10
(9より続く)
部屋にこもりきると、気分が鬱になるだけでなく、身体の筋肉が伸ばしきれないで、偏った姿勢になるのでよくない。だから、サッカー部時代のように、毎朝ランニングをすることにした。海岸まで出ると、長い橋を渡りすぐ先の島まで走り切る。遅くなると人が増えるので早朝が勝負だ。土産物屋の間を抜けると、正面に赤い鳥居と山門が見える。階段を駆け上がり、その先を左へ進み、さらに右へ折れたあたりで一休みする。道はさらに奥まで続いているが、道幅も狭く足場がよくないのでここまでで引き返す。眼下にはヨットハーバーの白い帆の群れ、そして広々とした海原が見渡せる。最高のジョギングコースだ。
30分以内で家まで戻ろうとするのに、いつも1時間近くかかってしまうのは、フレンズのせいである。顔見知りの白黒の猫が、いつもどこかで遭遇する。近づいて頭をなでると、ゴロンと腹を出して、地面の上で寝返りをうつ。別の場所のトラ猫は、御影石の手すりの上で香箱座りしている。頭をなでても動かず、ごろごろとのどをならす。さらに、黒い猫もいる。白い猫もいる。みなそれぞれに個性が異なり、コンタクトの時の反応も違う。みんな違って、みんないい。
増えすぎて地元が困っているというので餌はやらないが、ときどき去勢手術用の募金箱に小銭を入れる。
空は青く、雲は白い。今日もいい天気だ。
昨日までに弾けるようになった9曲をひととおりおさらいする。長いワルツの第1番と雨だれはまだ暗譜ができていない。7月も終わりにさしかかってきたが、あと半月ある。
この日の課題曲は、ノクターンの第20番だった。別名、レント・コン・グラン・エスプレッショーネ。以前より、一部のピアニストが好んでアンコールに使っていたが、映画『戦場のピアニスト』のテーマ音楽として使われるようになって以来、一気に第2番のノクターン以上にポピュラーな曲となった。ある程度以上の技術と音楽性を備えたピアニストがアンコールでこの曲を弾けば、曲が終わっても静寂さが数秒、ときに数十秒も続き、その後、割れんばかりの喝采が会場を包む――そんな演奏効果抜群の曲なのだ。
基本的に、左手は二歩上がっては一歩下がる八分音符が八つあるだけの伴奏なので、技術的な困難は右手に集中している。主旋律を奏でる右手のほとんどの部分は簡単だが、後半になると格段に難しくなる。ラスト8小節に集中する18連音符、35連音符、11連音符、13連音符にこの曲の成否はかかっていると言っても過言ではない。スピーディに、かつなめらかに、中央が強く両端が弱いという表情をつけながら演奏しなければならない。百回、二百回、三百回と弾いた上で、左手を加えて後半20小節を気のすむまで弾きこむとほぼ完成だ。それでも、感情をこめて弾きこむということをぼくはしなかった。一回ごとに曲のニュアンス、表情が変化し、完成は永遠に来そうになかったから。
これで10曲、後4曲。予想されたこととは言え、二つのエチュードと英雄ポロネーズ、そして幻想即興曲が残った。
(11へ続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。
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