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がんばろう!ベガルタ仙台15 【J特】

2012-11-22 01:45:29 | サッカー(Jリーグ(J1・J2)・国内)

 事例紹介レポです。
 ベガサポくに氏に借りた「10年史」の最後のページに、「ベガルタ仙台・市民後援会物語」(6年史)というページがありました。面白く読ませていただきました。1999年から2004年の6年間の歴史ですが、とても興味深い内容でした。当ブログでいつも言うように、親企業のない市民クラブはJ1仙台を目標にすべきです。以下、抜粋して紹介。
   
 「ベガルタのサポーターは日本一」と讃えられるようになった陰には、スタンドの演出に心を砕き、様々なプロジェクト実現のために奔走し続けた、市民たちの「もう一つの戦いの歴史」があった。
【それはメーリングリストから始まった】
 現在、ユアスタにひるがえるビッグフラッグや、コレオグラフィー(人文字)などの演出が、アイディアも資金集めも実際の行動も、すべて市民の自発的な「手作り」によって始まった。これらはすべて市民団体である「ベガルタ仙台・市民後援会」の仕事。
 市民後援会設立への胎動が始まった1998年当時、ネットは今のように普及しておらず、仙台サポの間でネット会議(メーリングリスト)が行われていた事自体知られていなかった。1997年に「Jリーグチャンピオンシップで、鹿島がビブスを入場チケットとしてスタジアムを赤く染めた。仙台でも一度自分達の色で染めてみたい」というメールが流れ、賛同の声で盛り上がったが、当時ビブス1万枚を作るためには、500万円かかり、実現性が一気に遠のいた。しかしサポーターはあきらめず、ビブスの無料配布を目指して、「スポンサー探し」「製作コストを下げる」という2つのテーマの実現に約30人のメンバーがアクションを起こした。
【不安を吹き飛ばした子ども達の笑顔】
 「ビブス製作を福祉団体に発注しよう」「中国で作って、船便で仙台に送ろう」等のアイディアがメンバーから生まれ、事態は1998年に、福祉施設が関係する事で関心を示すスポンサーが登場して変わり、実現に至る。当時チームが所属していたJFLで、最強と言われた東京ガス(現・FC東京)戦に実施され、その頃からマスコミの露出が増えていった。実施日に何時間も前から長蛇の列ができたが、その多くが子ども達であった事は、メンバーの不安を吹き飛ばした。
【ずっとチームとともに歩み続けよう】
 ビブスプロジェクトの前年にはクラブは深刻な経営難にあえぎ、20億円以上の累積赤字を計上し、市議会等でも公費支出への批判が高まっていたが、年間運営費を1/3まで圧縮して解散は回避。それでもW杯イヤーの2002年には消滅の懸念があった。
このビブスプロジェクトはこうした空気を跳ね除け、その流れで次のキルトプロジェクトにつながる。応援メッセージを書き込んだ30cm四方の布を1,278枚縫い合わせてビッグユニフォームを作り、1998年の天皇杯で展開するもの。
 こういう活動を通じて、「チームを継続的に支援する組織を作ろう」という機運が盛り上がり、市民後援会設立準備会を結成。活動内容をめぐって「クラブのために資金を集めるべき」「資金よりも身の丈にあった活動を」と意見が錯綜。最後にはプロジェクトの実績を踏まえて、支援者の多さをアピールする手法を選択。クラブ側との意見交換も続き、チームのJ2参入が決定し、現チーム名で再スタートを切る時期に重なる。「特典のある後援会ではファンクラブと似通ってしまう」「いっそファンクラブと統合してはどうか」と模索は続き、市民後援会設立に向けて長い時間がかかった。
 1999年に市民後援会設立。応援用のチアカードを配り、ビブスを無料配布し、「ベがる田」の田植えを行い、スタジアムアンケートを実施し、選手激励会を主催し、スタジアム内に七夕飾りを掲げ、MDPを発行し、2000年3月に「カントリーロード」を創刊。
 会費は現在も入会時の100円のみ。あらゆる活動が、参加者の自発的な意思、ボランティアで行われている。市民後援会は6年後に会員は1万人(当時)に増えたが、「市民一人ひとりが支えるチームを目指して結成」という初心は忘れられる事はない。

 「市民後援会年表」(主な事象を抜粋)
1999年:
 後援会発足、チアカード配布、ベがる田の田植え、スタジアムアンケート実施、後援会主催選手激励会を開催、MDPを試験配布。
2000年:
 「カントリーロード」創刊、MDP製作開始、チーム応援ビデオを作成、会員数5,000人突破、地域支部「太白区支部」結成。
2001年:
 「プラスワンキャンペーン」実施、地域支部「県北支部」結成、コレオグラフィー実施、市内各所で樽募金実施。
2002年:
 アシストスタッフ募集、七夕まつりの七夕飾り製作、各地域支部で地域イベントに参加。
2003年:
 勉強会「講座ベガルタ」スタート、ベガルタ仙台ホームタウン協議会に参加、地域支部「泉区支部」結成、「七つの提言」をクラブに提出。
2004年:
 クリーンベガルタに選手参加、地元紙の特集にサブコーディネーター参加、ラジオ番組に出演、
 「市民後援会憲章」
・私たちは、ベガルタが世界一のクラブチームになるよう、次の点を基本に支援活動を行います。
・私たちは、ベガルタが地域から親しみを持たれるように活動します。
・私たちは、ベガルタが円滑に運営されるように活動します。
・私たちは、ベガルタのサポーターが楽しく応援できるように活動します。
・私たちは、ベガルタを多くの人に知ってもらえるように活動します。
・私たちは、地域のスポーツ文化振興のために活動します。
 「後援会の入会」
・入会金は100円
・入会時に「会員バッジ・会員証・会報」を進呈
・会員には講演会活動の情報提供、会報無料進呈等を実施

 以上、J1仙台の市民後援会についての「6年史」でした。読めば読むほど立派な後援会組織で、親企業のない市民クラブでの理想的な運営内容を示しています。ここには「わしらの価値観で、わしらだけでやる」のではなく、地域でやっているという事がよくわかります。読者の皆さんの各地元クラブの環境と比べていかがでしょうか。

 話は変わり、以前の記事(傍士理事の広島講演会)で、元J1浦和社長がお隣の広島におられると触れましたが、「どんな方なの?」と問い合わせもあったので、調べてみました。藤口光紀さんという方で、現在は広島経済大学の教授を勤められています。2011年から「体育学の知識を兼ね備え、スポーツビジネスの分野で活躍できる人材を育てる」目的でスポーツ経営学科が新設され、藤口氏は教授に就任されています。
 1949年生まれで群馬県出身。慶応大サッカー部から、1969年に日本代表選出。1982年に現役引退。慶応大サッカー部監督、JSLマッチコミッサリー、1992年にJ1浦和の事業広報部長から運営部長、1997年にJリーグ事務局次長、技術委員長、日本協会技術委員を歴任。1998年にJリーグ理事に就任。2006年に新田常務(現J2栃木社長)とともに勇退。
 社長時代は、クラブの
絶頂期と不振からの立て直しへの布石を担った貴重な人材で、当時の2人の監督の成績不振の責任を取る形で、クラブを去られたという印象が強いようです。出てきた情報では「将来プロ経営者の道への布石なのか」とありました。またそのうちに、どこかのJクラブの幹部役員として手腕を発揮されてもいいのではないでしょうか。広島FMのHPにも素顔がわかる情報が出ていました。以上、一つの情報でした。

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