LOVE STORIES

Somebody loves you-J-POPタッチで描く、ピュアでハートウォーミングなラブストーリー集

幻想即興曲 8

2017-03-31 10:37:15 | 小説

より続く)

 次の日は家庭教師の日だった。母親経由で依頼された近所の高校2年生の女の子を相手に、苦手だった科目の英語を教える。最近は、数学よりも英語の方が評判がよくなったくらいだ。得意な数学や理科は、どうしてもこのくらい普通にわかるでしょという発想が出てしまう。つまずく生徒は、その当たり前が当たり前でない。そこを頭が得心するまで説明するか、あるいは簡単な問題を数多く解く中で体で覚えさせるしかないのだが、つい先を急いでしまう。それが不満の種となるのだった。

 

 英語はただ単に説明すればいいわけではない。理解しても、英文が出てこなければ意味がない。だから、文法を説明したらすぐ、その例文を覚えさせれば必ず力はアップする。この日はよりによって、厄介な仮定法を教える回になっていた。

 なぜI wish I were a birdと言うのか。If I were you,と言うのか。絶対に変だよね、あやしいよね、不自然だよね。でも、それでいいんだ。実際、私は鳥でも、君でもないんだから。I am a birdやI am youは事実の世界。I were a birdやI were youは空想の世界、ドラえもんの世界なんだ。

 

 そんな風にして、I wish I could fly freely.というセンテンスを何とか覚えさせる。だが、もっと厄介な文章が教科書の後の方には出てきた。

 If I had worked harder then, I would be rich now.(もしあのときもっと一生懸命働いていたら、今ごろ私はお金持ちになっているでしょう)

 

「先生、これは仮定法過去?それとも過去完了?」

「まあ、両方が合わさった形だし、あえて言えば仮定法過去なんだろうけど、公式通りじゃないよね。公式通りだと主節の方は、wouldなど助動詞の過去形+have +過去分詞と言う形にならなくてはいけない。これは、過去に起こった出来事が現在に影響を与えている場合で、わかりやすく言うと、バック・トゥー・ザ・フューチャー構文だ。」

「バック・トゥー・ザ・フューチャー構文?何、それ?ウケル」

「『バック・トゥー・ザ・フューチャー 』という映画見たことがある?」

「うん。テレビでだけど見たことあるよ」 

「さて、ここにデロリアンという名のスーパーカーの姿をしたタイムマシンがあるとする。そして高校生のマーティは、自分の親が出会ったころまでタイムトラベルする。すると何が起こった?」

「お母さんがマーティを好きになる」

「それから?」

「ビフという現在の父親の上司に母親を横取りされそうになる」

「もしそうなるとどうなる?」

「マーティは生まれない」

「そう、だから、マーティの写った写真はだんだんかすれてゆくわけだ。焦ったマーティは何とか二人をくっつけようとする。そして、ついにマーティの父はビフを殴り飛ばし母親を手に入れる。そして、マーティがデロリアンで現在へ戻ってみるとどうなった?」

「父親と上司の関係が逆転して、今はビフは父親の部下として車を磨いている」

「そう、これを仮定法を使ってまとめると、『もしも父親があの時ビフを殴っていたなら、今頃彼はビフの上司であるだろう』となるよね。タイムマシンがあれば可能だけど、そうじゃなければ不可能な世界。これが、仮定法の世界、そしてこれを英文で表すとIf my dad had hit Biff on the face then, he would be Biff’s boss now.ということになる。だから、バック・トゥー・ ザ・フューチャー構文」

「よくわかった。でも、先生、一つ問題が」

「何?」

「完全にネタバレなんですけど」

                      

 If I had practiced playing the piano harder then, I would be a better pianist now. (もしあの時もっと一生懸命ピアノを練習していたら、今はもっとピアノが上手だろう。)

 ぼくが生きているのはまさにそんな世界だった。そしてタイムマシンがまだ発明されていない以上、ひたすら昼寝から覚めたウサギのように、あたふたと努力し続けるしかないのだった。でも、何かが欠けているような気がした。

 

 小学校6年のころ、ぼくは138センチしかなく、百合香は145センチあった。そして、ピアノを弾くとき、彼女は大人みたいにヒールの高い靴をはいたので、彼女はとても大きく見えた。技術的な差に、そんなフィジカルな引け目が加わって、ぼくは彼女から距離を置いたのかもしれなかった。今さら、あの時にやれなかった努力をやったとして、何をぼくは手に入れようとしているのだろう。プロのピアニストになりたいわけではない。就職試験に使うあてもない。でも、いったんついた情熱は消しようがなかった。分別の歯止めの利かないゾーンへと、いつの間にかぼくははまり込んでいた。

                      

 次の日一日がかりでぼくはマズルカの第5番を弾けるようになった。どこにも難しい部分のない曲だった。ただ、どこかしらとっつきにくいイメージがあったのだ。それは、ショパンの中にある、ポーランドの土着的な部分、民族的な部分だったのだろう。マズルカほどではないが、ポロネーズも同じような距離感を感じていた。

