者ヨハネ像が立っている。サン・ジャンとは、洗礼者ヨハネを表す。広場の奥には、ONLY LYONとライオンのロゴも見える。
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次に、サン・ジャン大聖堂の南側から、ボナパルト橋でソーヌ川を渡ると、右側に巨大な広場が現れる。東西312メートル×南北200メートルの長方形の敷地を持つヨーロッパで最も大きなオープンスクエアの一つ「ベルクール広場(Place Bellecour)」である。遠くに見える騎馬像が、ベルクール広場の中心にあることからもその広さには驚かされる。ちなみに地下は駐車場になっている。
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その中央の騎馬像は、フランス絶対王政全盛期の太陽王と呼ばれたルイ14世(在位:1643~1715)のブロンズ像で、1825年にリヨン出身の彫刻家フランソワ・レモット(1771~1827)によってパリで制作され、24頭の馬に率いられ12日間かけてリヨンに到着し設置された。台座下の左右には、ソーヌ川とローヌ川の2つの寓話的な彫像が飾られている。
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そして、奥に見える鐘楼は、北側の「ベルクール通り」までと、東はローヌ川の沿いまでの正方形の敷地内にあった「シャリテ療養院」(1622年~1934年)の南西角に建っていたもので、療養院と共にその役目を終え解体されたが、市民からの請願に応じ1938年に再建された。現在は小さな敷地内に鐘楼だけが建っている。

騎馬像の前を通り過ぎ、ベルクール広場の東端(メトロ駅への入口がある)から西側を見渡すが、やはり広い。今日は特設のテントなど工作物もなく、イベントが行われていないことからも一層広く感じる。。
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ベルクール広場から北側の「ベルクール通り」を横断すると、北東方向に「レピュブリック通り」が続いており、この時間(午後4時半)は多くの人が歩いている。右手前の左右にトーチを持つ女神とタンバリンを持つエラト女神が飾られたフナック社の店舗ビルは、旧ベルクール劇場で、日本でもお馴染みの実業家エミール・ギメ(1836~1918)の設計によるもの。そして右前方には、頂部にオンドリが飾られたアールデコ様式の「パテ映画館(Le cinéma Pathé)」(1933年)が建ち、その200メートルほど先が「レピュブリック広場」になる。
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「パテ映画館」の前を通り過ぎ、すぐ先から西側に向かうアルシェ(Archers)通りに左折して少し進むと、急に静かな通りになり「セレスティン広場」に到着する。都会のオアシスといった静かな雰囲気の広場には木蓮の樹が茂り、春の開花の時期には多くの人でにぎわうとのこと。その広場の先に立つ建物は「セレスティン劇場(Célestins, Théâtre)」で、リヨンの劇場でも最も美しい劇場の一つとされる。
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最初の劇場は1792年に創設されたが、現在の建物は、全焼したことを受け、1877年にリヨンの建築家ガスパール・アンドレの設計により再建されたもの。フランスでは、コメディフランセーズやオデオン座と並んで200年以上の歴史を持つ劇場の一つで、1030人の観客が収容できる。2002年から2005年にかけて大規模な改修が行われた。
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「セレスティン劇場」正面から右側側面に回り込み、美しい劇場の外観を眺めながら進むと、隣接するカフェ(Pain Des Celestins)の先で、再びソーヌ川沿いに戻る。


ソーヌ川沿いには、バー(ブヴェット・ボナパルト、Buvette Bonapart)があり、そのバーからは、対岸のロマネスク様式の後陣と左右の翼廊を備えた美しい「サン・ジャン大聖堂」と、丘の上に建つ、天に向け聳える4基の塔と鐘楼を備えた「フルヴィエール大聖堂」とのコラボレーションを堪能できる。
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ちなみに前回訪問時にはこちらのバーで午前中に牡蛎を頂いたが、その前日の夜には、車で北に約20分行ったソーヌ川沿いのコローニュ・オ・モンドールにあるポールボキューズ本店で夕食を頂いた。更に牡蛎を食べた後の昼食は、ベルクール広場の東側のローヌ川沿いのポールボキューズのブラッスリー店「ル・シュッド」でランチを頂くなど、美食三昧のリヨンだった。。

