18
(17より続く)
師走の都心はどこも混雑するので、午後の比較的早い時間に月島の店で待ち合わせる。
だが、一瞬目の前に現れた女性が赤塚佐和子だとはわからなかった。ベージュのコートに、白いタートルネックのセーター、ダークブラウンのスカートに黒のブーツ。いつもの赤い縁のメガネもかけていないし、しなやかなセミロングの髪は、師走の風になびいていた。
「どうしたの?私の顔に何かついてます?」
「コンタクトにしたのですか?」
「以前からずっと、生徒のいない場所だとコンタクトなの。髪型変えると結構わからないものよ」
これほどしげしげと女性の顔を見たことはかつてなかった。気合を入れて化粧をしているせいなのか。想像したよりもずっと美しかった。それからしばらくの間、お好み焼き屋で向かい合って、一体何を話したのか、何を食べたのか、まるで覚えていなかった。彼女が途中でトイレに中座した時、ふと我に返ったのだった。
外へ出ると空気は寒いが、下町の活気が押し寄せてくる。最初の街灯がともり始める時間だ。
「しばらく散歩してもいいですか。このあたりは好きで何度か歩いたことがあるの」
いくつもの鉢植えのある狭い路地の間をさまよいながら、東の方に歩いてゆく。ところどころでに小さな店があり、そばでは猫がのんびり歩いている。
「大学時代に、ここで生まれ育ったある詩人の本を耽読したことがあるの。思想家としても有名だった。だから、いつもその詩の言葉の後ろにこの場所の風景を描いていた。」
「僕もこの場所について書いた文章も読んだことがある。橋のない時代には、渡し舟で向こう岸とつながっていた」
やがて、赤い欄干のある橋が目に入った。船溜まりの周囲には白いビルの銭湯があり、神社の鳥居があり、そして公園があった。一見のどかな海辺の下町風景、だが、周囲を取り囲むのは年々その数が増える超高層のタワーマンションの群れだった。
夕暮れになり、青さをとどめた空が赤みを増してゆく。
彼女の肩が近づき、その横顔も紅に染まる。ふと肩に手をかけようとしたところで、
「ごめんなさい。ちょっとトイレに」
と言って、向こうへと駆け出して行った。確かに12月、海に近い町の風は寒いし、近くなるのも無理はない。けれども、そのタイミングが気になった。
三分ほど経って赤塚佐和子が帰ってくる。
近くの小さな神社にお参りした後、堤防の向こう側、隅田川沿いのプロムナードを歩き始める。対岸には、二棟の超高層ビルを宙空の橋でつないだ病院の建物が見えた。黒々とした川面は、周囲にともり始めたビルの明かりで、色鮮やかに染まる。時々遊覧船や舟宿、貨物船が両側に波を立てながら進んでゆく。波が次々が堤防にぶつかり、音を立てる。
話をしないで黙々と歩く一組のカップル。やはり相性が悪いのか、破局寸前みたいに見える。でも、彼女は幸せそうな顔をしている。
「こんな風にこの場所を、誰かと、歩いてみたかった」
「相手は誰でもよかったの?」
私はあえてきわどいコースに球を投げてみた。
「あなたの存在は空気のように軽いの。だから、心の中にすんなりと入り込んでしまった」
「誉めているのだか、けなしているのだか」
「じゃあ、あなたにとって私の存在って何?」
「急には答えられない」
「そう、僕にも急には答えられない。ただ、この場所に今二人いることだけが大事。それだけでいい」
手をつなぐでもなく、口づけをするでもなく私たちは歩き続けた。気分を高めすぎると、後は下りるしかないことを知っていたから。できる限り、道のりが平坦であるように、どこまでも川沿いの道が続いているように、私たちはさらに歩き続けた。
二つのアーチは緑色に、橋梁部分はブルーにライトアップされた橋が近づく。脇の階段を上がり長い橋を渡る。彼女が足を止め、欄干にもたれかかると、私も同じようにし、同じ方向を見つめた。明るく照明された遊覧船が音を立てて橋の下をくぐり抜けてゆく。
彼女との恋は、どこかしら壊れもののように思われた。一歩踏み出し、二人を隔てる最後の境界線を越えてしまえば後は情熱に任せるだけでよいのかもしれない。しかし、その前の時間、雪に埋もれた中での、春の訪れの予感を楽しんでいたかった。でも、こんな言葉は交わした。
「歩くの疲れない?」
「大丈夫、でも、パンプスじゃなくてよかった。私は何キロで、何時間でも歩いて平気なの」
「ならよかった。お楽しみはこれからだ」
「そう、お楽しみはこれから」
夜空に星がまたたき始めていたが、周囲は明るいので多くは見えない。いくつもの寿司屋の前を通り、背後にはビルがそびえ立つ歌舞伎座の前を通り、そしてまばゆい光のただ中へと私たちは出たのだった。
(19へ続く)
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この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。
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