 

 東欧へでも旅すればいいのか、ポーランド映画を観ればいいのか。アンジェイ・ワイダ?悪くない。だが、今は時間がない。

 

 とにかくこれで6曲。あと8曲。

へ続く)

 


『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 
 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。


幻想即興曲 7

2017-03-28 23:14:52 | 小説

   

より続く)

「急にピアノ弾きだして、どういう風の吹き回しなの。そんなに熱心になるのだったら、小学校のころちゃんと練習すればよかったのに。あのころは、本当に練習しなかったわね。あなた」

すべてを知った上で、からかうように母は言った。

「あのころはショパンは女々しいと思ってたから」

「大学は休みだからいくら弾いてもいいけど、夜はご近所に迷惑かかるから練習は9時までにしてちょうだい」

「秘密兵器を買うことにしたから大丈夫」

「何?」

「デジタルピアノ、それも台のないやつ。それなら一人で運べるし、3万円くらいで買える」

「どうせ買うなら後々まで使える高いのにしなさいよ」

「高いのは一体型だけど、そういうのは30キロ以上あって一人で運ぼうとするとギックリ腰になってしまう。台のないやつならメーカーにもよるけど10キロ前後だから、一人でも楽勝で運べる」

「ふうん。お金は大丈夫なのね」

「通販の引き落としの前に、アルバイトの入金があるから」

「百合香ちゃんとこで買ってあげればいいのに」

「まあ、あそこはちゃんとピアノの形をしたやつしか置いてないから」

口実だった。楽譜は義理を感じて買ったものの、さすがにデジタルピアノの購入は秘中の秘。今はまだ手の内を明かすわけにはゆかないのだ。

 

次のターゲットは、プレリュード15番の雨だれと、ノクターン2番だった。この二曲はA~Fまでの6段階で難易度Eくらいになっているけれど、実はC程度の難易度しかなく、かなり攻略しやすい曲である。というのも、速いスケール(音階)を含んだパッセージはまったくないので、親指をくぐらせる必要もほとんどないからだ。また、テンポが遅いだけで、曲の難易度は格段に下がる。難しいのは、読譜や解釈だけということになる。もちろん技術的な課題がないわけではない。ノクターン2番の場合、左手の跳躍だ。ほとんどワルツのテンポで、左手は動き続けるが、右手はそれに合わせることなく、のんびり歌を歌っている。それが8分の12拍子の意味だ。右手には装飾音をともなった細かい音の動きがあるが、他のノクターンのように長大なものではないので、ピアニッシモで一気に坂道ダッシュを駆け上がったり駆け下りたりする必要がない。だから最後までのんびりと血圧を上げることなく弾くことができるのである。

 

プレリュード15番の雨だれは、前半あまりの易しさにのけぞってしまった。左手は二つのことを同時にやろうとしているようで、実は交互にしか動いていないし、手のポジションもほぼ固定したままで指を倒すとそこに楽譜に書かれた音があるという風に、自然な指の動きに沿って書かれている。だから、手が小さいという人以外、この曲の前半が難しいと感じることはありそうもないことである。問題は、中盤以降右手に内声部が含まれることだ。こんなのは和音で弾いてしまい、後で徐々に分離するに任せればよいと思っていると、また声が聞こえた。

 

―片方の手のパートを取り出した上で、さらに二つ以上の声部が重なる場合、二つに分離して練習してみることも大切。場合によっては、右手のパートの一部の音を左手を使って弾いてもいいわ。その方が、意識的に分離できて、耳も覚えやすいから。でも雨だれでそれを行おうとすると、オクターブを打ち続ける右手の間に左手が割り込んで、和音を弾くことになり、決して自然な動きにはならない。だから分離の感覚を耳が覚えると、右手だけの練習に戻したのだった。

 

その日のうちには、ノクターン2番とプレリュード15番は何とか弾けるようになっていた。後は毎日二、三回ずつ繰り返せば、暗譜もできるだろうし、大勢観客がいるわけでもないので、暗譜できなくても問題はない。どこまで、自然でなめらかに聞こえるかの方が問題だ。

 

これで5曲。残るは9曲。

へ続く)

 

『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 
 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。


幻想即興曲 6

2017-03-28 23:14:40 | 小説

 

から続く)

 エチュード2曲や、英雄ポロネーズを含むショパン全14曲を一ヶ月で弾きこなせるようにすること。何というハードなスケジュールだろう。おまけに、ぼくは一度もショパンを弾いたことがないのだ。

 

 とりあえずショパンアルバムとプレリュードの弾く曲に付箋をはさみながら、14曲をざっと見渡す。初心者向けの曲から上級の曲までいろいろあるが、楽勝だと思ったのはプレリュードの4番と7番だった。音楽性は後回しで、とりあえず制限時間内に、すべての音を弾けるようにすればいい。そんなやっつけ気分になったところで、頭の中で声がした。

