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(5から続く)
エチュード2曲や、英雄ポロネーズを含むショパン全14曲を一ヶ月で弾きこなせるようにすること。何というハードなスケジュールだろう。おまけに、ぼくは一度もショパンを弾いたことがないのだ。
とりあえずショパンアルバムとプレリュードの弾く曲に付箋をはさみながら、14曲をざっと見渡す。初心者向けの曲から上級の曲までいろいろあるが、楽勝だと思ったのはプレリュードの4番と7番だった。音楽性は後回しで、とりあえず制限時間内に、すべての音を弾けるようにすればいい。そんなやっつけ気分になったところで、頭の中で声がした。
―いきなり楽譜を弾き始めては駄目よ。まず楽譜を隅から隅まで見渡し、理解しようと努めるの。この曲はどんな調性で、どんなテンポで弾けばいいのか。どんな感情を訴えようとしているのか。
村野佳江の声だった。9年も前のことなのに、ここまで鮮やかに声が蘇る。けれども、今思い出しても、どこも間違った部分があると思えなかった。ハイ、わかりました、先生。丹下団平の葉書に書かれた「あしたのために」を読む矢吹丈のような気分になったのだ。ひじを左脇下から離さぬ心がまえで、やや内角を狙い、えぐりこむようにして打つべし。
打つべし、打つべし、打つべし。
そんな風にしてたった17小節しかないプレリュード第7番をぼくは弾いた。はじめは和音をきちんと押さえていないのではないかとおそるおそる。だが、しだいに簡単だ、楽勝だ、この曲と強気になる。弾けるじゃん、もういいか。するとまた声が蘇ってくる。どんな曲でも、まず15回は弾いてみることね。そうすると、動きが手になじむようになる。そこであえて、右手と左手を分解して弾いてみるの。耳を研ぎ澄ましながら。すべての音がきちんと響いているかどうか。体重の乗せ方はそれでいいのか。指のタッチはそれでいいのか。15回どころか、納得がゆくまで繰り返して。
そうすると、曲の構造がくっきりと浮かび上がってくる。なるほどこんな曲なのか。
一日がかりで弾けるようになったのは、プレリュードの7番と4番、そしてスローテンポの第三番のワルツだった。地味で陰鬱な雰囲気の4番のプレリュードも、3番のワルツも意外な人気があるのはメロディーに歌があり、『戦場のピアニスト』をはじめとして10以上の映画の中で使われているからだろう。
というわけで、あと11曲。この日ぼくはショパン弾きになった。
(7へ続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。
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