7 ヤメセン
(6から続く)
サタケ商店街で僕が白井愛と会ったところを誰かに目撃され、それがツイッターでつぶやかれた後の事務所の対応を、風の噂で耳にした。まず、ツイッターの主をつきとめ、たちまち電話が当人に行き、色々と訴訟を起こすとか、脅したらしい。相手は軽いノリの学生だったから、あっという間に削除し、どうやら人違いらしいと大きな噂にはならなかった。その上で、無料のチケットなどの便宜をはかるなど、後のフォローも万全。エトワールという事務所の情報力や機動力を思い知らされたのだった。
アルバイトの調整は結構大変だった。当分シフトがそのままであると思っていたコンビニの店長は、やめると聞いて大慌てだった。だが、理由が芸能界入りであると聞いて何だか納得した様子。そうだよねえ、若い人は夢が大事だからねえ、でも、ダメになったら、いつでも戻ってきていいよと、温かく励ましてくれた。
午前中の熊野屋のシフトは早番で9時には終わるようにし、昼間のブックオンのシフトは夜の遅い時間帯に切り替えた。コンビニのシフトは二人が原則で急な用事で穴を開けると後が大変だが、ブックオンは三人、四人と入ることがあり、抜けても融通がきいたからである。
間でオーディションもないその他大勢のCMエキストラの仕事をこなしながら、僕の毎日はレッスン、レッスン、レッスンの連続だった。
まずは、ボイストレーニングの時間。
毎日、あいうえお、いおあえう、うおあえい、えおあいう、おあいうえで始まるメニューをひたすら繰り返す。
ぶぐばぐぶぐばぐ みぶぐばぐ あわせてぶぐばぐ むぶぐばぐ
かえるぴょこぴょこ みぴょこぴょこ あわせてぴょこぴょこ むぴょこぴょこ
舌をかみそうな早口言葉を続けた後で、最後は 「拙者親方と申すは、お立ち会いの中に、御存知のお方も御座りましょうが」で始まる『外郎売(ういろううり)』という滑舌の定番を暗誦させられた。
その後は、歌の練習。これも基本の発声練習から始めて、声域の近い歌を選んでは何度も自分の声で歌えるまで歌わされた。誰かの物真似のような癖ほど耳ざわりになるものはないが、先生の口癖だった。自分の声を見つけて、それを自由に歌えればそれでいいという方針なのが気に入った。
そしてダンスのレッスン。基本のステップから始めて、どんどん高度で複雑な動きへと進んでいった。呑み込みがいいと誉められた。身体を動かし、汗を流すのが性に合っているのだろう、ついつい熱がこもる。だが、気合を入れすぎると、悪目立ちしすぎと叱られた。まずはチームプレイが第一。ソロデビューは十年早いぞ、シンイチ。
毎日目の前のメニューをこなすので精いっぱいだった。確かに、白井愛の言う通り、事務所で顔を合わせることはなかった。たまに携帯に電話がかかってくることがあったが、それは深夜に限られていた。最近どうしてると言われ、相変わらずレッスンレッスンに明け暮れてクタクタでと返すしかなかった。あまりにワンパターンなやりとりをしながら、なんだか以前に比べて自分がつまらない人間になったような気がした。
ひと月ほど経ったころ、あるオーディションに出るように事務所から言われ、僕は参加することになった。
それは『ヤメセン』というテレビドラマのオーディションだった。主人公の女性蒼井静香は、かつて荒れた高校の国語教師だった。クラス担任となり、不良の巣窟で、持ち前の勝ち気と弁舌の才、空手三段、合気道二段、剣道初段という格闘技の力で不良の巣窟であるクラスを平定してしまう。しかし、クラスの生徒が学外で引き起こしたトラブルを解決するため、学外で大立ち回りを繰り広げ、学校を去ることになる。彼女は、街中で青少年相手のカウンセリングと相談室を開き、成功をおさめていた。インターネットでも相談に応じ、時にはテレビに出るほど有名になっていた。しかし、カウンセリングとは名ばかりで、実際にやっているのは探偵のようなトラブルシューターである。オーディションで募集されたのは、この高校の不良役、卒業後は他の数人のクラスメートとともに元教師の手足となってサポート役をつとめているという設定だ。
台詞を渡され、ほんの短いシーンを演じるだけだった。そして、色々と質問を受けた。
「君、好きなタレントは?」
「那珂川さつきさんです」
失笑が漏れた。それはヤメセン役の女優の名前だった。実は、とっさに浮かぶ名前が他になかっただけなのだ。
「社交辞令はいいから、他には?」
「あ、白井愛さんです。同じ事務所の」
芸能人の名前を知らないというのは困ったものだ。もう一人挙げろと言われたらアウトだ。
「これも優等生的な答えだね。今度は事務所の宣伝か。でも、彼女はいいよ、すごくいい。ゲストに出演してほしいくらいだ」
よかった。誰も交際を疑う者はいないようだ。
「あと、特技の欄に、壁を駆け上がれると書いてあるけど、本当にできるの?」
「今、ここでお見せしてもいいですよ。壁に足跡をつけてもよければ」
一瞬、場がざわついた。顔を見合わせてやらせてみようかという声も。だが、それはない、ないと場の雰囲気が落ち着いた。
「いや、いいよ。後が大変そうだ。身のこなしが軽いとわかればそれでいい」
それだけだった。そして僕はオーディションに合格し、「ヤメセン」のレギュラーになったのだった。
(8へ続く)
この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
『ホワイトラブ』目次
1.プロローグ
2.ホテルニューイサカ
3.白井愛
4.セントラルパーク
5.サタケ商店街
6.エトワール
7.ヤメセン
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