時刻は午後5時を過ぎたが、この時期は午後8時過ぎまで明るいので、これから丘の上の「フルヴィエール大聖堂」に向かうことにする。すぐ南側に架かる先ほど渡ったボナパルト橋を再び渡ることにする。なお、ボナパルト橋は1944年にドイツ軍によりダイナマイトで破壊され、1950年に現在の3つのアーチを持つ橋で架け替えられたもの。最初の橋は17世紀に木製で架けられたが、洪水や劣化などで何度か取り替えられ18世紀から現在の石橋となった。
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ボナパルト橋の先のソーヌ川沿いに見える大きな尖塔の教会は、ネオ・ゴシック様式の「サン・ジョルジュ教会(Église Saint Georges de Lyon)」で、1842年に再建されたもの。初期の教会は6世紀中頃に建設され、14世紀には聖ヨハネ騎士団の医療施設でもあった。

ボナパルト橋を渡り、街路樹が建ち並ぶ綺麗な通りを進むと、突き当りに丘の上に向かうケーブルカー乗場がある。乗車するか少し悩んだが、左隣にある路地から歩いて上ることにした。狭い通り沿いには、多くのレストランやブションが店を構えている。


建物に囲まれた狭い石畳の坂が続いている。道が分かれている個所には、建物の壁に「Parc des Hauteurs、Théâtres Gallo-Romain」と矢印が掲げられており、その案内に従い上って行く。「Hauteurs」とは、フルヴィエール大聖堂の東斜面に広がる都市公園「オタール公園」のこと。


途中から二車線の車道に歩道がある広い通りに出た。途中、公園内のルートもあったが間違うと面倒なので、結局車道沿いの歩道をしばらく歩くと、左右に塔が聳える「フルヴィエール大聖堂」が見えてきた。手前の3階建てに宝形造屋根のある建物は、聖美術館(Museum of Sacred Art)で、その北隣の「鐘楼」は、1643年のペスト流行からリヨンの街が救われたことを感謝して建てられた小さな教会堂で、頂部には教会設立200周年を記念して飾られた「黄金の聖母マリア像」がリヨンの街を見下ろしている。
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そして「鐘楼がある小さな教会堂」の北隣に「バシリカ式教会堂」が建っており、これら2つの教会堂を合わせて「フルヴィエール大聖堂」は成り立っている。歩道は南側から西側のファサードに回り込んでおり、近づくにつれて両教会堂の1階部分が繋がっているのが見える。

その「バシリカ式教会堂」は、普仏戦争において、リヨンに進軍していたプロイセン軍が、教会で聖母マリアに祈りを捧げたことにより撤退したことを祝して、1872年から1884年に建築家ピエール・ボッサンの設計で建てられた。ロマネスク建築とビザンチン建築の2つの建築様式の特徴を備えており、それぞれ対角には、高さ48メートルある八角形の塔が建ち、ファサード側の北西の塔から反時計回りに「力、正義、節制、慎重」と美徳に基づいた名前が付けられている。
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ファサードの下部には約10メートルのグレーの円柱が支える奥行きの狭いポーチがあり、アーチ上部には翼を広げる獅子像など繊細な彫刻が施されている。更に、その上には、十字架を捧げるカリアティデス(女像柱)が並ぶロッジアがあり、ペディメントには、聖人を携えた聖母子像が表現されるなど大変豪華な造りとなっている。

聖堂内は、ビザンチン様式で天井、側壁、ステンドグラスなど煌びやかに装飾されている。外観は1884年に完成しているが、聖堂内の装飾には更に時間を要し完成したのは1964年であった。身廊と側廊の間の柱は、豪華な鳩の彫刻があしらわれた八角柱の基壇の上に立ち、柱頭には十字架を捧げる女像柱が備えられている。
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左右の側廊壁面にはそれぞれ3枚ずつ巨大なモザイク画が飾られている。主祭壇に向かって北側廊の左手前から「レパントの海戦」、「フルヴィエールに到着した聖ポティン(ポティヌス、Saint Pothin)」、「無原罪の御宿り教義宣言」で、南側廊の右手前から「エフェソス公会議」、「ジャンヌ・ダルクによるオルレアン解放」、「ルイ13世の誓願」と続いている。
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こちらはその内の北側廊中央に飾られたモザイク画で、リヨンの最初の司教「聖ポティン」がフルヴィエールに到着した際の様子が表現されている。彼は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝(在:161~180)の177年にリヨンで最初の殉教者となったと言われている。
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大聖堂の敷地の北東壁にある展望台からは「オタール公園」の森の先にリヨンの街並みが一望できる。
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バシリカの北東角の塔には、螺旋階段で上ることができ、その展望台から後陣頂部に飾られた「大天使聖ミカエル像」を通してリヨンの街並みを一望することができる。今日は時間が遅くなり終了している。こちらは前回訪問時の際の様子で、ベルクール広場には、大きな白い円形の特設ドームが設置されていた。
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ところで「フルヴィエール大聖堂」の南側には、ローマ時代の石板やモザイク画などの出土品が展示された「ガロ・ロマン文明博物館」や「古代円形劇場」の址がある。フランスがまだガリアと呼ばれていた時代、この地はルグドゥヌム(ルグドゥネンシス)と呼ばれたローマ植民地であり、多くの遺構が発掘されている。