 

いきなり楽譜を弾き始めては駄目よ。まず楽譜を隅から隅まで見渡し、理解しようと努めるの。この曲はどんな調性で、どんなテンポで弾けばいいのか。どんな感情を訴えようとしているのか。

 村野佳江の声だった。9年も前のことなのに、ここまで鮮やかに声が蘇る。けれども、今思い出しても、どこも間違った部分があると思えなかった。ハイ、わかりました、先生。丹下団平の葉書に書かれた「あしたのために」を読む矢吹丈のような気分になったのだ。ひじを左脇下から離さぬ心がまえで、やや内角を狙い、えぐりこむようにして打つべし。

 

打つべし、打つべし、打つべし。

 

 そんな風にしてたった17小節しかないプレリュード第7番をぼくは弾いた。はじめは和音をきちんと押さえていないのではないかとおそるおそる。だが、しだいに簡単だ、楽勝だ、この曲と強気になる。弾けるじゃん、もういいか。するとまた声が蘇ってくる。どんな曲でも、まず15回は弾いてみることね。そうすると、動きが手になじむようになる。そこであえて、右手と左手を分解して弾いてみるの。耳を研ぎ澄ましながら。すべての音がきちんと響いているかどうか。体重の乗せ方はそれでいいのか。指のタッチはそれでいいのか。15回どころか、納得がゆくまで繰り返して。

そうすると、曲の構造がくっきりと浮かび上がってくる。なるほどこんな曲なのか。

 

 一日がかりで弾けるようになったのは、プレリュードの7番と4番、そしてスローテンポの第三番のワルツだった。地味で陰鬱な雰囲気の4番のプレリュードも、3番のワルツも意外な人気があるのはメロディーに歌があり、『戦場のピアニスト』をはじめとして10以上の映画の中で使われているからだろう。

 

というわけで、あと11曲。この日ぼくはショパン弾きになった。

へ続く)


『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 
 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。


幻想即興曲 5

2017-03-28 14:45:56 | 小説

より続く)

 村野百合香1st CD「ショパンの調べ」の曲目と演奏時間は次のようなものだった。

1.ワルツ 第1番 作品18                           5:21

2.ワルツ 第3番 イ短調  作品34-2「華麗なる円舞曲」  4:57

3.ワルツ 第6番 変二長調 作品64の1「子犬のワルツ」   1:59

4.ワルツ 第7番 嬰ハ短調 作品64の2 嬰ハ短調          4:03

5.エチュード 第12番 ハ短調 作品10の12 革命      2:13

6.エチュード 第3番 ホ長調  作品10の3 別れの曲    4:30

7.ポロネーズ 第6番 変イ長調 作品66 英雄        6:26

8.マズルカ 第5番 変ロ長調 作品7の1            2:01

9.プレリュード 第4番 ホ短調 作品28-4           2:36

10. プレリュード 第7番 イ長調 作品28-7           0:50

11. プレリュード 第15番 作品28-15 雨だれ        5:59

12. ノクターン 第2番 作品9-2                  4:28

13. ノクターン 第20番 嬰ハ短調 (遺作)               4:34

14.  幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66                  5:02

TOTAL Playing Time  54:59

 

 全14曲合算すると1時間に満たない演奏時間。そのうちの数曲はあっという間に弾けるだろう。だが、残る数曲はこのテンポで弾けるまで、狂ったように練習をしなくてはいけない。とりわけ苦戦しそうなのは、エチュードとポロネーズ、そして幻想即興曲だった。

 

 家にある楽譜を調べてみると、ほとんどの曲は小学校のころ買ったきり弾かずに終わったショパンアルバムに入っている。入っていないのは、5の革命のエチュード、7の英雄ポロネーズ、9と10のプレリュードだけだった。革命のエチュードと英雄ポロネーズはピアノピースで揃え、前奏曲のみまるごと本になったものを買うことにした。

 

 村野楽器は、かつては2、3店舗きりの小さな楽器屋だったが、今は仙台、東京、名古屋、大阪、福岡など全国展開している大手の楽器店に成長し、特に輸入物の中古ピアノの販売で売り上げを伸ばしていた。言うまでもなく、村野百合香の父親村野次郎が経営者だ。むかしは地元の店の店頭で見かけ言葉を交わしたこともあるが、今はピアノの隠れた名器を求めて、日本全国どころか世界中を飛び回っているので、顔を合わす機会もほとんどない。やはり楽器は、相応の弾き手がいないことには、状態の良しあしは分かっても、その楽器としての性能はわからない。優れた弾き手が二人もいることが、村野楽器店のアドバンテージにつながっていた。スタインウェイは言わずもがな、ビンテージもののベヒシュタインや、ベーゼンドルファー、さらにはショパンが愛奏したプレイエルに至るまで幅広いピアノの販売で定評があった。

