LOVE STORIES

Somebody loves you-J-POPタッチで描く、ピュアでハートウォーミングなラブストーリー集

幻想即興曲 19

2017-04-11 20:04:12 | 小説

19

18より続く)

 三度連弾で弾くと、かなり指のポジショニングもスムーズになったが、最初の初々しい興奮は静まりつつあった。

「今度は左右を入れ替えましょう」

今度は百合香が右の主旋律を弾き、ぼくが左手でそれを合わせる。

「伴奏だと思っては駄目よ。あくまでデュエット、二重奏なんだから」

「ラジャ」

 今度は、ペダルを踏むのも百合香だった。粗削りだったさっきの演奏とは別の曲のように、全体が均整を帯びて輝いていた。軽やかでよどみなく美しい百合香の右手の音色に思わず聞きほれて、自分の左手が止まりそうになる。でも、不思議にポリリズムの違和感は消えていた。そんな風にして、この連弾練習も三度繰り返した。

 

 部屋の中が赤みを帯びていた。窓の外の夕空が部屋の中を染めていたのだ。

「ちょっと外に出てみる?」

 窓を開け、バルコニーに出ると夕日が海を真っ赤に染めつつあった。そして、東の方には展望台のある島がこんもりと盛り上がり、その向こうの富士山のシルエットが見えた。流れる雲も赤やオレンジに染まり、雄大な自然のスペクタクルが広がっていた。

「とっておきの景色だね。最近あのへんを毎朝ジョギングしてるんだ」

「そう。最高の風景よね」

 海と空がますます赤く染まる。心地よい潮風が百合香の長い髪をなびかせる。

「さあ、気分をリフレッシュしたあとは、最後の仕上げが残っているわね」

 再び、ぼくはスタインウェイの前に座る。もう迷いはなかった。耳の奥に残った百合香の左手の音、右手の音、その反響の上に音を重ねるように、右手と左手がなめらかにからみ合って、タペストリーのような一つの曲の旋律を織りなしてゆく。楽興の時とはこういう瞬間をいうものなのか。すべてのわだかまりが消えつつあった。ようやくぼくは自分の気持ちに気がついた。

 

 村野百合香、ぼくはこの9年間、ずっと君に恋していたのだ。

 

 曲を弾き終えると、彼女は拍手する。おかえりなさい、コウ。あなたのピアノをずっと私は待っていたの。

 

 そんな無言のメッセージを感じ、ぼくは百合香に近づく。彼女は、逃げるでもなく、その場にじっと立ち尽くしている。二人の唇が近づく。ぼくの唇が彼女の唇にふれようとしたその瞬間、玄関でチャイムの音がした。

 

 ふと我に返ったように、百合香が言う。

「いけない。母が帰ってくるの今日だった」

「先生が…」

 身体のほてりが一瞬にして覚め、冷や汗が流れる。百合香は、後ろ手に組んで、ぼくの顔をうかがいながらチェシャ猫のような不思議な微笑を浮かべていた。

「まだまだ先は長いわよ。田中光希くん」

 そう言うと、百合香はきびすを返し、階段を下へと降りて行った。

(第一部了)


あとがき

『幻想即興曲』はここで第一部終了ですが、音楽的には一段落したもののラブストーリーとしては始まったばかりですね。第二部は、第四作の『文字の恋人』完結後に掲載予定ですが、前後するかもしれません。


『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18,19

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19