12
(11より続く)
再び家庭教師の日がやってくる。親とも話し合って、お盆の時期は休むことにした。いつも通り英語を教えた後で、古文も点数がとれないからと短期の特訓をやることになった。この風間家で、ぼくはほとんどドラえもんのように便利屋として使われている。必要は発明の母で、よく知らない科目でも教科書や参考書を繰り返しおしえているうちにサマになるし、知識も増えてくる。メタ視点に立つことで知識は初めて有用なものとして身につき応用が可能となる。古文はというと、月の名前などの常識、動詞と助詞の活用とかかり結び、そして300くらいの基本単語の意味、敬語表現さえ覚えれば半分くらいは点数がとれるようになる。実際、そうしたトリビアな知識で点数が取れるような出題が多いのだ。本文の内容を要約せよみたいな問題は、ほとんど出ない。その場面の意味を誘導尋問的に決めさせるような問題が大半で、選択肢の中に大きなヒントがある。そして選択肢の正誤を正しく判断するには、そこで出てきたキーワードの正確な意味さえ知っていればいいのだ。この日は、十二の月の呼称と、かかり結び、そして「あはれ」や「おかし」など頻出の形容詞の意味に絞って教え込んだ。
「むつき、きさらぎ、やよい、うづき、さつき、みなしづき、ふみづき、はづき、ながつき、かんなづき、しもつき、しはす」
順に言えたからといって、個別に正しく認識できるとは限らない。だから今度はバラで聞いてゆく。
「みなしづきは何月?」
「梅雨で空のタンクが空になるから6月」
「文月は?」
「暑中見舞いを書くから7月」
「昔は暑中見舞いはなかったけど、その覚え方でOK。かんなづきは何月?」
「神界の集会でいなくなるから神無月で10月だったっけ」
「そう。ではクラスにやよいさんとさつきさんがいたらそれぞれ何月生まれと予想できる?」
「やよいさんは3月生まれで、さつきさんは5月生まれ」
「はい、よくできました」
「先生」
「何?」
「花火大会の日って暇?」
「8月11日の?えーと、それはちょっと予定があって」
「あ、赤くなってる。そうか、彼女とデートするのか」
「彼女ではないけど、約束があって」
いっそのこと、百合香のことを話し、CDを勧めようかと思ったが、多感な十代の女の子の詮索心をこれ以上刺激するのはよろしくない。
「ふうん、残念だな。お母さんが一人じゃあぶないから先生と一緒なら安心とか言ってたけど、他を当たるか」
風間結衣は、つまらなそうに、口をとがらして言った。
次の曲は、革命のエチュードだった。ドラマチックな右手の和音の連続の間、左手は歴史の激動を刻むように、うなるような音を立てながら動き続ける。右の和音だけなら初見で弾ける。右手の難易度が上がるのは、左手とユニゾンを奏でる部分のなのだ。だから、左手の指使いを決定し、それを守りながら速いテンポで弾く練習が半分、そしてより難易度の高い左右のユニゾンの練習が半分になる。左手の動きが楽なショパンの曲の中では、やはり難曲で、エチュード(練習曲)の名前に値する。スピードを上げるにつれて、だんだんと指使いが荒れてくる。指使いを無視して、鍵盤に一番近い指を落とそうとするのである。すると、また声がした。譜面で指定された通りの指で弾く必要はないのよ。一人一人指の長さも手の大きさも違うのだから、それは無理な相談。でも、自分の決めた指使いは守らなくては駄目なのよ。気まぐれに変えてたらいつまで経ってもその動きに指は習熟できないのだから。
結局指使いの変更は最小限にとどめることにする。そうして2分で全曲を弾きこなすことができるまでに、三日を要したのだった。
後、二曲。残るは英雄ポロネーズと、幻想即興曲のみだった。
(13へ続く)
『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18
『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19
『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19
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