 

 最近白髪か増えたのを気にしている店員の小林さんと会釈を交わし、クラシックの楽譜のコーナーを探す。24のプレリュードはすぐに見つかったが、ピアノピースの方は目当ての曲にたどりつくまでが大変だし、結構欠番や品切れが多い。けれども、さすが人気曲だけあって、英雄ポロネーズや革命のエチュードは欠番にも品切れにもなっていなかった。

「田中くん、今日は、ロックじゃないだね」

「あれは知り合いのバンドのキーボードが抜けて、頼まれたから一時手伝っていただけで。まあ、昔取った杵柄というか、リハビリと言うか」

「百合香ちゃんがコンクールで優勝したから煽られたんでしょ」

 ぼくは答えなかったが、昨日の今日だしバレバレだった。レジの後ろには、百合香のコンクール優勝の雑誌記事の切り抜きが、張り出されていたし、手書きのポップとともに十枚ほど百合香のCDが脇に積み重ねてあったから、隠しようもなかった。クラシックのCDは、結構人気のあるピアニストでも売れる数はわずかで、強気でまとまった数をプレスしたものの在庫を大量にかかえさばくのに大変だったという噂もよく耳にする。やはりコンサート会場でサイン会を兼ねて売るのが一番効率のよい売り方のようだ。

「そのうち、他の曲も弾きたくなるでしょうから、ポロネーズやエチュードも本ごと買った方がいいと思うんですけどね」

「その時はその時。厚い本は持ち運ぶと重いし、ページが閉じないようにするのに一苦労なので、これでいいですよ」

 昔は数百円で買えたクラシックの楽譜本も、今は由緒ある作曲家の曲集は千五百円から二千円程度はするようになっていた。本音を言えば、昨日花を買ったし、懐がかなりさびしくなっていたのだ。

「なるほど、さすが餅は餅屋ですなあ」

 小林さんは、千円買うごとに一回スタンプを押してくれる昔ながらのポイントカードを返しながら言った。20回分のスタンプがたまると500円引き。渋すぎる。

(続く)

 


『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 
 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。


幻想即興曲 4

2017-03-26 22:28:27 | 小説


より続く)

 コンサートが終わると、ぼくはホールから外へ飛び出していた。近くに花屋があったはずだ。おそらく彼女はコンサートの後、ロビーで多くの人に挨拶していることだろう。そしてその列は5分や10分では途切れることはない。その間に、花でも買ってゆこうと思った。泥縄だ。駅近くまで戻りながら、大きな花屋を見つけると、3千円ほどの予算でブーケを作ってもらった。花の名前はよくわからなかったが、白いユリがあったので、赤や黄色、カラフルな花の手前に入れてもらった。だが、なぜ花束など急に買う気になったのだろう。たぶん、彼女の演奏が素晴らしすぎたせいだ。カジュアルな、一種の野次馬根性で見に来たのに、本物を見せられて、手ぶらだと恥ずかしくなったのだ。予想と実際の落差の分を花で埋め合わせしようと思ったのだ。でも、ケーキの方がよかっただろうか。花束と同じように鮮やかなフルーツタルトが、隣のケーキ屋の店頭にあったけれど、ホールに戻るまでに壊れそうな気がしたので、やめにした。

 

 汗をかきながらホールまで速足で戻る。終了後は、もはやチケットのチェックもしないのでフリーパスだった。百合香は、デビューCDの即売場で、サインに応じているようで人だかりがしていた。ロビーのソファに腰かけ、遠目に見ながら、列が途切れるのを待つことにした。

                  

「コウくん、起きて」

ついうとうとしてしまい、気がつくと百合香が目の前にいた。

「あっ」

あわててそれまでに言おうと思ってた台詞をすべて忘れてしまった。隣で佳江先生も笑っている。

「我慢してずっと起きていたのね」

「コンクール優勝おめでとう」

顔を真っ赤にしながらそれだけを言うのが精一杯だった。立ち上がって花束を差し出す。

「ありがとう。いい香り。コウが、こんな気の利いたことしたの、初めてね」

「それだけ演奏が素晴らしかったってことで、昔は今にも手の届くところにいると思ったのに、はるか彼方に行った気がして」

「変ね、ほら、今だって手の届くところにいるじゃない」

そう言って彼女は僕の肩に手を乗せる。

「あ、ずるい。いつの間にかこんなに大きくなって」

小学校のころみたいに上から目線で見下ろせなくなって勝手がちがったのだろう。

「手も大きいよね、いいな。十度をアルペジオで弾く必要がないよね」

「親子で同じこと言ってる」

「で、どうだった、私の演奏」

 百合香が弾いたのは、遺作の前奏曲嬰ハ短調と、幻想曲、子守唄だけだった。その後、シューマンの歌曲をリストが編曲した「献呈」をアンコールに弾いた。生徒たちの演目と重ならないように、そして一味違った世界になるようにと、考えに考え、選曲した結果だろう。