円形劇場は丘の南斜面を利用したもので、ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~紀元14、在位:紀元前27~紀元14)時代の紀元前43年に建てられ、その後1世紀後半から2世紀前半に10,000人の収容可能な大規模な劇場となった。現在の姿は19世紀の後半に発掘され1933年から復元されたもの。こちらも、前回訪問し最上部から劇場を見下ろした時の様子である。

帰りはライオン彫像が飾られた「リヨン・ミニチュア&映画装飾博物館」の広場そばに繋がる階段を下りた。今夜の夕食はあまりフレンチ気分ではなかったので、セルヴィアン通り沿いにあった中華料理屋を思い出し、そのカウンターで、軽くビールと上海ヌードルを食べて済ました。今回は、美食の街リヨンを全く堪能することなく、街歩きだけで一日を終えた。。ホステルに戻ると、昨夜の移動の疲れもありすぐ寝た。。

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翌朝、朝食付きだったこともあり早めにフロント横にあるラウンジに向かった。カウンターに置かれた籠入りのパンを食べようとしたが、美味しくなかったので、結局食べずにチェックアウトして、リヨン・パールデュー駅に歩いて向かった。。

駅のコンコースにある観光案内所で「ル ピュイ アン ヴレ(Le Puy en Velay)」行き(リヨンから南西方面へ約130キロメートル)のフランス国鉄(SNCF)の鉄道チケットを購入したが、途中の「サン テティエンヌ駅(Saint Étienne)」で乗り換えとなり2枚のチケットが発券された。チケットを確認したところ、サン テティエンヌ駅から乗り継ぎ不可能な時間が記載されていたため、窓口で問い合わせたが、時間は関係ないと言われた。。

午前9時24分発の普通列車(TER)に乗り、午前10時10分に「サン テティエンヌ駅」に到着した。車内は空いていた。駅前から振り返ると、鮮やかな装飾煉瓦に覆われた駅舎(1855年築、鉄骨構造)に目を奪われた。駅前も再開発されたばかりの様に綺麗に整備されている。商店や建物自体も少ないことから、地図を確認すると街の中心部は南西方面の離れた場所にあり、駅に乗り入れているトラム(路面電車)で繋がっているようだ。


街の中心部までトラムに乗って観光するほどの時間はないので、駅前から南西方面に延びる坂道(トラムの軌道あり)を歩いて上った。500メートルほど先にはトラムの停留所があり、その左側にモニュメントが立つ三角形の広場が広がっていた。
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モニュメントの正面には「第一次世界大戦中に亡くなったサン テティエンヌの子供6,000人と聖ステファノに捧げる」趣旨の表示があった。側面には会葬者が彫刻され、上部には、経帷子で覆われた横臥した兵士像が表現された慰霊碑である。聖ステファノ(5~36頃)とは、キリスト教における最初の殉教者で、フランス語で「エチエンヌ」と発音され街の名前の由来となった聖人のこと。ちなみに、この地は古くから武器工場の町だったこともあり「アルムヴィル」と呼ばれた時期(フランス革命時など)もあった。

モニュメント(慰霊碑)前を横断した左側にあったスーパー・リドル(Lidl)で、缶ビールと調理パンを買って駅に戻り、待合室のベンチで食べた。出発20分ほど前にホームで待機していると、モニターに午後12時52分発、ル ピュイ アン ヴレ行きと表示があり、定刻どおり電車が到着した。

(2013.07.18~19)
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