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LOVE STORIES

Somebody loves you-J-POPタッチで描く、ピュアでハートウォーミングなラブストーリー集

幻想即興曲 3

2017-03-25 23:44:22 | 小説

より続く)

 発表会とコンサートは、市民ホールで行われた。400人収容の小ホールはかなり後ろの席まで埋まっていたので八分の入りといったところだろう。その多くは小中学生とその保護者だったが、百合香の学校関係と思われる女子大生の姿も目に入った。前の方の席には熱心な男子学生のファンも何人かいるようだったが、まだ目立つ数ではない。あくまで恒例の発表会がメインで百合香の出番は付け足し的なミニコンサートということで、取材するマスコミもいないようだった。平均年齢が若い割に、通常のコンサートと変わらぬ静寂さは、聴衆が聞く訓練をされているためのように思われた。

 

 小学生から始まった演奏は、様々な感情をかきたてられるものだった。ベートーヴェン「エリーゼのために」、バダジェフスカ「乙女の祈り」、メンデルスゾーン「春の歌」、モーツァルト「トルコ行進曲」、ウェーバー「舞踏への誘い」、シューマン「トロイメライ」、ドビュッシー「アラベスク第一番」、ショパン「子犬のワルツ」、みんな学年の割に難易度の高い曲に挑戦していた。そして高学年になると、そこそこ難易度の高いリストのラ・カンパネラや、ショパンのエチュードを弾く女の子も、「英雄ポロネーズ」を弾く男の子も出てきた。小学生と張り合ってどうすると言っても、一度も弾いたことのない曲が次々に続くと、真面目に続けていれば通ったはずの道を通らなかった人間としては、どこかほろ苦さを感じてしまう。捨て去った過去のつもりなのに、なんだろうこの気持ち。そう、ところどころ途切れたり、ミスしたりする幼い演奏の向こう側に見える音楽の本体は、ピアノはやはり素晴らしかったのだ。

 

 様々な思いをめぐらせる中で、後半ぼくはほとんど演奏を聴いていなかった。それらの曲を弾く自分のことばかり考えていた。この曲はあえて弾くほどでもない、これは弾きたい曲だなどと品定めをしながら、いつしか第一部は終わっていた。休憩の間、ロビーに出て、自販機のコーヒーでも飲もうとすると、向こうに会いたくない人がいるのに気がついた。けれでも、こちらの気配に気がついたのか、視線が合うとその人はぼくに手招きをした。村野佳江、かつてのピアノの先生であり、村野百合香の母親だった。

「光希くん、久しぶりね。今日はよく来てくれたわ」

「先生、ご無沙汰しています」

「それにしても大きくなったわねえ。昔はこんなに小さかったのに」

「まあ、二十歳過ぎてますからいつまでも小学生の体形はないでしょう」 

「そうじゃなくて、あのころは小学生の中でも小さかったのよね。たしか6年のときで130センチ」

「いや138センチはありました」

「そうだったかしら。百合香が145センチだったからそれよりも小さかったのよね」

このおばさん、一番言われたくないことをねちねちと責め立てるのだ。

「嫌味言ってるつもりないのよ。今の身体はピアノ弾くのに何の差しさわりもないでしょ。また、やってみたら」

「まあ、小学生に負けているからもう完全に手遅れですね」

「あなた本当にそう思っているの。まあ、別に、コンサートピアニストにならなくてもいいじゃない。音楽は一生付き合える友人なのだから。ほら、手を出して」

 村野佳江は右手の五本の指を広げてみせる。決して、大きくはないががっしりとしていて柔らかい手の指にぼくは左手の五本の指を合わせる。

「いいわね。十度は楽に届くじゃない。ショパン以上、リスト以下といったところかしら」

 十度とはドから一オクターブ上のミまでの距離。これはあまり意味のない表現だ。大体日本人の成人男子の手の大きさはショパン以上リスト以下なのだから。

「まあ、ラフマニノフみたいに十二度は無理でも、下からなら十一度までぎりぎり届きますね」

 普通は男子でも十度がぎりぎりなのだが、それより一回り大きいのはサッカーでゴールキーパーを続けたせいかもしれない。

「十分すぎるわ。放蕩息子の帰還を祝して、乾杯したいくらい。百合香もあなたと会えるの楽しみにしてるから終わっても早く帰らないでね」

 そう言って、別の話し相手を見つけては、村野先生は去って行った。それから何人かの学生に話しかけられた。ピアノ教室の同期か後輩だったらしいのだが、急に言われても小学生のころの顔と今の顔が一致するはずもなかった。

                     

 第二部が始まると、水を打ったような静けさが会場を支配した。咳払いするのもはばかられる。この休憩の間に、入場した人がかなりいたらしく後ろの方に目立った空席もほぼ埋まっていた。ステージに足音を立てて、村野百合香が現れる。紫色のドレスは、かつて見たことのない色だった。最後に百合香を見たのは、中学校の卒業式のとき。それから六年が経っているのだから当然と言えば当然なのだが、別人かと思うくらい、成熟した大人の雰囲気を漂わせていた。けれども、決して肉感的ではなく、スリムで清楚な印象はそのままだった。

 

 観客席に向かい一礼すると、椅子の位置をしばらく調整したのち、彼女は軽やかな仕草で弾き始めた。それはショパンの前奏曲嬰ハ短調 作品45だった。

へ続く)


 

『幻想即興曲』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9,10,11,12,13,14,15,16,17,18 

『ペーパーリレーション』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10,11-12,13-14,15,16-17, 18, 19

『ホワイトラブ』 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10, 11, 12, 13, 14, 15, 16, 17, 18, 19 

 この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関わりありません。




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