「前奏曲は、とても甘美で、心が解けそうな気がした。幻想曲は、思わずお話が浮かんできたんだ。」

「どんな話?」

「恋人同士が喧嘩別れして、とぼとぼと歩いてる。悪いのは僕じゃない。でも、言い過ぎたとかぐちゅぐちゅ悩みながら」

「『雪の降る町に』の部分ね。」

「歩いているのは川の土手、でも季節は夏」

「どうして夏だと言えるの」

「花火が上がるんだ」

「アルペジオの部分かしら」

「そう、で、花火が次々に打ち上がるのを見て、足を運ぶうちに、恋人と再会する」

「花火で照らされた顔を見つめ合いながら、歩み寄り、語り合うのね」

「ぼくの方が悪かった。いや、悪かったのは私よって」

「あのメロディーは、そうとしか聞こえない」

「うんうん」

「それで抱き合ってキスして、花火がフィナーレに達しておしまい」

「めでたし、めでたし」

「それから子守唄は、まるで夜の闇の中に、光の真珠が浮かんでいるようで」

「盛り上がってるところ悪いけど、後がつかえてるから出なきゃいけないのよ」

佳江先生は言う。市民ホールは、料金は安いが、朝昼晩と三分に分かれている。今回は小学生が来ることも考えて、昼の部だった。夕方の部がスタートする前には、すべて撤収しなければいけない。

「続きはまた今度ね。携帯の電話番号教えて。それからこれ」

そう言って彼女は『ショパンの調べ』と書かれたデビューCDを渡した。

「でも、これ売り物でしょ。」

「そうだけど、お花のこともあるし、等価交換と思ってね」

確かに、CDの値段はぴたり花と同じ金額だった。佳江先生は家まで送ってあげると言って、白いプリウスの後ろにぼくを座らせた。

「さっきのコンサートとは対照的。初心者向けか、有名曲ばかり」

「そう、半分教室の生徒のお手本みたいな曲ばかりだから。でも、2枚目、3枚目はそうじゃないわよ」

「このくらいなら全部弾けそうだ」

「おっ、豪語するな、天才少年」佳江先生が運転しながら茶々を入れる。

「もう、少年じゃないし、天才でもない」

「寝過ぎたウサギさんね、9年間も。でも、コウの弾くショパン聞いてみたいな」

「じゃ、期限定めましょう。一か月後の8月11日の復興花火大会の日までにこのCDの中の曲を全部弾けるようにすること。演奏の質は問わないから、可能な限り同じテンポで弾けるように。速すぎるのは構わないから」

 急に、佳江先生から無茶苦茶な課題を課せられることになった。大学の授業は休みに入っているからいいようなものの、一か月間ピアノ漬けの生活を強いられることになりそうだ。復興花火大会は、昨前からこのエリアの6つの市と町で同時に開催される合同の花火大会。それまで8月中に花火大会がないことを不満に思った地元住民の運動でできたものだ。地元の客は分散する代わりに、他の地域から多くの観光客が押し寄せる。なんといっても、海岸沿い数十キロにわたって、タイミングを揃えながら6カ所で花火が上がるのだ。壮観そのもので、海上からの大型クルーザーの鑑賞組も年々増加傾向にあった。各市町に設けられた有料席の売り上げとスポンサー企業の寄付金、さらに実況中継を行うテレビ局経由の寄付金まで合算すると集まったお金は数百億にのぼり、東北の被災地の再建に使われた。国の手では遅々として進まなかった再建が、再び加速度的に進むようになったのだ。

 

「乗せられやすいね、コウ。でも、失われた9年間を取り戻すにはそれくらいやらなきゃ」

 百合香は、愉快そうに笑った。

(へ続く)


 

『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 

この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。


幻想即興曲 3

2017-03-25 23:44:22 | 小説

より続く)

 発表会とコンサートは、市民ホールで行われた。400人収容の小ホールはかなり後ろの席まで埋まっていたので八分の入りといったところだろう。その多くは小中学生とその保護者だったが、百合香の学校関係と思われる女子大生の姿も目に入った。前の方の席には熱心な男子学生のファンも何人かいるようだったが、まだ目立つ数ではない。あくまで恒例の発表会がメインで百合香の出番は付け足し的なミニコンサートということで、取材するマスコミもいないようだった。平均年齢が若い割に、通常のコンサートと変わらぬ静寂さは、聴衆が聞く訓練をされているためのように思われた。

 

 小学生から始まった演奏は、様々な感情をかきたてられるものだった。ベートーヴェン「エリーゼのために」、バダジェフスカ「乙女の祈り」、メンデルスゾーン「春の歌」、モーツァルト「トルコ行進曲」、ウェーバー「舞踏への誘い」、シューマン「トロイメライ」、ドビュッシー「アラベスク第一番」、ショパン「子犬のワルツ」、みんな学年の割に難易度の高い曲に挑戦していた。そして高学年になると、そこそこ難易度の高いリストのラ・カンパネラや、ショパンのエチュードを弾く女の子も、「英雄ポロネーズ」を弾く男の子も出てきた。小学生と張り合ってどうすると言っても、一度も弾いたことのない曲が次々に続くと、真面目に続けていれば通ったはずの道を通らなかった人間としては、どこかほろ苦さを感じてしまう。捨て去った過去のつもりなのに、なんだろうこの気持ち。そう、ところどころ途切れたり、ミスしたりする幼い演奏の向こう側に見える音楽の本体は、ピアノはやはり素晴らしかったのだ。

 

 様々な思いをめぐらせる中で、後半ぼくはほとんど演奏を聴いていなかった。それらの曲を弾く自分のことばかり考えていた。この曲はあえて弾くほどでもない、これは弾きたい曲だなどと品定めをしながら、いつしか第一部は終わっていた。休憩の間、ロビーに出て、自販機のコーヒーでも飲もうとすると、向こうに会いたくない人がいるのに気がついた。けれでも、こちらの気配に気がついたのか、視線が合うとその人はぼくに手招きをした。村野佳江、かつてのピアノの先生であり、村野百合香の母親だった。

「光希くん、久しぶりね。今日はよく来てくれたわ」

「先生、ご無沙汰しています」

「それにしても大きくなったわねえ。昔はこんなに小さかったのに」

「まあ、二十歳過ぎてますからいつまでも小学生の体形はないでしょう」 

「そうじゃなくて、あのころは小学生の中でも小さかったのよね。たしか6年のときで130センチ」

「いや138センチはありました」

「そうだったかしら。百合香が145センチだったからそれよりも小さかったのよね」

このおばさん、一番言われたくないことをねちねちと責め立てるのだ。

「嫌味言ってるつもりないのよ。今の身体はピアノ弾くのに何の差しさわりもないでしょ。また、やってみたら」

「まあ、小学生に負けているからもう完全に手遅れですね」

「あなた本当にそう思っているの。まあ、別に、コンサートピアニストにならなくてもいいじゃない。音楽は一生付き合える友人なのだから。ほら、手を出して」

 村野佳江は右手の五本の指を広げてみせる。決して、大きくはないががっしりとしていて柔らかい手の指にぼくは左手の五本の指を合わせる。

「いいわね。十度は楽に届くじゃない。ショパン以上、リスト以下といったところかしら」

 十度とはドから一オクターブ上のミまでの距離。これはあまり意味のない表現だ。大体日本人の成人男子の手の大きさはショパン以上リスト以下なのだから。

「まあ、ラフマニノフみたいに十二度は無理でも、下からなら十一度までぎりぎり届きますね」

 普通は男子でも十度がぎりぎりなのだが、それより一回り大きいのはサッカーでゴールキーパーを続けたせいかもしれない。

「十分すぎるわ。放蕩息子の帰還を祝して、乾杯したいくらい。百合香もあなたと会えるの楽しみにしてるから終わっても早く帰らないでね」

 そう言って、別の話し相手を見つけては、村野先生は去って行った。それから何人かの学生に話しかけられた。ピアノ教室の同期か後輩だったらしいのだが、急に言われても小学生のころの顔と今の顔が一致するはずもなかった。

                     

 第二部が始まると、水を打ったような静けさが会場を支配した。咳払いするのもはばかられる。この休憩の間に、入場した人がかなりいたらしく後ろの方に目立った空席もほぼ埋まっていた。ステージに足音を立てて、村野百合香が現れる。紫色のドレスは、かつて見たことのない色だった。最後に百合香を見たのは、中学校の卒業式のとき。それから六年が経っているのだから当然と言えば当然なのだが、別人かと思うくらい、成熟した大人の雰囲気を漂わせていた。けれども、決して肉感的ではなく、スリムで清楚な印象はそのままだった。

 

 観客席に向かい一礼すると、椅子の位置をしばらく調整したのち、彼女は軽やかな仕草で弾き始めた。それはショパンの前奏曲嬰ハ短調 作品45だった。

へ続く)


 

『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18 

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。



幻想即興曲 2

2017-03-24 00:10:13 | 小説

より続く)

 大学三年の夏休みを迎えるころ、ぼくのもとに一通の手紙が届いた。差出人は、ムラノ・ミュージック・スクール。かつてのピアノ教室は、今や生徒数100人を超える大所帯になっていた。恒例のピアノの発表会が、7月に行われるらしいのだが、今回は様子が違う。第一部が小学生から高校生までの生徒一人一曲の発表会なのだが、第二部は全日本ピアノコンクール優勝記念、村野百合香ミニコンサートとなり、オールショパンの曲目が並んでいた。

 

 村野百合香は、ぼくがピアノを教わった先生、村野佳江の一人娘、小学校から中学校までぼくの同級生だった。百合香は小学校のころから毎度のように発表会のトリをつとめていた。家にグランドピアノのある数少ない家の一つだったし、何よりも母親が先生でいつもそばにいるので、練習時間も半端でなかった。けれでも、厳しく育てられたせいか、ピアノを理由に他の教科を手抜きするようなそぶりは一切見せず、学校でも成績はいつも上位だった。昔の記憶をたぐり寄せると、思い浮かぶのは小学生ながらドレスに身を包んだ彼女の姿だった。肩甲骨あたりまである長い髪、細く長い手足。村野百合香は、美しかったが、人形のようで、人を寄せつけないところがあった。ぼくが小学校卒業と同時にピアノを止めたのも、こんなピアノの虫みたいなのを相手にしても到底勝ち目がないと考えたためと言っても過言ではない。あのころのぼくは、ろくに練習しなかいくせに、ライバル心だけは一人前に持ち合わせていたのだった。母親同士が友人ということで、何度か百合香はぼくの家に遊びに来たこともあるし、言葉も交わした。それでも、どこかピアノのライバルという気持ちが手伝って、ぎこちない会話しかできなかったのだ。

 

 小学校の卒業式のとき、彼女はぼくを問い詰めるように言った。

「なんでピアノをやめるのよ」

「ピアノなんて女のやるものだ」

「コウ、あなた自分の考えで動いてないでしょ。本気で言ってるわけないじゃない」

 彼女はある理由で、ぼくのことをミツキではなく、コウと呼んでいた。まさか、お前に負けるのが嫌で、ピアノをやめるなどと格好悪い台詞が言えるわけはなかった。

「家にこもってピアノ弾く暇があったら、青空の下で、ボールでも追っかけてた方がマシだと思うようになったんだよ。悪いか」

「それは別に構わないと思うわ。でも、ピアノを止めることないじゃない」

 百合香は、大きな黒い目を見開き、ぼくを見つめて言ったのだ。

「わたしは、あなたの、コウのピアノが好きだよ。音が違うの、まんまるの玉のかたちをしてて、色が見えるの」

「音に色があるわけないだろ」

「あるの、他の人にはなくても、あなたのピアノには色があるんだから」

 そう言うと、彼女の瞳は涙でいっぱいになった。

「私だってコウがいたから、今までピアノ続けられたのに、バカ」

 彼女は背を向け、向こうへと駆けだしていた。あのとき、もう少しで、言うところだった。

「バカはお前だよ、冗談を真に受けやがって。オレがピアノやめるわけないだろ。絶対にお前よりうまくなってやる」

 あと十秒彼女が立ち去るのが遅ければ、すべては変わっていたかもしれない。

 

 そうなのか。やはり百合香は、コンクールで優勝したのか。もちろん、それ以前中学時代、高校時代にも、コンクールでの優勝、入賞経験のある百合香だったが、それは中学、高校生向けのコンクールだった。今度は一般の部で、ついに日本の頂点を極めたのか。感慨深いと同時にほろ苦い思いが心をよぎった。

「第一部は付き合わなくてもいいから、百合香ちゃんのコンサートだけはちゃんと行くのよ。花束でも持って」

と母は言う。

「さすがにそれは恥ずかしい。でも、いろいろ話は聞きたいから行ってもいいかな」

「頑張れよ、息子」

「何を頑張るんだ?」

「頑張って、王子さまは無理でも、ナイトになれってこと。あんないい子いないんだから」

「昔のイメージしかない」

「じゃ、会ってのお楽しみね、ふふ」

 妙に楽しそうにしているのが気にかかった。

へ続く)


 

『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。 


幻想即興曲 1

2017-03-21 22:23:24 | 小説

幻想即興曲

                

                

 クラシック音楽の思い出は、3歳のころのオルゴールまでさかのぼる。水車の形をしたオルゴール時計の音を聞くと、僕は涙は止まらなくなった。なぜか舟で分かれて去ってゆく人の姿が見えた。しかし、その人たちが誰だったかは顔がぼんやりしてわからなかった。その曲が、ショパンの「幻想即興曲」であると聞いたのは、後になってからだった。「幻想即興曲」という言葉自体が、いつの間にか、ベルリオーズの「幻想交響曲」とごっちゃになっていたが、長大な「幻想交響曲」にはどこを探してもそんなメロディーはなかった。それが正しく心の中で整理されるには、さらに後のことだった。

 ピアノを習い始めたのは、小学校1年のころだった。母の友人のピアノ教師のもとに預けられ、バイエルからツェルニーへ、さらにソナチネアルバム、ソナタアルバムまで進んだところで小学校生活が終わりを告げ、ピアノのレッスンへも通わなくなった。6年間も時間をかけた割には、あまり進まなかったのは、家でほとんど練習しなかったからだ。小学生の男の子には、学校の勉強はさておき、ゲームに漫画、テレビアニメと、やらなければいけないことがたくさんあったのだ。それでも、年に一度の発表会には、教室に男子が少なかったせいか、必ず何かを弾かされた。それも随分後の方だった。
 小学校の4年から6年にかけては、モーツァルトばかり弾いていた。ロンドニ長調、ピアノソナタイ短調K311第一楽章、そしてキラキラ星変奏曲の順だったと思う。どれも、中級程度の難しさの割に、演奏効果が高く、いかにもモーツァルトらしいメロディーが気に入っていた。ベートーヴェンは「エリーゼのために」と「月光」の第一楽章とか、「悲愴」の第二楽章とか、有名な部分を単独で弾く程度だった。

 小学校卒業とともにぼくがピアノを止めようとしたとき、女教師は、それまで練習不足をなじることはあっても、一度も褒めたことがなかったのに、惜しいわ、やめないでと懇願した。あなたは耳がいいし、あなたの音は、特別なのよ。そんな音の持ち主は他にうちの教室にはいないわとまで言ったのだ。ぼくは、ピアノは女の子が弾くものという学校のクラスの男子の視線に耐えがたいものを感じていたし、練習熱心な女子がずっと先で、ショパンやリストを弾いているのを見て、なんだか彼女たちと追いかけっこするのも疲れる気がした。ウサギと亀の競争で、ようやく昼寝から覚めたウサギは亀に追いつくだろうか。いや、そもそもぼくがウサギであるある理由はどこにもない。昼寝から覚めた亀は昼寝をすることのないウサギに追いつくことはない。それが真実だ。そんな風にして僕はピアノに別れを告げたのだ。


 ピアノのレッスンに別れを告げたぼくは、地元の中学に入るとテニス部に入った。しかし、長続きしなかった。なんとなく右手ばかり使う動きが気持ち悪かったのだ。これでは左右不均衡な体形になってしまう。筋肉への負荷がシンメトリーではないのだ。たまたま図書館で読んだある高名な空手家の文章にも、野球は左右対称でないから亡国のスポーツだと大胆な意見が述べられていた。この論法でゆくとテニスもまた亡国のスポーツなのだろう。試しに交互にラケットを右手と左手で持ち替えながらプレイしてみたこともある。だが、先輩からふざけるなと怒鳴られただけだった。そんなわけで、テニス部は一年でやめ、中学2年からはサッカー部に入ることになった。サッカーは足しか使わない。だからバスケットボールやバレーボールみたいに指や手首を痛めることもないだろう。そんな目論見は見事に外れた。他に、誰もなり手がいなかったために、ぼくはゴールキーパーをやるはめになったのだ。光希、お前足遅いからとみんなは言った。小学校時代にまともにスポーツをやらなかったツケが出たのだからしょうがない。それでも、ぼくは中学3年どころか、高校3年の春まで、サッカーとゴールキーパーをやり続けた。最初何度か突き指をしたが、しだいに指を痛めることは少なくなった。クラスで一番小さかったぼくの身長も、人並みに伸び、170センチに何とか届くあたりでストップした。

 

 実を言うと、ピアノは独学で続けていたが、新しいレパートリーを開拓することはなかった。日曜日になると習いかじったモーツァルトとバッハとヘンデル、それにほんの少しのベートーヴェンを弾き続けていた。ピアノの練習は一日休むと元に戻すのに一日かかると言う。このペースではどんどんと決して上達しない。自分のピアノが小学校のころよりも下手だと感じたのだった。近所の音大生が、毎日一回ハノンを最初から最後までおさらいすると言うのを聞いたぼくは、毎週日曜日だけ、モーツァルトやヘンデルを弾く傍ら、ハノンの1番から100番まで弾き続けることにしたのだった。たとえ週一回でも、機械的な訓練をやり続けることで、指の動きは格段になめらかで軽快になった。ぼくにとってピアノは、どちらかというと腕立て伏せや腹筋、スクワットのようなエクササイズに属していた。なめらかなピアノの動きは、頭の働きを軽快にする。学校の勉強にもよい影響を与えるようで、数学や物理も同じようなリズムで解くことができた。本が好きだったので、国語は得意だったが、英語は苦手だった。しかし、数学と理科で点数を稼ぐことで、ぼくは都内の大学の工学部に現役で合格することができた。

 

 工学部の講義と演習、ゼミの間で、もっぱら家庭教師のアルバイトをして稼いでいた。しかし、数学を教わりたいという高校生は少なく、英語が苦手という生徒ばかりが当たり、散々苦労した。それでも、いつしか高校入試程度の英語は空で教えることができるようになり、単語や文法などの暗記事項を増やしてゆくと、大学入試問題まで教えられるようになった。塾講師とあわせて月の収入は10万円を越え、親の扶養控除が得られる限度を超えそうになったが、ときどき休みをとることで、ぎりぎり限度内に抑えた。それ以上稼ぐくらいなら、もっと勉強しろが、ふだんは口うるさくない父親の厳命だった。

に続く)


『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。